蜜柑とアイスの共存

普通ってなんだ?

 カチ、カチ。規則正しく時計の針が刻まれていくのを、ミロワールは睨むように見ていた。
 いつものように今から帰る、とシンプルな文面で送られたメッセージの時間を見れば、もう10分もせずに帰ってくるはずなのだが…――。
 そう考えていると、玄関から鍵が穴に差し込まれる音がした。テレビも何もつけておらず、とうに日の落ちている外からは車が通る音も聞こえない。そんな静寂な空間ではガチャリと鍵を開ける音が、とてもよく聞こえる。
 席を立って一歩踏み出すごとに、久々の下肢の感覚に戸惑うが、高鳴る胸の鼓動は不安だけではなく期待も込もっていた。玄関へ向かうと、愛しい恋人の姿がそこにある。
「――…っお、おかえりっ」
「ただいま、今日総菜屋に寄ったら、いつも贔屓にしているお礼にといくらかオマケをもらったぞ」
 ミロワールと暮らすようになってから、ジークフリートは随分庶民的な会話を交わすようになったと実感する。ビニール袋を下げた彼は嬉しそうに微笑んでおり、それからミロワールの姿を見て、やや首を傾けた。
「……新しい服か?」
「っう、うん、こないだ、買ったやつ。……えと、どう、かな?」
 長袖のニットに落ち着いた色合いのフレアスカート。あまり男性らしい箇所が目立たないように、黒タイツも履いている。ミロワールは、普段とは違う服装を――女装を、していた。手持ち無沙汰に、いつもよりずっと長い栗色のウィッグをくるくると指に絡ませて、ジークフリートの言葉を待つ。
 女装をするのは久しぶりだが、鏡で確認した限りではそう変にはなっていないはずだ。彼は少し間を開けたあと、ほぉ、と声を漏らした。
「よく似合ってるじゃないか」
 素直に感心している声色でお墨付きをもらった。
 きっとジークフリートなら否定することはないと信じてはいたけれど、やはり異性装を見せるのは緊張する。今まで伝えたことはないから余計にそう思っていたし、ほぼ誰にも言っていない趣味なのだ。彼と暮らすにあたり、女性ものの服や化粧品を持っているのはいらない誤解を生むかもしれないと持ってこなかったが、そもそも隠す必要もなかったのかもしれない。
 ――なんて、似合っていると言われたから今だからこそそう思えるのだが。
「……そっか、よかった。あ、買い物袋受け取るな。ご飯の用意しておくから、スーツ脱いできなよ」
「ああ。ありがとう」
 奥の部屋へ向かっていったのを確認して、ミロワールはうきうきと食事の準備をしに台所へと向かった。

*

「って! 感動してたんだよ!」
 あたたかな陽射しが注ぐ窓辺。質素ながらも上品さを感じさせる内装のカフェの一角で、その場に似つかわしくない震えた声ミロワールは机をたたいた。
「それが……オレの女装を受け入れてくれたのかと思ったら……ただの若者のファッションだと思われてたなんて……」
 わなわなと手を震えさせ、しまいには顔を覆ってうなだれてしまった。そんなミロワールの様子を見たヴェインは、頬杖をつきながらへぇ……と戸惑いながら相槌を打った。それを聞いてどうしたらいいのだろう、と困惑している表情だ。
「でも、ジークフリートさんは何にせよ変だとかそういうのは言わなかったわけだろ? じゃあミロワールがしてほしかったことは叶ったんじゃないのか?」
「……そう、問題は……そこで……。オレは、女装はそこまで大々的に言えるような趣味じゃないと思ってる。だからジークフリートと同棲するのを機にやめようと思ったし、やめきれなくて告白するかどうしようって結構悩んだ。でも、あの人はあっさり受け入れたし、それがただのジェネレーションギャップだと思ってた。それって、むしろオレ自身が女装趣味を“特殊なもの”だと思いすぎなんじゃないか……? とか思えてきて」
「うーん……ジークフリートさんのあれは、ただのファッションに対する無頓着だと思うけどなぁ……」
 面倒くさがって髪も伸ばしたままにしてるぐらいだし……。とヴェインは付け足した。ヴェインにとってあれこれ思い悩んでいるミロワールは、悩みすぎて一周回っているように見える。
 そもそもミロワールが女装好きだということすら、ついさっき初めて聞いたヴェインはわりと飽和状態にあった。ヴェインとて友人の趣味趣向を否定するつもりはないが、そもそもかねてからの友人知人であった二人が付き合っているどころか同棲までしていると知ったのも今日なのだ。ショックが大きすぎる。そのことを話すとミロワールは気まずそうに眼を泳がせて、ごめんと一言謝った。
「いや……それは……隠してるわけではなかったんだけど、改めて言うのも気恥ずかしかったというか、……一応知ってる知り合いもいるぜ?」
「それはそれで複雑というか……いや、ううん、いいや。本題に戻るけど、ジークフリートさんが女装を気にするのも気にしないのも、それをミロワールが気にしてるのも、それぞれの積み重ねがあってのことだから仕方ないんじゃないか? もちろん、悪い意味じゃなくてさ」
「しかたない……」
 納得したようなしてないような表情でオウム返しにつぶやく。このもやもやを解消したくて、今まで告げたことがなかったヴェインにも女装のことを告白した。悩みの解消が目的だとしても、ヴェインとは気の置けない友人だという事実があるとしても、彼にこの悩み事を持ち掛けられたこと自体が、ジークフリートに受け入れられた、という結果の上で成り立っていることは自明である。なぜこんなにもやもやしているのか、考えれば考えるほど悩みのるつぼに嵌り、ミロワールはもうこんがらがって、訳が分からなくなっていた。
 そこで、カフェ店員が注文の品を持ってきた。ケーキセットが二つ。それに気を取り直した二人はつつきながら一息つく。
 先程までの短い間の会話でごっそり気力が削られたのもあり、無言で甘いケーキを堪能する。舌の上で甘さがとろけるふわふわの白いクリーム。生成り色のすっとフォークが通るスポンジ。酸味の利いたフルーツ。どの点を取ってもおいしいケーキだった。このカフェに行こうと誘ったのは相談を持ち掛けたミロワールで、ヴェインが疲れ、ややかすれかかった眼から次第に輝きを取り戻し「うまい」と一言つぶやいたのに「だろう?」と得意げにうなずいた。ちなみに、相談料として飲食代はミロワールの奢りだ。
 調子を取り戻したヴェインはドリンクを飲む。ミロワールが不安におもうことも、本人が自分でキリを付けなければならないものだ。人に聞いてもらうことで整理がつくというのなら、ヴェインは友人としてできる範囲で協力はする。愚痴にも付き合う。ジークフリートも、ミロワールも、ヴェインにとっては大切な人間であることは確かだ。
 だから、その二人が悪からずことになればいいな、と素直に思う。
 それはそうとして、二人が付き合ってるのか……。
 幼馴染ほど恋愛関係に鈍くはないと自負していただけに、なんとなく感じるものがあるというか、なんというか。よく知っている知人同士の二人が交際をしているという事実に、本日何度目になるのか。そっかぁ、と内心で深く思った。



17/12/26