蜜柑とアイスの共存
掃除の時間です
我が手には細長い竹製の棒。先端はやや湾曲しており、ささくれなどがないよう職人の手によって滑らかに削ってあるものだ。そしてその反対側には、細くて柔らかい鳥の毛が、ふわふわと私の手の震えに従って漂っている。
手と同じように震えた声で、私は己が膝の上に頭を預けている貴人へと声をかけた。
「あの……リンハルト様」
「何?士官学校から戻ってきて疲れてるし、すぐ寝ちゃいそうだから、僕としては早めに始めてほしいんだけど」
「ええと……膝の硬さもあることですし、私などではなく、メイドにさせた方がいいのではないでしょうか……?」
目を伏せていたリンハルト様がそのまなこを開き、私を見上げる。その目にはやや非難の色が浮かんでいた。
「もう……またそれ?僕はお前が良いって言ってるんだから、それでいいじゃない。もしくは……ふぁ、僕にしたくない理由でもあるの?耳かき」
そう言って彼は私を見上げる。首をブンブン横に振りしたくないわけではないという意を示すと、彼はじゃあ何?と眉間にしわを作った。ああいけない、怒っている顔も美しいが、決して怒らせたいわけではないし、跡になってしまったらどうしよう。
私には、なにゆえリンハルト様が私を指名するのかがわからないのです。
仕事を評価されるのは嬉しいし、幼い頃からお仕えしているから気心が知れているのはあるのかもしれないが。
私はしばし口にしようか迷って、結局かぶりを振った。これも私に与えられた仕事だ。しっかりとやり遂げよう。
「いいえ。なんでもありません。……少しでも痛いところがあったら、おっしゃってくださいね」
「……ん、いいから、早く……」
頷いたのに満足したのかリンハルト様はあくびをしてまたもぞもぞと横になる。私は彼を刺激しないように、あらかじめ用意していた蒸しタオルを手に取り、囁くように声をかけた。
「リンハルト様、まずはタオルでお耳のマッサージをしていきますね」
「……」
返事はないが、膝の上で彼はもぞ、とわずかに身じろいだ。驚かせないようにまずは耳にかかった緑髪をよけて、そっと形のいい耳にタオルを押し当てる。まずは耳殻の表面。そしてタオルを広げて裏側も忘れずに包んで、痛みを感じないようにマッサージをしていく。
ぎゅ、ぎゅ。
耳たぶなどの面積の広い箇所は大胆に。軟骨などくぼみのある箇所は繊細に。しみひとつない彼の肌が綺麗に保っていられるように指で圧を加えていく。
(……こんなところか)
タオルが終われば、いよいよ耳かきの出番だ。竹はよくしなって良いと、どこからか買い付けてきたリンハルト様に渡された時はたいそう驚いたものだが、もう相棒と言っていいぐらいには共にリンハルト様の耳の清潔さを保ってきたと思う。今日もよろしくな、相棒。なんて馬鹿げたことを心の中で語りかけつつ、次の段階へ進むべく私は彼に声をかけた。
「リンハルト様、では、耳かき棒でかいていきますね」
返事はない。もしかしたら本格的に寝入ってしまっているのかもしれない。リンハルト様は夜寝て朝起こしに行った時に体勢が全く変わっていないほど寝相がいいので、耳かき中に寝返りを打って……という心配はないのだが、反対の耳はもしかしたら今日はできないかもしれない。
まずはタオルで拭いたばかりの外耳の部分だ。人によって形がまるで違うらしいこの器官は凹凸が激しく、また普段風呂に入り身体を清めるときに忘れがちな部分なので汚れがたまりやすい。耳の縁の部分をすーっとなぞっていき、凹凸の内側にさじを差しこみかりかりと引っ掻いていく。すると目論見通り、肌のキメに合わせたような細長い垢がとれた。これでまずはひとつ。あらかじめ用意していた紙の上へ落として次は縁のもう少し内側に入った、凹凸の終点とも言うべきか行き止まりになっているところ。ここもくるりと耳かき棒を回せば……うん、白っぽい粉状のものが取れた。もう何箇所た同じように耳かき棒をくるくると回しつつ、あとはツボを押しながら少しでもリンハルト様の疲れが癒えるようマッサージをして、ひとまず外側は終わり。
耳を中指と人差し指でつまみ、中を覗き見る。ああ、先程の蒸しタオルでは届かなかったが、目視できるほど浅いところにすでに耳垢が。
今週は調べ物があるのだと、ガルグ=マク大修道院から遠路はるばる帰宅されてからずっと屋敷の古い本を引っ張り出していたので、それで埃がよく溜まっているのかもしれない。
長旅で疲れている主人の為にも、より耳かき棒を握る手に力がこもる。まずは今しがた見えた入り口付近に浮いた耳垢だ。
すっ、すっ
よし、これは難なく取れた。あらかじめ用意していた紙の上へとったものを落としていく。
次は少し中程の側面だ。しばらくぶりの掃除なのだし、リンハルト様はご自分ではいまいち気持ちよくないとのことで自分から耳かきをすることはほとんどない。なので、溜まった耳垢が層のようになっている可能性も高いだろう。
そう思い、先程の浮いた耳垢があったのと同じ、ごく浅い部分をくるくると耳かき棒の先でなぞるようにしてかいていく。するとやはりさじの部分にやや湿った耳垢がたまっていった。
なぞるだけで取れたのは直前に蒸しタオルで耳を温めていたおかげだ。それをしないと、耳垢を取るための動作が強すぎて皮膚を傷つけてしまう可能性がある。
先ほどと同じように紙の上に落として、次はもう少し奥へとさじを進めていく。
くるくる……すっ……すっ……がさ、
(……あ)
引っかかりを覚えた。一度さじに溜まった垢を落としてから、手応えのあった箇所を再度触れるようにしてつつくとたしかに硬いものに触れる感触がある。
これを発見すると、金の山を発掘したような気分になる。正しくは今から発掘するのだが。リンハルト様を見ると、彼は長いまつげに縁取られたまぶたを閉じてスピスピ眠っている。一度寝入った彼は彼の気が済むまで余程のことがなければ目を覚まさない。自分から目覚めたとしても「朝寝」と称してまたすぐに眠ってしまう。なので起きる心配はほぼないと言ってもいいぐらいだが、それと主の睡眠を邪魔してはいないかという心配は別物だ。
しっかり眠っていることを確認して、塊となっている耳垢にいざ挑む。
幸い、手元を照らす光のおかげで塊の一端は見えている。その見えている箇所にさじを向け、あくまでも優しく進めていく。指先に伝わる感触でなんとなく大きさが図れたら、触れていた影響でやや耳の壁から剥がれたところにさじを差し込む。そこから一気にはがしはせず、少しずつずらすようにかいていく。
かり、かり……ぺり……かり……
やがてがさごそと全体が大きく動くようになった。このまますべて取ってしまってもいいのだが、万一奥に落としてしまっては事だ。竹の耳かき棒から先が細く加工されたピンセットに持ち替え、細かく揺れるそれをつまむ。
紙の上に落としほっと息をついたことでようやく、己が息を止めていたことに気が付いた。緊張するとどうしてもなってしまうのは仕方がないことだろう。
その後もリンハルト様の耳の中を探っていると、やはり大小様々な耳垢が溜まっていた。そのほとんどは少し触れればそのまま剥がれてさじのうえに乗るものばかりだったが、紙の上をちらと見ればなかなか達成感のある量だ。
ほくほくしながら最後の仕上げにと耳かき棒の上下をひっくり返す。羽毛のふわふわを耳に入れて、くるくと回せば……あら不思議。さじでは掬いきれなかった細かな耳垢もすべて取り去ることができるのだ。細かいものもすべて紙の上に落として中身がこぼれないようにぎゅうと絞る。もう片方の耳ができればあとはこれを捨てに行くだけなのだが。
が、やはりリンハルト様はぐっすり眠っていて起きる気配は全くない。また後日に延期になるのはわかりきっていたことなのだが、できれば早く綺麗にしてさしあげたいとも思う。
リンハルト様がまだ私よりもずっと小さい頃であれば、彼を起こさないように抱えて左右反転させ、もう片方もすることもできたのだが、今は流石に難しい。
お疲れなのだからゆっくり眠っていただきたいという思いが反面、できれば、私が膝枕に耐えていられる間に起きていただきたいというのも反面。
(……いくつになっても、寝顔は変わらないですね)
なんて、静かな寝息を聞きながら感慨深く思うのであった。
2019/9/6
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