蜜柑とアイスの共存

真夏の御陰


 蒸し暑い日だった。七月も下旬に入ったばかりの真夏日、アブラゼミが元気に鳴いていた。
 日向にいるだけでじりじりと肌を突き刺す猛烈な太陽は今日も元気に街中を照らし、じっとしているだけでもじんわり汗がにじむ気候を作り出している。
 そんな中、俺は玄関前で通学カバンを座布団代わりに敷き、マンションの共有スペースである廊下に座り込んでいた。何故そんなことをしているのか、理由はただ一つ。家の鍵を忘れたからだ。
 俺はいわゆる鍵っ子というやつなのだが、まさかのまさかいつも持ち歩いているはずの鍵を忘れてしまったのだ。両親は共働きで少なくとも暗くなるまで帰ってこない、また一人っ子の為こういう時に頼れそうな兄弟姉妹はおらず。こうして惨めに締め出しを食らっていた。
 鍵は無くしたのではない、昨日帰宅した際服に引っ掛けたのを苛立ち半分になんとか取り外し、その後玄関の靴箱の上に無造作に置いたままにしていたのだ。先ほど――一時間ほど前、持っているはずの鍵がないことに気が付き必死で記憶を辿ったあとに、何故朝家を出る前に鍵の存在に気が付かなかったのかと半日前の己を罵ったばかりである。どこかに落としたという可能性をすぐに否定できたのを、不幸中の幸いとすべきかどうか。
 一時的に友人の家に避難しようかとも考えたが、やっとじめじめした季節が終わったかと思った直後のこのカンカン照りには登下校だけですっかり参っていた。合服期間も終わり学ランを羽織っているわけではないとは言え、学校を挟んで反対方面にある友人宅までわざわざ歩いて行くのも馬鹿らしいと早々に諦めたのだった。
 何度目かわからないため息を吐き、暇つぶしの道具はないか、せめて宿題でも終わらせてしまおうかとちらり考えたところで即座にその考えは却下される。暑さには、何も叶わない。今日は終業式だというのに、輝かしいはずの夏休みにはいささか幸先のいいスタートとは言いがたい。
 両腕で立てた膝を抱えて項垂れる。大きな溜息をついて、はやく涼しい時間帯にならないものかとぐるぐる考える。
「あ、あのぅ」
 ミンミン蝉の鳴き声に紛れて、おどおどとした声が聞こえた。顔を上げると、俺よりいくらも背のちいさい――もっとも、座っている状態の俺よりは高いが――ランドセルを背負った男の子が、眉を下げていたから。大きめの、丸い眼鏡の奥にある瞳と目が合う。もう一度「あのっ」、話しかけられた。
「なに?」
「まさとくん、ですよね。お家、入れないんですか?」
 俺の家の表札をちらりとみて確認するように問う。ああ、そうだ、久々だがこの子のことはよく知っている。
「……直央くん、ですよね」
「は、はいっ、ボク、いま学校から帰ってきたところで……」
 あぁ、と気が抜けたような声がでた。同じ市内に住んでいるのだから、終業式の日は自然と被る。おそらく彼も明日から夏休みで、先ほどまで校長先生の長話を聞いていたのだろう。仲間だ。
 と、そんなどうでもいい親近感を勝手に覚えながら彼の質問に答える。
「今日は、家の鍵を忘れてしまったので、待ちぼうけです」
 そう、家のドアを指差しながら――より具体的に言うと、扉一枚を隔てた向こう側にある家の鍵を指差しながら答えた。実質二メートルもないような距離なのだが、物理的に阻まれているのでどうにもならない。
「そうなんですか……あの、もしよければ、ボクの家のに上がっていきませんか?」
「え?」
「その、ずっとここにいるのは、大変だと思うので……」
 指先をもじもじさせながらうつむきがちに直央くんは提案してくれた。気持ちは大変うれしいし、とてもありがたい。
 しかし、室内という誘惑をぐっとこらえながら尋ねる。
「直央くんのお家も共働きじゃなかったっけ」
 近所づきあいの範囲で知っていた情報を尋ねると彼は頷いた。つまり、彼の家には大人のひとがいないというわけで。
「よその家の人を上げるのは、あんまりよくないんじゃないでしょうか」
「で、でも、今日は一段と暑くなるって朝、言ってたし、まさとくんすごく暑そうだし、倒れたりしたら大変ですよ」
「うーん……」
「それに、まさとくんのことは知ってるお兄さんなので、だ、大丈夫、です!」
 ぷるぷる震えながらも断言されてしまった。確かに、ここ最近はたまにエントランスですれちがったりエレベーターで一緒になったりするぐらいの仲だが、それでも会えば挨拶くらいは交わすし、数年前までは同じ学校に通っていたのだ。俺を部屋に入れて、彼が怒られることはない、はず。ありがたく彼の家にお邪魔することにした。

「お邪魔しまーす……」
「どうぞ」
 出されたスリッパを履きながら挨拶をした。間取りはほぼ同じのはずだが、置いてある家具だけでこんなにも雰囲気が変わるものなのか、と部屋を見渡しながら思った。
「麦茶で大丈夫ですか?」
「あ、おかまいなく……」
 とは言ったものの、直央くんはすでにコップをふたつ出していた。座っていてください、と勧められたソファに腰掛けて彼を待つ。
 しばらくして、お盆に麦茶をふたつ乗せて戻ってきた。お礼を言ってから口をつけると、ほんのりとした甘さが渇いた身に染み渡る。きっと砂糖を入れているのだろう。ちょうど、直央くんがつけてくれたエアコンの風もそよそよと流れてきて、先ほどまでのものとは違う種類の息を吐いた。
「……生き返る……」
「よかった……」
「あ、うん、本当に、ありがとう。とても助かりました、助かってます」
 なむなむ手を合わせて拝むと直央くんはやや慌てたように首を振る。
「え、そんな!そこまで大げさなことはしてないです!あの、それよりも」
「はい」
「えっと、どうしてボク相手に敬語、なんですか」
 うん?首をかしげた。確かに、小学生の頃は敬語でもなんでもなかったけれど、それは直央くんだってそのはずだ。
「直央くんが敬語だったから、つられて。逆に、どうして直央くんは敬語なんですか?」
「ぼ、ボクは……もしかしたら、まさとくんに忘れられてるかも……って思って……」
「忘れてないですよ。えーと……じゃあ、よく遊んでたときみたいに喋るけど、いい?直央くんも、そういう風に喋ってほしい……なぁ?」
 そう提案すると、直央くんはふにゃり嬉しそうに頬を緩ませた。そうして、口をつけていなかった麦茶を飲んでまた唇が弧を描く。グラスの表面に浮いていた結露が直央くんの指先に触れたことで大きな雫となり、コースターに吸われていった。
「まさとくんのお家の人は、何時まで帰ってこないの?」
「えっと……何時だったかな……今日は確か七時くらいまで……?」
「そ、そんなに長い間外で待ってるつもりだったの……!?」
 直央くんは顔を青くした。自分のことでもないのにこんなに他人の心配をできるのは彼のいいところだ。
「直央くんの家の人は何時頃帰ってくるんだ?」
「今日は……九時くらい、かな」
 彼の視線を追うと、壁掛けのコルクボードに帰宅時間を知らせる黒板がかけてあることに気が付いた。うちも食料品に関するメモぐらいなら冷蔵庫に貼ることもあるが、岡村家は中々に几帳面な家庭のようだ。
「直央くんって一人の時間多いよな、何してる?俺はゲームとかしてるけど」
「ボクは、宿題やったりとか……」
「宿題」
 いの一番に真面目なワードが出てくるとは思っていなかったので、おもわず面食らう。そうか、宿題か……ゲームとかいってた自分が少し恥ずかしくなった。あとは……と彼が言葉を続けたので、気を取り直して続きを聞く。
「お仕事とか、最近はまた増えてきて」
「お仕事?」
 はい、楽しそうに彼は頷いた。なんでも彼は、現在アイドルをしているらしい。アイドル。全く想定していなかった答えが出てきたのでぽかんと口を開けていると、うっすら彼のお母さんが、直央くんは子役をやっている、という話をうちの母親にしていたのを思い出した。
「んん?アイドル?子役じゃなくて?」
「子役も、そうなんだけど。いまは315プロダクションっていう事務所にいて……もふもふえんっていうユニットを組んでるんだ」
「さいこーぷろだくしょん……あ、いやまって、それ聞いたことあるかも」
 男性アイドルに関する話題は弱いのだが、その特徴的な事務所の名前は聞いたことがあった。クラスの女子が騒いでいた気がする、確か――そうだ。
「Jupiterが移籍した、っていうあの事務所だっけ」
「!そう、その事務所なんだ、まさとくんも、Jupiterしってるんだね」
「知ってるっていうか、小耳に挟んだっていうか……あー、でも直央くん、そこの事務所なんだ。へぇ……知らなかった。すごいな」
「えへへ……Jupiterに比べたらボクはまだまだだけど、少しでも近付けるように、同じユニットの仲間と頑張ってるんだ」
「そっかぁ……すごいなあ」
「まさとくんは、好きなアイドルいるの?」
「え、俺?そうだな……やっぱり……三浦あずささんとか……大人の女性って感じが最高だよな……」
 フフフ、と多少ニヤつきながら答えた。あののんびりおっとりした感じとか、とてもステキだと思う。なるほど、と頷いている直央くんにハッとして、顔を引き締めた。あんまりヘラヘラしてても、年上の威厳が、なんというか、無くなってしまう気がする。元々あるのか?ちょっとはあるはず。うん。
「今日は、そのお仕事はないの?」
「うん、今日はお休み。だから、宿題をやろうかなって思ってて……」
「えらい……」
 直央くんの方がよっぽど威厳がある気がする。威厳というか、勤勉さというか。俺なんて最近発売したばかりのRPGをやるつもりだったのだ。宿題は期限までに終わらせればなんとかなるので、世界を救うことの方が俺にとっては重要だった。
「じゃあ、いまから宿題する?俺も、直央くんと一緒なら頑張れる気がする」
 HRで渡された夏休みの宿題一覧を思い出しながら尋ねる。他にやることもないし、リビングで机と椅子を借りられる状況で、彼もそう考えていたのならぴったりではないだろうか。
「もし直央くんがわかんない問題あったら、遠慮なく聞いてくれていいし」
「……いいの?」
「もちろん」
 よろしくお願いします。とお願いされたので、こちらこそよろしくお願いします、と頭を下げる。脇においていたランドセルからいそいそと算数ドリルを取り出した彼にならい、俺も数学の問題集を取り出した。

「んー……直央くん、二次方程式ってわかる?」
「えっ……わ、わかりません……」
「だよなぁわかる。俺もわからん」
 アッハッハと笑い飛ばす。初めのうちは順調に、教科書を読みつつ解くことができたのだが、いかんせん発展問題がいやらしい。何もわからない。もうこの問題は飛ばして次の単元に進んでしまおうか。うんうん唸っていると、直央くんの筆の進みもあまり芳しくないことに気が付いた。
「……まさとくん」
「なんでしょう」
「分数って、わかりますか……」
「わかるよ!」
 救援を求める彼に、待ってましたと言わんばかりに声を弾ませた。ひとつ断っておくが、直央くんが、算数の問題がわからないことが嬉しいのではない。先ほど手伝うとは言ったものの、もしかすると直央くんは手助けが必要ないくらい頭がいい子なのかもしれないと考えていたので、すこしは家に上げてもらえたことの恩返しが出来ることに、ホッと胸をなでおろしていたのだ。
 問題を見せてもらい、なるべくわかりやすいように図を描きながら説明する。小学生相手に教えるのは初めてなのでうまく伝えることが出来ているか不安なところもあったが、彼は納得したように頷いてくれた。ドリルに式と答えを書き込んで、見せてもらうと俺の計算とも一致していた。
「そうそう、合ってる」
 指で丸マークを作ると、直央くんも嬉しそうに微笑んだ。

 その後も時折休憩がわりの雑談を交えながらお互い宿題を進めていくと、時計はいつもより速く感じられた。まだまだ外は明るいが、そろそろ俺の親が帰ってくる頃合いだ。
「直央くん、今日はありがとう、すごく助かりました」
「ううん、ボクの方こそ、たくさん教えてもらって……まさとくん、ありがとう」
「こちらこそ。……あ、そうだ、直央くんの家の人って、土日もお仕事ある?」
「え?えーと……うん、お母さんは、土日の方が忙しい……かも」
「そっか、わかったありがとう。……今度、仕事とかない日はさ、俺の家にも遊びに来てよ」
 またゲームとかしよう、そう誘うと、直央くんは笑って頷いてくれた。ばいばい、手を振る彼に俺もまた振り返して玄関を出る。鍵を忘れたことに気が付いたときは、散々な日だと思っていたが、今はそうは思わない。充足感溢れる日だった。
 家には親戚からもらった、丸々と太ったスイカがいくつかあったはずだ。直央くんの家の人がいる時間に挨拶に伺って、季節を感じてもらうのもいいだろう。そう考えながら親の帰りを待つ時間は、じわりとにじむ汗を感じながらも不思議と苦にはならなかった。


END
2017/10/08発行「よしなしごとたがり」より再録
あとがき