夢物語の椅子に座りぶらぶら
とある国語の授業では、物語を一編読んだあとに「このお話の続きを考えてみましょう」というものがあるらしい。「続き物語」という名前の指導形式で、つまりは二次創作の授業だ。
通っていた学校にそのようなカリキュラムはなかったが、もしあったとしたら自分はどんな物語を考えただろうか。
例えば「ごんぎつね」なら
ごんぎつねの悪評は村中の誰もが知るところです。今夜は鍋だな、そう顔をあげた村人は、やはり項垂れたままの兵十に言いかけたまま何も言えませんでした。
「ごん……」
火縄銃の青い煙とともに兵十の声はか細く消えました。
彼らの間に何があったのか村人にはわかりません。ですが、「こいつはおっかあを亡くしたばかりだというのに、また何か大切なものを亡くしてしまったのだ」と、それだけはわかりました。
とかだろうか。あるいは、
「ああ、ばかなやつだ。あれだけよしておけと言ったのに。おれの言った通りになったではないか」
山の中をうろうろしながらぶつぶつ繰り返します。それみたことか、だから人間なんて放っておけばよかったのだ。きつねは自分の巣に戻ろうとしていましたが、足が辿るのはごんとよく遊び場にしていた木陰やよくきのみの取れる開けた場所、水飲み場にしていた小川。どこもかしこも、ごんとの思い出でいっぱいです。
やがて歩き疲れて腰を下ろした切り株は、やはりごんと遊んだ場所です。お気に入りの小石や松ぼっくりを持ち寄って自慢をしました。
「ごん…ごん、おまえはもう、どこにもいないのか…」
その夜はずっと、子ぎつねの悲しげな鳴き声が山の中を響いていました。
みたいなのもいいかもしれない。
そんな営みを、かれこれ15年以上続けている。
【原作にいない存在を主人公として、原作から連想される、あるいは原作にはないもしもを楽しむ。】
これがひとまずの、 自分の中にある二次創作夢小説だ。
読者としてプレイヤーとして主人公と肩を並べている間、 いろんなことがあった。
あかがね色の表紙に赤緑二色刷りの本を両腕に抱えたり、幼馴染に助けられている間に故郷が滅ぼされたり、不思議のダンジョンにもぐったりした。
物語の展開にドキドキしたりアツくなったりして、主人公と同じ目線で物語に入り込みながら、同時に、どんな存在でこの物語に参加したら楽しいだろうかと考えた。
いろんな存在になりたかった。
厄災を振りまく悪龍にも、家族を喪った主人公にただ寄り添う冒険の仲間にも、ダンジョンからの帰りを待つ村の住民にもなりたかった。
物語の中だけに存在するそれらと、ともだちになりたかった。
そして、それを叶えてくれるものが夢小説だ。 夢小説という存在を知人からほのめかされ見つけた末に、小説ってプロじゃない素人でも書けるんだ、と、 創作のいち形態それ以前のところに驚いたのを覚えている。
現在は小説のみならず、イラストや漫画、短歌なども作ったりしている。それらをひっくるめて夢創作と呼んでいる。
娘らがトーマスやノンタンやアンパンマンに夢中になってるのを見るたび、エルマーの冒険の翻訳者さんの「実在しない生き物が子どもの心に椅子を作り、それらが去った後に実在する大切な人を座らせることができる」って言葉を思い出す
— うめめ (@umeboshi666) May 12, 2017
自分の中の椅子にはいまもキャラクターたちが座り続けている。 座りながら、爪をいじったり、こちらを楽しそうに見つめていたり、 いまにもとびおりてしまいそうな様子で椅子を揺らしたり、ただそこに在ったりする。
この引用文の主旨とはずれてしまうが、この文章を読んだときにぼんやり思った。
自分の夢創作とは「キャラクターや世界観に合わせて、いろんな椅子を作っている」 行為なのだと。 このキャラにはこんな形の、 色の椅子がいいんじゃないか、ちょっと座りにくそうだけど案外ああいうのもしっくりくるかもしれない。 お人形を置いたり蔦や花なんかで飾り付けてみたり、時にはひとつのキャラクターや世界観に対して、無数の椅子を作ったり壊したりまた再構築してみたり。
そういうごっこ遊びを、ずっと楽しくやっている。たぶんこれからも。
また、あるときはキャラクターや世界が座るだけにしては広い椅子を作って、隣にどっかと座ったりもする。 隣にいる存在と目を合わせたり合わせなかったり肩を組まれたりどつかれたりまったくの無だったりしながら、どんな続きがあったらもっと楽しくなるだろうかと考える。
そういう物語を作っている。
沢山の椅子を作っていると、 昔作った椅子を改めて眺めることもある。おそらく、当初の構想とは違って形が歪だったり、仕上げに力尽きているのが見て取れたり、なんか変わった色同士のペンキをぶちまけたな…?みたいに思うこともままある。
それと同時に、いま同じような物語を考えたとしてもこの装飾は思いつかないだろうな、と感じたりもする。
兎にも角にも、その椅子はその時考えた中で一番心躍る朽ちない椅子なのだ。 そこに大好きな、大切な存在が座っているとしたら、作ってからどれほど時間がたっていようとやっぱりいいなと感じる。 だって楽しく作ったし、形が歪なのも会話のきっかけになるかもしれない。どうしても納得いかないならちょっと手直ししてみてもいいし、謎にぶちまけたペンキだって、きっと唯一無二のマーブル模様だ。
この世に魔法はないし妖精もいないし物語なんてしょせん作りものだ、なんて言ってしまうのは簡単すぎる。けれどあえて反論したい。魔法や妖精ははっきり存在するのだ。今まで読んできた物語の中にあるし、影響を受けた自分の心の中にもある。
現実と夢と物語は全て地続きで、分断されてなどいない。現実のあるところに夢があり、心を持つものが物語を生み、その影響を受けた現実がある。
物語に生かされ育てられた存在として、魔法はあるし妖精も存在すると断言したい。あとは妖怪もいてほしい。そういうときは断言しよう。います。もちろん多くの子供たちが何故か夢を打ち砕かれてしまいがちとされているサンタだってありまくりの存在しまくりだ。オーストラリアでサーフィンしてる写真だってみたことあるし。
するとどうだろう、我々はバスチアンとずぶ濡れのまま本を読んだり、シンシアとの思い出に耳を傾けたり、ダンジョンから帰ってきたチョコボの毛並みを撫でることができるのだ。
新年あけましておめでとうございます🎍 pic.twitter.com/VltC03KC3S
— かいけつゾロリ ポプラ社公式 (@zororizz) January 1, 2024
そして、かいけつゾロリからおとしだまを貰えたりもする。
おわり
文章を書いた存在:熊々楠
文章を公開した日:2024/11/11
何かあったら:蜜柑とアイスの共存/Bluesky/Twitter/Wavebox