蜜柑とアイスの共存

覆面の殺人鬼

 あたりが橙に色付いている。ドラム缶が炎を上げて轟々と燃えているのが、暗闇に呑まれかけている農場に反射して明るくなっていた。
 その一因となっている背の高いトウモロコシ畑の中央には、木の枝に獲物が突き刺されている。まるでモズのハヤニエのようだ。そう思ったが、その獲物は人よりも体の大きい牛である。だらりと肢体を晒し、胴体をひとつきにされている様は、まるで生贄だ。
 どうして己はここにいるのだろう。日常ではあまり目にすることのない光景にぼんやりと佇む。それと同時に、胸の奥にざわつきが広がるのを自覚していた。どうにも落ち着かない。
 最近伸びて来て鬱陶しい、と思っていた前髪をやや乱暴にかきあげ、アーロン・スミスはふぅ、と息を吐いた。
 あたりに人の気配は――ぐるりとあたりを見回すと、ちょうどメガネをかけた浅黒い肌の女性がこちらに歩いてくる様子が見えた。彼女もこちらに気が付いたらしく、ぼうっと突っ立っていたのを見るなりこっちに来い、とでもいうように手招きをされた。不思議に思いつつも、非日常感の溢れるこの事態に現れた、言葉が通じそうな人間だ。アーロンは特に拒否感も覚えずに彼女に着いて行くことにした。
 連れていかれた先は、四方をすのこ状に板を張った壁で囲まれた場所だった。壁に沿って設置されている機械に彼女は手をつける。己にも手伝え、ということだろうか。アーロンは彼女に続き機械の前にしゃがみ込み作業を手伝う。
 見れば、所々ネジが外れていたり電線が切れかかっていたりとかなり古いタイプのものらしい。電気を発生させる装置だろうか? 不思議と修理方法とともに、この機械の使用目的が思い浮かぶ。
「あなた、ここにくるのは初めて?」
 言葉らしい言葉をかけられたのは初めてだった。修理をする手を一瞬止めてから、またすぐに再開させる。少し考えてから言葉を返した。
「……ああ、なぜここにいるのか、思い出せなかったけど君と話していたら段々記憶がハッキリしてきたよ。ここに来た理由はわからないけどね。僕は確か、何かを探しに森に入って……そして、気が付いたらここにいた。こんなことは初めてだよ」
 自分がいたのは森の中のはずなのに、ここは農場だ。遠くを見ようとしても霧が濃くて視界が悪い。もしかしたら早口になっていたかもしれないアーロンの言葉にも、彼女はじっと聞いていた。
「……そう、私もそうなの、なぜかここにいて……でも、あなたもすぐにわかるわ。ここには恐ろしいものがいる。それから逃げ出すために、この機械を直して、出口を開かなければならないの」
「……恐ろしいもの?」
 眉を上げて、彼女に一体何の話をしているのか尋ねようとした瞬間。
 心臓が跳ねた。鳥肌という鳥肌が立ち、呼吸は早く額には汗が吹き出る。本能で察した。恐ろしいものが、来る。
 たまらずアーロンは立ち上がりその場から走り去った。彼女はどうしたのか、それを伺う余裕は彼にはなかった。
 走って、走った。心臓が嫌な音を立てるのを止めるまで。走ることによる心拍の増加とはまた別の、人間の本能ではないか? 思考回路が現実逃避にも似た行為から吐き出した感想はそれだった。走り疲れその場に座り込みたくなったが、そうすると二度と立ち上がれないような気がしてできなかった。
 それでも、少しでも汗をごまかそうと黒いシャツをはためかせ風を送っていると、遠くから男の悲鳴が聞こえた。何が起こったのか、彼女の言っていた、恐ろしいものに襲われたのだろう。叫び声に鼓動がドクドクと速度を増していくのを自覚した。舌がカラカラになって、うまく息を飲み込むことが出来ない。耳の奥に残る悲鳴に意識をブレさせながらも、なんとか頭を動かす。男の悲鳴ということは、ここには自分と彼女以外にも人がいるのか。先の悲鳴を聞いて身体がカッと熱くなったように感じたのと同時に、霞みがかった記憶がほんの少しだけはっきりと形をもったような気がするが、まだ思い出すことはできない。また別の人間に会えないだろうかと、震える足を叱咤しながら歩き回った。

*

 ハッと気がつくと、アーロンは丸太に座り焚き火にあたっていた。頭に鈍痛を感じながらも首を振る。ぼんやりとした感覚を少しでも振り払いたかった。
 アーロンは先の農場から脱出したことを思い出した。あれから、また別の人間と出会った。その青年はナヨっとした第一印象だったが、浅黒い肌の彼女と同じようにアーロンが「初めてである」ことをすぐに看破すると、彼は共に機械修理を行うことを提案した。彼の指示は明確でわかりやすく、また言葉での鼓舞も得意なようだった。そのおかげで最初に出会った彼女や、一人でするよりもずっと早くに修理を完了させることができと確信をもって言えるほどだった。
 その後は機械の修理を彼に支持された個数をこなし、電気の通ったゲートを開けて、無事にあの恐ろしいものがいる場所から脱出することができたのだ。
 そう、できたはずなのだが。この焚き火は、あの農場でみたものと同じニオイを感じた。農場で出会った彼らの「初めて」という言葉。そして境地から脱出できたはずなのに、まだわけのわからない場所にいる己。
 あれを、何度も繰り返さなくてはならないのか?

*

 予想通り、あれからアーロンは何度も繰り返し同じことをした。否、させられた。の間違いかもしれない。アーロンは突然野外に放り出されるさまを、コロッセウムで猛獣と剣奴を闘わせるように、どこかで見物をして楽しんでいる金持ちがいるのではないか。これはいわゆる貴族の遊びのような、悪趣味なゲームなのではないかと考えていた。しかし複数人、命運を共にする人間と出会い彼らと話した限り、ゲームではなく儀式であるらしい。時たま見かける祭壇のようなオブジェクトや人が掛けられるフックの装飾、修理する必要があるとはいえなぜか用意されている脱出装置。恐ろしいもの――あの殺人鬼達が讃えている上級の存在がいるそうだ。彼ら自身も、今まで彼らと出会ってきた人の間で聞いた話なので、誰かが吹聴したほぼ嘘と変わりのない推測話かもしれないのだが。どちらにせよ、至極オカルトチックな話ではあるが。だが魔方陣を書いて瞬間移動をする殺人鬼もいるのだ。そんな馬鹿なと思っていた話だとしても、いよいよ信憑性を帯びてくる。
 相変わらずこの場にくるまでの、アーロン自身の日常生活をはっきりと思い出すことはできない。ただ平均的な人物ながらも、自分なりに楽しみながら生きていたことだけは思い出せるのだが。知人友人といった人物や思い出の場所を思い出そうとしても、なかなかピンとこない。アーロンとともに逃げる側である彼らもそうなのか、とそれとなく尋ねてみたこともあったが、彼らはそれぞれ各々の身の上を、ある者はどうでもいいことのように、ある者は懐かしさを滲ませながら語っていた。このような状態にあるのはどうやら自身のみらしい。
 戦う術を持たないどころか記憶すらあやふやなアーロンと、逃げようともがくアーロン達を追いかける――"鬼"側であるあの恐ろしいものたち。この"儀式"に、終わりは訪れるのだろうか?

 そろそろ何度目かの繰り返しかを数えることが困難になってきた。ぼんやりと霞みがかっていた意識がはっきりしていく。あたりを見渡すと薄明るい光に照らされ、部屋の中が青っぽく浮かびあがっていた。
 ――病院だ。このフィールドは障害物が多く視覚が悪いため、見通しの良い他のフィールドに比べて視線が切れやすく、比較的鬼から逃げやすいと言える。胸に手を当てて深呼吸をし、鬼の進行を障害物できるパレットの位置や道具箱の中身を漁りながら発電機械を修理していく。はじめは、やたらと静かだった。誰にも……それこそ鬼にも、アーロンと同じ脱出を目指す人物にも出会うことがなく、もくもくと作業を進めていった。ひとつ、発電機の修理が終わるとアーロンはあらかじめ検討をつけていた道からその場を素早く離れる。発電機を修理した後、そのことをどういうわけか知った鬼が近寄って来る場合が多いからだ。
 そこの角を曲がって一息つこう、と思ったところで、アーロンは身を伏せた。他でもない鬼の気配を感じたためだ。息を潜めて気配から遠ざかろうと地面を這う。それでも、どんな姿をしているのかだけは探るべく物陰からこっそりと覗くと――すっぽりと白いマスクをかぶり、襟を立てた青いツナギ姿の大柄な影が見えた。ブギーマンだ。悟られないようじりじりと後退し、鬼の動きから推測されるルートから遠ざかるような道を選ぶ。
 病院内は道が狭くまた入り組んでいる。これは大体の場合の鬼には都合がいいのだが、気配を殺すことが得意なブギーマン相手にはそうもいかないだろう。今回は苦戦するかもしれない、と心臓を落ち着かせながらアーロンは思った。
 発電機を探しながら歩き回る最中、くったりとした帽子をかぶった老人と出くわした。情報交換をしながら、二人で発電機をいじる。
「ブギーマン……? 厄介だな、あいつに近付かれても、視界の悪いここだと気がつけない可能性が高い」
「まだ僕たちの誰とも会ってない可能性が高いけれど、逆にいえばいつ鉢合わせするかもわからない。他の人に会ったら伝えてくれ」
 アーロンの言葉に、精悍な顔つきをしかめていた老人は頷いた。さて、もう少しで発電機の修理が完了する。そのあとどの道を使ってこの場を立ち去るか少し手元から目を離した瞬間――。
「――…っ!」
 後ろだ、そう伝えようと口を開くが、水面に顔を出した金魚のようにぱくぱくと吐息が漏れるだけ。先ほどは後ろ姿のみだったマスク姿の男が、気付かず機械修理を完成させようとする老人の首元を掴んだ。
 どうにかして老人を助けられないかと近くのパレットに目を向けたその時。
 アーロンの顔に何かが飛び、付着した。それが一体何なのか、確かめる前に叫び声が耳をつんざく。
 ブギーマンが、老人を持ち上げたまま手に持っていた包丁で何度も何度も突き刺していく。それに合わせて彼の身体が跳ね、またアーロンの服や髪にも血飛沫が飛んでいく。
 ――以前にも一度、遠目に見たことがある。鬼である彼らが、逃げる人間たちを"捧げる"ための肉フックを用いずに、その場で殺す様を。
 医療に特別詳しいわけではないアーロンでもわかる、彼の命がたったいま尽きようとしている。そして同時に、命の危機が自らにも迫っている。全力疾走をした後のような心臓の拍動と、足の震えでうまく動けそうにない。立ち尽くすことしかできないほどあまりにも、あまりにも鮮やかな手つきだった。
 リノリウムの床や壁に飛び散った血液が、点滅する照明にちらちらと照らされる。
 力をなくした傷だらけの身体が、ブギーマンにより乱暴に床に投げ出された。その際頭を打ち付けたのか、ゴトリ鈍い音が聞こえるが痛がる様子は見られない。痛みを感じるそれ以前の問題があるからだ。短い感覚で息をハッハッ、ハッハッと浅いところで繰り返してふらついた足元をなんとか踏ん張ると、水たまりにも似た赤い染みを靴の跡が引きずっていた。
 ヒゲを蓄えた老人の、すでに事切れた目が合った瞬間。アーロンははっきりと思い出すことができた。焚き火をぼんやりと見つめる前の記憶、自身がどこから、どうやってここへきたのかを。
 無残に、嬲るように解剖されたウサギ、警察に追われる取引相手、かと思えば、黒服の武装した男たちに追われる姿。そこにいるのは、手を血で染めた己の姿だった。そうだ、己は自身の好奇心にかこつけて、自身の探究心に抗えずに、不道徳かつ罪を犯すようなことをしてきたのだった。狡猾に、周囲の人間に怪しまれないよう、目立たずにひっそりと。しかし所詮は素人のアーロンがその道のプロであるゴロツキに情報戦でも戦闘でも勝てるわけがなく、ほうほうのていで追っ手から逃げている途中、目覚めた時の、あの森に迷い込んだのだ!
 串刺しにされている仲間を見るたびに、自分がフックにかけられるたびに。怪我の痛みとはまた違った、身体の、脳みその奥深くが熱く焼け爛れるように強烈な熱を発生させる理由を思い出してしまった!
 アーロンは動物でもなんでもいい、ギリギリのところで人間にこそ手はかけてはいなかったが、オイタを重ねていくにつれ、いつしか自身が流血を求めていることに気が付いたのだ。そしてたった今、そのことを思い出してしまった。

 己の記憶の"日常性"に想いを馳せる間も無くアーロンは首を掴まれた。老人が殺されている間に逃げていれば、あるいは"まだ"平穏でいられたかもしれないのに。
 おおよそ人の力とは思えない握力をもってして血管を、気道を絞められる。どこかの筋を潰しているのか、ごり、と生々しい音が聞こえた。アーロンの喉からは意識をせずとも自然に潰されたカエルのような音が漏れ、足りない酸素を求めて大きく開けられた口からだらしなく舌が垂れる。
 だんだんと霞みがかっていく視界の中で、いまにも突き刺さんと引かれた包丁が電球の光に反射して見えた。来る、来る、何度も味わったマスク姿の男の一太刀が。刺されたことは何度もあるが、今回、彼が持つ気迫はそのどれと比較しても一線を画していた。次の瞬間、脇腹に強烈な熱を感じる。その熱が痛みなのだと気がついた時には、アーロンの口から濁った叫び声が飛び出していた。呼吸をするために息を吸うが、塞がれつつある気道の前では全く意味を成さない。
 ずるりと凶器を抜かれ、派手な音を立てて己の血が辺りに飛び散っていくのをアーロンは見た。力んだ指先がブギーマンの腕を掴み爪を立てるが、頑丈な青いツナギを着ているため、少しも傷つけることは叶わない。命が生きていることをこれほどまでに思い出させる、燃えるように赤い血液について、アーロンには見覚えがあった。この儀式への参加を始める、それこそもっとずっと前から。
 再度、包丁が構えられる。先ほど老人を刺した時と変わらない、まるで流れ作業のような、ルーティン化されているような動き。酸欠状態のために顔を真っ赤に染め上げたアーロンは、口の中に広がる血の味に酔っていた。大方、刺された拍子に舌を噛んでしまったのだろう。血の味と酸欠により頭がぐらぐらと揺れる錯覚に陥り同時に吐き気も催すが、嘔吐行為を目の前の殺人鬼が許すはずもない。首を絞められたまま、その握力が弱まる気配は全くなく、それどころか時間がたつにつれ力を増しているようにも思える。ここで解放されたとしても、もうまともに待つことすら――否、まともに呼吸をすることすら叶わない身体を大きく痙攣させながら、アーロンの気分はふわふわと心地よく漂っていた。
 草食動物は、肉食動物に捕食される際に脳からの分泌物質により多幸感を感じるように出来てると言われているが、己が今明確な酩酊感を覚えているのはそのせいだろうか? 決してそれだけではないはずだ。
 すべてがスローモーションのように思える。もう視界はほぼ暗がりなのにもかかわらず、ブギーマンの振るわんとする血塗れの包丁だけが、やけに輝いて見える。二度目の衝撃がくる。三、ニ、一……、

 アーロンは、自身の命の灯火が絶たれるいまその時に、人生で一番の興奮と快楽を味わっていた。




17/10/8夢本市
17/12/web再録