蜜柑とアイスの共存
一葉の彼方で
8 メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで
森の中で彼の気配を感じた。気付いてすぐに向かったけれど、既に立ち去ったのか彼の姿をみつけることは叶わなかった。けれど確かに痕跡はある。
街へ行った。森よりわかりづらいけれど、それでもやっぱり、他の誰とも間違えるはずのない彼の気配を感じる。
記憶にあるものと大きく変わっている街の構造に難儀しながらも気配を探り辿っていく。するとやがて人混みの向こう側に、再会を切望した笠の彼を見付けた。確かに存在することを確かめたくて、ナラたちにぶつからないようにだけ気をつけて小走りで近付き、背を向けて歩いている彼の手首をつかむ。
「……放浪者!」
彼を呼ぶ。自分が思っていたよりいくらも弾んだ呼び声だった。
「よかった、やっと会えた。ずっと、探してた」
「──…、」
彼は驚きに目を見開いて──そう、次の瞬間にはきっと微笑んでくれるのだろうと信じてやまなかった。彼の同行者が何か問いかけると、我に返った彼はパラシュパムのつかんだ手首を振り払う。そのまま笠で顔を隠し、背を向けてしまった。
「──知らない、人違いなんじゃないかな」
「……放浪者?」
最初は言われた意味がわからなくて、次に何故彼がそう言ったのかわからなくて首を傾げる。彼がパラシュパムを覚えていることは振り返った時の反応を見れば一目瞭然だ。なのに何故、知らない振りをするのか。
表情を伺いたくとも笠で隠されてしまっている。放浪者、もう一度彼を呼ぼうとしたが、彼の言葉に遮られてしまった。
「用がないのなら僕は失礼するよ」
風のように去って行く彼を慌てて同行者の二人が追っていく。そのときの彼らがパラシュパムの呼び名とは別の呼び方をしていたのは、果たして手を振り払われたことと関係があるのだろうか。
と、いう話を聞かされて、コレイは飲んでいたスープカップを落としそうになった。
「どうして、知らないって言われたんだろう……ティナリ、コレイ、わかる?」
森に行くと言っていたはずのパラシュパムが何故か街の方から戻ってきて、加えて深く考え込んでいるようだからティナリが話を聞いたら、そんな話が飛び出してきた。
かねてより探していた友人を見付け声をかけたが、人違いじゃないかと言われた。けれど間違いなく本人である。
「……お、怒ってる、とか……?」
コレイは何と答えていいのか全くわからなかったけれど、それでも何も言わないのもパラシュパムに悪い気がして思考をひねり出した。再会は喜ばしいものであるはずだと思っていたのに、まさかそんなことになっていただなんて。
もし久しぶりに会う友達にそんな反応をされてしまったら。想像しかけて、コレイはちょっぴり泣きそうになった。違う違う、今はパラシュパムの話だ。しっかりしろ、コレイ。そう己を鼓舞する。
「やっぱり、百年は待たせ過ぎちゃったかな……」
一方で本人の反応はどこか呑気とも言えるものでついつい面食らった。
「……その、ショック、じゃないのか?」
「ショック……うん、ショック。でも、不思議だ、って気持ちの方か大きい。僕の知ってる彼は怒らない……と思う。でも、彼が今も元気でいるってわかった。それが一番大切だったから……彼の顔を見れてよかった」
「そ、そんなあっさり……」
「理由はわからないけど、ぼくともう関わらない……それが彼のしたいことなのかも」
山菜の素焼きをかじった彼は答える。本当にそうなのか、それでいいのか? 納得のいかないコレイが尋ねる前にティナリが口を開いた。
「でも、パラシュパムは彼がなんでそんな風に言ったのかは気になるわけでしょ?」
キノコサラダをつまみながら問いかければこくりと頷いた。ならばすることは一つだ。
「じゃ、じゃあ、パラシュパムのしたいようにしないとダメだろ!」
「……そうかな」
「そうだよ、絶対!」
「……そうかも」
淡々としているように見えたパラシュパムだが、コレイが頷いてみせると小さな花が彼の頭にぽこぽこ咲いた。やっぱりヘコんでいたんじゃないか。
「……でもどうしたらいいんだろ、また本人を探して問い質す……とか?」
「それだと、逃げられる可能性が高いと思うんだよね、相手も警戒してるだろうし」
「……わからない。こんなこと、今までなかったから。……明日になったら、都合がよくなるかも」
「うーん……」
「……そういえば、同行者がいたんだっけ。その人達はどんな感じだった? 君の友人に協力しそうだとか、それともよくわからない、って顔をしてたとか」
聞かれて、ぼやぼやとした記憶を何とか思い出そうとする。金髪の旅人然とした装いの人物も、その横でふよふよと浮いていた白い妖精のような存在も、どちらも不安げな表情をしていたような。
「……ちょっと待って、金髪の旅人に、浮いてる白い妖精……?」
「そ、それってもしかして、灯利とパイモン……だったりしないか……?」
「……? 友達?」
それからの話のまとまり具合は速かった。パラシュパムの友人が旅人の知り合いならば旅人に仲介を頼み、引き合わせてもらうのがいいだろうと。
さて翌朝、連絡をしようとしたまさにその瞬間、旅人とパイモンの二人がガンダルヴァー村に姿を現した。
「よぉ、コレイにティナリ! 顔見に来たぜ……わぁあ、コレイ?!」
「パイモン! 灯利! 会いたかったぞ!」
「どうしたの、コレイ……?」
旅人が説明を求めるようティナリに視線を向ける。と、後にいるパラシュパムに気が付いたようで目を見開いた。どうやら昨晩会ったことを覚えているようだ。 一歩前にでてにこりと微笑む。
「はじめまして、灯利、パイモン。ぼくはパラシュパム」
「パラシュパム?! じゃあやっぱり、アイツの探してた友達っておまえのことだったのか!」
「……放浪者について話したいことがあるんだけど、いいかな」
旅人からの言葉にパラシュパムは頷く。むしろ願ってもないことだ。
「きみたちは、放浪者と旅をしてるわけじゃないんだね」
ティナリの計らいにより三人は室内へ移動した。先に切り出したのはパラシュパムだ。昨晩の格好を見るに現在も放浪を続けているみたいだし、彼らは旅人のようだし、ともに世界を回る仲間が出来たのかと思ったけれど。それよりも今日はただ放浪者が別行動なだけなのだろうか? 疑問に思い問いかければ、灯利は首を縦に振った。
「話せば長くなるけど、放浪者はスメールシティにいるよ。……これまでみたいに世界中を旅するのはやめて、ナヒーダ……草神預かりの身になってる」
「草の王? ……どうして……。……修行は終わった、それとも他にやりたいこと、見つかった? ……、どうしたの?」
神妙な表情で顔を見合わせている旅人とパイモンに首を傾げた。問いかけても尚難しい顔をしている二人の言葉を待つ。先に口を開いたのはパイモンだった。
「その……オイラたち、あいつに用事があって、その代わりにおまえを探すって条件を受け入れたんだ。もちろん、ちゃんとおまえのこと探してたぜ? ……だけど、おまえとあいつが離ればなれになったのが百年前って聞いて、おまえはもう居ないんじゃないか、って……オイラ、ひどいこと言っちまったんだ」
「……そっか、うん、ぼくの時間が他のみんなと違うことは、わかってる。それに、放浪者との約束を破ったのはぼくだ」
「……そういえば、どうしてパラシュパムは彼に会いに来られなかったの?」
「マラーナ……ええと、死域、を、浄化しようとして、逆に捕らわれてしまった。ティナリが助けてくれた」
「死域に?! よ……よく無事でいられたな」
死域の影響を受けた人々の様子を思い出したパイモンが肩を抱いた。
「……やっぱり放浪者も、ぼくのこと探してくれてたんだね。じゃあ、どうしてぼくのこと、知らないって言ったんだろう……」
その問いには直接答えることなく、灯利はパラシュパムに尋ねる。
「パラシュパムは、放浪者とまた会って話がしたいんだよね?」
「うん、もちろん」
「だよね」
「お、オイラもその方がいいって思ってるぞ! オイラが変なこと言った責任もあるし、せっかく二人とも会える場所に居るのにこのまま離れ離れだなんて、そんなの寂しすぎるぞ……」
「……詳しくは、彼から直接聞いた方がいいと思うんだけど……。パラシュパムの知ってる放浪者といまの彼は、少し違う彼になってる。この百年間のこともあるけど、それだけじゃない。でも、二人が過ごした時間がなくなったわけでもないから。……ううん、上手い言い方が思いつかないな……」
ええと、つまり。旅人は言いよどむがパラシュパムには確かに伝わっていた。何があったのかはわからないけれど、それでもまるきり違う彼になってしまったわけではないことは、再会した時からわかっていた。
「うん、彼にちゃんと聞く。彼と話したいこと、たくさんある。だから教えて、灯利。どこに行けば、彼と会える?」
9
スメールシティのとあるテラス席。放浪者こと透は旅人に依頼を手伝って欲しいと頼まれ、待ち合わせ場所に指定されたカフェで待機していた。この場所を選んだのは「パイモンがご飯を食べたがるから」、と言われたものの一人で先に入った手前何も注文しないわけにも行かず、しいて選んだ深煎りのコーヒーを啜りながら人混みを眺めていた。
空き時間が出来ると──否、やれ旅人の手伝いだ草神の小間使いだと忙しくしていたとて、とある少年のことが思考のどこかを占領するように張り付いて離れない。加えて灯利から指定されたカフェの場所も悪かった。まさか旅人が知るよしもないが、かつてはただの通りで店なんてなかったけれど、奇しくもここは百年前、二人が祭りのために待ち合わせをしていた場所だったからだ。
彼は──パラシュパムは昨晩、長い空白期間を経ても変わらない笑みを浮かべ、透との再会を喜んでいた。
そう、今まさに目の前にあるような笑みを浮かべて。
「放浪者、お待たせ」
「……は?」
透は瞬いたが、決して幻覚や思い出などではない。テーブルを挟んだ向かい側に、パラシュパムがにこにこと笑いながら席に着いていた。
思考の軋みを感じ、しかしすぐ元凶に思い至り舌打ちをする。
「……旅人の仕業か」
「ぼくの友達の、友達だった」
「はぁ? あいつ、どこまで顔が広いんだ……」
悪態をつき背もたれに身体を預けた。
「……あ、放浪者経由でも、友達の友達、だ」
「冗談じゃない、僕があんなのとお友達だなんて……」
言いかけて、片方の〝友達〟しか否定していないことに気が付いた。言葉を切り、皮肉るようにパラシュパムを斜に見つめる。
「……君、随分と余裕があるみたいだけれど、僕と話していてなんとも思わないのか? 見ての通りだ、もう君の知ってる〝放浪者〟はどこにもいないよ」
自らを指して、暗に彼と己との関係はもうないものなのだと示す。けれどやはりと言うべきか、彼を首をちょいと傾げたがそれだけだ、透の期待するような反応は返ってこない。
「うん? 放浪者は、放浪者」
おもむろに椅子から立ち上がった彼は、放浪者が自身を指していた手を取り握手するように触れた。指の関節をくっと押されれば、自然と指先は持ち上がる。何をするのか、睨み付けるがパラシュパムの視線は指先に注がれたまま離れない。
「放浪者の関節、もう随分前に滑らかになった。ぼくは前の放浪者の指も、今の放浪者の指も好き。そして、きみが自分の居たい姿でいられるのが、嬉しい」
「……何が言いたいのかさっぱりわからないな。見た目が球体関節でなくなったことと、中身がそっくり変わった今回とが同じ話だって? それじゃあ、君の思うお友達は、何処の誰だっていいんじゃないか」
触れられていた手から逃げ出した。彼は気にした風もなく、棘のある言葉への返答を組み立てているようだ。
「……ナラは庭の木の枝を自分の好きなように切ったり、棚につるを巻き付けて形を整える。放浪者もそれを自分でできる。ぼくもそう、元々の自分の花と、家族からもらったパティサラを一緒にずっと植えてる」
そう言って彼は自身の冠を指した。とうの昔に絶滅したはずの種のパティサラは、かつて彼の母親が手渡した種から芽吹いたものだと、いつだかに語っていたのを覚えている。
「放浪者、ずっと自分のしたいこと探してた。したいことが見つかって放浪者が変わったなら、ぼくはうれしい。放浪者は変わって、放浪者は変わってない。ずっとぼくの友達」
「……はは、本当に、何にもわかってないよ。僕のこれは、君が思っているようないいものじゃない。どんなに大事に育てた庭の木だって、嵐が来れば吹き飛ばされてしまうじゃないか。一晩でめちゃくちゃになって何も残らないどこか、ただ荒れた土地だけが残されるのも珍しいことじゃない」
「放浪者は、そうなってしまったことがあるの?」
「君が言い出した例え話だろ」
「うん。……旅人も、言ってたな」
「……何を聞いた? どこまで?」
「ほとんど何も。ただ、ぼくの知ってる放浪者とは、違う部分もあるって。でも元々、ぼくたちはお互いのことを全て知ってたわけじゃない。だから、今までみたいにきみのことを教えて欲しい、きみのことを知りたい」
きみの口から。どこまでも真っ直ぐな言葉に、透はいよいよ唇をかみしめた。こらえるように眉を潜めた彼を見てパラシュパムは、もう一度椅子に腰を下ろした。
「……怒ってる、? ぼくが約束破ったこと。ごめんね、たくさん待たせてしまった」
見当違いに眉を下げた彼に放浪者は気付けば叫んでいた。
「そんなことはどうでもいい!」
言ってから、己の息がひどく震えていることに気が付いた。どうしようもなくて、少しでも逃れたくて息を吐き出した。どうして僕は彼と同じ卓に付いているんだ。彼と再会した暁にはもっとたくさん話したいことも聞きたいこともあったはずなのに、何一つ叶えられていない。ここから逃げ出したいとさえ思っている。
「いや、どうでもよくない。どれだけ僕が……君を探したと思ってるんだ」
ついにぽろりとこぼれ出してしまった。それに、本当に言いたかったことはこんなことじゃない。慌てて口をつぐんだがもう遅かった。
「うん、ごめん」
「謝るな、僕は……」
喉の奥を絞り上げられているような苦痛に顔が歪む。自分がどんな顔をしているのかすらわからず顔を伏せた。
「僕は……ぼくは、君を諦めたんだぞ……」
再会を素直に喜べたのならどんなによかっただろうか。パラシュパムを探しながら、きっともう会えないのだろうとどこかで諦めていて、だのに諦めきれずいつの間にか百年が経っていた。はっきりとした年数に気付いたのだって、パイモンに問われてからが初めてだ。愚かとしか言いようがないほどの時間をかけて彼を探し続けていた。その末に、やっと踏ん切りをつけたかと思えばこの様だ。
「…──」
それだけでも整理が付かないのに、今は世界樹を改変する前の記憶を取り戻した影響で、幼稚なことに、放浪者はパラシュパムに裏切られたと感じている部分もあった。ずっと家族でいると約束したあの幼子が、知らずのうちに息を引き取っていたあのときと同じように。
理解している。あの子がどれだけ放浪者と共に生きていたかったかも、きっとパラシュパムに約束を破るつもりなど微塵もなかったことも。よくわかっている。けれど拗ねた子供のような思考はいつまで経っても消えてくれない。放浪者は今も昔も救いを求めていた。誰かに求められることで己を認めたかった。癒されたかったし癒したかった。自分を認めてくれる誰かを必要としていた。身を寄せ合って苦楽を共にする人間たちと同じように、生活を営んでいたかった。
共に祭りへ行くと約束したのに、彼に裏切られた。僕が迎えに行くと言ったのに、彼を裏切った。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。いっそ僕を拒絶してくれ。昨晩、握られた手を振り払ったのはそう結論づけた故だ。様々なものが重なりすぎたせいで少しも冷静ではない自覚を持ちながら、放浪者はきつく拳を握りしめた。
「……放浪者」
「……」
返事をする気力もわかなかった。
「放浪者、やっぱりきみは、いっとう優しいぼくの友達だ」
けれど彼は、至極嬉しそうな声色で放浪者を受け入れ肯定する。呆然と彼の顔を伺えば、やはり言葉と相違ない表情をしていて、いよいよ理解が出来ず途方に暮れた声が漏れた。
「……どうしてそうなる」
「ぼくのことを思ってくれてるから。だから、ああ言ったんだ。ようやく合点がいった」
「僕が、君のことを……? はは、まったく、どこまでお気楽なんだ……。そんなんじゃないさ……」
「こうしよう!」
放浪者の言葉が本当に聞き届けられているのか不安になるくらいの勢いで、彼が再び机越しに身を乗り出した。とっくに冷めた珈琲がカップの縁ぎりぎりを揺れる。
「ぼくはもう、きみの前から居なくならないって約束する。そうすれば、放浪者も悩まなくてすむ」
「……何を……、そんなことを約束したとして、どうやって証明するつもりだい。できないだろう」
「できる。これから、……そうだな、離れてしまったのと同じ、百年かけて証明する!」
「ハ……?」
「元々ぼくたちは数百年一緒に居た。ずっとではないけど、だからこれからもきっと大丈夫」
「……そんなの、」
何の証明にも根拠にもならない。そう思って口を開いたのに、彼は自信に満ちた表情で、期待に満ちた瞳を輝かせながらこれからの百年のことを語っている。濁流のような思考の渦の中でも、彼の破綻した論理に反論しようと思えばいくらでも言葉はみつかるのに、どうしてかそれを口にしようとは思えなかった。疲れ果てているせいかもしれない。けれど。
「……そんなの、都合がよすぎる」
「ふふふ、ぼくはもっと放浪者と一緒にいたい。ぼくのしたいこと」
「……」
彼に言った言葉ではなかった。放浪者が口を挟めないでいる間にも、彼は論を固める証拠の一つとして新しく手に入れたという神の目を指し示した。これがあればもっとみんなのことを、放浪者のことを守れる。そうはりきっている彼だが、透には別の世界での五百年分の記憶がある。一度は神の器として神と同等の力を手にしたのだ、守られるだなんて表現は聞き捨てならない。
「どう? 放浪者」
「……誰が、誰を守るだって?」
「……ダメ?」
「ダメなんてものじゃない」
放浪者はパラシュパムを見上げる。その瞳には強く力がこもっていた。
「神の目なら僕だって持ってる。君が僕を守るんじゃない、僕が君を守るんだ」
そのときの、彼の目の丸さといったら。
そのあとの、幸福そうな笑みといったら。
「……ふふふ、そう。そっか……そうだね」
「……」
なんだかとっても大変なことを言った気がする。けれど彼が目を細めて肩を揺らしている間、放浪者は何も言わなかった。
長い沈黙。やはり人々は楽しそうに通りを行き交っているのが、テラス席からはよく見える。
「……はぁ、」
透はテーブルの横に立てかけられていたメニュー表をおもむろに彼へと渡す。
己の罪は許されることはないし彼への裏切りだってそうだ。まだ呼吸は苦しいままだけれど、彼が望んでくれさえするのならば、この苦悩を耐えるぐらい、彼がいない世界で過ごすした百年よりよっぽどなんでもないことだ。
首を傾げた彼に照れくささを隠しつつ言い放った。
「……何か頼みなよ。注文もしないで席を占領しているつもり?」
「……うん! 放浪者は何飲んでる?」
「コーヒー」
「ぼくも苦いのにしようかな」
「好きにしなよ」
店員に注文を済ませて、そうだ、とパラシュパムが興味深げにめくっていたメニュー表から顔を上げた。
「灯利が呼んでた名前、なんだった?」
「──…透」
「透! 綺麗な名前だ、放浪者にぴったり」
「……君、それ、僕が放浪者だと名乗ったときも同じようなことを言ってなかった?」
「うん、どっちもいい名前だから。自分で新しく付けた?」
「いや……灯利から、もらった名だよ」
「そう、灯利が……。ふふふ、放浪者は、自分でつけた名前ともらった名前と、どっちも持ってるんだ。とっても素敵だ」
だから、パラシュパムが考えているほど、そんなにいいものではないというのに。なのに、彼はまるで呼び名そのものがとびきりの寿ぎであるかのように口にする。
ふと、傾奇者と呼ばれていた頃の記憶がよみがえる。名前らしい名前がないと不便ではないかと聞かれたこともあるけれど、透はたたら砂の友人達に傾奇者と呼ばれることが好きだった。
放浪者という名乗りも同じだ。他の者の名前とは別な呼び名でも、パラシュパムから発されるその呼び名が彼を彼たらしめる。過去を消してもすべてがすべて無くなるわけではないと思い知り、無くなったからこそ生まれるものもあると知った。透にとってパラシュパムが彼を〝放浪者〟と呼ぶのは、かつての友人達が傾奇者をそうと呼んだことと同じ意味を持っている。
とはいえ、贈られたばかりの新しい名で呼ばれるのも悪くはない。それぐらい今の名前が気に入っていたし、彼が呼んだとき、どんな響きに聞こえるのかにも興味があった。
「……放浪者でも透でも、君の好きに呼べばいいさ」
届いたカップを冷ましているパラシュパムを見つめながら告げれば、彼は目を細めて頷いた。
10
森の中。聞き慣れたライアーの音色に誘われるようにして彼の元へと向かう。再会してからというもの、彼の居場所が以前よりわかるようになったのはどうしてだろう。共鳴するという神の目のせいだろうか。
透の姿を見るや、旅人と依頼を共にするにつれ姿を現すことが増えたアランナラたちが挨拶をしてくる。──そのうちのいくらかは放浪者の姿を見てさっと隠れてしまった。けれどかくれんぼ好きのアランナラも多いから、姿を隠した彼らが遊びのつもりなのか、それともパラシュパムがいつか言っていたようにシャイだからなのかは、いまだに判別がついていない。
彼の隣に腰掛け、立てた片膝に頭を預けながら音色に耳を傾ける。昔から変わらない、穏やかな時間だ。
やがて一曲が終わり、瞑彩鳥の鳴き声と川のせせらぎ、木々のざわめきが戻ってくる。
「放浪者」
「……」
視線だけで尋ねると彼は楽器を指しだした。
「ライアー、弾く?」
「弾かない」
「そう」
かつて彼からライアーの弾き方を教わったことがあるし、演奏の仕方を忘れたわけではない。というより、旅人に押しつけられたこともありパラシュパムやアランナラたちの前で披露したのも記憶に新しい。気が向けばまた演奏してもいいと思っているが、それよりも今はもっと、彼の弾くライアーを聞いていたかった。
「もっと弾いてよ」
「リクエストだ」
「ほら、はやく」
「待ち遠しい?」
彼は透をからかうわけでもなくふわりと笑って、弦をつま弾く。
「じゃあ……大好きな友達が遊びに来てくれてうれしいの歌」
「ふ……なんだい、そのタイトル」
周りのアランナラたちも盛り上がっている。森林の奥地ではしばらくの間、楽しげなライアーの音が鳴り続けていた。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この作品は「〝放浪者〟にも五百年の間に縁をつなげた者がいるのではないか?」というのをテーマに創作しました。世界樹から記録を消去してから生まれた五百年というわけではなく、世界樹から記録を消去して〝ある〟ことになった五百年なので多分こういうことは起きないのかな~と思いつつ、それを叶えるのが二次創作で夢小説ですからね。まあね。へへっ。
最初はオムニバス形式というか、時代ごとに老若男女(動物や精霊、魔物含む)が放浪者と関わるかなり世界観夢よりのものを考えていたのですが、せっかくならずっと長く過ごせる相手がいいな~と思ったのでこういう夢主になりました。
夢主の神の目の属性は特に本筋には関係ありませんが(キャラ的には水でも違和感ないよな~とか)、夢主が草で放浪者が風なので、他の誰かを噛ませないと元素反応のシナジーが生まれないところが逆に気に入ってます。散兵が世界樹を改変するというイレギュラーを起こさないと生まれなかった関係なので。夢主の性能はバッファー兼デバッファーぽそう。
カフェで会ったときはそれどころではありませんでしたが、放浪者は何故百年会えなかったのかの原因を聞いた後は絶対死域殺すボーイとして元気に空を駆け回るようになると思います。スメールのメインストーリの後に森林書終わらすタイプの旅人なのできっと死域も全然残ってる。うちのテイワットもそう。
元々名前変換可能なゲームの夢小説でゲーム主人公の名前も変換できるタイプの夢小説が好きだったのですが、放浪者もプレイヤーが名前を変更出来るのでじゃあ夢主と一緒に三人分変換してもらおうかと思って変換機能に含めました。放浪者の名前含め、うちのテイワットとは特に関係ない名前です。よろしくお願いします。
改めて、ここまで読んでいただきありがとうございました。
面白かったら感想などいただけると励みになります。
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