蜜柑とアイスの共存

異世界人は璃月の空を飛びたい


 おれは山が好きだ。というか、高いところが。上る途中、一歩一歩地面を踏みしめるのは高度と比例して頂上の景色への期待が高まっていく。身体にのしかかる荷物の重みでかろうじて弾む心を押さえつけているようなものだ。高い所から景色を見下ろすのも、山の木々の色合いを楽しむのももちろんいいが、高いところからさらに高いところを眺めるのもいいものだ。開けた場所で満点の星空を眺めているときなど、まるで巨大な宇宙のゆりかごに包まれているような覚がある。また、部活の仲間たちとペースを揃えて登るのもいいし、週末に一人キャンプをしに行って、テントを張って季節ごとに移ろう景色を眺めながら飲むスープは極上だ。
 そうだ。おれは週末を利用して地元近くの山にソロキャン──毎回家族(ほとんどは妹だ)を誘ってみるのだが、あいにくと家族はおれほど山登りに興味があるわけではない。それでも十回に一回くらいは付き合ってくれるし十分に恵まれた環境だとは思うのだが、今回はあいにくと。普段からプレイしているオンラインゲームの大型アップデートがあったばかりらしく、ストーリーを進めたりガチャを引いたり何かと忙しいらしく断られてしまった──をしに来たのだった。ここは地元の山というだけあり、これまでにも何十回と通ったことのある山で、もやは庭と言ってもいいぐらいの勝手知ったる山である。
 つまり道も、景色も、空も。すべてが見慣れたものであるはずなのに。

「……はて。ここは、どこだろう……?」
 植生も山の形もテントを立てた方角も何もかもが一変していた。場所だって、普段ならもう少しペグが刺さりやすい場所に立てるのに、ここはかなり硬い地質をしている。
 おれは首をかしげて、まずGPSを確認する。──圏外。方位磁石──は、太陽の位置と現在時刻とを比較しておそらく正しく動いているけれど。園外? おかしい。山の中とはいえいつもは電波が立っていたのに。
 圏外となれば、当然のごとく携帯端末も使い物にならない。オフライン状態でも使える地図はDLしてきたが、今いる場所が分からないのだからどうにもならない。おれは困ってしまって、とりあえず。
「……ふむ。朝食を用意するか」
 低血糖の空腹状態ではいい案も浮かばない。おれは荷物の中から調理器具と食料を取り出した。
 調理とはいっても難しいものではない。食パンにベーコンとチーズを挟んだだけのものだ。付け合わせは水筒に入れてきて、まだ熱々の温度を保ったままの出汁スープ。
 ほかほかと湯気だったそれらをしげしげ眺めて。「いただきます」と、かみしめるように両手を合わせた。
 さくっ、さくさく……。絶妙な焼き加減のパンと油の滴るベーコンをチーズが包み込んでいる。本当はこれに半熟卵と黒胡椒をプラスするとさらに美味しいのだけれど、それは家でのお楽しみだ。
 口の中の油分を流してくれる、すっきりした後味の出汁スープを啜りながら、初めての景色を眺める。起き抜けでは見慣れない景色に戸惑ってばかりいたが、しかしながら絶景と言って差し支えない……いやむしろ、近場では早々お目にかかれないほどのいい眺めだ。おれがいま立っている山がどうなっているかはよくわからないが、見える山脈は上りごたえのある切り立った崖が多いように見える。週末に楽しくする山登りというよりは、装備やパーティーを整えたクライミングに適した山のような。そこに見慣れた広葉樹林はなく、むしろ縁そのものが控えめな山のようだ。かといってはげ山というわけでもない。植物が育たないほど高地という印象もないが……む。あの動物は見慣れない。なんという鳥なのだろう。
「……ふう。そろそろ出発するか」
 腹ごなしも済ませたし、見慣れない山鳥や……興味を引く植物もたくさんあったけれど、持ち帰ってもいいものかわからないので採集はよしておいた。とにかく、人に会って現在地を確認しなければ。
 考え事をしながら片付けていたから気が付かなかったが、やけに身体が軽い。寝袋を新調したのがよかったのだろうか。それともやはり朝食は大事ということだろうか。
 道具をすべて一つにまとめてよいしょと背負う。背負った時の重みは、やはりいつもよりもずっと軽く感じる。スキップしながらでも山道を昇降できてしまいそうだ。ひとまず、獣道ではない人の通っていそうな道を探しながら歩いてしばらく。どこからか人の悲鳴が聞こえてきた。
「ひぃっ! こ、こっちに来るんじゃねえ!」
 見知らぬ土地でようやく人に出会えたという喜びと、どうやらトラブルに巻き込まれているらしい心配とがないまぜになる。イノシシかシカか、はたまたクマか。おれは重い荷物を背負って声のした方へ駆け出した。
 走っていくとやがて川辺で何者かから逃げる人物が目に入る。と、向こう側からは襲い掛かるのは丸くて大きい……な、なんだ? 鞠のような、水まんじゅうのような弾力性のある球体が、男性ににじり寄っていた。
「──伏せて!」
 彼と球体の間に身体を滑り込ませて、ポケットから取り出した〝それ〟を球体の眼前──おそらく目のようなものがあるからここが顔のはずだ──へと突きつけ、踊うことなく噴射した。
 すると球体は、甲高い鳴き声を上げてはじけ飛んだ。キラキラと舞う飛沫に見とれると同時にあっけにとられる。骨も肉もなにもなく、それは消えた。
 かすかに残ったゼリー状のものがなければ白昼夢だと納得してしまいそうな光景をみたが、呆然とする間もなく肩を揺さぶられる。
「兄ちゃん! 助かったよ、ありがとう!」
 振り返ると、どことなく中華風な雰囲気を感じさせる服を身に着けた山登りをするには軽装の男性が、しきりに礼を述べている。
「まさか一瞬でスライムを倒しちまうなんてよ。強いんだな、アンタ!」
「……ええと……」
「随分と小せえが、それがアンタの武器か?」
「武器……といえば武器だけど、これはただのクマよけスプレーで……」
「あんた、このあたりじゃ見ない格好だな。旅人かい? 俺の倉庫がこの近くにあるんだ。ぜひ礼でもさせてくれ」
「……ここ、人里の近くだったんですか?」
 道で軽装なはずだ。絶えることなく続く言葉にかろうじて問い返せば、男性は「里ってほど大したもんじゃねえよ」とくしゃり笑った。
 なにはともあれ土地勘のある現地民に出会えたのはよかった。さっきの球体から逃げるときに放り出してしまったという大荷物の積み直しを手伝って、歩き出した彼についていこうとすると、彼は急にしゃがみ込んだ。どこか怪我でもしていたのだろうか、と鞄の中の救急セットを思い出していたが、差し出されたのは見かけたばかりのゼリー状のなにか。
「おっと、魔物が落としたものはきちんと拾っといた方がいいぜ。いつ何が役に立つかわかんねえからな」
「……ありがとうございます」
 スライムの液体を手に入れた!

 *

「俺ぁ慶宗ってんだ。兄ちゃんは」
「鳳颯希といいます」
「もしかして稲妻からきたのか?」
「……? いえ……ええと……どうやら迷子になってしまったようで……。このあたりの地図があれば、見せていただきたいのですが」
「なんだ、違うのか。まあ、あそこは鎖国が始まってしばらく経つしな……ええと地図、地図……」
 なんだか聞きなれない単語が聞こえてきた。はて、と首をかしげて。慶宗さんが地図を広げたことによりもどった角度は、地形や地名を見て、それ以上の角度に再び傾くことになった。
「ここは碧水の原、軽策荘の近くの山だな」
「へきすいのはら……けいさくそう?」
「聞き覚えがないか? まあ璃月港からは随分はなれてっからな……ここいらは璃月の北部に位置する」
「……りーゆぇ……?」
「うん?」
 おれと慶宗さんの目があう。いまいち話がかみ合っていないようだ。
「ええとつまり……ここは、璃月という国の、碧水の原という地方……?」
「そうだな」
「……」
 日本という島国に住んでいて、寝ている間にテントごと別の国で迷子になっているなんてこと、あるだろうか。いやない。普通に考れば。しかし現に起こっている。しかも、ざっと見る限りこの地図上に日本という国は存在しない。
「……うーん、困ったなあ……」
「アンタ、そんなに盛大な迷子だったのか?」
「そうみたい……ですねえ……」
 家に帰るどころの話じゃなくなってきた。電波が入らないのも、どうやら電波塔や通信機器そのものがないと考える方が正しそうだ。
 ふむ、考え込むおれに慶宗さんは妙案を思いついた、とでもいうように手を打った。
「俺は商人をやってんだ。ここは数ある拠点のひとつでな。その様子だと路銀にも困ってるんじゃないか? おまえさん、力が人一倍強いみてぇだし俺の仕事を手伝うってのはどうだ。人の多いところにいけば情報もあるだろう」
「それは、とてもありがたいですけど……力、強いですかね」
「はぁん? なんだ、迷子になっただけじゃない、とぼけたやつだな。そんな重そうな荷物背負って、更に重い荷物積みまで手伝ってくれたじゃねえか」
 おれの扉を叩きながら豪快に笑う慶宗さん。彼は見た目より力を入れていないのかと思ったが、まるで動かざること山のごとし。おれの体幹はびくともしないのはきっと、目覚めたときの身体の軽さと同じように、体調がいいの一言では済まないほどの、謎の原理が働いているようだ。
(よくわからないけどモンスター……魔物? もいるし……仮に、小説や漫画みたいに異世界にトリップしてしまったというのなら……この世界は地球よりも重力が小さいとか、そういう感じなんだろうか)
 野生の獣の他にも野生の魔物がいるとなると、登山やキャンプを楽しむどころではなくなってしまう。仮に前よりもパワフルになっているとして、そのおかげで職を手に入れられたようなものなのだ。何かと好都合な気がした。
 
 *

 と、そんなこんなで一ヶ月が経った。いやあ、早いものである。というのはきっと、おれが情報社会に生きていたからというのもあるだろう。
 ほぼ山と谷で構成されている土地では移動するのも一苦労で加えて荷物もあると特に道を選ぶ。まあ、それもおれにとっては不慣れながらも楽しいことなんだけど。慶宗さんは「颯希がいると速いペースで進める」とうきうきしていたので、本来であればもっと時間のかかるものらしい。
 あちこちの村や町に寄りつつ品物の売り買いをして、もう少しで璃月港に着こうかというとき。日差しを遮る影を見上げた。鷲か魔物かと思ったが、それにしては距離に大してサイズが大きいし、服を着ている。
「慶宗さん、あれは……?」
「んん……? ああ、あれは風の翼だな。人が飛んでんだ」
「風の翼?」
 オウム返しにするおれにすっかり慣れた慶宗さんは、あれがあると体力の続く限り空を滑空できるのだと教えてくれた。
 この一ヶ月でおれは信じられないレベルの世間知らずだということを彼は一番知っている。なぜならおれはこの世界の人間ではないから、この世界のことは何も知らない。
 いつだかに慶宗さんのお客との世間話で「神の目」についての話題が出たとき、あとでこっそりときいたら彼は目をむく勢いで驚いていた。ざっくりいうと、神の目に選ばれると炎水草氷雷風岩のうち、いずれかの属性魔法的なものがつかえるようになるらしい。加えてやけに信心深い人が多いな、とは思っていたのだが、実際に神は「居る」ものらしく。慶宗さんから賃金として受け取るモラもこの国、璃月の神──岩王帝君による創造物なんだそう。
 そして慶宗さんは商売と、璃月で待つ妻子のもとへ帰るというほかに、その岩王帝君の儀式を見るために時期を合わせて璃月に戻る算段を立てていたと。おれがいる影響ですこし行程が早くなったが、そのぶん家族でゆっくり過ごしてもらえばいいだろう。
 うーん、なんだかちょくちょく出てくるワードが、妹がプレイしているというゲームの話に出てきたものと似ているような気がしなくもない。けれど属性魔法というのは大抵どこのファンタジー世界にも採用されているものだし、きっと気のせいなのだろう。

 話を戻そう。風の翼の話を聞いて、おれは目を輝かせた。つまりパラグライダー的なものができるということだろう? それは、なんというか、ものすごくそそられる。慶宗さんとの道のりは楽しいものだったことに間違いはないが、やはり山登りそのものを目的としたものとは違う。荷物がありモンスターと出くわす危険性がある分、当然平坦で緩やかな、低い道を選ぶのだ。
 おれのしっているものとは違う星空を、この山々の合間を、広い平野を。好きに飛べるとしたらどんなにうれしいことだろうか。
「興味あるか? ちょうど璃月港に、風の翼に詳しい知人がいるんだ。着いたら紹介してやろう」
「いいんですか?」
「ああ。颯希のおかげで用心棒の数も行程の日数も減らせたからな。紹介のひとつくらい上乗せしないと平等な契約にならねえ」
 とはいうが、彼は先述したように貨幣価値すらわからないおれに世界の常識から一つひとつ教えてくれたのだ。一番取り回しのいい上着は日本から持ってきたものだけれど、それ以外の璃月の服はほぼ卸値で売ってもらえたし、魔物と戦う武器だって「そんなに上等なものじゃねえが」なんていいつつしっかりとおれの体格にあったものを用意してくれた。ただの短期雇用のバイトにもこんな好待遇なホワイト企業って他にあるんだろうか。
 彼は魔物に襲われたところを助けられたから。と主張するが、彼のおかげで生きていると言えばおれだってそうなのだ。待遇に見合う働きを。そう気合を入れて、おれは今日もヒルチャールを吹っ飛ばした。

 *

 璃月港。璃月の中で最も栄えているという噂に違わず巨大で、かつこの世界で初めて見るほどの人の多さだ。
 他の土地と同じように高低の激しい土地を利用した建築物は縦に長いものが多い。……ここに来る道中、空に浮島があったのも、この璃月という土地柄故なのだろうか。
 人波に流されないよう、きょろきょろとあたりを見回しつつも慶宗さんについていく。まずは彼の店舗兼事務所及び倉庫にしているという場所へ向かった。
 在庫や売り上げの記録はここに集積されるようだ。忙しなく働く人々に慶宗さんから紹介を受けつつ紹介されつつ、危ねえところを助けられたんだ、と言えば向けられる眼差しに照れたりもしつつ。
「んじゃ、次は風の翼の件か」
「ご家族のところに先に行かなくていいんですか?」
「あー、まあな」
「……? 慶宗さんの帰りを待ってるんじゃないんですか? 手紙も出してましたよね」
「……あ〜」
 彼はガシガシと頭をかいた。何か後ろめたいことがあって帰りがたいという雰囲気ではない。どちらかというと照れているような……?
「あいつらの顔見ちまったらよ、少なくともその日は……仕事なんてできたもんじゃねえだろ」
「……ふふ、なるほど。それはたしかに」
「おう、わかったら早く行くぞ」
 慶宗さんだって家族に会いたい気持ちは山々なのだ。照れ隠しにすたすた歩いて行ってしまう彼に思わずくすりと笑った。
 璃月港の中心部からはずれた高台にある建物。何人かの作業員とあいさつを交わして鉄の横開きの扉を潜り抜け、四階分ほどの高さが吹き抜けになっているそこへ向かって慶宗さんは声を上げる。
「鯉麗! いるかー? 俺だ、慶宗だ!」
 建物の中にいていた作業音が途切れた。数拍おいて、三階部分からひょっこりと顔をのぞかせたのは長い髪を二本のかんざしでまとめた女性。彼女は拡大鏡を額にかけ直して優雅に手を振った。
「慶宗さんじゃない。久しぶりぃ〜。どうしたの、新しく注文でも入った?」
「いんや、こいつが風の翼に興味があるからよ、ちょいと教えてやってくれねえか? 一度も飛んだことがない初心者だ」
「あら〜?!」
 遠距離でもわかるくらい表情を輝かせた彼女は、そのまま手すり部分をひらりと飛び越えた。えっ、飛び降りるには高すぎるのでは。そう思った瞬間に彼女の背中から大きな翼が広がる。
 それは、翼の柄や大きさこそ違うものの、おれが憧れたそのもので。
 ふわり舞うようにおれの目の前に降り立った彼女は、にっこりと手を差し出してきた。
「初めまして、あたしは鯉麗よ。風の翼に興味を持ってもらえるなんて、一開発者として嬉しいわ」
「こちらこそはじめまして、鳳颯希です。風の翼の開発を……されてるんですか?」
「してるわよ! いま使った翼はこれ。コンパクトさと軽量化がテーマのタイプなの」
 ほいほいとから次々に風の翼を取り出していく彼女。よくよく見ると重さやカラーリングだけではなく、骨組みや形状にも一つ一つ違いがあるのがよくわかる。これ、と言って差し出されたものは彼女の言った通り、他のものと比較すれば小振りで小回りの利くタイプらしい。
「あなたは街中を縦横無尽に飛び回りたいタイプ? それとも大空を悠々と羽ばたきたいタイプ?」
「ええと……」
「後者だな。ただ、まずは標準タイプから練習させてやってくれや」
「ああそうね、まだ目覚めたばかりのヒヨコちゃんだものね。いいわ! ついてきて」
 早口で繰り出された質問には慶宗さんが代わりに応えてくれた。階段を上がり、鯉麗さんがスイッチを押すと手すりの一部が収納され、水泳の飛び込み台のようなものが出てきた。
「標準タイプとはいっても……あなた体格いいわね。うん、これにしましょ」
 大きめサイズの風の翼を手渡され、つけ方と飛び方の指南を受けいざ飛び込み台に。二階部分というのはつまり地上まで約三メートル、プラス自分の身長分の目線。地面までの高さを一番リアルに感じられる位置だ。
 ちらりと下を見ればこちらを見上げる慶宗さんと、両腕を広げて大きく丸を作っている鯉麗さん。準備OKらしい。
(ええと、一歩飛び込んでから翼を展開……)
 緊張で高鳴る胸を深呼吸で落ち着けて、助走をつけて飛び降りた。一瞬の浮遊感のあと、ひっぱられるような感覚。
 そして間もなく、再び両足が地面に着いた。
「いいわね、マットも必要なかったかしら」
「踏み切りがいいな。まあでも……やっぱり時間がかかろうが俺ぁ徒歩でいいぜ……颯希?」
 フライトの時間はわずか数秒だけだったけれど、夢中になるには十分すぎる時間だった。肩を震わせるおれを心配した慶宗さんが声をかけるけれど。
「た、楽しい……!」
 噛みしめるように呟くと、彼らもつられるように笑みを深めた。
「なら、次はもっと高いところから降りてみましょうか! 慶宗さん、颯希くんのことしばらく借りていいわよね?」
「ああ、颯希も喜んでるみてぇだしな……。日が暮れる前には戻ってきてくれ。颯希、終わったらもう一度事務所まで来てくれ。給料の清算するからな」
 頷いて振り返った時には、もう鯉麗さんはかなり先の方を歩いていたのを慌てて追いかけた。

 裏山にも、工場と同じように飛び込み台を設置している場所があった。違うのは圧倒的な高さを誇っていること。璃月港に背を向ける形で、頂上にたどりつくとと海風が頬を撫でた。
「いいね、飛行日和だわ」
 景色に見惚れていると、ふっ、と風の流れが変わった。鯉麗さんが練習用のコース準備が終わったようだ。道しるべのように風の輪が列をなしているゆるやかな曲線を描いたその道の先……工場の屋上にゴールが設定されている。
「んー、あなた見込みがありそうだし中級者向けのコースにしましょうか。ゴールまでたどり着けたら上出来よ。時間がかかってもいいからやってみて」
 じゃあスタート! そう言うと同時に鯉さんは風の翼を潜り抜けものすごいスピードで飛び去っていった。滑空とは明らかに違うそれにぽかんとしてしまったが、息を整えて、おれも風の輪へと飛び込んだ。飛び込み台を踏み切ると同時に翼を開く。バランスをとるために腕を広げて、独特の浮遊感と空気の抵抗、上昇気流。そして、ぐんと翼ごと身体全体にかかる強い力……もとい風の輪。
 風の輪には地面と垂直に設置された場合、わずかに上昇するようにできているらしい。滑翔いうと基本は降るだけなのだが、風の輪があるおかげでむしろ飛び込み台よりも高い位置を飛行している。潮の匂いと風、穏やかな日差し。そして璃月港を一望できる景色。船場で働く人々や、手をつないで歩いている家族連れ。商人、冒険者。米粒よりも小さく見えるその誰もが、この同じ時間の中で各々の生活をしている。
「……綺麗だなあ」
 つい、飛行に集中していた気をそらしてぽつりとつぶやいた。おれの地元は山からほど近く気軽に登山ができる一方で、海へは気合を入れて出かけないとお目にかかれない。それに、一口に同じ山といってもおれが普段登っているものとは性質の全く違う山。なるべく早めに家へ帰る手段を探さなくてはいけないとはいえ、まだ、もうしばらくは滞在していてもいいかもしれない。ちょっと旅行先が気に入ったから日程を増やす、みたいな思い付きとわくわくが、おれの心を支配していた。
 やがて階段状に設定されていた風の輪が途切れ、数段低い位置にまた風の道が続いている。その高度まで降りるのを待てばいちのだろうか……。少し考えて、気付いた。工場の人々の会話で「羽ばたきの滑らかさ」について語っている人がいたのを。風の翼は動力を使わず風に乗るための道具だから羽ばたきという機能は持ってないはずだから疑問に思っていたのだが、どうやら翼の収納についての話をしていたようなのだ。空中で素早く翼を閉じたり開いたりすることで、素早く高度を下げる。そのことを疑似的に羽ばたきと表現しているとしたら。
「……なるほど」
 翼を開き損ねれば地面に叩きつけられてしまう。当然だが高度に比例して危険度はけた違いになるだろう。背中をじわりとした緊張と恐怖、そして道への憧れが駆け抜けていく。
 頭の中で操作を確認した。開いて、閉じる。──…よし。
「……っ!」
 閉じた瞬間、がくんと視界がぶれるけれど、タイミングを見計らいすぐさま開く。すると、また風を捕まえた翼はおれの身体を宙に留めた。そうしてくぐった風の輪はぐんぐん勢いをつけておれを連れていく。ゴールはもうすぐそこだった。
「うん! ばっちりね。思ってたより時間もかからなかったし、その分ならすぐ上手くなると思うわ」
「わ、ありがとうございます」
 何とか勢いを殺して、コケることなく着地したおれを卵さんは笑顔で迎えた。屋上から下へ戻り商品である風の翼を見せてもらう。
「そんなに疲れてるわけでもないみたいだし……飛んでる様子を見てる限り、こっちの、さらに骨太のタイプでもいいわね。力が要るから操縦者は選ぶけど、ちょっとやそっとの風には煽られないでダイナミックに動けるわよ」
 ずらりと並んだ風の異は色も形も様々だ。出会った時に鯉麗さんが付けていた小振りのタイプはどれにあたるのかと尋ねたが、あれは彼女専用の特注だからこの中にはないらしい。頷きながら聞いたおれは、並んだうちのオススメされたエリアのひとつに目を付けた。
「ほほう……あ、これかっこいいかも」
「お目が高い! これは特に安定性を重視して作られたモデルだから、初心者の颯希くんでも扱いやすいと思うわ」
「ええと……、瑠璃袋、デザイン?」
 値札に書かれていたものを読み上げる。瑠璃袋。山で見慣れない花を見かけて慶宗さんに尋ねたところ、璃月の山でよく見かけると教えてもらったあれだ。
「璃月特産物シリーズの新作でね、瑠璃袋モチーフの翼なの。瑠璃袋ってほら、可憐な花でしょう?だから小さいサイズの翼の方が合うんじゃないかって意見もあったんだけど、大柄のデザインでもこの通り。これはこれで、崖側で花咲く生命力の強さを感じられて好きなのよね」
 自分の仕事に誇りをもって働く人は、どうしてこんなに眩しいのだろうか。
 そんなふうに色々と話を聞きつつも慶宗さんには仕事中のところを時間をとってもらったのだし、手早くお会計を済ませようと財布を取り出して再度値札を見る。
「あ、慶宗さんからの紹介だし、初回割引も含めて五割引でいいわよ」
「ご、っ……?! い、いえさすがにそこまでは……」
 慌てて首を振ると、にや〜っと笑みを浮かべた鯉麗さんがおれの肩に手を回し、ひそひそ話をするようにうつむかせた。
「その代わり〜。二回目以降も御贔屓に、頼むわよ?」
「ふ、二つ以上持つものなんですか?」
「ものによって性能も違うって話はしたでしょ? オーダーも受け付けてるし、それにぃ……見ての通りファッション性だって高いもの」
「けど、いつまで璃月にいるかもわからないし……」
「風の翼があれば、それこそ鎖国の稲妻でもない限りどこへだってひとっとびよ。それにあなた、あたしと同じ匂いがするのよね……」
「匂い……ですか?」
「そう。ひとつのことに凝りだしたら止まらない……違うかしら?」
「……。……わかりました。二つ目が必要になった時は、是非」
「毎度あり〜!」
 彼女はおれの肩を勢いよく叩いて輝かんばかりの笑顔を浮かべた。

 別れ際。それじゃあ、と言いかけたところで呼び止められた。差し出されたのは一枚のカード。
「忘れるところだったわ、はいこれ」
「? 風の翼……免許証?」
「そう! とはいっても、モンドの騎士団のみたいに公的なものじゃなくってあくまでも民間資格なんだけど……颯希くん、故郷が秘境すぎて外で使える身分証が何もないって聞いたわよ? 中級のコースに合格したんだし、何もないよりはいいから」
「わあ……ありがとうございます」。
 大学の学生証も自動車免許も、当然ながらここでは使えない。そもそも文字すら他の人には読めないのだ。中途半端ながらにも事情を説明した慶宗さんにも、知っている中のどの時代どの地域の文字ともわからない、と言われてしまった。その反面、言葉は通じるし飲食店のメニュー表も、文字が違うことは認識しつつも問題なく読めるおれ自身の目と耳を不思議に思ったりする。
「あと……もうすでに知ってるかもしれないけれど、手っ取り早さで言えば冒険者登録をするのもいいかもしれないわね。あなたのんびりしてるように見えるけ……慶宗さんの護衛をしてたってことは、ある程度腕に覚えがあるんでしょう?」
「そうですね……考えてみます」
 ちらりと慶宗さんにも同じことを言われていたのを思い出す。通りがかったときに見た程度だけれど、たしかこの璃月にも冒険者協会の支部があったはずだ。慶宗さんとの契約が満了となった後にでも覗いてみよう。もう一度深々と頭を下げて、工場を後にした。

 *

 賃金の清算。つまり当初との契約と履行状況を照らし合わせて、過不足分を補うためのものだ。メインの依頼は慶宗さんと荷物を晒月港まで護衛することにあった。それからモンスターを倒して手に入れたアイテムやモラは原則倒した被雇用者──つまりおれのもの。そのうえで、慶宗さんが買い取ることもできる。
 武器の強化のため鍛冶屋に持っていけばアイテムも使えるみたいだけど、必要以上に持っていても仕方がないのであらかた買い取ってもらい。
 その結果、しばらくは食うに困らないであろう、ある程度のまとまった金額を手にすることができた。
(それもこれも、あのタイミングで慶宗さんに会えたからだ……彼が危険な目にあっていたのはともかく、おれは出会いに恵まれているなぁ)
 しみじみと頷きながら、あんまり大金をもっているのも怖いので、銀行に口座を作りに行こうとしたのだが。
「ご自身の所属を確認できる書類はお持ちですか?」
 そういえばおれは住所不定で国籍もなく、しかもついさっき無職になったのだった。
 しおしおになりながら答えに窮していると何かを察したらしい行員が控えめに微笑んで尋ねた。
「失礼ですが、冒険者の方でしょうか? 冒険者協会に登録されているのであれば、登録カードが確認書類として使えますが」
「はっ……」
 そういえばそうだった。慶宗さんにも鯉麗さんにも言われていたのに、この短時間ですっかりと忘れてしまっていた
 ということで、また出直しますと告げ冒険者協会へ。自分の無計画のせいなんだけれど、やたらと右往左往している気がする。
 人混みをかき分け、坂やら階段やらを乗り越えてカウンターへ。緑色を基調とした、セーラー服に身を包んだボブカットの女性がにこりと微笑んだ。
「星と深淵を目指せ! ようこそ、冒険者協会へ」
 銀行とは打って変わって、冒険者協会への登録はあっさりと終わった。受け取ったカードをまじまじと見つけて、これが自動車免許くらい汎用性の高いものなのかぁ、と感慨深く思う。とにもかくにも住所がないとどうにもならない土地からきた身からすると不思議な気分だが、そのシステムに助けられているのも事実だ。そもそも冒険者が一般的な職業だから、こういう協会があるのだろう。
 七国すべてに協会を置いているここにならあるのではないかと思い、カウンターの彼女──キャサリンさんに世界地図はありますかと尋ねれば大きな紙がすぐに広げられた。
「璃月はここ。そして、我々の本部があるスネージナヤはここです」
 指先がついつい動き示していく。慶宗さんと出会った場所から璃月港は相当離れていたように思えるが、この地図上ではたった数センチの距離しかない。世界の広さを実感して、そしてやはり、おれの知っている世界地図とは何もかもが違うことを再確認した。
 ともかくおれは、この世界での身分証と、完全歩合制の職を手に入れたのだ。
 改めて向かった銀行でも無事口座を作ることができ、大衆食堂で腹ごなしをしたあと。鍛冶場に持っていきま武器を強化してもらったり、食料や道具を買ったり。準備を整えていざ。

 *

 初依頼として請け負った採集のため山に来ていた。依頼内容は清心を五つ。慶宗さんの護衛をしていて戦闘にはだいぶ慣れてきたとはいえ、冒険者協会のやり方を掴むためにもモンスター退治より比較的安全な採集を。また、清心は高所にしか咲かない花であり、必然的に登山をすることになる。趣味と実益を兼ねた最もいい依頼だと思ったのだ。
 清心の採集自体、それほど難易度の高いものではなかった。道中では大まかにどの地域によくみられるか、という情報収集をしたあと、変わりに鉄塊があったら分けてくれないかと頼まれたり。はたまた同じく採集系依頼に挑む冒険者が足止めをくらっているかと思えば、強いモンスターの縄張りに入る必要があり、その場限りで臨時のパーティーに参加したり。その代わりに美味しいレシピを教えてもらったりと、冒険者というものは案外横のつながりが大きいみたいで。
 登山やキャンプでも近くの人と声を掛け合ったりしてたなあ、と違う世界、違う立場でも普遍的なことはあるものなんだな。
 そうやって心をほっこりさせつつ、必要分の清心を採ってから。ぐうぐうなり始めたお腹もほっこりさせるため、おれは山の頂上をキャンプ地と決めて火を熾していた。富士山の上でおにぎりを、ならぬ、一人鍋を楽しむためだ。
 濃紺の夜空ににじむ天の川続く満天の星空の下、ランタンと火、そして月明かりを頼りに準備を進めていく。

 鶏豆花。ここに来るまでのとある村で獣肉を渡したお礼にともらったレシピからできている
「まずは水を沸かして……それから出汁調味料。それからキンギョソウに鶏肉、ハムを入れてしばらく煮込む……うん、もらったキャベツも入れちゃお」
 普段のソロキャンプでは人手がないこともあって荷物はある程度厳選する必要がある。登山はさらにシビアで、荷物の重量はそのまま自分の身体の負担になるから、特に食料は楽しむよりも栄養補給という意味合いが大きい。まあ、ご飯はやっぱり楽しみだから、美味しい羊とかチョコレートなんかが登山の音もとして人気だったりするんだけど。
 けれど、こっちの世界で目が覚めてからおれの力が飛躍的に向上したことや、収納性に優れた道具袋を手に入れたこともあり随分と料理を楽しむ余裕ができた。山の上で一人鍋。なんて贅沢なのだろ。ぱかり、鍋の蓋を開ければ湯気といい匂いに包まれた。肉にもキャベツもよく火が通っていて、これだけでも十分美味しそうだけれどぐっとこらえて最後に鳥の卵を入れる。
 数分待って火の通りを確認して、肉が硬くなりすぎないうちに味を調えて……火を止めて、完成。
「できたできた。……あちちっ」
 鍋を火からおろして、火傷しないように周りを厚手の布で包みながら鶏豆花を掬う。
「ふー、ふー…….」
 息を吹きかけて冷ましずずっと吸れば、口の中に広がる野菜の甘味と肉のうまみ。夜風に冷えた身体の中をスープが通り、熱く胃に届いたのがわかるほどだ。身体のうちから力がみなぎってくる心地にほっと息をついた。
 ランタンとたき火を少し落として、スープを啜りながら夜景をじっとみつめる。知っている星座がひとつもない空には大きな月が浮かんでいて、山肌を青白く照らしている。まるで極薄く柔らかな布で山を抱擁しているみたいだ。耳をすませばパチパチと木の爆ぜる音、虫の鳴き声、獣やモンスターの鳴き声。知っているものと知らなかったものが交差している。
 風景を楽しんでいるうちに程よい温度になった鶏豆花。匙でぐるりとかき混ぜてから、具材を一気に頬張った。
「……うまっ」
 良く知っているものの最たる例。美味しいご飯に舌鼓を打ち、その日はぐっすり眠った。

 *

「天候よし、風よし……これが、飛行日和ってことかな?」
 荷物を全て片付けたおれは改めて景色を見下ろした。いよいよ本格的な初フライトだ。……とは言っても、ここに来るまでうずうずが抑えきれなくて(あとはショートカットも兼ねて)多少のフライトはしているんだけれど。
 崖側に立ち、髪を遊ばせる風に目を細める。飛び立つ瞬間にはやはり吹き上がるような興奮が胸を焦がしていく。急かされるままに踏み切って一翼を聞いた。
 高所で遮るものがないと風をダイレクトに感じる。鯉麗の言っていたり、翼は多く風を含んでブレなくゆったりと空を滑空していく。右に左に曲がろうとするとそれなりに大回りになるし遠心力に持っていかれそうになるけれど、その感覚すら面白くて仕方がない。
 練習用コースを飛んだ時よりもずっと高い位置から見下ろす。あの時は月の人々が米よりも小さく見えたけれど、ここではイノシシやモンスターたちがごまつぶよりも小さく見える。
 すべてがミニチュアで、地図で見た中のほんの一部がこんなに広く見えるのに、その一方でも家屋も生き物も、全部がひとつの箱庭の中に納まっている。大きいのに小さい、狭いのに広い。そしておれもまた、その中の一つなのだ。
 また味わったことのない震えが肩を揺らした。この感情をどう表現すればいいのかわからない。けれど、愉快なことに違いはなかった。
 気持ちのうえではこのまま明月までひとっとび……といきたいところだけれど、流石にエンジンを積んでいない風の翼では長距離飛行をするにも限界がある。
 途中、休憩がてら東屋になっている場所を見つけて、かと思えば盗賊が隠れていた。多勢に無勢は自信がない。まったくうれしくないサプライズにひいこらいいながらもなんとか逃げ出すためにまた地面を蹴った。彼らはどうやら空を舞うことはないらしい。
 しばらく飛んで、そろそろ体力が限界に近付いてきたので今度は先客がいないことを祈りつつ木に降りる。できる限り警戒つつ伺うと、そこには人影もモンスターの影もなく。ただ、リスという先客がいるのみだった。
「…….ふう」
 ほっと一息ついて、彼らを驚かせないように離れた場所に腰を下ろした。すぐそこを川が流れているらしく水流の音が絶えず聞こえている。肩を回したり筋を伸ばしたり、あるいは水筒を取り出したり。すぐそこになっていた果物をもいでかじったりしてみる。時折川の水を飲みに来るや、トンビがピーヒョロロと鳴きながら空を舞うのが見えた。
 ゆったりとした時間のはずなのにすべてを感じようとするにも忙しくて。少しだけの休憩だったはずなのに、気が付けば火が傾きかけてい
「のんびりしすぎてしまったかな。……うん、この光景が新鮮なうちは、まだまだ璃月からは離れられそうもないな」
 体力はもう回復している。手足の感覚も正常だ。この旅は長いものになりそうだ。そんな予感を胸に抱きながら、おれはまた地面を踏み切った。



--------------------------------------


■鳳 颯希
19歳、181cm、山登りやキャンプが好き。のほほんとしてる、とぼけた顔をしていると言われがち。
武器:長柄武器(棍)
物理アタッカー(?)
テイワットに来てから身体能力が著しく向上しており、スタミナゲージは一周分くらいある。

■慶宗(ケイソウ)
見た目は三十代後半ほど。妻子がいる。
璃月港に本拠地を構える商人。

■鯉麗(リーレイ)
見た目は二十代半ばほど。風の翼オタク。
夢主は全く気付いていないが実は神の目持ち。

2024/02/04