蜜柑とアイスの共存

酒気帯々

「……さん、佐々木さん」
「……、……はい」
「フラフラですね……」
 机に突っ伏したまま、声のする方を見上げる。セミロングの髪を緩く結い、右に流した彼が苦笑した。一瞬意識が落ちていたが──そうだ、今私たちは、事務所近くのバーで飲んでいたのだ。
  苦労していた一件が無事大きなトラブルもなく片付き、そのささやかなお祝いにと二人で乾杯していたのだが。どうやら私は、調子に乗って飲みすぎてしまったらしい。
 彼の穏やかな声色が耳朶から脳に響き、酔った頭には心地よい揺らぎとなってまた瞼に重みを加える。頬に当たる机の冷たさがひんやりと、のぼせたような熱を奪ってくれていた。
 肩をトントンと軽く叩かれる。また彼の声がした。
「寝ないでください、佐々木さん。ほら、今日はもう帰りましょう? 送っていきますから」
 信頼のできる同僚の言葉だ。特に反論もなく、彼の手に支えられながら立ち上がる。多少ふらついて酔い覚ましにもらっていたらしい水の入ったグラスを揺らしてしまったが、幸い倒すには至らなかった。
 階段をおぼつかない足取りで一段ずつ降りて、彼の捕まえてくれたタクシーに乗る。後部座席にゆられながら、ふふふ、と笑いをこぼすと彼は横で身じろいだようだった。
「どうしました」
「あなたは、やることがテキパキしていていいですねえ」
「……褒められているんでしょうか? ありがとうございます」
「ふふ、今だって、瞬間移動したみたいに」
「……もう少し水、飲みますか?」
「いつの間に買ったんですかぁ、ふふふ」
 何もかもが面白く感じてしまい笑っていると、彼は私に無言でペットボトルを握らせた。零さないように気を付けてくださいね、と念を押す彼に頷き水を呷る。冷たさは感じないが、それぐらいの温度が、きっとちょうどいいのだろう。

 ぼふ、床ではない、柔らかな場所に背中から降ろされる。ベッドだ。寝言のような、うめき声のようなものを漏らすと彼から名前を呼ばれた。
「佐々木さん? ええと、意識……というか、記憶はあってもなくてもいいのですが、ご報告です。鍵はあなたの懐から拝借しました。居間の机に置いてあります」
「……ほうれんそう、おつかれさまです」
「はい、おつかれさまです。それと、もう少し夜を長引かせてもいいですか?」
「どういう、意味でしょうか」
 いまいち呂律の回り切らない舌で尋ねる。その直後、唇を柔らかくしめったもので塞がれた。何度かくっついては離れを繰り返したのち、しめった、どころではない。濡れたものが、元々薄く開いていた唇を割って入ってくる。
 誘うように首筋から後頭部までをなで上げられ、多少の息苦しさはあるものの、とろとろとした快感が波となって私に押し寄せる。落ちてきた彼の髪が肩口や耳元にあたりくすぐったい。気になり、髪をどけようと手でなぞると緑色をしたゴムはするりと彼の髪を抜けていってしまった。ああ、直毛だから。彼の髪ゴムを指に引っ掛けたままぼんやりと考える。そうして、今度は房ではなくぱらぱらと落ちてくる彼の髪にまた肌をくすぐられるのだった。問題は解消するどころか悪化している気がするが、この際仕方がない。
 彼は腰のあたりにまたがったまま私のネクタイを外し、首元までしめたボタンを緩ませる。ネクタイピンは丁寧に外してからサイドテーブルに別で置いてくれるところも、彼の繊細さがよく出ているのだろう。
「こういう、ことなのですが」
 こちらの劣情を煽るようにリップ音を残して口を話した彼はそう続けた。彼が姿勢を変えるたびに下腹部にかかる体重も変動する。その間も髪でなでられているのがくすぐったくて、また少し笑うと、その振動に合わせて上に乗っている彼まで揺れるのが面白かった。
 私は、私の顔の真横についていた手首にキスをして、甘く噛む。昼間は外で営業していたこともあるのだろうか、少ししょっぱいことに味をしめた私は舌を伸ばした。
「酩酊状態の相手との性行為って、いい趣味してますねぇ」
「む……いえ、まぁ……いえ、僕は最初からそのつもりだったのですが、佐々木さんがいつもよりも酔っているからじゃあないですか」
「うーん、んふふ、いえね、私としてもあまりハイペースで飲んだつもりはなかったのですが……んん、それに引き換えあなたは素面みたいじゃないですか。本当に私と同じものを飲んでました?」
「それは、一緒に飲んでいたあなたが一番わかっているでしょう」
 ぺろぺろと手首を舐めていると、じれったくなったのか舌を捉えられてしまった。親指と人差し指と中指で、彼の好きにこすられる。舌だけでない、口内中わずかにかすれる彼の指の感触がくすぐったく、たまらず反射的に息を吸い込むと存外喉が鳴った。突然の異物に唾液がみるみる湧き出しついにはシーツを濡らしたが、私にそれを振り切る気はなかった。
「かわいいお顔ですね」
「……ひゃっぁいあ、……」
「コンマ一秒で、自分がしゃべることができない状況だと忘れてしまうところも、かわいらしいと思いますよ」
「……」
 本気で忘れていたので、否定も意義を申し立てることもできない。噛むことも舐めることもできずに彼の指が私の口内を蹂躙していく様を、文字通り口を開けて待っていることしかできない私は彼を見返した。
 粘着質な水音が聞こえる。そろそろ私の口の周りも、彼の手も。私の唾液で大変なことになっているはずだが。
「ねぇ、いいでしょう? いつもはあなたが僕を好きにしているんですから、たまには僕にも好きにされていてください」
 押し倒している状況で、服を乱れさせ、人をしゃべることのできない状況にしておいて。困ったような顔で尋ねるのだ、この男は。……もっとも、口に手を突っ込まれている状況は私が招いたことといっても過言ではないのだが。
 彼の髪ゴムをほどいてそれきりだった手を伸ばして、彼のスラックスの前をなでる。なるほどそこは確かな硬さを持っており、そこそこ我慢してたんだなぁ、と他人事のように思った。
「……その行動は、合意ととって問題ありませんね?」
 口の中から手を引き抜かれる。粘力を持った唾液が糸を引いたが、重力に従いすぐに落ちた。彼によって開けられたシャツの隙間から素肌に伝ったそれは、一瞬にしてさめてしまうのかいやに冷たく感じる。口を開けたまま、彼と目を合わせた。今にも襲い掛かろうとしている獣のようでいて、反面懇願するようにその瞳は訴えている、が。
「……問題、ありませんけど。一つ問題がありまして」
「? はい」
「やあ、その、少し飲みすぎてしまったみたいで、たたなさそうなんですよねえ、あはは」
 普段ならば、こんな誘い文句を聞かされれば多少どころか思い切り反応しているはずなのだ。えっ、という顔をした彼が一瞬視線を斜めにずらした。恐らく、尻の感触を確かめてるのだろう。
 しかし、物理的に反応しないとはいえ、心情的には私とてすっかりその気にはなっている。彼がいつも開けているシャツに指を入れて、ゆるくひっかくように鎖骨をなぞっていく。
「まあ、あなたの希望通りにするのであれば私がどうこうというのはあまり関係ないので、問題ないといえばないんですけど」
「あの、佐々木さん」
 ぷちぷちと彼のボタンを外していく。いや、実際には指先がおぼつかなく、順調とは言い難い速さだが。いいんですか、と制止されるも私は手を止めない。彼の方こそ、ずっと行為を期待したままお預けにされていたのだ。ここで応えなければ男が廃る、というものだ。どうすればいいのか測りかねている様子でボタンを外す手を取られたが、しましょうよ、そう甘く囁くと彼はぐっと手に力を込めた。
「……脱がせてくれないんですか?」
 彼の身を包んでいるシャツのボタンは、残すところあと一つだ。対して私は、先程ネクタイを外し緩められた箇所が一つあるが、ほぼ乱れは見られない。
 何かに堪えるようにわずかに眉間にしわをよせ、彼は覆い被さってきた。掴まれた手がシーツに縫いとめられる。
「……痛くするつもりは毛頭ありませんので、辛くなったら言ってくださいね」
 はい、もちろん。そう答えて、彼からの口付けを受け入れる。
 アルコールを摂取しても酔うどころか顔色も全く変わらないように見える彼だが、私の肌を伝う彼の手のひらはいつもよりずっと熱いことに今、初めて気が付いた。
 
 
 
 17"10/10