蜜柑とアイスの共存

公園ノーツ

 陽気な日が街中を射していた。ベルリンの街にある公園、その真ん中に位置する広場は木や芝生がよく手入れされており、談笑する若者や犬の散歩をする老人、餌につられた鳩を追いかける子供達のはしゃぎ声で賑やかだ。
 広場には大きな噴水があり、その周りを囲うようにしてベンチが等間隔に設置されている。
 その一角の、ちょうど木陰になるベンチに座り、のどかな喧騒を子守唄にまどろんでいた金髪の少年は、とある音を聴きつけるとそっと意識を浮上させた。
 短音をふたつみっつ鳴らしてから、少し息を整えて美しい旋律を紡ぎ出す。高く鋭い音はピッコロだ。軽やかなメロディが公園の片隅で流れている。
 その音の主は、毎日同じ場所で楽器を演奏していた。昨日はトランペット、その前はハーモニカ、サックス、ギター、その他諸々。どうやら弾ける楽器は多岐にわたるらしく、また所持しているのか別なところから借りてきているのか、多種多様な持ち運びできる楽器ならば、この公園での、小さな演奏会の主役になりえるようだ。
 演奏時間もその日によるところが大きく、一分程度吹いてそのまま終わってしまうときもあれば五分や十分と長々弾いているときもある。耳にしたことがない曲ばかりだが、なんという曲なのだろうか。
 そうして演奏し終わって、公園に集まっている鳩にパンくずをばら撒いて演奏者は帰り支度をはじめる。メロディに合わせてトン、トン、と指でベンチを叩いていた圭は先ほど聞こえたフレーズをくり返して、背を向けて歩く演奏者を見送った。整えられたロマンスグレーが、時間を知らせるために湧き出た噴水の向こう側に消えていった。
 
 その日は曇りだった。肌寒い風が頬を撫でては服の裾を翻す。いつも通り公園まで散歩にきた圭は、いつも通りのベンチに座り、いつも通り公園内にざわめく様々な音に耳を傾けてはぼうっと物思いに耽る。
 特にやることも無いときはこの公園に来ることがほとんどのため、いつも決まった時間に開かれる、彼の演奏会を聞くこともすっかり日課の一部となっていた。
 クルクルと喉を鳴らして足元をアレグロで歩く鳩がわんさといるが、あいにくと彼らが食べられるようなものは何も持っていない。圭の横に羽ばたき降りた鳩もいるが、彼に触れるか触れないかのところで手を滑らせて何も持っていないんだ、と伝えても御構い無しにそのまま居座るようで。それならば圭も何も言わない。ただ、彼らの音にも耳を傾けるのみ。彼らを眺めていると、新しい音が浮かんでゆく。しかし、今は五線譜もペンも持っていない。ああしまった、明日は忘れずに持ってこないと。せっかくの彼らの音を、取りこぼしてしまうなんて。
 そのまましばらくすると、軽やかな笛の音が聞こえてきた。昨日のピッコロとはまた違った色を持ったリコーダーの柔らかい音。圭はそれを聴きつけると、目尻を下げ指先でリズムを刻む。おどけた曲調のそれは厚い雲まですぐにでも届いてしまいそうなぐらい、聴く者の心を浮つかせた。
 軽やかなメロディを楽しんでいたが今日はどうやら短い演奏会のようで、いつもよりもことさら早く終わってしまった。少ないフレーズで聴衆を満足させる演奏だが、それと同時にもっと聞いていたいと感じさせる魅力的な音。
 閉じていた瞼を開き、いつものように楽器を大切に荷物の中にしまって、鳩に餌をやってから帰り支度を始める流れを見つめる。ほぼ毎日繰り返されるルーティンだからだろうか、あの一連の動きにもリズムを感じていた。たったいま、彼を見ていて浮かび上がったメロディを小さな声で歌う。聴衆は鳩しかいないが、もとより誰に聞かせるものでもない。
 圭がそうしている間に、演奏会の彼は荷物をまとめて歩いていく。今日は、噴水が上がるよりも前に公園を去っていった。
 
 その日は、曇りだった。ここ数日間雨が降り注いでいたのがやっと上がったが、恥ずかしがり屋の太陽は未だ雲に隠れたままでいる。
 ぬかるんだ公園の道をぼんやりと歩き、またいつものベンチに座って背もたれに体重を預けた。今日は、先日の反省を生かし五線譜を持っていた。一フレーズだけ浮かんだ音を書き留めて、続きはどんなメロディーがふさわしいかを考える。そして、理想にぴたりと当てはまるものができたらその先へ。そんなことを繰り返してひとしきり満足したあとは、目を閉じて耳をすます。湿った風が木々を揺らしてざわめく音。数日間雨だったからか、いつにも増して人通りが多く感じられる喧騒を聴く。また、彼の演奏が始まるまで休んでいよう。ふわふわと夢の世界へ手招かれながら思った。
 
 パタパタと、細かいものが何かを打つ音がする。心地よさに身を委ねるが、それを遮ってまた別な音が聞こえる。どこか戸惑っているような、焦っているような印象を受けるが、さて。
「……きみ、きみ、大丈夫かい」
 心地の良い低音が聞こえたと思えば、頬をぺちぺち叩かれている。うっすらと目を開けると、心配そうにこちらを見つめるエメラルドグリーンの瞳が見えた。はて、どこかで見覚えがあるような……そう首を傾げて気が付いた。この整えられたロマンスグレーは、いつも遠目に見ている、小さな演奏会の彼だ。
「……こんにちは、いい、天気だね」
 思わぬ出会いに口角を緩ませて、ぼうっとしたままの意識で彼に話しかけた。すると、彼はきょとんと目を丸くさせて空を仰ぐ。その動きに合わせてパタパタとまた心地のいい音が耳朶に響いた。
 パタパタ、パラパラ、細かいものを弾くこの音は……寝ぼけ眼を擦り、やっと思い出した。これは雨傘の音だ。
「……もしかして、邪魔をしてしまったのかな」
 雨模様を再確認した彼は、眉を下げ苦笑いをしながら荷物を抱え直す。その揺れにまた傘にぶつかる音色が変わった。雨の降る音がしている割には、つい先ほどまで頬や髪を打っていた感触がない。なぜだろうと見上げればその理由はすぐに分かった。
「君が……傘をさしてくれていたんだね。ありがとう」
「ああ……いやなに、こんなところで雨に打たれているところを見かければ、誰だってそうするさ。きみ、この辺りの子供かい?」
「このあたり……そうだね。いつも、ここには昼寝をしにくるのだけれど……今日は、寝過ごしてしまったみたいだ」
「……ああ、紙も濡れてしまっているよ……おや、これは……」
「ああ……雨で滲んでしまった」
「……これは、きみがかいたものなのかい?」
「そうだよ」
 あくびをしながら話す圭に、男はへえ、と相槌を打つ。興味深げな様子になにをそんなに気にすることがあるのかと内心首を傾げたが、その思考は男の提案にかき消される。
「きみ、このあとに予定はあるのかい?」
「予定……とくに、差し迫った用事はないけれど……」
「そうか……なら、少し私に付き合ってくれないかな」
「……?」
「言ったろう? 雨に濡れているところを放ってはおけない。風邪でも引いたら大変だ」
「……あまり体調を崩した覚えはないけれど、そうだね……ご一緒させてもらおうかな。」
 
 男に連れられてやってきたのは、とある喫茶店だった。決して広くはない店内に、無理やりスペースを開けて作ったかのようなちょっとした舞台がある。立てかけてあるギターが飾りでないのなら、だれかが演奏をしたり歌ったりするのだろう。ラジオから流れるささやかなジャズ音楽が心地良い。やや暗めに設定された照明とシックな色合いで統一された内装は、店内を落ち着いた雰囲気に染め上げている。
 彼はウェイターにタオルを持ってくるよう頼んだ後、窓際のテーブル席へと腰かけた。晴れていたならば大通りがよく見えたのだろうその窓も、今は雨粒のカーテンに視界が遮られていた。彼に続いて圭が腰かけると、ちょうどウェイターから手渡された数枚のタオルを、座席が濡れてしまわないように敷く。
「ここは私の知人の店なんだ。だから、くつろいでくれて構わないよ。……ああ、私はコーヒーを。彼は……、きみは、何にするかな、コーヒーは飲める? それとも、紅茶の方がいいかな」
「僕は、水で十分だよ」
「……、……彼には紅茶を」
  圭の言葉をどう受け取ったのか、彼は少々困ったように眉を下げてウェイターに伝えた。ウェイターが去ったあともメニュー表を広げ、何か食べたいかと尋ねてくる。
「特に、なにも。お腹は空いていないんだ」
「……ほんとうに?」
「本当だよ。どうして嘘だと思うんだい?」
「きみを疑っているわけではないよ……でも、お腹は空いていない方がいいだろう?」
「それは……そうかもしれない。でも、そもそもお腹が空いたことがないから、僕にはよくわからないな」
「……そうか、きみはそう思うんだね」
  男は片眉を上げて、納得したようなしていないような、奇妙な表情をした。
「いや、すまない。きみを付き合わせているのは私なのに、こういった会話をするのはおかしいね」
「そんなことはないよ。僕も、君のことが気になっていたから」
「……私のことが?」
「ああ……素敵な、音楽を紡ぐ人だと」
 圭はそういって薄く微笑んだ。いつも気ままに演奏をしては帰っていく後ろ姿を思い出しながら、今は向かい合って座る男と目を合わせた。すると、男は相好を崩し顔のしわを深く刻んだ。
「聞いていたんだね。そうか、きみも、よくあの公園にいると言っていたね。……ふふ、ありがとう。褒めてもらえるのは、うれしいものだ」
「いつも違う曲を弾いているようだけど、何か元があるのかい?」
 そう尋ねたところで、注文していた飲み物が届く。白く湯気が立つカップににっこりと笑った男は、そこにひとつの角砂糖とミルクを少々垂らした。マドラーでぐるぐるかき混ぜたあと、黒から焦げ茶に代わり、色が均一になったことを確認してひとくち。ほうっと息を吐いてから圭の問いに答えた。
「元……大抵はその時の気分、なんだけど……ああ、そういえばこの間は、朝卵を割ったら双子だったんだ。だから、あの時はつい楽しくなってしまってね」
 その日のことを思い出したのだろう、男はまた笑みを深くさせしみじみと語る。他にも、ふと見た空模様が綺麗だったこと、うっかりしていて皿を割ってしまったこと、日常であった出来事を自らの音楽に昇華しているようだ。
 彼の様子を眺めていた圭も、雨のせいで頬に張り付いていた髪を耳にかけて落ちないようにしてから紅茶をひとくち。カップから伝わる熱が、嚥下した喉が、じんわりと身体を温めていく。
 
「――うん。紅茶は、おいしいね」
  その呟きを聞きつけた男は楽しげに語っていた表情からまたぱっと表情を変え、そうだろうそうだろうと、まるで自身が褒められたかのように喜んだ。彼の瞳が、店内の照明を反射してきらきら輝いている。
「……そうだ、まだ自己紹介をしていなかったね。私はクルト・ディートリッヒ。きみは?」
「僕は……僕は、都築圭。圭、が名前」
「ケイ? 変わった名前だね。……ああいや、貶しているように聞こえたらすまない。とてもいい名前だと思うよ」
「構わないよ。……両親がドイツ人と日本人なんだ」
「へえ! 暮らしはずっとこっちなのかい?」
「ううん、昔は日本に住んでいたけれど、……ええと、十年経ったかな……何年か前にこっちに」
「なるほど、きみはドイツ語と日本語の少なくとも二ヶ国語を操れるわけだ」
 うんうん頷いてコーヒーを啜った。彼がやたらとにこやかな表情をしているのは何故だろう、と思ったが、その答えはすぐに知ることとなる。
「日本かぁ、私はね、いまとても日本に興味があるんだ」
「ふうん、それはどうして?」
「息子が、結婚相手を見つけて来たんだ。日本人の」
「それは……」
 めでたいことだ。偶然の繋がりに微笑む彼は幸せに満ち溢れているように見える。人の出会いや別れがあって、変化が訪れる。それはごく当たり前のことで、当然自分にもあったことのはずなのだが、圭は彼の話にしみじみと感じ入っていた。
「クルトさんは……」
 話題を変えるように、先ほど名乗られたばかりの彼の名を呼んだ。そうしてから、聞きたいことを思いつくよりも前に喋り出してしまったことに気が付いた。何故、言いたいこともないのに口を開いてしまったのだろう。気持ちばかりが先走って五線譜に音を載せられなかった経験は、ないわけではないが。それでも、人と話す上でそう思ったことは覚えている限りでは、ないはずだ。ああしかし、忘れっぽい自分はいままで同じ経験があったとしても覚えていないだけかもしれない。そうも思った。いずれにせよ、そう決めつけるには、自分の感情に対する見方が、いささか他人事のように考えすぎているように思えた。
「クルトさんは、音楽が、好きなのかい」
 結局口からでたのは、わかりきっている事だった。毎朝聴いていた彼の音。日々の出来事を思うままに綴ったあの楽しげな独り言は、圭や餌目当てに集まった鳩だけではない。いつもあの公園を散歩する者の間で、知られていないはずがないのだ。
「ああ、好きだよ」
 屈託無く笑う彼にやはりそうなのかと相槌を打つと、きみはどうなのか、そう問われた。
「僕、かい。好きか嫌いか、はあまり考えたことがなかったけれど、音が聞こえると、それを追わずにはいられなくなる。川のせせらぎを美しいと、鳥のさえずりを素敵だと思う」
「……それを、ふつう好きだと言うのではないかな」
「そうなのかな、クルトさんがそう言うなら、そうなのかもしれないね」
「まぁ、きみがはっきりさせたいわけじゃないのなら、無理にそうと決める必要もないと思うけどね」
 口角を上げながら、彼はコーヒーを啜った。それからも、なんでもない話をした。圭の書いた滲んでしまった楽譜のことや、好きな食べ物など――もっとも、圭が「水」と答えたことで、先ほどのような困ったような顔をされてしまったのだが――様々なことを、どちらからともなく話した。
 ふいに、クルトが腕時計を見て少し驚いたような顔をする。そしてやや慌てた様子で圭に問うた。
「しまった、こんな時間だ。ケイは大丈夫かい?」
「今日はなにも用事が入っていなかったから、問題ないよ。……ああ、本当だ、もうこんなに時間が経っていたんだね」
 店内に設置された振り子時計を見て頷いた。窓の外をみると、先ほど視界を遮っていた雨のカーテンは上がり、いまなお分厚い雲が夕陽を妖しく滲ませている。大通りを走る車が、気まぐれに水たまりを散らしていく。
「私は夜に予定があって……今日はありがとう、とても楽しかった。良ければ明日、雨が降っていなければいつもの場所にいるはずだから、姿を見せてくれると嬉しい」
「……そうだね。きっと、行くよ」
「本当かい?」
 ぱっと彼の笑顔が咲いた。今日いちにちで何度思ったことか、よく笑うひとだ。笑うだけじゃない、表情がくるくると変わる。きっと彼のような人が、周りを惹きつけるのだろうな、そう漠然と思った。
 彼が席を立つのに倣って圭も立ち上がる。借りたタオルをどうすべきか迷っているとそこに置いておけばいいから、と言われたので、なるべく湿った面が内側になるよう畳んで置いた。彼の注文したコーヒーが入っていたカップはいつの間にか空になっており、圭が飲んでいた紅茶のカップは、ほとんど残されたままだった。
 ドアベルが、涼やかな乾いた音を鳴らす。店の外へ出ると湿った空気が頬を撫ぜ、髪を揺らして通り過ぎて行く。また、夜にも一雨来そうだ。
「ケイ、家まで一人で帰れるかい?」
「大丈夫、この辺りは前にも来たことがあるから」
「そう、なら安心だ。それじゃあ気を付けて」
「うん、クルトさんも」
 そう言って、反対方向に別れた。朝と同じくざわざわと街路樹を揺らす風や、車のエンジン音が絶えず聞こえる。あまり人と話す生活ではない圭にとって、長々と会話をしたのはいつぶりのことだろうか。
 
 翌る日。天気はかろうじて曇りだった。昨晩は思った通り雨が降ったらしく、路面がまだ湿っている。
 圭はいつもの公園に訪れていた。噴水の前を通り過ぎて、昨日の約束通り彼が小さな演奏会を開いている場所まで向かう。彼はまだ来ていないようだった。クルトが演奏を始めるのは圭がベンチに座った後なので、それを考えれば当たり前のことなのだが。
 適当に腰掛けて、彼を待ちながらあたりを見渡すと、園内のいままで知らなかった表情が見えてくることに気が付いた。手にしていた空白の五線譜に、浮かんだ音を書き込んでいく。圭にとって、書いている間はタイミングが重要だ。筆記が早すぎても遅すぎても、音を取りこぼしてしまう。しかし、そこが楽しくもあり、作曲の魅力の一つでもある。目には見えないものとの会話に、知らずの内に圭は笑みを浮かべていた。
「……」
 一心不乱に書き連ね、作業がひと段落した頃。ふっと一息つきやっと顔を上げると、クルトがベンチ脇に置いていた楽譜のページを拾い上げていた。タイミングが良かったのか、時間を知らせる噴水が弧を描いて流れている。晴れた日には虹も見えるのだが、今日はあいにく曇天だ。
「……クルト、さん」
「やあ、おはよう。一応声はかけたんだけど、きみは随分夢中になってたみたいだね」
「……ああ、ごめんね。……全然気が付かなかった」
 そう言って謝ると、彼はくすり笑った。
「いいさ、ひとつのものごとに集中できるのはいいことだから。……穏やかな曲だね。子守唄のようだ」
「クルトさんにはそう聴こえるんだね。君を待っている間に思いついたんだけど……」
 そう言って手元の楽譜に目を落とす。これはまだ未完成の曲で、続きはまたの機会にした方がいいものが生まれるかもしれない。そうぼんやり考えていると、楽譜にポツリと雫が落ちた。
「おや、降ってきてしまったね」
 昨日ほど強くはないが、それでも雨は雨。クルトはベンチに置いた楽器ケースを持ち直した。基本的に楽器が濡れるのは良くない。ケースにしまっている状態なのでもちろん保護はされているが、それでも中まで滲んでしまう可能性もある以上雨に降られることは避けたい。
 ひとまず近くの屋根の下へと退避した。しとしと降り注ぐ雨粒がやわく広葉樹の葉を叩いては地面に滑り落ちて行く。
「最近は、強い雨が続くね。普段ほとんど傘を使うことなんてないのに」
「傘……僕も、使わないな……。雨に濡れるのは、嫌いではないし」
「私もそう気にする方ではないけれど、でも昨日のような雨量で差さないまま歩くというのは、ワイルドというか……驚かれるんじゃないのかい」
「誰に?」
「お家の人とか、通行人とか」
「……どうだろう……母は……いつものことだと思っているようだけど」
「ああ、まあ……そうだろうね」
 昨日の今日で、圭という人物がどういった人間なのかおおよそわかってきた。クルトは少年のご両親も、彼のようにのんびりとした性格をしているのだろうか? そう疑問に思っていたが、逆にしっかりしているため、この少年がのんびり屋でいられるという場合もあるのかもしれない。
 親子ほど……否、それ以上に年が離れている少年の横顔を眺めた。その表情は眠たげだ。先ほど作曲をしていた彼の表情は、穏やかさの中にもたしかな真剣味があり、そのギャップに顔を綻ばせる。
「今日は、ちょっと難しいけれど……。きみの、先程書いていた曲……私にも弾けると思うかい?」
「まだ未完成だけど……弾けなくはない、んじゃないかな」
「なるほど」
「弾いてくれるのかい?」
 圭は紙の束、雨粒が垂れて濡れてしまった故に、しわになった部分を撫でた。楽譜はいつでも歌いたがっている。
「きみの生み出す音がどんなものなのか、聞いてみたいんだ」
「……そう、僕も、きいてみたいな。君が音に宿す命を」
 クルトは必ずという意味を込めて頷いた。屋根の端から落ちる雫が跳ね返っては水たまりを作り、影になっている部分をも濡らしている。厚い雲が立ちこめる空を見やってから、それにしても、と呟いた。
「ケイ、きみほど音楽のみにのめり込んでいる人に出会ったのは初めてだよ」
 食に対してきみほど興味がない人に出会ったのも、初めてだね、冗談めかして片目を閉じた。圭は少し首を傾げてから、さしてその言葉に深く考える様子もなく再び一定の間隔で雫を落とす枝に耳を澄ませた。
 彼らの心音もまた、街に降り注ぐ雨粒のように穏やかだった。
 
 後日、約束通り圭の作曲した曲を弾いたクルトと、それに合わせて歌をつけた圭の周囲に、いつも餌を目当てに集まってくる以上の鳥が群れで押し寄せてくるのは、また別のお話。
 
 
 
 17′8/18
2017/10/08夢本市ぷちにて発行「よしなしごとたがり」より再録
あとがき