蜜柑とアイスの共存

吹いてなぞって囁いて




 ルチルは、ふわふわで、かわいくて。目を離していたら風船のようにどこかへ飛んでいってしまいそうなんだけれど、でも、子供達のために朗読をするときの声は、柔らかさの中にも一本しっかりとした芯が通っている。
 気が付けば彼から目が離せなくなって、そうしている内に、いつからか彼と目が合う回数が増えるようになって。今は、閉じたまぶたをじっくりと見つめていられるような関係になっていた。
「──ねぇ、ハイド」
「──…ぁ、え、ルチル?」
 ただ、彼と親密な関係を築くようになってから、それまでは感じたことのなかった鋭さを見るようにもなった。例えば今みたいな。彼はおれを壁際に追い詰めて、逃げられないようにおれの身体を挟み込むよう両手をついて、身じろぎをしただけで触れそうな距離で、おれのことを見つめていた。
 彼の瞳の奥には熱っぽさが浮かんでいる。首元をやわく刺していた空気は、背筋を通ってぞくぞくとしたものを全身に運んでいく。時折見せる彼の淫靡な表情はもはや麻薬といっても差し支えないほど、おれの思考を鈍らせる。
 彼の指先がおれの顎をすくった。瞳の奥を覗かれて、すべてを見透かされている気分になる。
「……ふふ、赤くなってる」
 そう呟いて彼の指先がくすぐるように頬を滑る。彼の蠱惑的な行動にただでさえ早鐘を打っているおれの心臓を、より一層どぎまぎさせた。視線をうろうろさまよわせるおれに目を細めた彼は、唇同士が触れるか触れないかのぎりぎりまで顔を寄せて、口元に弧を作る。
「……かわいい♡」
 本来なら、あまり言われても嬉しいと感じないはずの褒め言葉も恋人のひいき目という者なのか、それとも彼の人柄があるのか。ささやかれるたびにふわついた気分になる。そんなおれをしってか知らずか、スイッチの入った彼はまるで好物に食らいつくかのようなキスをした。……否彼が行儀を気にせず食事をしたことを見たことがないから、もしかしたら彼にそうされるのはおれだけの特権なのかもしれない。そうであれば、誰に誇示するでもない優越感に浸れてしまうのだが。おれの、おれだけのルチル。しっとりとした彼の唇の感触が押しつけられて、すぐに舌でぺろりと舐められる。応えるようにうっすらと唇を開けると、性急にも感じる熱が入り込んできた。
 上顎も、舌も、歯も。彼に触れられたところはどこもかしこも気持ちがいい。あくまでもこちらを甘やかすていだけれどどこか強引さも感じるそれ。彼のスイッチが入ったときは、彼に身を任せて好きにさせてやるのが一番だ。おれもそろそろ分かってきた。彼の二面性にうっとりと目を細めながら、溢れる唾液をこぼさないようにゴクリと嚥下した。

 どれだけキスをしていただろう。そろそろ他の場所も触ってほしくて、彼のことも触りたくてもどかしくなってしまった。そっと離れた彼を見上げると、彼の唇はお互いの唾液で濡れそぼっておりなんとも目に毒だ。目元と頬はうっすら赤く上気している。真っ赤な舌で唾液を舐めとり、彼は妖艶に微笑んだ。
 いつもなら、お互いの服に手をかけてことを進めるはずなのだが今日は違うようだ。先ほどの雰囲気から一転して、大切なものを扱うようにおれの背中に手を回して肩口に顔をうずめる。子供通しでもしそうなハグだ。安心はするけれど、うって変わった行動に多少困惑する。より密着したことにより、腰のあたりにしっかりと彼の熱を感じているのも一つの要因かもしれない。彼の熱をおれが感じられるということは、彼もおれの熱を感じていることにほかならない。
 安心するような、落ち着かないような気持ちで抱擁を続けているとルチルがそっとささやいた。ぞわりと甘やかな痺れがおれを惑わせる。
「ふふ、こうやってしているだけでも、気持ちいいね」
「……否定はしないけど、どうしたの、今日は焦らす方向?」
 膝でそっと彼の中心を刺激してやれば、鼻にかかったような吐息がおれの耳を撫でた。ぞわぞわ、おれの持つ熱は余計に温度を上げていく。
「ン……ふ、こぉら」
「……ッ、ルチ、ル」
 意趣返しのように、ルチルの唇がおれの耳の外側をなぞっていく。触れるか触れないかのぎりぎりだけど、彼の声と吐息が直接耳の中に吹き込まれた。だめだ、これは、揺さぶられてしまう。
「ねえハイド。ちょっと小耳に挟んだんだけど」
 唇で形を確かめるようになぞって、時折食んでは子猫の戯れのようにちろりと舐める。
「耳って細かい神経が集中してるから、ここだけでも気持ちよくなれるんだって」
「っ……」
「そういえばハイドは、するときたまに耳を気にしてたな、って思い出して。ねえ、耳、……弱いの?」
 興奮に掠れた声が、明確な意図を持っておれの鼓膜を揺らす。誰だろう、ルチルにそんな入れ知恵をしたのは。彼に猥談をするような相手がいるとは思えない。その感想は、魔法使いであるという意外ごく普通の好青年である彼に対して失礼だろうか。
 何も応えないおれをどう思ったのか、ルチルはもう一度弱いの? とあくまでも穏やかな声色で問いかけながら、おれの耳を食む。
「っ~~……!」
 それでも、おれはなにも返さなかった。返せなかった、の言い方が正しい。ルチルの声が耳から脳みそに直接引いて、自ずと呼吸が速くなる。声を漏らさないように必死に唇をかみしめているけれど、その姿は直接みえないにしても、彼にもおれが感じ入っていることは伝わっているはずだ。嬉しそうにくすりと笑って、そうなんだね。とまた甘やかな声でささやく。そんな声でしゃべりかけないでくれ。おかしくなってしまいそうだ。
 力が抜けたおれはずるずるとその場に座り込んでしまう。呼吸の整わないおれを追いかけて屈んだルチルが、大丈夫だとでも言うように軽く唇を合わせるだけのキスをした。こんなに淫らなことをしているのにそのキスはまるで慈愛のようで、ちぐはぐさにまた混乱しそうになる。
 また彼はおれを抱きしめて、耳元に口を寄せる。先ほどよりも明確に湿った感触があった。舌だ。ルチルが、俺の耳を舐めている。外側だけじゃない、内側のくぼみのところも、穴の入り口のところまで彼は舌を這わせる。ついにおれは声を我慢しきれなくなった。まるで嗚咽のような喘ぎ声がひっきりなしに口からあふれて、どうしてこんな声を出しているんだろうとまた混乱するスパイラル。なんで。耳を舐められているだけなのに、どうしてこんなに気持ちがいいんだろう。耳に舌を入れられるなんてむしろ気持ち悪いと感じてもおかしくないはずなのに、気持ちがいいなんて知らない。知りたくもなかった。
「ぁ゛っ……ひ、るちる、」
 感触も音もルチルが触れているというシチュエーションも、すべてがおれの中をぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。いつのまにか反対側の耳も彼の指や爪でもてあそばれていて、性器でもないそこを丁寧に愛撫される感覚を、いま、教え込まれている。
 こわい、きもちがいい、こわい、ふわふわする、こんな風に変わってしまった自分に、身も世もなく泣いてしまいたい、きもちがいい。
 ──つう……ざり、
 産毛をなぞって、爪で引っかかれて。反対の耳は、ルチルの唾液で感覚が敏感になった肌に、彼の吐息が吹き込まれる。
 こうなってしまえば論理立てた思考なんて出来るはずがなくて、おれはただただルチルにすがって声を漏らすことしかできない。
「るちる、るちる、ァ、あっ……ゃ、それ、やだ」
「やだ? なにがいやなの? ハイド、気持ちよさそうだよ?」
「きもち、いい、っきもちよすぎて、こわいっ……っひ、ぁァッ」
「ん、きちんと言えてえらいね。だいじょうぶ、気持ちいいのはこわくないよ」
「っうぅ、うぁ……ルチルぅ……」
「泣かなくても大丈夫だよ。私がついてるから。ねえ、どんな感じがする? 気持ちいいんだよね」
「ん、ん、ルチル……るちる、っあ、ぁ、気持ち、い、よぉっ……」
「うん、そうだね、よく言えました。……じゃあ、これも気持ちいいかな」
 おれを褒めた後、独り言のようにぽつりと言ったルチルは、ぱくり、おれの耳を食べた。全部口に含んで、じゅる、と音を立てて吸う。すこしして口を離して、はぁっと熱い息を吐く。そして再び、おれの耳はたべられる。彼の興奮に荒れる生きが、かすかに漏れる声が、熱い舌が、彼が口を離したときに感じるひんやりとした風が。すべてがおれの理性を粉々に崩していく。
「ハイド、ハイド。好きだよ、大好き♡」
「っう……、ひぃ♡」
「私の大好きで、かわいいひと。もっと、気持ちよくなって♡」
 おれをとろかすような言葉。ルチルが大丈夫だと言ってくれたから、快楽からくる恐怖心はもうなくなっていた。抱きしめられる腕も、耳を伝う舌も、ささやかれる言葉も、おれをふわふわと夢心地にさせる。
 力の入らない手でルチルにしがみついて、口からはずっとあられもない声をだして。飲み込みきれなかった唾液が、流れた涙と混ざってぐしゃぐしゃになる。
「気持ちよくなって、ハイド」
 怖かったのは、気持ちよくなりすぎてどうなるか分からなかったから。でも、おれをそうさせようとするルチルに許されてしまったら、もう、止まることなんてできなかった。
「ルチルっ、も、だめ、何かっ……ァ、」
 ちかちかと視界が白みはじめる。手足が自分のものではなくなるような感覚があって、でもルチルが気持ちよくなっていいっていうから。抱きしめられているのかもわからない手足だけど、できるだけ彼をぎゅうと抱きしめて、快楽の波が襲い来るのを耐える。

「……、ハイド、大丈夫?」
 ぺちぺち、頬を軽く叩かれて、ぼんやりとしていた意識を引っ張り戻す。あれ、なんでこんなにぼんやりしていて……そう考えたところで、とんでもない羞恥心に襲われた。
「え、あ、ルチル、お、おれ、」
「……うふふ、ハイド、耳だけで上手にいけたね」
「っ……?! お、おれ、ほんとに……えっ……?!」
 下半身にじっとりとした感触がある。うそ、うそだ。でもこの違和感は明らかにしてしまった感触で。でも小さくルチルが呪文を唱えるとその感覚もなくなってしまったから、ふわついた頭ではいよいよ何が本当にあったことなのかわからなくなる。
「とーってもかわいかったよ♡」
 処理を終えたらしいルチルはまたしようね、と蠱惑的に微笑んだ。また、おれはあんな痴態を晒すのか。首まで真っ赤に染まる。でも、ルチルが、またいいよって言ってくれるなら。
 そう遠くない内にくるであろう"次"のことを考えて、おれはゴクリと唾を飲み込んだ。


2020/06/01