蜜柑とアイスの共存

一葉の彼方で

 0
 
 ふわり、木と花の、緑の香りがする。中でも意識されるのはどんな花よりもかぎ慣れた、微笑みを浮かべながら親しい隣人へ囁くような、パティサラの軽やかな甘い香りが。
「……放浪者!」
 後ろから柔らかく手首をつかまれて、引かれる。放浪者──旅人から名前を贈られ、現在は透と名乗っている──は、そのかつての名乗りにも、呼んだその声にも覚えがあった。
「よかった、やっと会えた。ずっと、探してた」
「──…、」
 振り返った先の彼はかつてと変わらない表情で、姿で、声色で放浪者の手を握る。そんな彼に放浪者はなんといっていいのかわからなかった。だって、居なくなった彼をずっと探していたのは、自分のはずで。
「おーい、どうしたんだよ?」
「……透、知り合い?」
 唖然としてもの言えずにいる透に、先導していたパイモンと灯利が振り返り問いかけた。はっと我に返った放浪者は握られた手を振り払ってから、笠で顔を隠し、彼に背を向ける。
「──知らない。人違いなんじゃないかな」
「……放浪者?」
 彼がどんな表情をしているのか、手に取るように分かる。世の中のどんな欺瞞や猜疑心に遭ったとしても少しも曇ることのない、清流のような瞳で放浪者ことを見つめているのだろう。彼の思う通りの〝放浪者〟であったかつての自分ならばともかく、世界樹の記憶を取り戻した透は彼を直視できる自信はなかった。
 長い間──ずっと彼に会いたがっていたのは、探していたのは。自分も同じだというのに。
「用がないのなら、僕は失礼するよ」
 言うが早いか。あれだけ会いたいと望んでいた彼から逃げ出すように、その場を立ち去った。

「おーい、待てよ、放浪野郎~!」
 ふわふわと小さな影が追いかけてくる。先ほどの場所からずいぶん離れたからか、放浪者の足は次第にゆっくりとした速度に戻っていった。
「……さっきの彼は……透が探してた古い友人、なんじゃないの?」
 旅人からの指摘についに足を止める。ふ、と吐息のようなため息を吐いた。
 ああそうだ、彼らには話したのだった。放浪者がなぜスメールにいたのか。悟りに至るための修行も理由の一つだが、また別な理由があったことを。
 ただその理由であったはずの彼と再会するにはもう、何もかもが今更すぎたのだ。



 1
 
 スメールの雨林帯は湿度が高く、また突然の雨も多い。いつも被っている笠はあくまでも日や埃除けのためのもので、こと雨に対して。特にこの気候のものに対しては無力にも等しかった。人間よりいくらも丈夫な人形の身とはいえ、球体関節の隙間に雨埃や草土が入り込んでしまえば身体の動きに支障が出るという点においては、ある意味人の身より脆弱であるとも言える。
 あまりの雨足に視界を遮られながらも辺りを見回す。どこか雨宿りできるような場所はないものか。
 ──すると、突如として全身を叩きつける粒や止み雨音は遠ざかった。そして香る、柔らかな花や草の青々とした清涼な香り。
「……屋根、探してる?」
 柔らかな音が耳朶に響く。見れば、見目だけで言えば己と同じくらいの年頃の少年が、大きな植物の葉を傘にして放浪者へと差し出していた。雨音が急にくぐもり別な音に変わったのはこれの影響か。
「…──」
 森の精霊かと思った。差し出してきたものもそうだが、つた状に彼の頭部を一周している枝の冠には赤紫から白へと色付くパティサラの花と、道中あちこちで見かけた低木樹の小振りな花が咲き誇り、たとえ何もなくとも華やかな風貌の少年により彩りを与えている。街中で過ごしている者とは異なる趣の格好に見えるが、この森の住人なのだろうか。
 何も答えない放浪者に彼はどう思ったのか、初対面にも関わらず親しい友人を安心させるような笑みを浮かべて放浪者の手を取った。
「おいで」
「あ、……」
 口を開きかけて、しかし拒否することもできず彼についていくとやがて小さな家のようなところを案内された。きのこの形の郵便受けに草葺の屋根、球状の壁。
 小さいとは称したものの、少年二人が肩を並べるのに十分な広さがある。
「ここは……あなたの家、ですか?」
「ううん。ここはぼくの友達の家」
「えっ……いいんですか、勝手に僕が上がってしまって」
「いい。この建物、森の中にはたくさんある……ぜんぶぼくの友達の家だ。今みたいな天気のときはきみも使うといい。みんな、優しいから快く貸してくれる」
 友達、とは、特定の誰か一人を指しているわけではないらしい、放浪者が考え込んでいる間に、彼はかたこと物音をたてて部屋にあった壺の中から木の実を取り出し、放浪者へと差し出した。
「あ……ええと、」
 見るからに人ではないとわかる己へ食べ物を差し出す彼に戸惑った。どうするべきか迷っていると、彼は柔らかく微笑みながら首をかしげる。
「木の実は嫌い?」
「いいえ、嫌いというか……」
「山菜もある」
「その、」
「それとも、食べるのが苦手?」
「苦手、というわけでも……。ただ、慣れてはいないかもしれません」
「そう」
 なんと説明すればよいものか。けれど彼は言いよどむ放浪者を気にした風もなく木の実を卓に置いた。食べたくとも食べたくなくともご自由に、という意味らしい。
「見ての通り、僕は人形です。食べる機能はありますが必要はありません。ですからお気遣いなく」
「? 必要があるか、じゃない。きみがしたいかどうかで決めればいい」
「……したいかどうか、ですか」
「ぼくも、他のナラほど食べる必要はないけど食べるのが好き。友達と食べるのはもっと好き。でも、食べたくない友達にはすすめない」
 好きかどうか、したいかどうかで考えたことはなかった。けれど放浪者が各国を回っている目的を果たすためには、考えることも必要なのかもしれない。その上で、欲を捨てる必要が。
「ぼくはパラシュパム。きみは?」
「……放浪者、と名乗っています」
「ホーローシャ? いい名前だ」
「名前とは、少し違うかもしれませんが……ふふ、ありがとうございます」
 人形であることを聞かれるのも、ただの肩書きじみた自称を訝しがられるのも慣れていたけれど、パラシュパムという少年から返ってくるような反応は新鮮だった。
 思わず笑ってしまった自分に驚きながら、それと同時にからっぽの胸の内で何かざわめきが生まれたような気がして。嫌な気はしないが落ち着くこともできないそれを誤魔化すように、彼から視線を逸らしてまだ強い雨足へと目を向けた。
「……雨、止みませんね」
「もうちょっと続く。でも、日が傾く頃には止むよ」
 言い切った彼の言葉通り、雨上がりの空は夕焼けに染まり木々を鮮やかに色付けている。放浪者は匿ってくれたパラシュパムに礼を述べてその場を立ち去ったけれど、離れた後もずっと、彼の存在が頭から離れなかった。

 スメールに滞在する間、放浪者はパラシュパムの案内を受けることが度々あった。特に森の中での彼はどこまでもが自分の庭、とでもいうように枝をくぐり根を越えて、放浪者を目的地へと連れていくのだ。
 反面、オルモス港などの人の多い場所はあまり得意ではないようだ。曰く、「森はわかりやすい。街はすぐ変わるからわかりにくい……いつも迷ってしまう」。迷子になることさえ楽しんでいるのか、どこか好奇心を感じさせるようなそれほど困ってなさそうな顔で。しかしながら放者をあちこち振り回したことについては申し訳なさそうに言った。
「……ふふ、」
 つい、くすりと笑ってしまった。首を傾げた彼に謝って、それでもやはり、腹の底から口元に向かってこみ上げるものを誤魔化すために咳ばらいしてから彼に向き直る。
「君のおかげで、僕もだいぶこの土地に慣れてきました。……もしパラシュパムが困っている時は僕が道案内しますから。迷子になった時はじっとしていてくださいね」
「……わあ……探してくれるって、本当? 迷子になるの、楽しみだな」
「うん……? いえ、迷子にはなるべく、ならないようにしてくださいね……?」
 彼はうなずいたけれど、本当にわかってくれているのかやや不安が残る。
 浮世離れした風貌や口ぶりからなんとなく察してはいたが、パラシュパムは半分人間ではないらしい。彼は人間と、人間よりもずっと前から森で暮らしている種族との合いの子で、街中に住むよりも森で過ごす方が性に合っているようだ。森の精霊みたいだと、初対面の時に抱いた感想はあながち間違いではなかった。
 髪飾りだと思っていた冠は彼の頭部から実際に生えているものだったし、咲いている花は造花でもなんでもなく、彼の体調や気分によって瑞々しさに変化がある。
 森の種族は人間よりもずっと寿命が長いとも聞いた。その合いの子であるパラシュパムの寿命がいったいどれくらいなのかわからないが、今現在の年齢を聞いたところ「小さな苗が見上げるくらいの大木になるくらいの時間」という答えが返ってきた。それなりの時間を彼はすごしているようだ。
 やがて放浪者がスメールを離れて、また世界を放浪し、再度スメールに帰ってきてもパラシュパムの姿は変わらなかった。次第に放浪者の身体から球体関節の繋ぎ目が消え、人と同じ滑らかな関節を手に入れても彼は少しも変わらない。同じ少年の姿で、母からもらったという今はもう絶滅したはずの鮮やかな色のパティサラをさやさやと咲かせ続けている。世界中を回るのを何度か繰り返すと、確かに人間の住むところは絶えず変わるものだと実感した。
 彼と森を歩き、街中では相変わらず迷子になる彼を探して過ごした。彼と別れて村や街を一人で歩いているときもすれ違う人々の会話の中に、もしや彼のことを話しているのでは、と思う話も聞こえてきた。放浪者と初めて出会ったときのように、彼は森の案内人のようなことをしているらしい。魔物に襲われた商人を助けたり迷子になった子供を村や街まで送り届けたり。特に子供達からは一種のヒーローのような存在になっているようだ。彼がそんな風に慕われていることは、自分事でもないのに誇らしく感じる。
 どこに行ってもどれだけ人間と同じ見た目になったとしても、居場所がみつからないこと、胸の中にある空洞の理由がわからないこと、そして欲を捨てきれないことは時折隙間風の吹く思いがしたけれど。パラシュパムと互いに友人と呼べる関係になったのは、生まれ落ち放浪を続けてきた生の中でも一際の幸甚といえるだろう。



 2

 たたら砂を離れてから何百年かが経った。スメールに来てパラシュパムと知り合ってからはライアーの弾き方を教わり、また別の道中で様々な人や事象と会い、そしてまた世界を放浪して、悟りには至ることなく再びスメールに戻ってきた。
 戻ってきた、と思うようになったのは、きっと君の影響だ。放浪者と再会する度に至極嬉しそうに手を振るパラシュパムを見て、そう思った。
 毎度約束をしているわけでもなく、またこの国を訪れる時期を決めているわけでもないので会える保証はどこにもないはずなのに、放浪者とパラシュパムはどちらともなく再会を繰り返す。
 そして今回もまた、深い雨林の奥から聞こえてくるライアーの音色に誘われるようにして彼の居場所を見つけた。彼のものではない歌声が聞こえていたはずだけれど、音源へ近づくにつれてそれはふっと途切れてしまう。小さな子供が楽しそうに歌っているようで、好ましく感じていただけに少し寂しい。
 あれはきっと彼の友人のものなのだろう。いつだか尋ねたとき彼らは恥ずかしがり屋だから自ら姿を現すまで持っていてほしい、とパラシュパムに言われたのだ。放浪者が雨宿りのために彼らの家を借りたのは一度や二度のことではない。そのうちきちんと、お礼を言いたいのだけれど。とはいえ気長に待てるのは、この身体の利点の一つかもしれない。
 獣道を進みようやくパラシュパムの姿を捉えると、彼は放浪者がくることをわかっていたかのように彼を歓迎した。
「よく来たね」
「パラシュパム、久しぶり」
「……なにか良いことあった? そわそわしてる」
「そうかな。……でも、君に言いたいことならあるよ」
「うん? なあに?」
 内心を言い当てられたようでどきりとした。彼ならきっと提案に頷いてくれるだろうと期待に胸を膨らませながら口を開く。
「その、来週スメールシティで……っ、怪我してるの?!」
 いつもと変わらない彼の様子に安心感を覚えて、しかし彼の腕に血の滲む傷を見つけて声を荒げてしまう。反面、指摘された当の本人はようやく気が付いたとでも言わんばかりに見下ろした。
「ああ……これは、大したことない。すぐ治る」
「すぐに治るって……でも、傷を放置する理由にはならないだろう。ほら、こっちに来て」
「わっ、放浪者……?」
 人間は脆く、少しでも傷付けばすぐに死んでしまう。半分人ではないパラシュパムはそれよりいくらも丈夫だが、それでも枝や幹が傷付けば枝が落ちてしまわないとも限らない。側にある川までパラシュパムを連れていき、血の固まった傷口を丁寧にすすいだ。傷薬はないけれど、手拭いを裂いて簡易的な包帯を作る。これは以前モンドを旅していた時、土砂崩れに巻き込まれた商隊の救助を手伝った時に得た知識だ。
「痛くはない?」
「うん、ありがとう」
「このくらいなんてことないよ。……それにしても、君が森で怪我だなんて珍しいね。いつもは直接木を伝うか、木々の方から避けていくのに。魔物にでもやられたのかい」
「……実は、そうなんだ」
 ふ、と、パラシュパムの表情が曇ったのを放浪者は見逃さなかった。それと同時に瞠目した。パラシュパムのこのような表情はいままでにほとんど見たことがなかったからだ。一瞬思考が止まりかけたが、この友人の助けになりたい、という考えにすぐさま行き着いた。
「……、何か、困ってるんだね?」
「うん? ……ううん、もう解決した。大丈夫」
 しかし、もう一度彼の表情に目を向けたとき曇り空はもうすっかり晴れていた。気のせいだったかと思い過ごしてしまいそうだ。けれど錯覚なんかではない。
 彼は腰を上げて、話を切り上げたがっているのだからそれに従うのが正しいのかもしれない。普通の人間なら、彼の意思を汲んで彼に合わせるのだろうか。わからないけれど、友人の憂いを知っておいて見て見ぬふりをするわけにはいかなかった。
 彼の名を呼び、じっと見つめる。彼はぱちぱちと瞬きをして、苦笑した。これも、いままでほとんど見たことのないものだ。
「世界樹が病気になってる。その影響でマラーナが生まれて、暴れるキノコたちが増えてる。マラーナに近づくとみんな病気になってしまう。放浪者も、近づかないで」
「……この怪我は、その、マラーナに近付いたせいで?」
「……友達が近くに住んでたから、迎えに行ってた。そのときに」
 治療を施したばかりの腕を見下ろした。大事にこそならなかったが心配だ、という表情を隠さない放浪者にパラシュパムはやはりにこりと微笑む。けれど余計に不安を煽られて、言葉が口をついていた。
「ねえ、僕もパラシュパムのやっていることを手伝えないかな」
「ダメだよ」
 しかし首を横に振られてしまう。いつになくきっぱりとした拒否だった。
「どうして? 人形の僕なら、負担が少ないかもしれない。僕の体は人間よりも丈夫なんだ、だからきっと君の足を引っ張らないし役に立てる」
「ううん、違う。放浪者が人形とか人間とかは、関係ない。友達だから、きみに危ないことしてほしくない」
「……危険な目にあってほしくないのは、僕だってそう思ってるよ」
「うん、とっても嬉しい。放浪者の気持ちは伝わってる、ありがとう。でも、この森と生きるのはぼくの役目。ぼくがしたくて、するべきで、してる」
「……パラシュパムの、したいこと……」
「そう。けど放浪者は違う、きみのしたいこととやるべきことはもっと別のこと。そうでしょ? だから、ぼくの友達のきみは……大切なきみだからこそ、ダメなんだ」
 わかる? 放浪者を説得するように彼は小首を傾げた。食い下がりたかったけれど、彼に念押しされてしまっては納得するほかない。ややあって放浪者が頷くと彼は安堵したような笑みを浮かべて、さっきの、なんだった? 話題を変えるように尋ねた。
「さっきの、?」
「何か言いかけてた」
「あ……ああ、そうだった。来週スメールシティで祭りがあるみたいで……パラシュパムは賑やかなのも好きだし、一緒にどうかと思って」
「祭り? 行きたい!」
 一瞬で輝いた彼の瞳はきっと作ったものではないのだろう。頼ってもらえなかった悔しさをそうと判別する前に喉の奥に飲み込んで、放浪者は頷いた。
「わかった。じゃあ……待ち合わせ場所はわかる? いつものところ」
「わかる、……たぶん」
「……ふふ、パラシュパムが迷ったときは迎えに行くから、安心してよ」
「うん、楽しみにしてる」
 早速、祭りのことを考えているらしい彼の表情はいつも見ていたものに間違いなくて、放浪者はほっと胸をなで下ろした。それと同時に、彼の懸念に関わらせてすらもらえないのに安堵しているなんて、と砂を噛んだ心地がした。
 きっと、いつも通りに振る舞おうとする彼に倣うべきだろうに、取り繕えそうになくて早々に森を立ち去った。彼にしたい話が沢山あったし、彼から聞きたい話も沢山あった。けれど今だけは十全に楽しめそうにない。
 放浪者は己に言い聞かせる。大丈夫、次があるのだから。祭りの時までにはきっと落ち着いて彼と話が出来るはずなのだから。
 僕たちには、たくさんの時間があるのだから。

 放浪者が森を立ち去って、隠れていたアランナラがひょこりと顔をのぞかせた。
「パラシュパム、今日はあのナラと遊ばない?」
「うん。ぼくの怪我、心配してくれた」
 パラシュパムが迎えに行った友達──アランナラはしゅんと肩を落とす。
「あう……ごめん、ワタシのせい」
「違う。きみが無事でよかった」
「怪我も気付かなかった……他に痛いところ、ないか?」
「うん、どこも痛くないよ」
「ほんとにほんとか?」
 アランナラは忙しなく動き回ってパラシュパムの腕をくぐり抜けたり、背中を見回した。そうして一通りチェックをし終えてからようやく安堵の息を吐く。
「……でも、マラーナがまたひどくなってるみたい。アランナラのみんなにも、伝えないと」
「ワタシも手伝う」
「ありがとう。マラーナには近付いたらダメだよ」
「わかってる。もうパラシュパムに怪我させない」
「ん、心強いな」
「うぅ……パラシュパムは強い。もしかしたら金色のナラヴァルナくらい、強いかもしれない。でも、一人で戦うのは心配」
「ふふふ……心配してくれてるの、ありがとう。……ふぅ。ぼくにも、父様みたいな力があったらな」
 彼は眉を下げて微笑んだ。そうしたら、大切な友達にあんな顔を、こんな顔をさせることもないのに。



 3
 
 小鳥のさえずりによって目が覚めた。寝床から起き上がったパラシュパムに、とことこ木を伝い降りてきたリスが語りかける。今日は、友達との約束があるんじゃないかと。
「ふぁ、おはよ……わかってる、けど……マラーナがまたできたみたい。先に行ってくる」
『気を付けて、歩くキノコがいっぱいいるかも』
「うん、いってきます」
 友達と別れて木々が教えてくれた場所へと向かう。数百年前から世界樹は病気になっていて、その影響が地表にまで出てきている。中でもこの頃は特にひどく、年々パラシュパムがマラーナを浄化する頻度も上がっていた。
 ナラの間でもマラーナは問題になっているようで、パラシュパムが浄化に駆けつけたところすでにナラが対処に当たっている場面を見たことや、魔物やマラーナの浸食に襲われているところを間に入ったこともある。特に神の目を持っているナラがいるときは、比較的スムーズに対処出来ているようだけれど。
 やがて目的地に着いた。発生した時間と比較してもマラーナの浸食速度が異様に速く、被害の範囲は広いように見える。
 パラシュパムが弓をつがえ、矢の先に向けて力を込めると淡い緑の光が集まった。襲いかかるキノコンや獣域ハウンドたちを避け、禍々しい赤光の枝に向けて放つ。マラーナの力が多少弱まったのと感じると同時に強い抵抗も感じ肌が粟立つが、マラーナの叫びに応えるよう更に凶暴化した魔物がまた一体立ち上がるのを、先ほどと同じく矢尻に集めた光で再び照らした。
 パラシュパムの力は、元素生物や神の目を持っているナラたちのように元素力を操っているわけではない。彼の身に流れる雨林の種族としての力であり、どちらかというと璃月の仙人たちが扱うものに似ている。本来であれば土を肥えさせ木々に風を呼び、川を清らかに。そして住まう者に豊かさをもたらすための力だ。
 その力を用いて、彼はマラーナの枝を一つずつ癒やしていく。身体の中がじわじわ毒素に浸食されていくのを感じるが、残すは一箇所だ。痺れる指先を握り治して再び弓を引いた。
 ──きゅう、か細い鳴き声をパラシュパムの耳はとらえた。今の鳴き声は、リシュボラン虎の子供の鳴き声だ。逃げ遅れたのか、怯えつつも必死にみゅうみゅう鳴いて親虎を呼んでいるけれど、その声を親虎へ届かせるにはあまりにもひ弱すぎる。凶暴化こそしていないものの浸食の影響を受けているのは明らかで、これ以上は命が持たないだろう。
 そう考えているうちにも、同じく鳴き声に気付いた魔物が仔リシュボラン虎に向かって爪を振りかぶった。
「っ! ……ダメ、だよ」
 爪をはじき、仔リシュボラン虎の首根っこをつかんでマラーナの外側へと放り投げた。少々手荒いがあの程度、リシュボラン虎にとっては大した問題ではないだろう。多少の怪我を心配するより、一刻も早く浸食領域から助け出す方が先決だった。現に思ったとおりころころと転がったあとすぐさま身を起こした仔リシュボラン虎を見送る。揺れる低木の向こうに成体のリシュボラン虎を見付け胸をなで下ろし、残った腫瘍を浄化させるため、咳き込みながら振り返ったところで彼は足をもつれさせた。
「?!」
 見れば、マラーナの根がパラシュパムの足に巻き付いていた。生ける者を枯死へと誘う存在のはずだが、どこか助けを求めているようにも見えて一瞬パラシュパムの動きが鈍る。その隙に手足を絡め取られ、抜け出そうともがく間にも彼の目前へと魔物の凶爪が迫っていた。

 頭がガンガンと痛む。喉が渇いた。血の味がする。全身が心臓になったかのように熱く脈打っている。
 凶暴化した魔物はすべて退けたし、病に罹った根もすべて取り除いた。あとは一帯のマラーナの根源となっている腫瘍を浄化するだけ。それだけなのだが。
 負傷し、予定よりも長時間マラーナの根元にいたため想像以上にダメージが蓄積されていたらしい。はやく浄化しなければ、また新たな根に、場に誘われた魔物が暴れ出すかもしれない。そうでなくとも一帯の植生にも多大な影響を与えてしまう。新たな腫瘍が出来る前に浄化を、わかっているのに、身体は言うことを聞いてくれない。
 渇いて渇いて、枯れてしまいそうだ。母様にもらった花は散っていないだろうか。今すぐ川に潜って、好きなだけ水を吸い込みたい。いや、それよりも、放浪者との待ち合わせの時間は大丈夫だろうか。
 赤暗く霞む視界の中、眼前にきらりと光った何かをつかもうとして──パラシュパムは地に伏した。

 すっかり日が高くなった頃、バザールの近く。人混みから少し離れたところに放浪者は一人佇んでいた。しゃらりと笠飾りを揺らしてあたりを伺う。
「……パラシュパム、遅いな……また迷ってるのかな」
 なら、僕が迎えに行かないと。
 そわそわとした気持ちを抑えながら、楽しそうな顔をして行き交う人混みを眺める。彼と合流したあとは、自分たちもその中に入っていくのだ。バザールを見て回って、世界各地から持ち込まれた商品を見て。その様を想像して思わず笑みが浮かぶ。
 しかしいくら待てども探せども、どこにもパラシュパムの姿を見付けることは出来なかった。



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