蜜柑とアイスの共存

それは振り子のように



「っ、げぇっ……ぁ、ご、……ぅあ゙……」
 夜営中の陣から離れて、私は夕飯代わりの兵糧を全て大地に戻していた。ここしばらく何かを腹に入れてもこうなるばかりで、もはやものを食べるのも億劫になるほどだった。軍医にぐらいは相談した方がいいのだろうか……とも考えるが、持久戦が続きただでさえ傷病者が多いのだ。著しく隊長を崩しているというわけでもないのに貴重なベッドを埋めるわけにもいかない。それに、原因は一応ではあるがわかっているのだ。兵を率いる将の一員として、これぐらいで泣き言を言っていては部下に示しがつかない。
 地面を蹴り無造作に吐瀉物を隠す。口直しに水だけでも飲まなければ。そう陣に戻ろうとすると、誰かの足音が聞こえた。──敵かも知れない。獲物を片手に息を殺し、その人物が誰であるのか、敵であれば、相手に気づかれぬ内に……。
「誰か、そこにいるのか」
「──…せん、せい?」
「……コラル」
 姿を現したのは、先生だった。木の陰から出てくれば、エメラルドの髪がきらきらと月に照らされる。声を上げれば先生も私がわかったのか相好を崩した。が、すぐに柳眉が下がる。
「……具合が悪いのか」
「え……あ、ああ……はい、少し」
 誤魔化そうかとも思ったが、先生の瞳に見つめられるとなんでも見透かされているようで落ち着かない。素直に答えれば深くは追求しないだろうという打算もあったが、私の思いとは裏腹に先生はそこらの座りやすい場所を見付けると腰を下ろした。そして、横のスペースをぽんぽんと叩く。
「ほら」
「えっ、あの」
「……座って?」
 ジェスチャーだけでは伝わらないと判断したのか、先生は首をかしげて言った。私はどうしようかと視線や手を色んな方向にさまよわせたが、結局は先生の隣に収まることとなる。
「何かあるなら……話してほしい。自分は……君の先生だから、解決するのを手伝わせてほしいと思う」
「……」
 先生の言葉は、胸にじんわりと染み入るようだった。ああ、私は誰かに話を聞いてもらいたかったのだ。そう自覚するほどに。
「……おかしな話だと、笑ってもらっても構わないんですが」
「笑わない」
 間を置かない返事にこちらの言葉が詰まる。どうしてここまで人のほしい言葉がわかるのだろう。五年前、ガルグ=マクではじめて教鞭をとった頃は愛想笑いもしない人だったのに。
「……実は、最近……人を殺す夢を見るんです」
「夢」
「はい。……確かに敵兵はこの戦で数え切れないぐらい斬ってきました。ですが夢に見るのは、敵兵だけではないんです。今同じ軍で戦っている……仲間たちを殺す夢も見るんです」
「……」
「それだけじゃない。今まで斬ってきた敵兵との、ありもしない関係の夢が……あまり内容は憶えてはないんですが……友人や……恋人……だったような夢まで、それも……複数……」
 また吐き気がぶりかえす。じっとりと浮かぶ汗を拭う気にもなれず、なるべく落ち着こうと深呼吸をした。
「なんというか……すごく、怖くて。私がどうなってしまうのか。……せんせい、私は一体、誰なんでしょうか。私は……ほんとうに、私なんでしょうか」
 うつむくと、そっと手を取られた。「冷えている」と感想のあと、ぎゅっと握られる。所々かたく感じるのは、ずっと傭兵をしていたという経験からくる剣のたこだ。
「大丈夫」
 ふっと顔を上げると、先生は先ほどと同じ、全てを見通すような瞳で私を見つめていた。
「君は、紛れもなくコラルだよ。兵を率いて目的にまっすぐな君も、悩みを人に話せずにいる君も」
 こちらを安心させるように先生は微笑んでいた。ずっと息苦しさの原因となっていた胸のしこりが取れたようだった。それからしばらくは気をそらそうとしてくれたのか、全く関係のない世間話をいくつかして、月が雲に隠れて、それを合図にもう戻ろうということになった。
 大分吐き気はマシになった。息も軽くなった。これで、もう大丈夫なはずだ。
 私はただひとつ。先生に殺された夢も、殺した夢も見たことがある、とは。ついぞ言いだすことが出来なかった。

「すみません、テントまでおくってもらうなんて……」
「気にしなくていい。以前……ああ、五年前か。女神の塔で話しただろう。いつかフォドラの外も見てみたいと。出発するまでは、先生の生徒なんだから」
「うわ……な、なつかしい……いや、先生にとってはついこの間の話なんでしたっけ。ちょっと恥ずかしいですね」
「……いやか?」
「嫌じゃ、ないです。うれしいですよ……憶えてもらえてたのは」
 先生はいつも自分は先生だ、という顔をしているのに、こういうときは素直に嬉しそうな顔を見せるところがずるいと思う。年相応の──先生の正確な年齢は教えてもらえていないが、私とそう変わらないだろう──顔を見せるのは、とても、ずるいと思う。
 そうもごもごしているうちに私にマグカップを渡す。いい香りだ。
「人からきいた……それを飲めば、身体が温まってよく眠れる」
「あ……ありがとう、ございます」
「うん。……一つ、ああ、飲みながらでいい。……ただの、自分のわがままなんだが」
「はい」
 お言葉に甘えてマグカップに口をつけた。ほんのりと甘い香りがたっている。身体が冷えているため、お茶の熱で喉から胃へ落ちていく様がよくわかった。
「これからは一人で抱え込まないで、自分にいろいろ、話してくれないか。……もちろん、話せる範囲でいいから」
「えー……。先生、もしかして、私が先生にまだ言ってないことがあるって、気が付いてましたか」
「……一応」
 ちょっと気まずそうに目をそらされた。気まずいのはどちらかというとこちらなのだが。生徒のプライバシーを覗き見ているような気分にでもなっているのだろうか。不思議な人だ。
「先生って……なんだか、本当に全部見えてるみたいですよね。わかりました、じゃあ私も、話せる範囲で、先生にお悩み相談してもらおうと思います」
「見えてるみたい?」
「はい。みんなもいってますよ」
「……そうなのか」
 むしろいままで言われたことがなかったのだろうか。そうだとしたら、そちらの方が驚きだ。室温の低さでほどよい熱さまで下がったお茶をごくごくと飲み干した。先生は、また私をじっとみつめていた。今度は真顔ではなく、微笑んでいるから、「すべてを見透かされている」感は薄いが。
「……よかった、全部飲めたね」
「……ごちそうさまでした」
 どうやら先ほど夕飯を戻したことを気にかけてもらえていたらしい。
 人体というのは本当に不思議なもので、あれほど冷や汗をかいていた私も身体が温まると一気に眠気にいざなわれていた。きっと先生がくれたお茶の影響も大きいのだろう。明日目が覚めたら、どういう茶葉を使っているのか聞いてみなければ。
「――さぁ、明日も早い。もう寝よう」
 そう言って先生は立ち上がる。ここしばらくろくな睡眠がとれていなかったからか、ぐらつく意識の中私は辛うじて返事をした。
「ありがとうございました……先生、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。今日こそは、いい夢を」
 先生に見守られながらふわふわと夢の世界に落ちていく。ああそうだ、眠るという行為は、本来こんなにも気持ちのいいものだったのだ。

「――…すまない。コラルの、全てを見たいというわがままなんだ。君を殺すのも……殺されるのだって。思い出してしまってつらいなら……もう思い出さなくていい。自分が、すべて覚えているから」
 切なげにしかし愛おしげに目を細めて、眠る私の髪を撫でた先生のことを私は知らない。


2019/09/22