蜜柑とアイスの共存

揺蕩うもの



「ううっ……起きてよぉ……」
「……ほら、泣いてばかりじゃ、この子がゆっくり眠れなくなっちゃうよ」
 ぽたぽたと手の甲に何かが落ちてくる感覚、そして震えた声。家族が泣いているのがわかる。もう目は開かないし、夢うつつにいるようなぼんやりとした思考だけれど──。それでも、悲しい。現代の医学より、病はもっと強かった。医者から余命がそれほど長くないことは伝えられてはいたけれど、もっと何かしてやれることがあったんじゃないか? 悲しむ家族に申し訳なさが募る。
 苦痛はない。ただ、置いていくことだけが悲しい。だからといって、もはや身体を動かすこともかなわない自分にできることはもうない。
 ただ一つできることといえば、遺された家族が、日常に帰って行くことを願うくらいだ。
 身体の感覚はほぼ消えかかっているから、もしかしたら一ミリも意味のない行為なのかもしれない。それでも、薄れ往く意識の中で、少しでも思いが伝わるようにと、家族の手を握った。



 と、いういわゆる前世の記憶を、いきなり思い出した。よくある記憶喪失モノの映画や小説では頭を強くぶつけると……といったシチュエーションが見られるが、僕の場合は現在の兄弟と森で獣に襲われたことをきっかけに思い出した。
 生命の危機になんとかして解決策を探るために、普段の何倍もの動きを見せるというが。だからこそ事故にあう瞬間はスローモーションのように世界がみえるとかいう話もある。
 だが、記憶を取り戻した僕が機転をきかせて危機を乗り越えたのかというと、決してそうではない。というか、たかだか四歳か五歳そこらの子供にはどう考えても獣を退けることは難しい。体の大きさも重さも戦闘力も、とても勝てるはずがないのだから。
 それではどうこの場を切り抜けたのかというと、森に入ったきり帰ってこないことを心配した村の大人たちが助けにきてくれた。怪我で朦朧とする僕を何とか元気づけた兄弟と共に大きな木に登り、そこで獣があきらめるのを待っていたのだ。ある意味粘り勝ちともいえる。

 見慣れた天井、いつも通りのシーツの感触、少し硬めの枕。じいちゃんとエールと三人で暮らしている家だ。どれぐらい眠っていたのだろうか、と起き上がって確認しようとすると、身体中に激痛が走る。
「……っ!!」
 思わず声がでた……はずなのだが、特に何もない。強烈な違和感を覚えて喉に触れると、粗い布の触り心地。緊張状態にあったためか痛む節々を無理やり引きずって鏡の前へ。ぐるぐると包帯が巻かれていた。それをわずかにずらすと血液で張り付いていた布がぴりりと傷みを誘う。
(う、うわぁ……)
 獣の爪痕が、これでもかというほどはっきりと見えてしまった。
 治療はしてあるらしく縫合痕があるが、傷口を見てしまったために余計に痛さが増した気がする。声が出なかったのは、この傷のせいか。ためしに声を出そうと試みてみるものの、喉に激痛が走るだけでかすれ声すら出る様子がない。しばらくたてば治るものなのか、それすらもわからないためひやりと背筋に冷たい汗が伝う。
 とはいえ、首を負傷して生きていることそのものが奇跡のようなものだろう。前世を思い出してそのまま死ぬようなことにはならなかっただけマシだ。そう思い直した僕はそっと包帯をもとの位置に戻して、ひとまず家族を探そうと扉へ向かった。
 が、それよりも早く部屋のドアが開く。入ってきた小さな子供は僕を見て、大きな目をこれでもかというほど見開いて、そして見る見るうちに涙をあふれさせていく。僕と同じ目線で、同じ顔の、僕の兄弟――エールだ。
「っ、ロイ……!」
 嗚咽を漏らして僕に抱き着くエール。彼を受け止めきれずに床に尻もちをついてしまった。その衝撃と怪我の痛みで思わず悲鳴をあげそうになるが、喉がやられているせいで切羽詰まったような呼吸の音がしただけだ。
「よかった……もう何日も目を覚まさなくって……俺のせいで、ロイが起きなくなったら、どうしようって……おもって……っ」
 泣き出した兄弟をみて、こちらもつられてしまう。ああ、そうだ。情報の洪水に巻き込まれて、気持ちの整理がついていなかったけれど。
 エールは怖かったし、同じように僕も怖かった。あのまま死んでしまうのではないか。エールまで大けがをしたら。このまま誰も助けに来なかったらどうしよう。僕たちは怖がっていたんだ。エールを抱きしめ返して、ぼろぼろと大きな粒が頬をつたってはエールの肩に染みを作っていく。
 僕たちの涙は、じいちゃんが部屋に入ってくるまで止まることはなかった。



 この世界と前の世界で違うところというとたくさんある。まずここは、少なくとも21世紀ではないところ。というか、多分地球ですらないところ、ということだ。ここは王都から遠く離れた辺鄙な場所でグロル村というところだ。住人の数もそれほど多くはないが、みんな助け合って仲良く暮らしている。
 あとは「大地の恵み」というものがあることだろうか。これは生物が生きるために必要不可欠なもので、これがたくさんあることで栄養価の高い食物が育ったりする。逆にこれがない土地は枯れてしまう……らしい。ただ大地の恵みは誰にでも見えるものではないらしく、じいちゃんとエール、僕以外の村人で見える人はいない。たまに外部から吟遊詩人や旅人といった類の人が訪れたときも、それが見える人はまずいなかった。じいちゃんが前にそういう話をしていた気がするけれど……ううん、そのときはまだ精神が外見年齢と一致していたからか、ただのつまらない話と判断して忘れてしまった。……また、改めて聞いてみよう。
「ロイ、エール。ダムロックさんがお迎えに来てるわよ」
「はーい! ロイ、行こう」
 僕とエールは今、近所の子供たちと一緒に、村で一番物知りな村長の家で勉強をしていた。ただ、僕は周りの子よりも先に問題を解き終えてしまったので、ぼうっとしていたところだ。
 夕方になりじいちゃんが迎えに来たということで、僕たちは先にお開き。荷物をカバンに詰めていく。
「それにしても……最近、ロイは真面目にお勉強しててえらいわね」
 村長の奥さんが僕の頭をなでる。確かに彼女の言う通り、以前の僕は家の中で勉強するよりも外で遊びまわる方がずっと好きだった。じっとしていられないのは小さな子供であれば普通だが、今の僕はその何倍も生きた結果の記憶が戻っているのだ。外で遊びまわるのも変わらず楽しいと思えるが、それよりも知識欲の方が勝っていた。
 村長の奥さんはほめてくれたが、それに対してエールはむすくれている。
「……ロイが真面目なのはいいけど、その分オレが怒られるのは納得いかない……」
「あらあら、エールも元気でいい子よ。それに今日はちゃんとお勉強したんでしょ? えらいわね」
 彼女がエールにも同じようになでると、吊り上げていた眉をへにゃりと下げて破顔した。
「村長先生、ありがとうございましたー」
 エールがお礼を言うのに合わせて、僕もぺこりとお辞儀をする。玄関口で待っていたじいちゃんに二人で駆け寄って、今日あった出来事を矢継ぎ早に報告していく。

 森で獣に襲われて、僕が目を冷ましてから一か月。体調もほぼ元通りになった僕は以前と同じく村中を駆け回ったり、家の手伝いをして過ごしていた。ただ一つ変わったことといえば、喉のこと。いつまでたっても声がでないままの僕を診察した村医者は難しい顔をして、じいちゃんに何かを伝えてたのを知っている。この辺で一番大きい街まで医者を尋ねても、状況は変わらなかった。こっそり話を聞こうと耳をそばだてても、子供には聞かせられない話だとでもいうのか、ことごとく遮られてしまう。
 インフォームド・コンセントのようなものは……ない、ないかな。それ以前に僕は子供だし、判断力がないものとみなされていても仕方はないのだけれど。でも、治る見込みがあるのかないのかぐらいは教えてくれてもいいんじゃないかと思わなくもない。……その見込みがないから、伏せられている。とも考えられるけど。
 声が出せないことはもちろん不便だが、ないならないで工夫を凝らすのが人間というものだ。簡単なものならジェスチャーで伝わるし、そうでなくとも手で会話できるように、遊びのような感覚でエールと指文字を考えたりもした。勿論それだけでは十分に伝えずらいこともあるので、僕が熱心に勉強をしているのも文字を使って伝えることができれば、という考えもあった。
 それを知ったエールが、僕とコミュニケーションが取れるようにと今までうわのそら気味だった勉強に、真面目に取り組み始めた。さらにはそのことを察したのだろうじいちゃんはご飯の献立をメモに残すことにしたらしく、僕たちはそのメモと台所においてある食材、そして漂ってくる匂いから献立を当てる、という習慣が新しくできつつあった。
 あの一件以来、森に入っていく子供がいないようにと大人たちはより一層子供を見守る意識が強くなったようで、ちょっとでも子供だけでいようものならどこからともなく大人が話しかけてくるようになった。
 原因は僕と言っても過言ではないため文句の言える立場でないのは重々承知だが、声が出せないからもしものときにと持たされた鈴を腰にぶら下げているのも、正直なところ、一人でのんびりと過ごしたいときには窮屈でもあった。だからこそ家に帰るとなるべく部屋に引きこもっているのだが。
 それでもプライバシーなど存在しないので、羽を伸ばすというのがなかなか難しいところではある。
「ロイ! 何回も呼んで……なに書いてるんだ?」
 ひょっこりと机をのぞき込んできたエールに肩を揺らす。集中していたせいか、まったく気が付かなかった。これがエールだったからいいものの、じいちゃんだったら誤魔化すのが大変だった……。僕はほっと胸をなでおろした。
 なぜなら、今書いているのはこの世界、ヴァイガルドのものではない日本語だから。
 意味があるかは不明だが、忘れないうちに今の状況を整理しておこうと思ったのだ。ついでに日記のようなものを書いてみたり。漢字なんかはよく使わないと忘れる、なんて言うように、いつまでも日本語を覚えていられるとも限らないし、なんとなく忘れがたく思ったから。
 しかし、エールにはなんて説明しようか……。彼を振り返り、僕は少し考える。
「なんだ? これ……ロイ、まだ俺が読めない文字も書けるようになったのか?」
 が、寂しそうに呟くエールに僕は動揺した。森での一件以来、僕とじいちゃんに対してよりべったりになったエールだが、まさかこんなことで不安にさせるとは。あまりのことに言葉につまっていると、エールは自分の椅子を僕の横まで持ってきて腰かけた。
「ロイ、俺にも、なんて書いてあるか教えて?」
 肩を寄せて、寂しそうに、むきになったように尋ねるエール。もし、エールから他の誰かに日本語が伝わってしまっても、僕と彼二人の遊びということになるだろう。それよりも、僕は家族にこれ以上悲しそうな顔をしてほしくなくて、置いていた筆を再びとった。



「ロイ、ただいま!」
『エール、おかえり』
 時がたつのは早いもので、僕が前世の記憶を取り戻してから十年ほどが経った。じいちゃんが亡くなった後も二人でなんとか生計を立ててきた。あれから結局僕の声はもどらないままだったが、遊び半分で作ったハウスサインにもかなり慣れたもだ。エールとなら会話に困ることはないし、村の人たちも一部を覚えてくれたり、大体察してくれたり、込み入った話の時は筆談でほとんどのことはどうにかなった。
 今日は僕がはやく帰ることができたから、ご飯を作ってエールの帰りを待っていたところだ。大体エールはタイミングよく帰ってくる。この前、時期を見計らっているのかと問うたところ、なんとなくわかるんだよなぁ、という返事がきた。食い意地が張っていると茶化せば、エールは少し難しそうな顔で「ロイが呼んでるような気がするんだよな……」といいだした。なんだそれ、僕はそんなエスパーの才能など持っていないぞ。持っていたら、ハウスサインなど使わずにそれで人と会話する。
 そう伝えると、エールはへにゃりと眉根を下げて同意した。その表情に、口の中に渋いものが広がる。
 エールは僕が話せなくなったのはまるで自分のせいだと思っているふしがある。きっとそれは、あの日森へ行こうと最初に誘ったのがエールだったことや、自分だけ無傷だった罪悪感がそう思わせているのだろう。しかし僕はそれをはっきり違うとわかっていた。もともと子供だけではいかないようにと言われていた森に入ったのは、エールが誘わなければ僕から言っていたし、喉を切り裂かれた僕を勇気づけてなんとか生還までこぎつけられたのはほかでもないエールのおかげなのだから。
 と、いうことを僕は再三彼に伝えているのだが、失われた声というのは彼に重くのしかかっているらしい。
 あまり君のせいではない、と言い続けるのも、逆に重荷になってしまうのかもしれないな。
 最近そう思うようになった僕は、暗い顔のエールの頬をむにゅりとつまむ。
「?! にゃ、にゃにすふ……」
『ご は ん』
「……ひゃい」
 にっこりとおなかがすいたアピールをすると、エールは荷物を置いて手を洗いに洗面所へ向かっていった。

 ひりりとした喉の痛みにタートルネックの上からなぞる。村医者から聞いた話では、結局僕の喉が治らない理由は原因不明らしい。喉に異常はないようで、ほかに考えられる理由と言えば心因性のもの。つまり、僕は死への恐怖でいまだに声を取り戻せていない……ということになるらしい。
 今一実感がないので、というより一度死んだ身ではあるのでその話を聞いたときは思わず神妙な顔になってしまったが、死ぬことに対する恐怖が消えることはきっとないだろう。今でも死ぬことは怖いし、じいちゃんが亡くなったときは本当に悲しかったし――それは村の誰が亡くなっても同じだけれど――、むしろ、一度死んだからこそ、よけいに怖く思っている、ということもありえるのかもしれない。
 明日は雨なんだろうな、もう一度喉を軽くさすって、夕飯の準備へ取り掛かった。

「今日も日記書いてるのか?」
 こくりと頷く。記憶が戻ってしばらくしたころから習慣にしていた日記は、すでに日常の一部へと組み込まれていた。僕が書いているのをじっと横でみていたエールもとっくに日本語を読めるようになったし……。モノを書くところを人に見られるのは、結構緊張するものだけれど、エールに対しては兄弟という気安さがあるからか、特に意識もしなくなっていた。
『エールも、日記を書いてみたら?』
「俺? 俺は……うーん、べつにいいかな。ロイが書いてるのを見る方が楽しいし」
 何度目かの提案も、そのたびに同じ言葉で彼は首を横に振る。人の作業をみるのは楽しいという感情はちょっとわかるので、それ以上は特に何も言わないけれど。
 エールには、僕の前世のことは話してある。ある夜一人で抱えることがどうしてもつらくなって、それを彼は聞いてくれるというから、ついぽろぽろと口から(これは便宜上の表現だけれど)言葉がこぼれていった。
 つたない言葉を彼はゆっくりと聞いてくれて、そして最後に「昔のロイも、今のロイも、俺の家族だからな」とぎゅうと抱きしめてくれた彼に、僕はとても感謝している。
 僕がそうしてもらったように、僕もできれば彼の孤独やつらさにより添えたらいいのだけれど。夕食ごろの浮かない彼の顔を思い出す。歯がゆさに思い悩んでいると、知らずのうちに難しい顔をしていたのかエールの指が眉間をつついた。
「ヘンな顔」
 へへ、と可笑しそうに笑う彼。そのヘンな顔にしてるのは、君のせいなんだけれど。
 ムッとした僕はエールの鼻をつまんで、それからすぐに布団をかぶる。慌てる声が聞こえるけれど、知ったところではない。布一枚を隔てた向こうでゆすられたり彼が何かを言っているのがわかるが、もごもごとよく聞こえない。聞こえないので、知らない。
 しばらくして静かになった後、「おやすみ」という言葉が聞こえてきた。それは聞こえてきたので、布団の隙間から片手だけをだして同じ言葉を返す。ろうそくの火がふっと消えて、エールも布団を被れば物音は無く。部屋の中はしんとした空気に包まれる。
 気が済んだのでようやく顔を布団から出した。先ほどまでは気が付かなかったが、外ではしとしとと雨が降り出していた。


18/10/9