蜜柑とアイスの共存

Flatter


 大きな門を車で抜けた先には、広い庭をずっと行った先にようやく家が見える。家、と言って一般的に想像されるものよりは、この家はずっと大きく、ともすれば博物館の外観にも見えるかもしれない。
 その理由は至極簡単。この家は、このあたりに住んでいる者なら名前を知らない者はいないほど著名な会社の経営している家なのだから。
 俺はこの家で働いている使用人だが、そもそもがここと比べるのもおこがましいような家の出なので、初めてこの家に来た時は心底驚いたものだ。

「失礼致します」
 コンコン、ノックをしてからコイルをかざし扉を開けた。この家には変わったところがある。それは、一般の家庭よりもずっと敷地が広いことだけではない。この屋敷の中、とある一室はある一人のためにその部屋のみで日常生活が完結させられるような作りになっていた。
 部屋の中では、俺の腰ほどまでの背の少年が窓辺にいた。俺の仕えている家のご子息、ヴィム様だ。彼はこちらにはちらりとも視線を向けることなく、窓の外を眺めている。ここの窓辺からは広い庭が見えるだけだが、何かあるのだろうか。それとも、今は話をしたくないのだろうか。
 なるべく怪我をさせないように、とこの家の主人からは言いつけられていたので、その確認もかねて彼のいる窓辺に近づく。俺が彼の部屋を訪ねる人員に選ばれているのは、医学の知識を修めていたというのも理由のひとつにあるのだろう。であれば、信頼できる医者にでも彼の体調管理を任せればいいのだが──まぁ、その理由には大体の見当がつくが、いろいろと大人の事情というやつがあるのだろう。
 どのみち、俺が主人に口答えすることは許されないのだ。嘆息のようなものを少し漏らして、彼の視線の先を辿る。そこにあるものを見て、やっと合点がいった。
「ウタツグミですね」
 木の枝にとまっている鳥を見て、呟くように言った。窓越しに鳴き声も聞こえてくる。
「いわゆる、春告げ鳥です。鳴き声を聞いてよし、見てよし、食べてよしの素晴らしい鳥ですね」
 その情報を彼に伝えると、やっと少年はこちらに視線を向けた。その瞳はわずかに見開いており、言葉は発せずとも彼が何を問いたいのかよくわかる。
「ああ、いえ。さすがに食べたことはありませんが、美味だと聞いたことがあります。パイにするのが一般的なようですね」
 ゆるく手を振って否定した。少し目を伏せてから、彼は顔をそむける。元気に会話をするような気分ではないらしい。
 広いとは言えたった一室に閉じ込められては無理もないだろう。
「ヴィム様、どこか血がでていたり、動かし辛いと感じる箇所はありませんか?」
 本題に入るために跪き、彼の手を取る。ない、ぽつりこぼされた言葉は否定だった。そうですか、と返すものの、無痛症の彼は気づかない内に怪我を負うことも多い。そうしてしばらく注意深く観察していくが、彼の言う通り特に問題はないようだ。
 ほっと一息つき、大丈夫そうですね。と言うと彼はすぐに手を引いた。いくらただの使用人といえど、彼は気安く触れることを許さない。確かに、子供とはいえ家族や友人以外にはそうそう触れさせるものでもないだろう。
「ですが、手の包帯が少し緩んでいるので、巻きなおしてしまいましょう」
 そう伝え、彼の部屋に備え付けてある救急箱を取り出した。するすると包帯をほどいていく。
 この傷は、この部屋に閉じ込められた彼が出してほしいと懇願し、必死にドアを叩いた末にできたものだ。彼には痛みがない。だから、加減をしらない。自分の身体を守ることができない。
 そのためにどこか外傷がないかを調べたり、機械を用いて内蔵の検査をする必要があるのだが、彼の両親──つまり俺の雇い主は、彼に対し当たりが強かった。この屋敷の主人と夫人は、世間体というものをとても気にする人だった。よそから悪く言われないか、どうみられるかについてを常に考えている。その中で、子供が無痛症である、という事実は、彼らの中では悪いことであるらしかった。否、ただ病を抱えているだけならばここまでではなかったのかもしれない。彼が周囲の人物によく暴力をふるうのも理由の一つだ。彼が何を考えて暴力をふるってしまうのかは俺の知るところではないが、騒ぎを聞きつけて向かうと、彼はきまって頬を腫らし、悲しげな表情をしていた。
 表向きには、「ヴィムがこれ以上怪我をしないように」。この部屋から彼を出さないように主人から命令を受けてから、屋敷の雰囲気は少なからず変わった。彼の暴力性に手を焼いていたある者は安堵し、ある者はやりすぎなのではないかと心配した。特に後者の中には、部屋から漏れ聞こえる彼の泣き叫ぶ声に耐え切れず、屋敷を後にした者もいる。

「はい、出来ました」
 消毒をして、包帯を巻きなおすだけなので特に問題なく終わる。彼が怪我をした理由が理由なので、消毒液が沁みていやがるそぶりも全く見せない。それが逆に痛々しかった片手でしなければならないという制限はあるが、やる気と慣れさえあれば彼一人でもできることだ。しかし、彼は自身の怪我に関して特に注意を向けることはない。
 軽くグーパーを繰り返す彼にきつくありませんか、と尋ねると首は縦に動く。部屋に備え付けられた時計を見ると、まだ家庭教師が来る時間まで少しあるようだ。
「鳥や動物に興味があるのであれば、家庭教師に持ってくるように言いますが」
 今のうちにコイルで伝えてしまえば、屋敷内にある資料室から図鑑でもなんでも持ってくるには十分だ。そう思い訪ねてみるが彼は首を振る。
「……いい。頼み事は、したくない」
 ただ断られるだけならばそのまま納得したが、後からつけられた理由に俺はしばし動作を停止させた。彼の表情をうかがうと、単純に遠慮をしているだけ、というようには受け取れない。じっとこちらを見据えた彼は、こちらを警戒しているような、怯えているような、もしくは、縋っているかのような──いや、違う。少なくとも、それはない。何故って、俺は彼をここに閉じ込めているうちの一人なのだから。自分に都合のいい妄想をかぶりを振ることで打ち切る。
「そうですか、ではやめておきましょう。──まぁ情報を探すだけならば、コイルからいくらでもできますからね」
 そうして、しんと沈黙が下りた。必要なことはもう終わってしまったし、彼の様子をうかがっても楽しく世間話をする、というような雰囲気ではない。
 他の仕事に戻ろうか、そう思い救急箱をもとの位置に戻し、挨拶をしてから出ようとすると、ぐい、服を引っ張られた。それをするのは一人しかいない。振り返ると案の定ヴィム様が俺の服をつかんでいた。彼はこの部屋に入れられて以来特に直接的な接触は好まない傾向にあるが、以前彼に腕をつかまれたことがある。遠慮がなかったというか、それだけ必死だったのだろう。彼は加減を知らず、その小さな手は半ばつねるようにしばらくの間俺の手に赤い跡をのこした。彼の名を呼ぶと、迷っているのか手が震え、しかしゆるゆると解放される。
 なんと声をかけていいのか、わからない。わかるはずもない。家庭教師がくる時間まで、あともう僅かだ。うつむいた彼に膝まづく。彼はこんなにも小さな子供なのに。憐憫のような感情が胸の中にとぐろを巻いた。
「私にできるのは、ヴィム様が怪我をしていないかを診ることくらいです。……、……もしヴィム様がこの部屋から出られる日が来ても、不自由がないように」
 彼がいつここから出られるかもわからないのに、少なくともそれは今日や明日といったすぐのことではないのに、希望を抱かせるようなことを言う。罪悪感と嫌悪感が、俺の胸を焼いた。
「私は家庭教師のように、ヴィム様に勉学をお教えすることも、生活に必要な知恵をお教えすることもできません。もちろん、遊び相手になることもです。お教えできるほどの知識は持っていませんし、そのような命は受けておりません」
 俺の感じているものはすべて、自分が自分を許したいがために抱いている感情だ。彼にそうしてほしいと思っているのは、少しでも罪悪感から逃れたいからだ。
「ですが私は、ヴィム様に学んでほしいと考えています。……貴方が一人でも、生きられるように」
「……ゃ、いやだ……ひとりは、いやだ」
 もう乾いたように見えていた涙がぽろりと瞳からこぼれた。それでも俺は、彼の願い一つも叶えることはできない。彼に生きてほしいと思っているが、これ以上どう言葉を続けようというのか。喉の奥がぎゅうと締まり息苦しくなる。飲み込んだつもりの唾はカラカラで、ほぼ空気のようなものだ。
 悲しいと訴える彼に口をつぐんだ。誰か、この小さな背中の彼を助けてくれないか。そう何度思ったのだろう。
 彼をここから出してやることもできない。主人に対し異を唱えることもできない。酷く空虚な偽善を振りかざして、俺はなにがしたいのだろうか。


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