蜜柑とアイスの共存

ナイチンゲールと棘のない薔薇

エピローグ

 店の扉を開くと、ドアベルがカランコロンと涼やかな音色を立てた。すかさずやってきた店員に「待ち合わせです」と一言だけ告げて彼の姿を探す。
 窓際の、やや奥まった席に彼はいた。落ち着いたトーンで統一された服装で、文庫本に目を落とす彼は喫茶店という場所柄もありなんとも絵になっている。注文していたらしいコーヒーの量はほぼ減っていなかった。
「渥美先輩、お待たせしました」
 声をかけて向かいに座ると、ふと視線を上げて本を閉じる。目が合うと彼の表情が和らいだ気がした。
「お疲れ、佐鳥」
「つ……かれましたぁ~~~」
 お冷やを持ってきてくれた店員にドリンクを頼んでべちゃりと肌に突っ伏す勢いで息を吐きだした。大袈裟なくらいに返すと先輩は目を細める。
 彼の震える肩に合わせて少しだけ髪が揺れた。隠されることのなくなった耳にはピアスが光っている。何回目かのデートの時に彼はばっさりと髪を切っていたのだ。理由はやっぱり、ピアス禁止の校則を気にしなくてよくなったこと。あとは暖かい季節になってきたから、と語っていた。
 オレが驚くのをわかっていて──驚くのを期待して、敢えて会うまで言わなかった彼を思い出してむずがゆくなる。待ち合わせた途端、真っ先に指摘すれば「あ……気が付いた?」と嬉しそうにしていたけれど。そりゃあ、気付くよ。気が付かないわけがない。
「どう? 仕事の、塩梅は」
「そりゃもう、完璧にこなしてきましたよ!」
「さすが」
 新学期が始まって学校もボーダーも忙しくなった。それをなんとかこうにかひたすら片付けて、カレンダーをめくる頃にやっと落ち着いてきた。と、思ったそばから新しく舞い込んできた用事をやっつけてきたところなのだ。先輩との会う約束を破るわけにはいかない──先輩に申し訳が立たないというのもそうだし、オレだって先輩に会いたくて仕方がないわけだから。
 運ばれてきたオレンジジュースを飲む。口いっぱいに広がる酸味とわずかな苦みが疲れた身体に染み渡る。水分補給には気を付けてたつもりだけど、思ってたよりも喉が渇いていたみたいだ。
 一息つくと、先輩がじっとこちらを見つめていることに気が付いた。ストローを咥えたまま、どうかしたんですか。そう目で問いかけると先輩はぱちり瞬きをする。
「お腹空いてるなら、先に、ご飯食べに行く?」
「ん……ん。いえ、さっき軽くお腹に入れてきたので」
「そっか」
 先輩もオレにならうようにコーヒーをあおった。注文してから時間が経っていたらしく、少しも熱そうな様子はない。

 ドリンクを飲み終わるまでの間、またぽつぽつと話をしてからオレたちはやがて席を立つ。今気づいたけれど、店内のBGMは以前渥美先輩に教えたバンドの新譜だ。
 カランコロン、ドアベルが涼やかに鳴った。厚い雲を見上げて先輩が呟くように言う。
「天気予報は晴れだったけど……もしかすると、雨が降るかもね」
「曇ってますね」
「屋内だからそんなに関係ないけど……」
「……ちなみに先輩、今日も折り畳み傘持ってきてます?」
「うん、一応ね」
「……じゃあもし雨が降っても、今度は先輩の傘で、堂々と相合傘できますね」
「……、からかわ、ないで……」
 笑いを含ませながら渥美先輩をうかがうと、いつかを思い出したのか彼は言葉を詰まらせた。先輩にとってはあまり蒸し返されたくないことかもしれないけれど、オレにとってはいい思い出だ。
「オレ……この一年で、雨のことが好きになったかもしれません」
「そうなの?」
「渥美先輩は雨、好きですか?」
「そうだね……。足元が濡れるのは苦手だけど……雨音を聞くのは好き、かな」
 渥美先輩とのきっかけは雨だった。先輩は、まだ知らないことだけれど。いつまで内緒にしておこうか、それとも、雨の日にうっかり伝えてしまうかもしれない。いずれにせよ、先輩はきっと照れたようにはにかんでくれるんだろうなと思う。
 もう一度曇天を見上げて、「行きましょうか」と彼に笑いかけた。