メェメェ羊が鳴いている。ぼくはその声に呼ばれた気がした。
高山地帯のこの辺りは、南の国の中でも特に田舎と言われる部類で人口はとても少ない。人口がとても少ないのだからぼくと同じくらいの年の子供も少なくて、学校にも両手で足りるくらいの生徒しかいない。もっと都会に行けば一歳ごとにクラスが違ったりするって聞くけど本当だろうか。
でもぼくは今日学校には行かず、かといって家の仕事を手伝うわけでもなく、ひとりぼっちで人のいない山に来ることを選んだ。メェメェ、しばらく前から聞こえる羊の鳴き声に誘われるままに歩を進める。この鳴き声はどこから聞こえてくるのだろう。何を呼んでいるのだろう。
しばらく歩き続けて、草がまばらに生えている岩の影に羊を見つけた。太陽と自らを遮るぼくの影に気が付いたのか、羊はまたメェメェと鳴きかけて、ぼくを見上げて鳴くのをやめた。
「こんにちは、羊さん。こんなところに一匹でどうしたの」
なるべく優しく聞こえるようにそう尋ねて、それから怯えさせないように姿勢を低くして羊に近づく。メェ、先ほどより短く鳴いた。どうやら警戒はされてないみたい。続けて羊に語りかける。
「ぼくはね、迷子になりに来たんだ。きみを追って」
「メ……メェメェ」
「あ……きみのせいじゃないよ。きみの声が聞こえなかったら、雲を追うか川の葉っぱを追うかしてたから」
「メエ」
羊はトコトコぼくに近づいてきてくれた。怖いひとじゃないってことはわかってくれたみたいだ。
「メェメェ」
つぶらな瞳で問いかけられた。どうしてあてもなく彷徨っているのか。答えあぐねて首を左右に捻ると、羊も同じように首を傾ける。それが言いようもなくかわいくって、うふふと笑いながら息を吐いた。
「……ぼくね、魔法が使えるはずなんだけど……どうしてか人前だと、上手く魔法が使えないし……使えたとしても、苦しくなっちゃうんだ」
身を寄せてくれたふわふわの毛を撫でさせてもらいながらつぶやくと、メェ、と再び鳴く。
もこもこの……羊の毛の魅力は抜群だ。ぼくは小さなガラス玉をポケットから取り出して小さく呪文を唱えた。すると、羊の足元から淡く発光する線が浮き上がってはあたりをぐるぐると蛇行しそして、やがて遠くへと向かっていった。
「メェア」
「見える? きみがたどってきた道だよ。……ふふ、ほんとにあちこち迷ってたんだね」
「メェ、メ、メェ」
「ほら、お家のひとが心配してるだろうから、帰ろう? 一緒に行ってあげる」
「……メェ!」
羊とならんで歩いてしばらくすると、やがて人影が現れた。嬉しそうに駆け寄る羊をみるにその人のところの羊だったのだろう。長い脚を畳んで羊を撫でた彼は、次にぼくへと目を向けた。眼鏡のフレーム越しに見える赤い瞳にドキリとしつつも羊をさらってたわけじゃないですよ、という意味を込めて挨拶する。
「こ、こんにちは。その子が、迷子になってたみたいなので送ってきました」
「こんにちは。……ありがとう、こいつは好奇心が旺盛でよく冒険をしたがるんだ。いつもは気を付けているんだが今日は隙を見て脱出されてしまって……」
「……そうだったの」
「メェ~」
羊は誇らしげに鳴いた。誇らしげにするところじゃない気がするけど、どうしても口元が緩んでしまう。すると彼も──レノックスと名乗った──小さく笑いぼくに向き直った。
「ぼくは、キーリィといいます」
「そうか、キーリィ。おまえはどこから来たんだ?」
「あ、えと……ミレー村、です」
「……随分遠くだな、大変だっただろう」
「い、いえ。羊と、お話してたのであっという間で……あっ、その……」
しまった。いくら緊張していたとはいえ失言をしてしまった。動物とお話しだなんて、おかしな子供だと思われてしまうかもしれない。ただでさえ緊張でからからになった喉をもっとからからにしながら、弁解するための言葉を必死に考える。けれどレノックスさんは「そうか」とだけ頷いて、ぼくを村まで送っていくと申し出てくれた。
聞き流してくれたのかな、そうほっとして僕は頷いた。
「……今から歩くと暗くなってしまうな」
彼はそう言って箒を取り出した。普通の掃除に使うような箒じゃない。何もないところから現れたそれが意味することは一つだ。
「れ……レノックス、さん、魔法使いなんですか……?」
彼は頷いた。自身の箒にまたがると、その前にぼくを誘う。恐る恐る乗りそっと箒の柄を掴むと、彼は「しっかり捕まっていてくれ」と言い、大きな腕がぼくを支えるように箒をつかんだ。地面から足が離れてぐんぐん空へ登っていく。こうして空から見ると、ずっと遠くまで歩いてきたぼくの道のりはとても短い距離に感じる。
ぼくの村には、ぼく以外の魔法使いはいない。村ができたときは魔法使いが開拓を手伝っていたらしいけれど、それも何十年も前のことだ。その魔法使いはある程度の開拓が終わると、また別の村へ移っていったらしい。
つまりレノックスさんは、ぼくが初めて出会った自分以外の魔法使いだった。
それからぼくは、度々レノックスさんの元を訪れるようになった。度々、とはいっても村の手伝いもあるし距離も遠いからタイミングを見計らいつつにはなるのだけれど。
レノックスさんの羊が迷子にならないように見回って、あとは鷹やオオカミがいないか注意して。そろそろ休憩をしようとレノックスさんが提案してくれたので、ぼくは手ごろな場所に探す。
彼が飲み物の準備をしてくれている間に敷物を開けた場所にしいて、家で作ってきたバスケットの用意を整えた。ぼくがご飯かおやつを持ってきて羊のお世話をする。レノックスさんはお茶の用意とこのあたりの地理、羊の世話の仕方を教えてくれる。それが最近のルーチンだ。だいぶ打ち解けてきた彼とは、それに比例して座る位置も近くなった気がする。温かいお茶を飲みながらほっと息を吐く。
サンドイッチを食べて、たまに羊がじゃれにきて。ぼくもレノックスさんもほとんど言葉は発さなくて、風が低木の葉を揺らす。この時間が、ぼくを特別な場所に連れて行ってくれた。
「……レノックスさんが、ぼくの村にいてくれたらよかったのにな」
ぽつりとつぶやいてしまった言葉は伝えるはずのなかった言葉で。でも近くにいたレノックスさんにはしっかりと聞こえてしまったらしく僕に視線を傾けて、言葉の続きを待っている。
「……ええと、その。ぼくの村には魔法使いがいないから」
「ああ、頼られているんだろう」
「ん……」
曖昧な返事をした。この国は、他の国よりも資源が乏しいらしい。野菜が育てられるようになるまで、村ができるまでの環境を整えるのも人間と魔法使いが協力してとてつもない努力の末にやっと成されたという話は、先人への感謝を込めて村では度々聞く話だ。
だからぼくも村唯一の魔法使いとしてみんなの役に立つことを期待されている。実際手伝いをしたときはみんなすごく喜んでくれる。だけど。
「ぼく、あんまり魔法がうまく使えなくて……。それに、あんまり人と話すのも学校も、得意じゃないし」
ひとに恥ずかしいことは知られたくないはずなのに、レノックスさんには何故か聞いてほしいと思ってしまう。情けない子供だと思われたくないのに、頼りたいと思ってしまう。レノックスさんは不思議なひとだ。
「……魔法を使う時って、ぼくってひとりぼっちなのかなって思う時があるんだ。上手く言えないけど」
いつも魔法を使う時と、使った後の苦しい感覚を思い出して、胸の奥がずんと痛む。冷たくて震えだしそうな感覚。
「だから、レノックスさんがぼくの村にいたら、ひとりぼっちじゃないって思えるのかなって」
そこまで言って、誤魔化すようにお茶を飲んだ。少しぬるくなっていたけれど一気に飲むにはちょうどいいくらいだ。
レノックスさんはぼくの話をじっくり聞いたあとにこう答えた。
「俺は……昔、中央の国にいたとき魔法を教わった。それまでは教わるような相手もいなかったから、今のキーリィと同じように自分で考えて使っていたよ。それに……俺もそんなに魔法は得意な方じゃないんだ」
「……そうなの? 今でも?」
「あぁ。つい魔法を使うのを忘れてしまうこともある」
「……魔法を?」
「そうだ」
彼はこっくりとうなずいた。魔法を使うのを、忘れる? ぼくにはない考えだった。だってぼくはいつもみんなに頼られているから。
ねぇキーリィ、あれ取ってほしいな。屋根の修繕を手伝ってくれない? 馬の調子が悪くって。あなたなら、身体を汚さずに煙突の掃除ができるんでしょう? ねぇキーリィ、魔法を使ってよ。ねぇ。キーリィ。
みんながぼくを頼もしく思ってくれていることはわかってる。もちろんわかってるんだけど。……みんなからの期待も信頼も、すごく苦しくなることがあった。
「……キーリィ」
レノックスさんの朴訥とした、けれど力強さのある声がぼくを呼んだ。なに? 何でもなく聞こえるようにそう返したはずけれど、ぼくの声は途方に暮れたようにか細いものだった。
「……顔色が悪い」
そう言って彼はぼくの熱を測るかのように額に手を当てる。何でもないよと言う声もやっぱり弱々しくなってしまってごまかせそうにない。
「メエ」
とん、と背中を小突かれた。ぼくがあの日助けた羊が頭を擦り付けている。
「……どうしたの?」
「メエ、メェエ」
なんてことはない、ただ遊んでほしいと言うだけの催促だ。顔を撫でてごろんと地面に転がせば羊は楽しそうにまた鳴き声を上げる。
「メ、メ!」
もっともっととねだる羊をさらに転がした。
「……俺は、おまえが魔法を不得手だとは思わない」
突然彼が言った。驚き振り返るとレノックスさんの穏やかな目がこちらを見つめている。
「動物と意思疎通ができるのも、キーリィの魔法だろう。とても上手く使えている」
「……、……そう、なのかな」
そんな評価をもらえるとは思っていなかったから半ば呆然としながら返すと、だらんと下げた腕に羊の顔がねじ込まれた。もっと遊んでとねだられている。
「もし魔法の使い方を知りたいのなら、俺の住んでいるところから……おまえの村とは反対側に、診療所がある。そこのフィガロ先生も魔法使いだから、師事を願えばきっとうまい使い方を教えてくれるだろう」
「……フィガロ先生? お医者様?」
「ああ。俺よりもずっと……魔法を扱うのがお上手な方だ」
「レノックスさんよりも、ずっと? そんなひといるの?」
「ああ。たしかに人間と比べると数は少ないが、魔法使いは何もおまえと、俺と、おまえの村をかつて開拓した魔法使いの三人しかいないわけじゃない。それに……雲の街まで行けば、おまえと同じくらいの年の魔法使いの兄弟もいる」
「えっ、え?」
雲の街といえば、ミレー村からは何日も何日も歩かないといけないくらい遠くにある、この国の中でも有数の都会だ。それに、魔法使いの兄弟? 魔法使いの兄弟って、兄弟みんな魔法使いってことなんだろうか。何人兄弟なんだろう? 魔法使いから魔法使いが生まれるわけではないみたいだし、自分が魔法使いだからって兄弟が魔法使いになるとは限らない。むしろならない確率の方がずっと高いと聞いていたけれど。理解が追いつかずぼくは首を傾げることしかできない。
「ぼくと同じ、子供の魔法使いがいるってこと?」
「ああ。その兄弟も今いったフィガロ先生に魔法を教わっている」
「……い、あ、会ってみたい! その兄弟に!」
ぼくは思わず叫んでいた。腕の中の羊がびっくりしてしまったから慌てて宥める。ごめんね、怖くないよ。そう何度も身体をさすれば羊はびっくりしたよとメェメェ鳴きだす。
「でも、フィガロ先生、は……わからない」
「わからない?」
「う……魔法は教わりたいけど……」
どんどん声が小さくなってしまう。きっとレノックスさんの言う通り、フィガロ先生は立派な人なのだう。でも魔法も学校も苦手なぼくは先生に教えてもらったとしても上手くできるかわからないし、そもそもきちんと話せるのかもわからない。そう考えだすと、さっき叫んだ魔法使いの兄弟に会いたいという願いさえ自分には分不相応に感じてしまう。気持ちが急激にしぼんでいって、先ほどまでの興奮が嘘のようにぼくは縮こまってしまった。
「出来るかできないかじゃなくて、キーリィのしたいと思うことを選べばいい」
「……したい、こと。……わ、わからない……」
ぼくは力なく首を振った。ぼくは魔法を使って村のみんなを助けられるようにならないといけない。でもその一歩の前で立ちすくんでいる
「……ご、ごめんなさい。せっかく、誘ってくれたのに……」
「いいや、気にするな。……キーリィ、魔法は心で使うものだ。おまえが羊たちと話したいと思ったから意思疎通ができる。村での頼まれごとも同じだ、おまえはよくやっている」
「……」
本当にそうなのかな。ぼくはレノックスさんの言葉に素直にうなずけなかった。
レノックスさんはその日、ぼくが初めてレノックスさんと出会ったときのように村まで送り届けてくれた。箒を降りたレノックスさんはすぐみんなに囲まれて、あれやこれやを頼まれて、あれやこれやお土産を渡されている。けれど頼まれごと対してレノックスさんは必ずしも魔法を使うというわけではなく、例えば屋根の修繕なんかは魔法より実際に手を動かす方が得意らしい。彼は大きな体を軽やかに持ち上げて素早く作業を進めていく。魔法を使う時は使う時で静かに呪文を唱える姿がかっこいい。ぼくは横で見せてもらいながら、レノックスさんがこの村にいてくれたら、ぼくが魔法を使う時も心強いんだろうな、と想像しても意味のないことをまた思った。
晩御飯に招待して、折角だからこのままうちで泊まっていきませんかと父さんが提案するのを、羊の世話があるからとレノックスさんは断った。
「レノックスさん、暗いので、気を付けて」
明日の分の朝ごはんを手渡しながらそう言うと、ぼくの手からレノックスさんの手に小さな光がぱちんと弾けた。これは、こうやって誰かを見送るときたまに出てしまう光だ。帰ってほしくない気持ちが目に見える形で現れたみたいで恥ずかしいんだけれど、レノックスさんは穏やかに微笑んだ。
「これは……厄除けの魔法か? ありがとう、キーリィ」
レノックスさんが笑ってくれた。厄除けの魔法をかけているという自覚は全くなかったけれど、彼が喜んでくれているならよかった、けど。やっぱり恥ずかしいような。
「……や、厄除け……そうなんだ……」
レノックスさんと話せたことも家に立ち寄ってくれたこともあるけれど、その日は体中がぼかぼかして中々寝付けなかった。
それからしばらく経った日、学校で飼っている馬のお世話をしているとお隣さんがバタバタとぼくを呼びにきた。
「キーリィ、キーリィ! さっきレノックスさんと、アンタと同じくらいの年の子が来てたよ!」
「え……レノックスさんともう一人?」
「そう! アンタの家から出てきて、今は村長のところにいるはずだから行っておいで」
レノックスさん関連のでぼくと同じくらいの年の子と言えば、魔法使いの兄弟のことだろうか。ぼくが走っていくよりも早いからとお世話をしていた馬にそのまま村の入り口まで連れて行ってもらうと、レノックスさんと、さらさらの金髪の男の子がはしゃいでいた。
「レノさん、私の今日の箒、はやかったですよね?」
レノックスさんは「またスピードが上がったな」と金髪の子を褒めている。初めて出会う子に緊張しつつ、ゆっくり近づいていくと彼らはぼくに気が付いた。
「キーリィ、こんにちは」
「こ、こんにちは……はじめまして」
「こんにちは、キーリィ! 私はルチル。よろしくね!」
ルチルはやはりレノックスさんが以前言っていた、雲の街に住む魔法使いの兄弟の上の子、らしい。とても眩しく笑う子だ。
レノさんが村の人たちにもてなされている間、ルチルはぼくと遊ぶと言って彼から離れた。だから一緒に馬を引いて(ルチルは馬の扱いに慣れていて、穏やかな気性の子とはいえ早速仲良くなっていた)子供たちの遊び場になっている山を少しずつ上っていくことにした。
彼はつい人と接するときに腰が引けてしまいがちなぼくにも気さくに話しかけてくれて、同じくらいの年の魔法使いに会うのは初めてだとよろこんでくれた。
「レノさんに聞いたんだ、キーリィのこと。だから会いたくなってレノさんに連れてきてもらったの」
「そっか。ぼくもルチルと、きみの弟にも会いたいと思ってたから嬉しいな」
「ミチルは今日はお留守番なんだけどね。いまごろフィガロ先生と遊んでると思う」
「フィガロ先生……って、お医者様の、魔法使いの先生だよね。……どう? 学校の先生みたいにやっぱり怖い?」
恐る恐る尋ねるとルチルはきょとんと目を丸くさせ、そしてくすくす笑い出した。どうやらぼくはおかしなことを聞いしてしまったみたいだ。羞恥心に顔を赤らめているとルチルはごめんねとまた笑いながら言う。
「そっか。キーリィのところの先生って怖いんだ? フィガロ先生はね、とっても優しいよ!」
「そうなの……? いいなぁ。ぼくたちの先生、怒ってばっかりだから」
ぼくたちはいろんな話をした。雲の街の話は聞くだけでもドキドキして、行ってみたいなという思いが積もる。けれどこの村にも雲の街にないものがあるらしく、その話をするとルチルはキラキラと目を輝かせて「ミチルとフィガロ先生に教えてあげなきゃ」と楽しそうにしていた。
その話の中でルチルは箒で飛ぶのがとても得意だという話も聞いた。さっきレノックスさんと話していたのはそのことだったのかなと考えていると、ルチルがぼくを誘う。
「キーリィも一緒に飛んでみない? きっと楽しいよ!」
「で、でも……ぼく、あんまり飛ぶの上手くなくて……」
「そうなの?」
こくりと頷いた。そっかあと呟くルチルに罪悪感でちくりと胸が痛んだ。けれど彼は別の提案を持ちかける。
「なら、私の箒に乗ってみない? 二人乗りも楽しいよ」
ルチルが取り出した箒はいろんな飾りが付けられていた。レノックスさんの箒にも思ったけど、すごくオシャレさんだ。そう彼に言うとどんなものか見せてと言われたので箒を取り出す。何の飾り気もないただの箒だ。
「わ、すごくシンプル!」
「う、うん……どうしてルチルやレノックスさんは箒を飾ってるの?」
「その方がワクワクして、遠くまでお出かけしたいなって気持ちになるでしょ? お出かけするときにオシャレしていくような……お気に入りのコートや靴があれば歩くのも楽しくなるから。キーリイも、一つだけでも何か付けてみたら?」
「……うーん、でも、変に思われないかな……」
「変じゃないよ、とってもステキ! それに、キーリィの箒もきっと飾りつけてもらうのを待ってる」
ルチルの言葉に、手の中のぼくの箒を見つめた。ぼくの背の高さより少し大きめに合わせられた箒は父さんが木を切り出し、それを母さんが削ってくれたものだ。箒は何も言わない。けれどルチルは飾り付けてもらうのを待ってると言う。そう、なんだろうか。
それからルチルの箒に乗せてもらって、ちょっぴり後悔した。いつも自分で乗ったりレノックスさんに送ってもらったような緩やかな速度とはとても言えなかったから。けれど楽しくもあった。特に逆さまになって飛んだり、一回転するなんて飛び方は考えたこともなかったから。
二人して髪も服もぼさぼさにして笑い合った。いつの間にか、飛んでいたぼくたちを見つけて集まってきた村の年下の子たちがキラキラした目で僕らを見ている。口々に乗せてとせがむ彼らに「いいよ! 順番にね」とためらわず答えるルチルにぎょっとした。
「る、ルチルはいつも誰かを乗せてるの?」
「うん。ミチルはまだ小さくてうまく飛べないから一緒に乗ってるし、怪我した人をフィガロ先生のところまで送ったりもするよ」
「そうなんだ……すごいね……」
「キーリィは?」
「ぼくは、ほんとにたまにだけしか……」
さっき彼に話した通りぼくは飛ぶのが上手ではない。というか、そもそも魔法自体そんなに得意じゃない。ルチルが一人ずつ箒にのせて、キャアキャアと楽し気な声が上がるのを見ていると、レノックスさんと、はす向かいの家の子が一緒に山の広場へ上ってきた。
「楽しそうだな」
上を見上げて呟くレノックスさんに引っ付いていた彼女は、ぼくを見つけると小走りで駆け寄って今度はぼくの方に引っ付いてきた。
「……あたし、キーリィの箒に乗りたい」
村の子たちに人気なのはたとえ鳥でも真似できなさそうなルチルの箒だけれど、彼女はぼくの箒がいいと言う。ぼくが驚き固まっているとレノックスさんはぼくを見つめる。
「ダメ?」
「え、えっと……」
そうだ。前回も、どうしてもと言って聞かなかった。落っことしちゃうかもしれないと説得しても彼女は頑として譲らず、結局断れなかったぼくは彼女を慎重に乗せたことがある。
「前は乗せてくれたじゃない」
「で、でも……」
「どうして前はよくて今日はダメなの?」
「……えっと、……」
「……もしよければ、俺の箒に乗るか?」
見かねたのかレノックスさんが間に入ってくれた。そう、そうだ。乗るのなら、ぼくの箒とちがってずっと安定しているレノックスさんの箒がいいはずだ。レノックスさんはぼくよりずっと大人だし、ずっと魔法が上手だ。彼女の安全を考えても絶対にその方がいいだろう。それは間違いない。けれど。
「や、やっぱりぼくが乗せるよ!」
彼女が返事をする前にぼくは言った。彼女は喜び、レノックスさんは少し驚いたようにぼくを見る。
レノックスさんに負担をかけたくない。レノックスさんに魔法を失敗するところを見られたくない。レノックスさんに、魔法を使うところを見守っていて欲しい。自分でも訳が分からなくなってしまうほどぐちゃぐちゃの頭の中で見つけ出したぼくの心だ。
けれど途端に後悔が襲う。前回上手くいったとしても、今回上手くいく補償は? もし彼女を怪我させてしまったら? レノックスさんに見られることで、いつも以上に緊張してしまったら? こわばる肩を、大きなてのひらが優しく叩いた。見上げると、ずっと遠くを流れていく雲みたいな目と目が合った。
「キーリィ、大丈夫だ。失敗することは考えなくていい。どうやって飛びたいかを想像して飛ぶんだ」
それは思わず涙が出てしまいそうなくらい、優しいてのひらだった。
彼女を前に乗せて深呼吸をする。しっかりと箒を握り、ルチルみたいに──とまではいかないけれど、レノックスさんにしてもらったように、スムーズな飛行をイメージする。ゆっくり上昇していき、相変わらず素早い動きをしているルチルから距離を取るように村の中心地へ向かっていく
馬の速足と同じくらいのスピードで進んでいく。特にふらついたりもしていないし順調だ。ぼくの前に座っている彼女も嬉しそうに下を覗いている。怖かったけど、まだ、怖いけど。この子のお願いを聞いてあげてよかったと、少しほっとした。
一度村の方まで降りて、彼女の家の窓から幼いきょうだいが手を振ったのに返してからまた山の上へ戻ってきた。
彼女はありがとうといい、ルチルの箒に乗せてもらった子たちと合流しにいく。連れてきた馬はレノックスさんが手綱を持ってくれていて、馬を受け取るためと、そして見守ってくれたことへのお礼をするために彼に駆け寄った。
「レノックスさん、あのっ、ありがとう!」
「ああ。キーリィが頑張ったからだ。よくやったな」
「……えへへ……」
急にそわそわと落ち着かない気持ちになって誤魔化すように笑う。ぼくの様子がいつもと違うと感じ取ったのか、少し心配そうに身を寄せた馬の顔を宥めるように撫でた。ゆっくり繰り返しながらぼくも心を落ち着かせる。ルチルはまだ村の子たちを順番に箒に乗せているみたい。あんなにたくさん、しかもいっぱいのスピードで箒を使えるなんて、やっぱりルチルはすごい。
……やっぱりぼくも、出来るかはわからないけれど。レノックスさんやルチルみたいな魔法使いになりたい。心の中でうなずいて、レノックスさんと向き合った。
「……レノックスさん、やっぱりぼく、魔法を教わりたい。もしかしたら、いっぱい上手くいかないこともあるかもしれないけど……もっと魔法が使えるようになりたい。できないことももっと知りたい。魔法を……怖くなくなりたい」
「……そうか」
レノックスさんはほほ笑んで、ゆっくりと頷いた。
「……前に断っちゃったから、レノックスさんは変に思いうかもしれないけど……」
「そんな風には思わない。俺はおまえがしたいと思うことを聞けて嬉しい。……実を言うと、今日この村に来たのはルチルが来たいと言ったこともあるが……もしキーリィが魔法を学びたいと言ったら、しばらくの間村を……親元を離れる許可をもらいに来たんだ」
「……? えっと……レノックスさんには、ぼくが魔法を習いたいって言うってわかってたってこと?」
「いいや、キーリィのことはキーリィにしかわからない。おまえの選択を、尊重するという意味だ」
「……そ、そう、なんだ……」
レノックスさんの言葉を百パーセント理解できたかは怪しいけれど、とにかくぼくは嬉しくなって、馬を撫でる手をまた再開させた。もしかしたら無駄になってしまうかもしれない行動を、レノックスさんはぼくのためにしてくれたんだ。それと同時に心細くもなる。当たり前だけど、フィガロ先生はこの村から遠く離れた場所に住んでいる。だからフィガロ先生に魔法を教わろうと思ったら、それはこの村を離れることを意味する。
「い、いつ行くの? 父さんと母さんに──」
話さなきゃ。そう言いかけたぼくの言葉はルチルを呼ぶみんなの声にかき消された。驚いてみんなの方を見ると、ルチルが地面に座り込んで、かろうじて箒を杖のようにして身体を支えているようだ。レノックスさんがひょいとルチルを抱っこする。大工仕事をしているときも思ったけれど、レノックスさんはとっても力持ちだ。
「この村に来るまでもずっと飛んでいたからな、魔力切れだろう」
「うう、すみませんレノさん……」
ルチルの声はへろへろとしていて疲れ切っているのがよくわかる。レノックスさんが呪文を唱えて、手のひらに出たものをルチルの口に含ませた。
「……それ、なあに?」
「レノさんのシュガー……」
「ルチル、休んでていい。……魔法使いのシュガーは、疲れがよく取れるんだ。これからキーリィも修行の一環でたくさん作ることになる」
「砂糖を……作れるの……?」
魔法って、そんなこともできるんだ。改めてぼくは何も知らないことを自覚する。
山から下りるレノックスさんに続いてぼくたち村の子供も付いていく。そのうちの誰かが「お医者様にみせなくて大丈夫?」と聞くと彼は「病気というわけじゃないから大丈夫だ」と安心させるように言った。
馬を他の子に頼んだあと急いでルチルをぼくの家に連れていき、前回レノックスさんのために用意した(彼は断ったけれど)客間に彼を寝かせる。「遊び疲れてしまったようで」と申し訳なさそうに話す彼に母さんは「長旅でしたし、遊び盛りですものね」と笑って返していた。
「レノックスさんもお疲れでしょう。今度こそ、どうぞ休んでいってくださいな」
「ありがとうございます。今日のところはそうさせていただきます。……ところで、キーリィのお話ですが」
彼がそう言ってぼくを見た。母さんの雰囲気もいつもとは少し違うものに変わる。ぼくの魔法についての話だと分かった。
「か、母さん、ぼく、レノックスさんのところで……あ、違った。ええと……雲の街の近くに、フィガロ先生って魔法使いのお医者様がいるんだけど、ぼく、そのひとのところで魔法を習いたくって」
ひどくしどろもどろになってしまう。あんまり母さんの顔がみていられなくて、ぼくの視線は徐々に下がっていき、しまいには母さんのつま先しか見られないようになってしまった。
「今寝てる、ルチルって子もフィガロ先生に魔法を教わってて、ぼくよりもずっと魔法が上手で、だから、だから……、ぼくも、フィガロ先生に魔法を習いたいんだ」
ああ、さっきと同じことを言っている。母さんも、レノックスさんも何も言わずにぼくの言葉をまっている。二人だけとはいえ注目されることが苦手なぼくはそれだけで眩暈がした。けれど、ずっと人付き合いから逃げたり学校をさぼったりしていたけれど、憧れた、レノックスさんのような魔法使いになるには、今のぼくが頑張らなくちゃいけない。
「だ、だから……ぼくに、レノックスさんに着いていかせてください……っ」
母さんがぼくと目線を合わせるようにかがんだ。そしてぼくの手を取る。緊張して、知らない間にぎゅっと硬く握っていたようだ。固まっていたぼくの手を一本ずつ開かせたあと、母さんはぼくの手を優しく包み込んだ。
「……そう、わかった。行っておいで」
「……い、いいの……?」
「その代わり、レノックスさんとフィガロ先生の言うことちゃんと聞くんだよ」
「う、うん……!」
さっきとは違った意味で手に力が入った。母さんはぼくと目を合わせて笑っていたけれど、どこか寂しそうにも感じた。何て言えばいいのかわからなくて黙っていると、母さんはぼくの手のひらをゆっくりと繰り返し撫でて尋ねる。
「キーリィ、あんた、もう魔法は怖くなくなったの?」
「……! えっと、ぼく、そんなこと、言ったっけ……」
心の中を言い当てられたようでドキリと心臓が跳ねた。このことは、さっきレノックスさんに話した以外誰にも言ってなかったはずなのに。けれどぼくの記憶は不確かだったようで、母さんはゆっくりと首を横に振る。
「昔……あんたが今の半分くらいの背丈の頃にね」
大昔の話だ。全然記憶になくて戸惑ったけれど、母さんの質問に答えるために首を振る。
「そうだっけ……。ううん、ぼく、まだ怖いよ。……でも、でもね母さん。怖くなくなるために、教わりにいくんだ」
母さんはぼくの言葉にじっくり耳を傾け、何度かうん、うんと頷いて、また寂しそうに目を細めた。
「そうだね。……頑張っておいで。たまには手紙でもよこしなさい。あんたが楽しくやれてたら、それでいいから」
「……ありがとう。……ぼく、頑張るよ」
「父さんには、母さんから言っておくから」
「うん」
ぼくが部屋に戻ろうとすると、レノックスさんが呼び止めた。何だろうと振り返ると彼は呪文を唱える。
「フォーセタオ・メユーヴァ」
レノックスさんが呪文を唱えた。差し出されたてのひらには、いくつかのシュガーがある。さっき、ルチルが食べさせてもらっていたものだ。
「キーリィ、今日はいろんなことがあって疲れただろう」
そのうちの一つをおずおずとつまみ上げて口に含んだ。優しい甘さが口いっぱいに広がり、背中にのしかかっていた重みが全部溶けて消えてしまいそうなくらいだ。
「お、おいしい……」
「食べ終わったら、もう寝よう」
「うん。……あの、レノックスさん。本当に、ありがとう。今日も……いままでのことも、ずっと」
レノックスさんはゆっくりと首を振って、ぼくの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「……あと、シュガー……上手に作れるようになったら、ぼくもレノックスさんにあげるね」
「……そうか、楽しみにしている」
「……へへ、うん。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
集中して魔法を使ったからかレノックスさんのシュガーのおかげか、ぼくはすぐ寝入ってしまった。
ふと、人の声で目が覚めた。外は真っ暗だからもう遅い時間だ。人の声は扉越しの居間から聞こえるようで、なんとなくひっそりとなるべく音を立てないように近づいて、耳をそばだてた。
「……キーリィが魔法を使えると分かったときは、私たちも喜んだんです。もちろん、今も誇らしく思っていますよ」
「けれど……当然私たちは魔法のことはなにもわかりませんから。歩くことや文字の書き方とは違って、教えてやることもできずどうしたらいいかわからなかったんです」
母さんの声に続いて、父さんの声も聞こえた。帰ってきてたんだ。どうやら内容はぼくのことなようで、ぼくは余計に音を立てないように呼吸にさえ気を付ける。
「……レノックスさんには、本当にお世話になります」
「いいえ、こちらこそ。大事な時期に、お子さんをお預かりすることを許可してくださりありがとうございます」
「この村が出来たときにいた魔法使いの話は、私たちも子供の頃から聞いていましたが……訓練が必要だなんて、そんな当たり前のことにも気付いていなかったんです。レノックスさん、キーリィを……どうかよろしくお願いします」
「あなたがキーリィと出会ってくださって本当によかった。……何も、強い魔法使いになってほしいわけじゃないんです。キーリィは今でも十分立派な魔法使いですから。けれど……あの子はもっと、馬の世話をするときと同じように、穏やかに魔法を使っていいはずなんです」
「……はい、俺もそう思います」
ドキドキと高鳴る音が聞こえないか心配になった。これ以上隠れて聞いているのはいけないことな気がして、ぼくは音を立てないように扉を離れた。ベッドについて急いで潜り込む。布団を被ると、扉の外側でまた動く気配がした。息を潜めて、小刻みに動く背中をどうにか落ち着けようと目をつむって深い息を繰り返す。
そうすると、すぐに朝はきた。朝起きてルチルに雲の街へ一緒についていくことを話すと、彼は飛び上がって喜んでくれた。体調を尋ねればもうすっかり元気になったらしい。それでも少しくらい疲れが残っていそうなものだけれど。彼は自分の体調の心配よりもよっぽど、ぼくと一緒に街へ戻れることを喜んでくれているみたいだ。
いつもはぼくが起きる前から仕事にいっているはずの父さんがいた。父さんはぼくを強く抱きしめて「元気でな」と言った。母さんの目は少し赤くなっている。二人の、こういう姿をみるのはなんだか新鮮な気がする。そうどこか他人事のように思ってしまった。昨日夜中に起きて話を聞いてしまったせいだろうか。なんとなくぼうっとして実感のないまま。けれど、飾り気のない箒を握りしめて二人に手を振る。
「行ってきます」
父さんと母さんの様子に不思議な気分になって、でもそれをなんと呼べばいいのかわからない。村を離れてしばらくたてば名前が付けられるだろうか? そんなことを考えつつ、次第にぼくの興味は雲の街へと移っていく。
「もうお別れは大丈夫?」
けれど、ルチルがそう尋ねてきた。彼はずっと自分の故郷の街の話をしていたからこれから街につくまでもずっとその話をするのかなと思っていたからすこし意外だ。ぼくはゆっくり首を縦に振った。
「うん。……向こうについて、落ち着いたら手紙でも出すだろうから」
「そっか」
彼はにこりと微笑んだ。レノックスさんがぼくたち二人に告げる。
「キーリィ、長距離を飛ぶときはどれだけ力を入れずに飛べるかが重要だ。……でももし途中で疲れたとしても、俺もルチルもいるから大丈夫だ」
「う、うん……」
箒に跨って呪文を唱える。ふわりと浮いたぼくのあとに二人もゆっくりと近づいた。不安もあるけれど、それだけじゃないドキドキを感じる。他の魔法使いと三人で一緒に飛ぶなんて経験したことがない。
「ルチル」
「わかってます、今回はキーリィを先導すればいいんですよね?」
「ああ、頼んだ」
「任せてください! ……キーリィ、楽しみだね」
彼は頬を紅潮させていた。既に視線は故郷を捉えているようだ。
ルチルが箒を進めるのに合わせてぼくも付いていく。後ろではレノックスさんがぼくたち二人を見てくれている。ルチルはレノックスさんに頼られているようですごいな。ぼくも、今すぐにとはいかずとも少しずつ、彼にしてもらったことを返すことができたらいいなと思う。レノックスさんだけじゃない。父さんにも母さんにも。
あの日、迷子の羊を送った日から。もうずっと彼に助けてもらっているように。