蜜柑とアイスの共存

暗闇と沈黙は人を弱くする

 あいつは、人の感情が「刺さる」のだという。
 昔から髪はボサボサで猫背がちでいつもマスクを付けていて、歯も性格も尖ったあいつの周りには人はいなくて、遠巻きにヒソヒソと煙たがられる様をありありと「感じさせ」られていた。
 家が近く同士だからというただそれだけの理由であいつとは昔からよく行動を共にしていたし、小学校の間は通学班というものが存在しており、当然ながら同じ班で友人という意味を兼ねた幼馴染という間柄を保っていた。
 他人の感情が刺さるというあいつの特性は周囲の大人には理解されておらず、また本人も当時は小さな子供で理解されるに足る言葉を持っておらず、加えて刺さることかあいつの普通なのだから、刺さらない感覚は、他人があいつの刺さるという感覚がわからないのと同様に理解できていなかったろう。
 あいつからすれば周囲の子供も大人もノーアクションで殴ってくるような心地だったらしいが、周囲からすればあいつは何もしていないのに暴れ回るとんだ問題児で、さらにそれが一度でも起きしまえは、その話を耳にしてしまえば、あいつの姿を一目見ただけで表には出さなかった。知られるはずのない不穏な感情があいつを刺す。
 癇癪持ちの誕生だ。
 しかし、あいつの癇癪がこちらに向くことは少なくとも記憶の中ではなかったハズだ。こちらがあいつを刺すことがなかったのか、はたまたあいつが無視していたのかはわからないが、とにかく俺とあいつは友人や幼なじみと呼ぶに違和感のない距離でこれまでを過ごしてきた。
 人の良い感情も悪い感情も刺さる。そういう特性を持っているのだ、と明確に他者から認められたのは、異世界から化け物がやってくるなどという天変地異が起こったおかげ……というには座りが悪いが、どう言おうにも、それがきっかけなのだ。なんとも皮肉なことだと思う。
 そのうえ名称がサイドエフェクト、副作用というらしいのだから尚のこと救えない。
 そもそも何の副作用なのかというと、例の化け物と戦うために有効な、体内で生成される物質。の、量が人よりずっと多いために現れる症状なのだそうで。
 そう、それは副作用というよりも症状、病気のようだった。
 人の感情なんてとても読むものじゃないだろう。
 それが好意や仲間意識ならばともかく、嫉妬や行き過ぎた羨望、憎しみ、そういうものを隠して日常生活を送っているのに、そういうものを全て、自分に向けられているもの限定とはいえ晒され続けているのだ。
 副作用からくる副作用、弊害。あいつは一生それらと付き合うことを余儀なくされている。
「雅人」
 暗く埃っぽい室内、重い扉を開けて目的の人物を見つけた。
 あぐらを掻いて座り込んでいるそいつは胡乱気な目で緩慢にこちらを見やり、そしてまた視線を手元に落とした。
 扉を開けたことで室内の空気が動き、舞い上がった埃に刺激され何度かくしゃみをする。こいつはマスクをしているからかそういった気配はないようだ。
「……こんな所で何してんだ、きのこにでもなるつもりか」
 あいつの視線が手元から部屋の奥に移る。しかしその視線の先には何があるわけでもないので、こちらの意識をそちらに向けさせようという意図で行われたものではない。
 つまり、無視をされた。
 いらだちから舌打ちをするが、あいつは特にこれといったリアクションを返すわけでもない。こちらの意識、つまり無視されたことに対する苛立ちは、確実にこいつを刺しているだろうに。
 
 くしゃみがまた一つ出た。こんな所、はやく出てしまいたいが逃げるように隠れて身をひそめるこいつを探す役目に駆り出されるのはいつでも俺だった。
 パターンとしてこいつの逃げそうな場所は知っている。それに加え、他の者がこいつを見つけた時のように、こちら側にたいして癇癪を起こさないのもこの一方的なかくれんぼに呼び出される原因の一つだ。
 しかし、どうにもこうにも理解ができない。今でこそまたかという感慨しか湧かないが、幼い頃は「影浦くんがいなくなった時、あなたがいつも一番に見つけてきてくれるから、とても助かる」と言われ、浅ましくも優越感を抱いていたにも関わらず、こいつはどうしていつも大人しくしているのだろうか。
 異常が副作用だと診断され、いまだにその特異性と、周りが作り上げたとも言える本人の強暴性からやや遠巻きにされるこはあるとはいえ、こいつには理解者も友人と呼べる者も増えただろうに。
 俺は感情が表にでる質ではないと自負しているが、感情がないわけではないということは、こいつが一番知っているだろうに。
 
 何歩か近寄ると、俺の身体に支えられていた重い扉がゆっくりと動きやがて閉まる。ただでさえ埃臭かった部屋で視界を封じられると、より一層臭いが強まった気さえする。
 少し手を伸ばすと手に触れるものがあった。距離感は扉が閉まる前に視認していたので迷うことはない、あいつの髪の毛だ。
 指で梳こうにもボサボサのこいつの髪はすぐに引っかかりを覚える。と、頭が少しずれた。この行動をするといつもこうだ。嫌そうにするよりも先に、くすぐったそうにする。
 今もそうしているのだろうことは視界がきかなくとも容易に想像つく。髪を一束掬い、艶を失ったためにパサパサのそれは毛先をつまんでも解けずに、指先の重さが変わることはない。
 手櫛とも呼べない程度のそれを何度も繰り返す。くすぐったそうに時折頭が動くが、こいつは嫌とは言わないし嫌そうにしている素振りもない。かといって、こいつが急所である頭を撫でられていることに対してどう思っているのか俺は知らない。
 頭を撫でたいという欲求は、その相手を支配したいという欲望から来ているらしい。
 支配、したいのだろうか。手は休めないまま少し考える。この行為を拒否されずにいることで内心凪いだ心地でいるのに、そんな自問自答は今更過ぎた。
 自嘲するように息を吐いたこちらに気が付き頭がもぞりと動く。視線はこちらを向いているのだろうか。わからないが、絡まっていた髪はほんの少しずつ解けてきていた。
 じりじり焼かれているような音が耳の奥からしているのは聞こえないフリをする。表面だけ撫でていたから頭皮に指を這わせて耳の裏をなぞり、首筋を撫で下ろす。
 びくり、肩を跳ねさせる振動が伝わった。今までは髪を撫でるだけでいきなり地肌に触れることはなかったから、驚くのも無理はない。
「……おい」
「……、ん?」
「……。くすぐってぇ」
 やっと彼が発した言葉は、それだけ。
 しばらくして夜目が効くようになっただろうか?  いや、扉から漏れ出る光は全く見えない。
 そもそも自分が髪だけでなく彼の肌に直に触れられることができるのは、明らかにこの暗闇のお陰だ。
 こいつとちがって光がなければ相手のことはわからない。わからないならば、少しは自由に振舞ってもいいと思わせる開放感が、この暗闇の中にあるように俺は感じた。
 このまま力を加えたら、こいつはどんな反応を返すのだろうか。ほぼ無意識にそんなことを考え、気付き慌てて手を離す。が、その手はすぐに掴まれ引き止められた。そのままぐい、と手を引かれやや体勢を崩すが、転ぶほどではない。
 こいつが何をしようとしているのかは見えないし、感じない。息がわずかにかかっていることは指先から感じられるので、まさか俺の手を眺めているのだろうかと逡巡し、すぐにこの暗さで見えるものはないだろうと否定する。
 やがて、ちりっとした痛みと滑った感触が指先を襲う。
「い、……なにするん、」
 だ、とまでは言えずに、更に強く突き立てられた歯に身をすくめる。
 がじがじ、齧られて。かと思えば指先を吸われる。それがひどく生々しくて---生身でそれも粘膜に触れられているのだから当たり前なのだが---震えた指先が、爪が、あいつの舌を緩く引っ掻いた。
「……、雅人っ」
 驚いた。今までこんなアクションを起こしたことは、ましてや噛んだり舐めたりなんて、されたことはなかった。
 そして彼はしばらくしてから漸く口を離し鼻を鳴らした。鼻を鳴らしたといってもせせら嗤うというものではなく、どちらかというとそれこそ犬が自身の感情を整える時のようなそれで。つまり、どういう意味を持っていたのかいまいちわからない。
 かと思えば徐に立ち上がりスタスタと迷いなく俺の横を通り扉まで歩いていく。重い扉を開けた彼はこちらを肩越しに振り向き、すぐに出て行ってしまった。目に痛いほどの光はすぐに再び遮られ、痛いほどの静けさだけが耳を刺していた。
 
 一体、何だったのだろうか。人目を避けかくれているあいつを探し出し連れ戻す。それ自体はいつもしていたことだ。あんな風に噛まれたこともあいつが一人で出て行ったことも、今の今までま一度もなかった。
 どうしてだろう、ついに嫌われでもしたか、それとも、ただの悪戯のつもりなのだろうか、せめて、せめてここに一つの電球でもついていて、あいつの顔が少しでも見えればまた違ったかもしれないのに。
 言い訳のような考えが次々に頭を駆け巡る。あいつのように他人の感情がわかるわけでもない。そもそも俺は、今までにだってあいつの頭を撫でている間、あいつの顔を見ようとしたことはあっただろうか。
 あいつに噛まれた指先がやけに熱い気がする。どうしてだろう。
 いろんな何故が溢れる埃っぽい部屋で、また一つ、不安を抱えたくしゃみをした。
 
 
 *企画bad様に参加させていただきました。
 15′11/8

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