蜜柑とアイスの共存

掃除の続きをしましょう



 リンハルト様の湯のお世話をして、後始末をして終えたあと部屋に入れば、彼はソファに深く腰掛けていた。夜着から伸びる手や足は常ならば深窓の令嬢さながらの白さだが、今このときばかりは赤みを帯びている。
「煽ぎましょうか」
 扇を手に尋ねるが、リンハルト様はひらひらと手を振って拒否の意を示した。
「それよりも、この前の続きをしてよ」
「この前の……?」
「耳かき。今なら耳の中も湿ってて、わざわざ濡れた布を用意しなくても取りやすそうだし」
「かしこまりました。すぐに準備しますね」
 私が頷くと、リンハルト様は機嫌よさ気に口角を上げた。鼻歌でもはじめそうな勢いだ。そんなに楽しみに思って頂けていたとは、嬉しいやら恥ずかしいやら恐れ多いやらで、口元には苦笑が浮かんでしまう。
 いつもどおり耳かきとピンセット、懐紙を用意してソファに近付くと、リンハルト様は私が何を言うでもなく頭を起こす。ソファに腰掛けて、大判のタオルを膝に敷いてどうぞ、と主に声をかけた。
「タオル?どうして?」
「外に出歩いた服ですので。せっかく湯浴みを終えたのにリンハルト様に埃がついてしまいます。あと、御髪がまだ多少湿っているので、眠ってしまう前に乾かしてしまいましょう」
「ふーん」
 どうぞ、と膝の上から手をどければ、リンハルト様はごろりと頭を私に預ける。しばらく寝心地のいい場所を探しているのかもぞもぞと向きや位置を微調整していたが、やばてそれも収まる。
「……リンハルト様、そちらは以前耳かきをした方かと思うのですが」
「ええ……ダメ?今日はこっちやってる間に、寝ないようにするからさ……あふ」
「……」
 会話中に早くもあくびをしてしまっては、説得力が皆無ですよ、リンハルト様!
 とは思いつつも、主の頼みごとに逆らえないのは使用人である。しかしながら耳かきをしすぎるのも良くないということもあり、折衷案として前回綺麗にした左耳は少しだけ、右耳はしっかりと耳かきをする。という話で落ち着いた。

「それじゃ、よろしく」
「はい。……」
 リンハルト様はそう言うとすっと目を閉じた。眠らないようにする、とは宣言していたが、本当に大丈夫だろうか。本格的に寝入ってしまう前に最低でも片方は終わらせないと。耳かき棒でかりかりと外耳をなぞっていく。やはり前回すでに綺麗にしているので、ついてくる垢は殆ど無い。こちら側はマッサージを中心にした方がいいだろう。
 指と手のひらを使い耳全体を揉み込んでいく。耳は柔らかい骨が入り組むように出来ているので柔軟性に富んでいるが、反面動く向きと動かない向きがはっきりしている。加えて、動くからと言って痛くないとは限らないので細心の注意を払う必要がある。
 まずは優しく、ゆっくりと外側に向かって引っ張っていく。
 ぐーっ、ぐい、ぎゅーっ
 全体をまんべんなく伸ばしたあとは、細かい部分を指でつまんで、捏ねるように引っ張る。これも痛めないように、あくまでも優しくだ。
 くいくい、ぐーっ、
「……ん、……」
 鼻にかかったような吐息をリンハルト様がもらした。リラックスしていただけているようで、ほっとしてマッサージを続ける。耳たぶや、指の届かない内向きにくぼんでいる部分は耳かき棒の匙の裏側でくっ、くっ、と押しこんでいると、湯の熱から冷めた?とは裏腹に耳のあたりはやや赤くなっていた。
「リンハルト様、いかがですか、学校は」
「ん……んん?なぁに、いきなり」
「いえ……あまり気が進まないようでしたのに、近頃はあまりぐずらないので」
「……お前は、いつまで僕を小さな子供だと思ってるのさ。まあ、興味深い人は多いよ。名家の子息令嬢が集まってるから、必然的に紋章持ちが多くなる環境だし」
 それから、リンハルト様はちらほらと士官学校であったことを話し始めた。淡々とした口調ではあるが、昔から交友のあるカスパル様とは変わらず仲がいいようで何よりである。眠気覚ましにでもなれば重畳と思い振った話題ではあるが、主の息災な近況を知れてこれ以上のことはない。
 会話が途切れ、またリンハルト様の表情がうとうととしたものになる前に私は声をかけた。
「リンハルト様、こちらは終わりです。逆の耳もやっていきましょう」
 のっそりと動き始める。やはり眠気がきているのか、やや伸びた髪を揺らしながら緩慢な動きで身体の向きを変える。再び私の膝の上に寝転ぶといつもはまとめている髪が広がる。万一引っ張ってしまってはいけないので軽く整え、はじめますね、と声をかければ主は頷いた。
 先程と同じく、外耳から匙の部分でなぞっていく。かりかり、引っ掻くようになぞると、湯浴みの直後というタイミングは最適だったことがわかる。
「……おあ、」
「ん……どうかした?」
「ああ、いえ、失礼しました。やはり湯浴みのあとは、よく湿っているので取りやすいですね」
 くい、くるくる、くりくり、
 早速とれたそれを懐紙で拭う。前回掃除ができなかったということもあり、溜まっている分余計に取れやすいのだろう。耳のくぼみに合わせなぞっては汚れを落とし、表からは見えない入り組んだところも耳かき棒をくるりと回せば綺麗に取れる。力を入れる必要がないので、肌を傷つけないのも良い。
 早々にあらかた取れてしまったので、指や匙の裏側を使いマッサージを施していく。
 ぐいーっ、ぐにぐに、
 リンハルト様は先ほどと同様目を閉じている。時折指先が震えているが、クッションを握ったり耐えている様子はない。万一痛みがあれば間違っても我慢をするようなお人ではないため、くすぐったいのかな、と当たりをつけて続行していく。
「そういえば気になっていたのですが……耳かきのことは、どこから知ったのですか?」
「前に……読んだ本に、そういう文化がある国もある、って書いてあって……たまたま来てた商人に聞いてみたら、ちょうどその文化圏の商人だったみたいで」
 気になったから買った、と。なるほど、私が今手にしている耳かき棒は結構な長旅を経てここに来たよう、とマッサージを終えて耳穴の極浅い部分をゆっくりと掻き進んでいくと、ぴくりとリンハルト様の指先が反応する。
「んん……今それされると痒いんだよね……もっと勢いよくてもいいぐらい」
「……では、傷めない程度にしますね」
 覗いた時点で痒みの原因は見える場所にあったため、周りから攻めるという当初の戦術から変更。まずは目標を取り除くことにした。耳を軽く引っ張り、穴の中を塞ごうとしている箇所の隙間を攻めていく。
 かり、かりかり……ごそっ、
 白く浮きかけたところをうまく匙の曲がった部分で挿しこみ、くっと力を入れれば音を立てて全体が動いた。変にちぎれてしまわないよう、左右にへばりついた箇所も少しずつ耳かき棒を移動させることによって耳の壁から?離させていく。耳垢を落とさないよう慎重に揺り動かしていくと、半周仕掛けたところで耳垢が完全に動いた。
 ――取れた。
 確かな手応えを感じた私は、ゆっくりと耳かき棒を手前に引く。懐紙の上に落とすと、今回の耳かきで取れたものとは比較にならない大きさだった。むしろこれは、今までしてきた中で最も大きな耳垢がかもしれない。また耳の中にもどり、今度は取りきれなかった細かい耳垢を取る必要がある。まだへばりついているものも見られるため、匙とは逆側に付いているふわふわを使うのはまだ先だ。
 かりかり……すっすっ、
 かり……くるくる、かり……
 見える範囲はおおよそ取れた。そして表からは見えないくぼみの部分に匙がかかると、硬い感触が指先に伝わる。
がりっ……
「……リンハルト様、痛くありませんでしたか」
「いや、大丈夫……痒いけど。すごい音したね」
「ええ。痛くないのであれば、これもとってしまいますね」
 見えない位置にあるものは落としてしまうと大変なので、なるべく一度で取ってしまいたい。硬そうな感触だったが……。もう一度触れてみると、ごつ、と当たる感触が確かにある。主の様子を伺うが、痛そうにしている気配はやはりないため、かさぶたなどではなさそうだ。今までよりも多少、強めにかいてもよさそうである。
 がり、がり……くりくり、かり、こり……ばり、
 取れた。しばらく格闘したが、そんなには苦労はしなかったと思う。これも湯浴みの恩恵だろうか。耳垢を懐紙の上に落とす。他のものとは色が違うので、単純に埃と皮膚が固まったものとは違う由来なのだろう。主が痛がる様子がなかったためかさぶたではないと判断したが、知らずのうちに傷がついて、治ったあとも自然に排出されずに残っていたものかもしれない。
「とれた?」
「はい、無事に」
「いやあ、あるってわかった途端に痒くなってくるものだね」
 と、少しうわだった声色で主は語る。大物が取れたのは音の情報だけでも十分わかったのだろう。
 くいくい、くるくる……がさっ
 同じ箇所をもう一度擦ると、残ったかけらがわずかにくっついてきた。そこが終われば、また別の見えないところに垢が溜まっていないか入念にチェックをしていく。細かい垢はちらほらとあったが、硬いものに行き着くことはなかった。リンハルト様は残念そうにしているが、定期的に耳掃除を仰せつかっている身としては掃除残りがあるような気分になってしまうので、日頃きちんとできている、ということがある程度は証明できたのではないだらうか。
 そうしてチェックを何度かそれを繰り返して、何も動く音がしなくなれば梵天を使いくるくる中を回していく。
 わしゃわしゃ、くるくる、さっさっ
 耳の中を覗き込んで、細かな垢も全て除いたことを確認し、終わりであることを伝える。
「さ、リンハルト様。今日はこれでおしまいです」
「んー、……ああ、寝ちゃうところだった」
「さあ、ベッドでお休みになってください」
 何度か寝ていましたよね、という指摘は余計なことなので口をつぐむ。のろのろと身体を起こすリンハルト様を手伝い、ベッドまでお連れする。
「ふぁ……いい感じに眠れそう」
「きっといい夢が見られますよ。おやすみなさいませ」
 寝る挨拶を交わして、数秒もしないうちに穏やかな寝息が聞こえてくるのは主のいいところだなと思う。不眠知らず。実に健康的だ。
 私は音を立てないように耳かき棒をしまい、懐紙を捨てて。そっとリンハルト様の自室を後にした。


2019/09/28