蜜柑とアイスの共存

竜と歌えば


「ガハッ……ぐ、やっちまった……。……~っ痛ぇなクソ~~!!」
 そこらじゅうにある水たまりの一つに口内に溜まった唾を吐き出せば、滲んでいくその赤さに苦々しく顔を歪めた。常ならば陽の光を反射してはキラキラと輝く金の髪も、いまは厚い暗雲から降り注ぐ雨がしとどに濡らしていた。少年は雨粒から逃げるように、大樹の陰に身体をあずけて座り込む。
 なんとか森の奥まで逃げ込んできたはいいが、勝手がわからないままずいぶん深くまできてしまったようだ。一応、大型の獣の縄張りには入り込まないように気を配ってはいたが――。
 晴れていれば鳥のさえずりや虫の羽をこする音が聞こえるのだろうが、今はただただ降りしきる雨音にかき消されていく。「ちょっとしたトラブル」で傷を負った少年はバラムといい――実際には別の名前が生みの親から与えられていたが――、こちらの世界に生まれてまだ十数年の子供だ。
 少年はある目的のために日夜暗躍を続けてはいるが、見据えるゴール地点ははるか遠くだ。前世と比べることもできないほどひ弱になった姿では、かつてのようには活動ができずどうにも調子を図りかねている。現に今も傷をこさえて、座り込んだが最後、もう二度と立ち上がれないのではないか、というほど身体は言うことを聞いてくれなくなっていた。
 再び口の中に広がる鉄の味を吐き出しつつ、骨が何本折れているのか、いまいち考えたくはないがこれからの行動を立てるために考える。
 自分の呼吸音がやけにうるさく、それを振り切るためにも痛みに霞む目を一度閉じ、ゆっくりと開いた。そして、彼はある生物と目が合った。
「……―げん、じゅう……?」
 バラムはあっけに取られた。彼よりも何倍も大きな生物が、わずか数メートルというところで少年を見据えていたのだ。いかに負傷していたといえど、いかに雨の音がうるさかったといえど……ギリ、奥歯をかみしめる。全く気がつかなかった。警戒を怠っていたつもりはないが、ここまでの接近を、今まで見たことのない生物に許していたとは。
 少年は注意深く「それ」を観察する。鱗に覆われた大きな身体は蛇のようでもあり、また肉食獣の様でもある。長い首に長い尻尾。硝子のように透き通る鱗は雨粒に縁取られ、陽の光の元ではどう見えるのだろうか、と打開策を探る傍らぼんやりと夢想した。普段山で見かけるような動物で似通っているものは到底思いつかないが、かといって、辺境でまれにみるようになった幻獣であると断言するには、決定打に欠けている。その理由はこの森にいる動物の様子に、他の森とそう変わったところがないというのが一つ。仮に「それ」が幻獣であれば、フォトンが豊富にあるだろうこの森を荒らさずに落ち着いた様子でいるのはおかしいというのが一つ。
 ピリピリとした緊張感で肌を粟立たせたバラムは痛みにうめきつつも身じろいで、動物とも幻獣ともつかない。比べるとしたら、竜やドラゴンの類だろうか?しかしそんな想像上の生き物は……いや、いる。少年がかつていた世界には、種族名としてこそ付いていなかったが、ヴィータが見ればドラゴンと判断しそうな姿形をした者が。
ではやはり、目の前にいる生物はメギドラルとなんらかの関与が?いまだバラムを見つめたまま動かない「それ」に声をかける。
「……ハッ、オレを食おうってのか?……いいぜ、こちとらもう一ミリも動く気力すらねーんだ。まぁ、なんだ?食うならあんまし痛くないように……それこそ、ひと思いに頼むぜ」
 そう言いつつ、バラムは「それ」から見えない位置にナイフを構えた。もちろん何が相手だろうとやすやすと命を投げ出すつもりは毛頭無い。「それ」がただの動物であれば十分に勝算はあるが、幻獣か、もしくはそれとも違う何かである可能性も考えた上で自分のすべき行動をシミュレーションしていく。いいか、あれが口を開けたところが勝負だ。動いてくれよ、オレの身体──。
 一瞬の隙を狙って待ち構えていたバラムだが、少年の思惑に反してその巨大生物はゆったりとした動きで引き返していく。「あれ」が少年を認識していたことは間違いないだろう。それでも彼を襲わなかったのは、今は腹が減っていなかったからか、それともそもそも肉食ではなかったからか。
 「あれ」が姿を消してどれぐらいの時間が経ったのか。わずが数十秒のことのようにも思えるし、数十分経っていると言われればそうとも思える。川の氾濫が危惧されるほど降りしきっていた雨もいつのまにか小雨になっており、まるで「あれ」が引き連れていったようだ。馬鹿なことを考えていると自分でも思うが、あの幻想的にも思えるあの生物がそういう能力を持っていても不思議では無い。そう思いながら、緊張状態から解かれた少年の意識は急速に暗転した。

 少年は聞き慣れない音色を夢うつつで聞いていた。笛の音色のようにも聞こえるし、鳥のさえずりにも聞こえる。どこか切なげな響きを帯びたそれに促されるようにうっすらと目を開けて──意識がなくなるまでのことを思い出した少年は飛び起きた。そして、身体のそこかしこに走る激痛に再び伏せる。
「う゛っ……ぐ、ぉ……自分の体調……忘れてやんの……」
 少しでも痛みから意識をそらすために自分で自分に軽口をたたいてみるが、むなしさが広がるばかりだ。寝ている場所が草とは違うクッション性を帯びていることに気がつき、暗闇に目をこらし手で探ると、どうやらこのあたりの地域に広く分布している広葉樹の葉であることに気がついた。
「……?なんだこれ、誰が……」
 寝ている場所が記憶にある最後の場所と違うことにもやっと思い至る。雨風をしのげる洞窟。木こりにでも拾われたか。山賊でないのなら上々──やっと身体を起こして、壁伝いに外へ出ようと身体を引きずる。
 ぬっ、と横道から出てきたそれに軽くぶつかった。体調故に踏ん張りがきかず倒れ込むバラムだったが、覚悟していた衝撃が来ない。代わりにばらばらと剛柔関係なく何かが落ちた音の後、首根っこをつかまれ、一瞬の浮遊感があったかと思えばゆっくりと地面に下ろされる。
「──…え、え?オマエ……」
 夢うつつで聞いていた音色がすぐそこからしている。すぐそこからというか、間違いなくあの雨の中で見た巨体が目の前にいる。「それ」が、ぴるぴると表現しがたい鳴き声を出している。大きな身体のどこからそんな音がでているのだ。とバラムは突っ込みたくなったが、驚きのあまり声がでない。たたらを踏むと足に何かが当たった。そういえば先ほどなにかが落ちる音がした、と注意を向けると、木の実やら石やら、葉っぱやら毒きのこやら。一部悪意を感じるラインナップだが、一応食べ物も混じっているのでもしやと思い顔を上に向ける。洞窟の中なので、「それ」は長い首を十分に伸ばすことができず、ちょうど大人よりもうすこし高いぐらいの位置にとどまっていた。
「……オマエ、が……助けたのか、オレのこと?」
 軽く頭を小突かれる。どういう意味の小突きなんだ、それは。ただ、その小突きがとても手加減されていることはわかる。意図は全くわからないが、どうやらこの生物は死にかけのバラムを介抱していたようだ。
 その後バラムは「それ」に咥えられ水場に連れて行かれる。少年を咥えている間もぴるぴると笛の音のような鳴き声をさせていたのだが、どうも喉から発声しているわけではないらしい。虫のように羽を擦らせて出している音にしろ、その気管もいまいち見当たらず。まぁいままで見たこともない生物であれば、よくわからずとも当然のことかと無理矢理納得しかけるが、気になるものは気になるもので。
 敵意がないことは確かなようだし、ここらにはバラムの命の危機はあまりないようだ。水場に集まる他の動物に溶け込む「それ」を見上げて、少年は思った。



 木の皮を剥いだもの。石。木の実。小動物。その他食べ物だったりそうではなかったり様々諸々。これが何を意味するかわかるだろうか。バラムは当初、「それ」が「ヴィータはどのようなものを主食としているのかわからないから、適当に持ってきている」だけなのだと思っていた。しかしその考えが間違っていることに、少年はすぐに気がついた。
 なぜ気がついたのか?理由は、「それ」が前述したものを美味しそうにばりばり食べていたからだ。
「……オマエが最初オレに毒キノコとか石とか持ってきてたのって、もしかして、オマエが食えるもん持ってきてたって事なのか……?」
 大分調子が戻ってきた少年の問いかけに「それ」はぴるぴると謎の音で答える。肯定か否定かは少年も気にしていないし、いまいちどう答えたのかはわからないが。
「……いや、ヴィータだって大抵の動物と比べて雑食だっていうけどよ。オマエのそれは……雑食っていうか……悪食だろ」
 びしりと指差して断言した。そんな彼を気にした様子もなく咀嚼しているのは、バラムがつい先ほど見せびらかし目的で手にした宝石である。
 高価なそれ――というか、今現在計画しているうちの一つを協力してもらうための対価として用意した宝石だ。少年が「まあオマエは特に興味もないだろうけど」といいつつ取り出した宝石に、迷わず食いついた。一片の誤解もなく、文字通り。
 当然バラムは絶叫した。絶叫して、返せよと盛大にわめき散らし、鱗で覆われた身体を叩いては馬鹿野郎この野郎と詰める。まるでかりんとうでも食べるかのようにパリパリスナック感覚で消費された宝石<苦労の結晶>に、バラムはほろりと涙をこぼした。
 結果的に「それ」に縋り付くようにしてうずくまり、そして己がまさに今触れている物にはたりと気がつく。
「――…いやまてよ、オマエの鱗、いい値段で売れるんじゃね?」
 思い至るや否や、その鱗の希少性について一人でブツブツと論じ始めるバラム。それに相槌を打つように生物はぴるぴる鳴いているが、その鳴き声はバラムの意識の外だった。
 流通ルートや誤魔化し、辻褄を合わせて。あいにくと少年はそういうものに慣れていた。しばらくして結論付けた少年は頷いた。
「いいか、今から鱗剥がすけど、多少痛くてもガマンしろよ。なんてったって今回のことは、オマエの過失もあるんだからな!」
 念押しして凄み、鱗、つまり鎧がなくなってもあまり困らなさそうな前足上腕、内側の鱗に手をかける。ぴるぴる、わかってるのかいないのか、いつもと変わらない調子で「それ」は返した。

「……こうしてみると、オマエの鱗って不思議だよなー……、ガラスみたいに透き通って……剥ぐ前は普通の鱗の色なのに、剥がすと虹色に見えるってどうなってんだ?」
 玉虫ってわけでもあるまいし……陽の光に鱗を透かして、くるくると指で遊んで見せる。そうしているとまた巨大生物が顔を寄せてきたので、今度はおやつ感覚でパクリと行かれないように手の中へしまい込んだ。
「おっと、あぶねー……。……いや、一応自分の老廃物?みたいなモン?なんだし……流石に食べねえよな?……な?」
 とはいいつつしっかりと鱗を抱き込んで離さないのは、生物の悪食さ身を待って知っているがためだ。

 バラムは緻密なガラス細工だと大変喜び評した協力者に倣い、鱗を持つ巨大生物のことをフラスと、勝手に呼ぶことにした。



 何だかんだ季節は巡り、少年は青年になり老いなくなった。青年は青年のまま数十年の時を過ごし、また竜も変わりなく青年のゆったりと進む時間に寄り添っていた。寄り添われているのだと、青年は知人との別れを幾度も経験しつつ思いたがった。
 だが変わらぬものなどあるはずもなく、バラムが竜の異変に気付いたのは、とある雨の日だった。
「……フラス、オマエ……最近目が濁ってきたんじゃないか」
 ガラス玉の目も今は白く濁り、フラスはしきりに目を瞬かせている。
 そっと目元に手を添えると、そこから鱗がポロポロと落ちていく。ぴるぴる、いつものように鳴きながら、フラスは顔を背けた。
 バラムははっとして手を引っ込める。指にはいつかに剥いだ鱗より、比べ物にならないほど薄くなったそれの欠片が残っている。
 思いあたることがないわけではない。ここしばらくのことを思い出すと、フラスは動きが緩慢になったように感じるし、食欲も落ちている。あまり日の光の下にはいかず洞窟で過ごすことをよしとしている節もある。
「フラス、オマエ……」
 呆然と立ち尽くす青年を遠ざけるように、フラスは鼻先でバラムの体をぐいぐいと押す。
 そのたびにパラパラとまた鱗が落ちてはバラムの衣服に付着するので、バラムは思わず一歩下がった。
 吐き出す息を震わせ、バラムは引きつった頬を持ち上げる。
「……は、はは……なぁフラス。何年、何十年経っても姿が変わらないってことに対して、変わらず接してくれる知り合いってのは、案外貴重なんだぜ?」
 無論、青年もこの生物の寿命について考えなかったわけではない。だがヴァイガルドの世界にも百年、二百年と生きる種は少ないながらも皆無ではないし、そもそも他に例の見ない生物であるフラスは、ひょっとしたらメギドラルか、そうでなければハルマニア寄りの生物なのではないか、とありえない希望的観測を交えたこともあった。
「……いいよ、フラス。オレがオマエを見ていてやるよ」
 かみしめた唇を解いて、努めて穏やかにバラムは言った。
 それを聞いたフラスはバラムに押し付けていた頭をいつもの位置──とは言っても洞窟の中なので依然として低いことには低い――に戻し、ねぐらにしている奥の方まで進んで座り込んだ。
 そして、またぴるぴるとすっかり聞き慣れた鳴き声でバラムに呼びかけ、いつもと同じ寝る体勢に入る。
 この生物が動かなくなるまで、あとどのくらいなのだろう。バラムはひんやりとした手触りを思い浮かべながらフラスに手を伸ばし――まだ己の指先に薄い鱗が張り付いていることを思い出して、そっと引っ込めた。
 フラスから付かず離れずの位置に適当な敷物をしいてあぐらをかく。ゆったりと上下する背中を感情の見せない瞳で見つめるバラム。彼は今まで、あまり少なくはない数の同胞にしてきたことと同じことを、フラスにもまたしようとしていた。
 バラムにはひとよりも長い時間があるから、何かと見送る機会は多かった。

 うつらうつら船を漕いでいたバラムは、聞き慣れた笛のような音色にはっとして顔を上げる。不死者は飲み食いをしなくても空腹感以外に特に不都合はないが、眠気にはどうしても抗いがたい。あれからフラスの体はみるみる白くなっていき、もう少しで完全に元の色合いがわからなくなってしまうというところだったが。
 バラムは勢いで立ち上がり、フラスの寝床に目をこらす。
 するとそこにフラスはおらず、白い破片がそこら中にばらまかれるように落ちていた。
 欠片はフラスが寝ていたところを中心に洞窟の入り口と続いており、また夢うつつで聞いていたフラスの鳴き声が外から聞こえてきた。
 状況が飲み込めず、白い破片と外を見比べるバラムだが、フラスの鳴き声がもう一度聞こえるやいなや、洞窟から飛び出していく。
「……フラス!」
 すると、緩慢な動きはどこへやら。川につかってのんきに水浴びをしていた。あまりのことに呆然とするが、なんとかその生物の呼び名を喉の奥から引っ張り出す。
 するとフラスはまるで今バラムに気がついたと言わんばかりにぴるぴると鳴き、ざぶざぶ川から上がってくる。そして呆然としているバラムの前に比べものにはならないほど軽い足取りで移動して、つき付けたのは長い尻尾の中ほど。
「?……なん、……」
 フラスの尾に、白いものが張り付いていた。そっとそれを取り詳しく見てみると、フラスの鱗の目と全く同じもので。
 バラムが残っていた白い破片を取り除いたことによりフラスはまたぴるぴる鳴いて、今度はバラムを連れて川へ入っていこうとする。
「っちょ、待て、俺は別にいい……っ!」
 少しも聞きやしない生物はざぶざぶ音を立てて再び川へ入っていった。バラムは尻尾を抱き込み、衣服が濡れていく感覚にげんなりしながらも、確かめるように鱗の一枚いちまいを指でなぞっていく。もう白く変化した鱗も、指先に張り付くあの感触もない。
「……脱皮するとか……聞いてねーし、つーか、蛇かよ!言えよ!ビビるとかそういうレベルの話じゃねーだろ!」
 水面をばしゃりとたたき、高く水しぶきを上げながらバラムは叫んだ。
 水がかかったフラスは目を数回瞬かせてやり過ごした後、楽しげにぴるぴる鳴いてはバラムを尾で持ち上げる。
「なぁ、聞いてんのかよっ。人が、どんな気持ちでいたと思ってんだ」
 聞いているのか聞いていないのかわからない。わからないが、とにかくご機嫌な様子のフラス。脱皮か。脱皮をしてすっきりしたのか。バラムは行き場のない感情をこれでもかというほど持て余していた。
「オマエ……、……はぁ。なんかもう、いいや」
 気力をごっそりと持って行かれた。これ以上わめく体力が残っていなかったのもそうだが、何事もなかったことに胸をなで下ろしているのも事実だ。すっかり騙されたような気分ではあるが、フラスは騙そうとしたわけでは当然ないのだろうし。
 ──そもそも、そんなこと考えてすらいなさそうだ。
 はぁ。大きなため息をついて、気持ちを切り替えた。まだまだ水浴びを楽しんでいるフラスの気を引くため、キラキラと太陽の光に反射する鱗をぺしぺし叩く。
「とりあえず気が済んだら、メシ食おうぜ、メシ」
 バラムを己の背に移動させて、フラスは歌うように鳴いた。


18/8/19