蜜柑とアイスの共存
夜半と最中
消灯もすんだ暗い部屋の中、唯一の光源はモニターのみである。
青年の瞳には画面が写り込んでおり、視線は文字を追っている。カタカタ、タン。何かを打ち続けていた指はその音を最後に止まり、彼は一つに括った長いサーモンピンクの髪を揺らして思い切り伸びをした。
あー疲れたぁ、と誰に言うでもなく独り言をこぼてし、席から立ち上がると給仕台と化したテーブルに向かい、急須を用意する。茶葉を入れて、用意するマグカップは二つ。お湯を注いで蒸らしている間に、待ち人は現れた。
「やぁ。こんばんは」
「……こんばんは、お邪魔します」
「うん、どこか適当に座っちゃって」
いつもみる快活な笑顔とは一変して辿々しく夜の挨拶をした環は、この機関、いやこの世界に唯一残された希望である。
どこか、とは言うものの環の定位置は決まっており、青年が普段から使っている席の隣。キャスター付きの椅子を引っ張りそこに腰掛けた。
腰掛けた、とは言ってもリラックスしている様子ではない。背筋をピンと張り、指はきつく組まれている。室内は暗くやや離れた位置にいる環の表情はうかがえないが、口は横一文字に引き結ばれていることは見なくともわかった。
「どうぞ」
「ありがとう、ございます」
マグカップを小さく音を立てて置く。環は遠慮がちに会釈をするが、手をつける様子はない。青年はデスクの引き出しを漁り、何かをみつけると機嫌よさげに二つ取り出して一つを環の頭の上に乗せた。
「わ、……何するんですかドクター」
「ふふ、ごめんごめん、君っていつも姿勢いいよね」
「……もう」
そこで、環はやっとずっと硬いままだった相好を崩した。なんちゃって鏡餅は環が手に取ったことですぐに崩れてしまったが、ほっと一息つけた様子の彼に青年も目を細める。
さて、青年も彼所定の位置に腰掛けつつ切り出す。今日は何かあったのかな? 環に耳を傾けた。
すると環は浅く息を吸い、また口を引き結ぶ。うろうろと彼の視線は彷徨い、青年に渡された和菓子を手にしたままで両手の指を組んだり擦ったり、所在なさげに遊ばせている。
その、おずおずと環は空気のような音を乗せる。
「特に、これといったこととは無かったんですけど……迷惑、でしたか」
「そんなことないよ、もともとおいでと言ったのは僕なんだしね。何事もないなら、重畳、重畳」
にこやかに返すと彼はほっと息をついた。青年が茶を啜ると、それに倣って環もマグカップを持ち上げ、ふうふうと息を吹きかけてから啜る。おいしいです。環が呟くとそれはよかった。青年が返す。
床を軽くける。すると移動がし易いように設計されている椅子は特に抵抗するわけでもなくゆっくり、くるりと環を乗せたまま回った。
「今日は、久しぶりに一人でした」
修練場も機材のメンテナンスでおやすみで、元々今日はみんなに休みってことも伝えてあったんだけど。だから、久しぶりに、部屋で一人ですごしてました。
うん、うん、彼の言葉に相槌を打つ。夜、暇なら僕の所に遊びに来なよ。特に何も出ないけど話し相手にならなれるよ。というか、夜間作業は孤独死しちゃうレベルだから誰かがいてくれたらありがたいなぁ……なんて。そう冗談めかして環を誘ったのがきっかけだった。それからどれくらいたっただろうか、最初は一週間に一度程度だった彼の訪問はしだいに間隔が短くなり、また何事もなかったという日でも、彼は徐々に、そのなんでもないことを青年に話すようになっていった。
今夜は今日読んだ本の話。フィクション物もそうだが、図鑑は頭を空っぽにしたまま楽しめるので休日の過ごし方としては最適らしい。ちなみに彼が見ていた図鑑のひとつには動物図鑑もあったらしく、無類の哺乳類動物好きの彼はしきりにあのもふもふが……。と手をわきわきさせていた。
「ドクターは、今日は何かあった?」
「僕? ずっとここにこもりっきりだよ。これといって事件とかはなかったし……」
そっか、環が返すと場に沈黙が降りた。青年が背もたれに身体を預けると、ギッ、そこそこ長い付き合いの椅子が抗議した。モニターが照らしだす環の後頭部は濡れているようで、どうやらここに来る前に風呂に入ってきたばかりらしいことに気が付いた。
環の名前を呼ぶと返事とともにわずかにこちらへ視線が向けられる。この暗さではよく表情はわからないが、声の調子からはあまり芳しくない雰囲気はないようだ。
「君ね、髪はきちんと乾かさないといけないじゃないか」
「え……あ、ああ。すみません……?」
「何でそこで疑問系になるの」
「いや……ロマニが医者っぽいこと言うのって珍しいっていうか」
「失礼だなぁ!?」
「ええ……いつもナビゲート中に色々食べてるじゃないですか。ごま饅頭とかごま饅頭とか、ごま饅頭とか」
「そしてまだそれを引っ張るのかい、中々にしつこいね! ……いやまあ、あれは悪かったって、ホントに」
オルレアンでの一件以来、環は菓子の話をしきりに持ち出す。いやはや食べ物の恨みは恐ろしいというものだ。とはいっても軽い挨拶代わりのようなもので、つまりまぁ、弄られているということだ。その証拠に彼は楽しげに笑っている。ひとしきり笑ったあと、環が体重を背に預けたことで彼の使っている椅子がキィと高い音を上げた。またしばらくの沈黙が場を支配した後、青年はふぅ、と切り替えるようにため息をついた。
「さ、湯冷めしてもいけないし、子供はそろそろ布団に入る時間ですよー」
「うわ、何ですかその露骨な子供扱い。良い子はもう夢の世界ですー」
「ほほう、君は子供じゃないと。でも残念、そういうことはお酒が飲める年齢になってから言おうね」
「ぬっ……卑怯な……」
年齢の話はさすがに盛れないらしい。しかしまだ思うところがあるのか、ハイ立って立って、手を軽く叩いて急かす青年にむっすりとした表情を保ったままでいる。
そういうところが子供だっていうんだけどなぁ、と思ったことを表に出すと、環の口がいまよりもさらにへの字に曲がることは分かりきっているので青年はあえて口には出さない。元より、彼のその子供らしい反応は好ましいものだと思っている。
彼は椅子から立ち上がり数歩離れた環の元へ歩み寄る。椅子に手をかけるとわずかに軋んだ音が鳴った。 環がずっと手元に持ったまま遊ばせていた和菓子を受け取り手慣れた様子で和紙包装を裂く。いきなりの行動に疑問符を浮かべた環の口元にそのまま取り出した中身を持って行った。反射なのか癖なのか、唇に触れると彼は特に嫌がるそぶりもせずにそのまま和菓子を咥える。もぐもぐ、咀嚼音はするが彼の瞳はうろうろとせわしなく動いている。ちょっと面白いななんて眺めていると視線が合った。
「美味しいだろう? それはね、とっておきなんだ」
「……!」
話しかけると彼はわたわたと慌てだし、最終的に手のひらを青年に見せて待ってくれ、とポーズを出す。慌てて口をもごもごと動かし続ける彼にふむ、と思い立ち自分も手をつけていなかったもう一つの和菓子の小包を手に取り、べりべりと包装を破る。
その音を聞きつけた環は焦ったように青年の腕を掴み制止した。どうしたんだい、と青年が尋ねると環はぶんぶん頭を振り、ようやく咀嚼し終わったのかごくん、飲み込んで口を開いた。
「ま、待って、いい、いいですから! おいしいです!」
「そう?」
「……も、もなか、おいしいです」
「そう、それはよかった」
にっこりと笑う。すると環は何を感じ取ったのか聞こえない大きさで何事かをぶつぶつと呟いた後、いかにもしぶしぶといった様子で椅子から立ち上がった。
お茶とお菓子、ごちそうさまでした。身体こそその方向を向いているものの、青年から視線を逸らしたまま挨拶をしたにも関わらず彼はお粗末さまでした。と返す。
青年を横切るとき、モニターの光に彼の髪が改めて湿ったように照らされる。体調に気を付けてね、と彼の背中に投げかけたのは純粋な気遣いからだ。部屋の入り口あたりで環は改めて振り返り、先生も、気を付けてくださいよ。おやすみなさい。その言葉だけを残して早々に走り去ってしまった。
「……うん、おやすみ」
誰も聞いていないというのに、青年は返事も聞かずこの部屋をあとにした環に挨拶をする。
さてさて、日夜邁進する彼のために、青年は何ができるだろうか。
医者として最高責任者として様々考えられるが、最近の彼とのこの閑談の雰囲気は、まるで……。
そう行き着いたあたりで、包装を破いたままだった和菓子を取り出しひと口かじる。
「……ちょーっと、マズいかなぁ……」
環に言った通り、この和菓子はとっておきである。というか、彼のつまむ菓子は大抵とっておきだ。優良なパフォーマンスをするために必要なものだなんだと理由はつけてはいるがまぁつまり、その菓子の甘さは青年の好みにぴったりと一致しているのである。
ううーん、唸りつつ首を傾げつつ、煌々と室内を照らすモニターを見つめて考える。環からのああいったレスポンスはよくない傾向だとは思いつつも、まんざらでもない自分をどう誤魔化そうかと。
16′4/12
5/12掲載
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