蜜柑とアイスの共存

手のひらのぬくさ


「ネロ」
 陽だまりのような柔らかい声がネロの耳朶を撫でる。声の主は、オーブンの番をしているネロにそっと近寄ると、さもそれが当然であるかのように賢者は腕を絡ませた。
 また、またか。
 ネロは一瞬硬直した身体を誤魔化すようにぱちぱちと瞬きをして、オーブンの加減を確認する。横から賢者がのぞき込むが、北の双子の魔法使いのようないたずらっぽい笑みを浮かべているわけではないようだ。
「今日のおやつはパイですか。いいですね、シノも喜びます」
「ああ、レモンじゃなくてリンゴだけどな……」
 何でもないように世間話を続けるので、ネロも何でもないように返すしかない。その間も賢者はネロに腕を絡めたままで、かと思えば指と指を交互に絡めて――いわゆる恋人つなぎという甘ったるい名称のものに変えていく。
 何故いきなり賢者がこのような行動をとるようになったのか。ネロにははっきりと心当たりがあった。
 既知の遺跡。
 魔法使いが墜ちるという噂のその地は、崩壊星の石と呼ばれるものによって、魔力を持っている者を酩酊状態にさせる力があった。
 先日任務で訪れた際、石の力にあてられたネロは無意識のうちに賢者に甘えるような行動をとってしまったのだ。
 そのときの気まずさったらなかった。ネロの方から手をつないだのを指摘した賢者は戸惑いつつも口元を緩ませていて、「恋人がとてもかわいい」と大きく顔に書いてあるのをネロをしっかりと見た。別に、手をつなぐことにいちいち照れるような初心さは今更持ち合わせてはいないし、素面では手もつなげないような甲斐性無しでないことは、賢者もよくわかっているはずだ。これ見よがしに引っ付いてくるようになったのはどういう心境の変化なのか。
「……なあ、賢者さんよ」
「はい」
「これ……」
 どう言えばいいのか口ごもり、結局指示語で絡んだ手を持ち上げた。すると微笑を浮かべていた賢者はさらににこーっと笑みを深めて、さらにぎゅむぎゅむ握りこむ。違う、そうじゃない。もっとやってほしいという催促ではないのだ。
「ちょっと前から……気になってたんだが」
「これですか? うーん、触れ合うのは楽しいと思うんですけど……ネロは嫌でした?」
「嫌かって、あんた……」
 そんな聞き方はないだろう。そうネロは思った。いたずら心は無いようだと判断したが、意地の悪さはあるらしい。賢者はネロが嫌がっていないことはわかりきっているのだから。
 お互い嫌なことや苦手なことははっきりと口にするし、賢者だってところかまわずネロに触れてくるわけではないので、あえて人前を気にして避けることもなかった。お互いいい歳なので――尤も、ネロにとってみれば賢者は「赤ちゃんも同然」なのだが、ついぽろっとこぼした際にネロは乳児にも手を出すんですか、そうですか。と妙に冷めた目で言われてしまってからは気を付けるようにしている――他人に見せつけて自分たちの仲を確かめたいという若さもない。今だって、食堂には誰もいないし。しいて言うなら階段の上で時折誰かの足音が聞こえるぐらいだ。
「お察しの通り、既知の遺跡でのネロが大変かわいかったので真似してみたわけなんですが。……あ、からかっているわけではないですよ。思えば意味もなくべたべたするのって、そんなにしてない気がしたので」
 たまにはいいと思ったんです。そう言ってまた手をにぎにぎする。これが唐揚げのもも肉だったら、だいぶいい具合にもまれて柔らかくなっている頃合いだ。
「……嫌じゃないよ」
 ネロの方からも手を握り返すと、賢者はことさら嬉しそうに笑った。
「そうですか。ふへへ、よかったです」
 やがてパイの焼けた匂いに誘われたのか、魔法使いたちの声が食堂へ近づいてきた。賢者も気が付いたようで、しっかりとつないでいた手は嘘のようにするりとほどけて皿やカトラリーの準備を始める。
 そんな賢者の後ろ姿を眺めながらネロは思う。
 手をつなぐのは決して嫌ではない。嫌ではないのだが、先ほどまであったものがなくなると、それだけで喪失感に苛まれそうになる。今あるものを幸福と思えばいいのだろうに、どうしても失うことを意識してしまう。手のひらをじっと眺めてから、ちょうど焼けたオーブンを前に鍋つかみの準備をする。
 ぼやぼやしていたら、ぬくもりがなくなって寂しい、などとは到底言えない火傷を負ってしまいかねないから。


2020/05/25