蜜柑とアイスの共存

アン・ラッキーマンは眠らない


 影が落ちてきた。
 硬くて重量のあるもの同士がぶつかり合う鈍い音。
 飛び散った赤。
 鋭く耳に刺さる、誰かの叫び声。
 ついさっきまで隣を歩いていたはずの双子の弟、出水有平が地面に倒れていた。
 その時、俺はまず最初に困惑していたのだ。
 突然の出来事を受け入れられなかったからだけではない。
 有平が、地面に倒れているはずの有平が。俺の隣に浮いていたからだ。
 
 *
 
 出水有平。俺、出水公平の双子の弟だ。双子とはいっても俺たちは二卵性なのでどっちがどっち、と間違えられることはなく、むしろ有平が俺よりおとなしいことが周りには大人びて見えたのか、俺が弟であいつが兄だとみられることが多く、そういう意味ではいつも間違えられ腑に落ちない経験が多々あった。
 頭がいいだとか運動神経も悪くないだとか、あいつについてなら双子の兄弟であるから十分すぎるほど知っていたが、それよりも特筆すべきなのは、あいつの運の悪さだろう。
 有平は運が悪かった。外を出歩けば鳩にフンを落とされ、噛み付く勢いで吠えてくる犬にしょっちゅう出くわし、こけた先にはガラス片が手をつく場所に落ちている。
 これまで十七年間よく生きていたなと思うほどこいつは運が悪かった。実際両親が語るには、幼少期の不運びっくりエピソードで数冊本が書けるくらいのものだそうで。
 筋金入りの有平の不運っぷりは当然周囲にも知れ渡っており、しばしばネタにされるほどだ。しかし有平が心配こそされ、遠巻きにされることはなかったのは、あいつの不運はあいつにしか向かなかったことと、あいつのいつも笑っていられる性格があったからだろうか。
 四年半前の第一次近界民侵攻でもついこの間の大規模侵攻でも、有平が死ななかったのは本当に奇跡にも等しいことだったと俺は思っている。ボーダーに所属しようときめた理由の一つには何かあった時に有平を助けてやらなくてはならないという使命感のようなものもあった。
 ……その時、家族会議で有平がへらへらと笑い「じゃあ、オレも」と手を挙げたときは家族揃って却下したが。むしろ言い切る前に却下した。瞬間。マッハだった。そんな俺たちは、決して間違っていなかったろう。必ずしも命の保証はされていない組織なのだ。有平は命がいくつあっても足りないどころか、訓練中に事故死しかねない。
 有平は頭がよく運動神経も悪くないと先述したが、しかし学校の成績も体力テストも、あまりいいとは言えなかった。
 その原因は、あいつの頭の良さや運動神経が学校では評価されない項目だったから---などというわけではなく、すべてはあいつの不運に起因する。
 運動をしようと思えばネットは外れボールは空気が抜けており、ここぞという時に靴紐が切れてしまう。
 ならばと本を読むなどの娯楽に興じようとすれば、乱丁落丁は当たり前。紙で指を切るだのなんだののオンパレード。
 唯一、他人とのラリーはそこそこ順調に続くしシュートを決めることも出来る。教科書も、配られた日に全て確認し取り替えてもらえば音読の時間に意味不明な文章を読み上げることもない。
 有平の天敵は、ここ一番といわれる場面。つまりは、テストと呼ばれるものだった。50m走を計測しようとすれば、何故か有平の番に限って向かい風が強くなるだとか、そういうことだ。
 中学から高校に上がるには、当然入試がある。内申がこれまでのテストの影響を受けているものの、同時に事情のわかる教師陣にこれでもかというほどの恩情を受けていた有平は授業と同じくいつも通りやれていれば進学校へ通えていただろうに、案の定その日も思いもよらぬハプニングのせいで、俺と共に普通校へ通うことになったのである。
「──じゃあ出水、次の問題の解答書きにきて」
 突然の名前を呼ばれ、ハッと顔を上げると黒板には数式が書かれていた。そうだ、今は数学の時間だった。
 有平はあれ以来、葬式が終わっても三が日が終わってもずっと俺の隣にいる。現に今だって、俺と視線が合うといつとのようにへらりと笑い、手をひらひらと振っている。
 曰く、俺しか有平を見える人間がいないらしい(人間、と限定したのは、今朝猫がこっちみてた! と有平がはしゃいでいたからだ)。
 席を立ち上がり、他にも問題を解くことに苦戦している同級生の間を縫うようにすり抜け、残った白チョークを指先でつまむ。そして気が付いた。
 ……これ、発展問題じゃねえか。
 うんうんと首をひねっていると、聞き慣れた声が俺を呼ぶ。
「公平、この部分をこっちに持ってきて、くくってからこの式に代入。んで、あとは公式で解けると思うよ」
 俺の頭上、半透明の腕がすいすいと動く。なるほど、そうすれば解けるのか。
 有平に教えられたように式を書いていくと、解は綺麗な整数となった。うん、合ってる気がする。
 目線だけでサンキュー、と言うと伝わったのか、ピースを返される。俺はまだ悩んでいる同級生たちをよそに、一番に自分の席に戻ることができた。
 
 同級生が問題を解くのに四苦八苦している間、俺は思い出していた。昔のことだ。
 年の近い男兄弟はいないに限るとはよく言ったもので、近いどころか同い年な俺たちは殴り合いの喧嘩は日常茶飯事だった。この頃は今ほど有平はのんびりへらへらしていたわけじゃなく、ごく普通にガキのイタズラをして女子相手にちょっかいをかけたりしていた。
 その日もはなんだったかな、思い出せないくらいくだらない、それこそおやつの取り合いだとかそんなレベルの子供の喧嘩をしていた。
 怪我をすることはあってもせいぜい擦り傷引っかき傷くらいで、その日も見かねた保育士に仲裁されようやく喧嘩という名の試合が終了した。しかしその時からすでに不運の男という肩書きをほしいままにしていた有平は、喧嘩の影響でぶちまけた紙を踏みしめた瞬間にすっ転び、あろうことか机の角に顔面を強打した。
 呻き声とだくだくと流れる赤い色。自分が怪我をしたわけではないのにさっと血の気が引いたのを俺はいまでも覚えている。あの日確かに、俺は血の気の引く音をというものを聞いた。
 
 あ、有平とこのままの調子で喧嘩してたら、その内こいつ死ぬわ。
 
 なんてことを直感で悟った俺はそれ以来有平と喧嘩をすることはあっても手を出す回数は減っていき、また有平もそんな俺を知ってかしらずか同様に俺に手を出す回数は減っていき。
 無事高校生となった現在では、「年の近い男兄弟」にしては良好な関係性を築いていると思う。
 結局あの時、有平は六針縫った。
 
 *
 
「それにしても、何で俺にだけ有平の事が見えるんだろうな」
「さあ。双子だからじゃない? もしかしたらみんなも言ってないだけで誰かのユーレイ見えたりして?」
 昼休み、メシ食おうぜと誘う米屋に今日はパス、と返して人気のない特別教室へ。
 パンの袋をあけ、かぶり付くと視線に気がつく。……有平が、物欲しそうな目でこちらを見ていた。
「……何だよ」
「ちょっとちょうだい」
「これ俺の昼なんだけど! つーかお前、仏壇に同じのあんだろ」
「えー、そうだけど、人の見てたら欲しくなるじゃん」
 ちょうだい、笑顔でダメ押しされて、ため息をつきながらパンをちぎった。
 ん、と袋の上にちぎった有平の分を置く。
「やった! サンキュー、公平」
「……幻覚じゃねーかな、って思ったりもしたんだよ」
「んぇ? 何? オレの話?」
 パンへ手を伸ばそうとする有平にぼそりと呟くように語りかける。すると有平は手を止めてこちらを見やった。
 なんとなく、有平の顔が見られずに校庭へ視線を移す。もう飯は食べ終わったのか野球をする者、バタバタと走り回る者、様々だった。有平がこの十七年間で一番大きな事故にあった場所は、今いる教室とは反対側の木造校舎だ。意識していたわけではないが、ここまで避けていたら意識していたのとそう変わりはしないだろう。
 本当は俺は足音が遠くにしか聞こえない空き教室にいるはずじゃなく、いつも通りに有平と米屋と三輪と、昼休みを共にしていたはずだった。
 本当は、だなんて言ったとしても、こいつが死んでいるということこそが本当なのに。
 と、急に目の前が揺らいだ。ブンブンと手が振られている。考えるまでもない、有平だ。
「んだよ」
「いやあ、公平が珍しくセンチメンタルだなーと思って。」
「はあ?」
「幻覚だったらさ、もっと素直に、オレはパンを食べたと思うよ」
 そう言うと、有平は手を先ほどのパンへと伸ばした。持ち上げるとパンが一瞬波打ったように揺らぎ、そして先ほどと何も見た目が変わらないパンと、有平の持っている半透明なパンの二つに分かれる。有平がかぶり付くと、半透明のパンはその歯形の分だけ減った。
「うめー」
 満面の笑みだ。それを見て、俺もパンをひとかじりする。
 そう、そうなのだ。俺は幽霊がものを食べるとき、食べ物のお化けを食べるだなんてことは知らなかった。食べ物が宙に浮いて、幽霊が食べた分だけ食べ物も減るものだと思っていた。
 しばらくして自分の分を食べ終わり、パックジュースを飲んで口の中を潤してからここ数日疑問に思っていたことを呟く。
「……その抜け殻の方ってどうなってんだろ」
「うーん、フツーに仏壇に供えた後のお菓子とか食ってじゃん。何ともないんじゃね?」
「んー……」
 有平がパンのお化けを取り出し、残ったパンの抜け殻に手を伸ばす。何だか食べ残しを見ているようで微妙な気分だが、意を決して一口かじった。
 もぐもぐ。咀嚼しながら首をかしげる。
「……どう? なんかヘン?」
「うーん……? 味が……薄いような気がする……? いや、気のせいかも……?」
 曖昧に答える俺に何だそれ、とケラケラ笑った。
 
「そういえば、公平って今日はボーダー行くんだっけ?」
「ああ、落ち着いてからでいいって言われてたけど、任務とかあるし、そう長くも休んでられねーからな」
 市民の平和を守るボーダーにも忌引きのようなものはあるらしく、また忍田さんや太刀川さんたちからも直接無理はするな、ゆっくり休めというありがたいお言葉をもらった。いや、太刀川さんはそこまでしっかりした言葉ではなく、こちらを気遣っていることは伺えたが、もう少しふにゃふにゃしたニュアンスだったような。
 とはいうものの、葬式だなんだでバタバタしてた以外は俺としてはさして何もないのと同じである、というよりも、最近トリガーオンすらしていなかったので身体が鈍ってしょうがなく、いい加減動かしたいというのも本音。
 ずっと家にいるのも、気分が塞いでよくない、というのはここ数日の両親の目元を見ていればよくわかる。
 そう言えば母は買い物にでかけると言っていたか。チャットアプリを開き、家族用のグループで「今日スゲーいい天気」と冬にしては暖かい日差し降り注ぐ校庭を写真に収めて投稿する。
 いつもはこんなことしないが、気分というやつだ。いつもはすぐ既読が付くが、付けるはずの家族はいま窓際で呑気に有平ぼっこなんぞをしている。
 勿論、ケータイもスマホも持っていない。
 息を長く吐き出し、いくつか連なった机の上に寝転ぶ。
 早く放課後にならないだろうか。そうしたら、米屋と三輪と、本部へ向かおう。
 平穏な昼休みが、もう直ぐ終わることを告げる鐘がなる。
 俺は満腹感と程よい喧騒をBGMに、すうと目を閉じた。
 
 
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