蜜柑とアイスの共存

ナイチンゲールと棘のない薔薇

三月

 三寒四温のある日、渥美先輩からかかってきた電話はこんな内容だった。
『もしよかったら、水族館、行かない?』
 スマホ越しに聞こえる先輩の声は新鮮だ。ワンテンポ遅れて話の内容を理解する。
「水族館……ですか?」
『うん、少し遠めにはなるんだけど……』
 渥美先輩が口にした施設を調べるとすぐにヒットした。青色で統一されたサイトを見ていくと展示されている魚をはじめとした、海洋生物の写真が次々にポップアップされていく。
 ついついっとページをめくっていいですね~なんて相槌を打ちながら眺めていくと、とある項目に目を引かれ指を止めた。
「わ。イルカショーとかあるんですね」
「うん。土日は頻度も高いみたいだから……興味があるなら、時間を合わせれば見られると、思う」
「行きたいです! 行きましょう」
『……よかった』
 先輩の声が柔らかく響く。誰かに見られてるわけでもないのに赤らむ頬を隠しながら、どうしてここなんですか? と尋ねた。最寄りの水族館はまた別にあるからだ。
 まあでも近くの水族館といえばちょっと近すぎるというか。いいことなのは間違いないけど学校行事なんかでも昔からちょいちょい行くし。だから新鮮さを求めて別の水族館に行くのもさしておかしなことではない。尋ねつつもそんな感じの返答を予想していたけれど、彼の答えは別のところにあった。
『ええと……、覚えてるかな。三ヶ月連続で刊行されるっていう、小説の……』
「ああ、はい。先輩が好きな作家さんのですよね」
『そう、それ。……最後の一冊が先日発売されて、シリーズも一通り読み返したんだけど、……ネットのレビューを見てたら、表紙のデザインの背景が、そこかも……って情報を見つけて』
 なるほど、腑に落ちた。ドラマやアニメ作品なんかでよく言われるやつだ。
「つまり……あれですね、聖地巡礼!」
『聖地巡礼……うん、たしかにそうかも……』
 先輩はおかしそうにひっそりと笑った。ちなみに嵐山隊も、グッズやインタビューのロケ地に訪れるファンの様子を、メディア対策室を通して見かけることがある。グッズ片手に自撮りをするファンの子たちはみんな楽しそうで見ているだけで嬉しい気分になるものだ。渥美先輩も自撮りとかするのかな、とか考える。あんまりしそうにないイメージがあるけれど。
 現地巡礼に来てもらう(という言い方は少しおかしいかもしれないけど)ことはよくある反面、自分が向かう側になるのは初めてだ。シリーズものだからちょっと気が引けてしまって、オレは読んでないんだけど、表紙だけでも見てみるといいかもしれない。
『それじゃあ、いつ、行こうか? ぼくの方は月末以外ならいつでも……って感じだけど……』
「えーと、ちょっと待ってくださいね……」
 日取りを決めて、……それからもう少しだけ雑談をして、オレたちは通話を切った。そのままオレはベッドに倒れこみごろごろと転がりまわる。先輩は明言しなかったしオレもはっきりとは言わなかったけれど、オツキアイをしている二人が休日にどこかへ出かけるこれはつまり。
「……渥美先輩とデートだ……!」
 口にだすと抑えきれない嬉しさが胸中に溢れ出す。今すぐ窓を開けてご近所中にお知らせしたい衝動にかられながら、やはりじたばたとベッドの上で暴れまわった。

 *

 約束の日まであれだけ待ち遠しく思っていたはずなのに、いざ準備を始めるとなるとボーダーの仕事も重なってあっという間だった。いつもより早めに起きて、熟考に熟考を重ね、さらには妹からのアドバイスももらった服を着る。とはいっても、友達と出かけるときなんかと大きく違うってことはないんだけど。姿見で全身を確認しながら最後にキャップを被ってオレは家を出た。
 待ち合わせ場所につくと、渥美先輩はもうそこで待っていた。初めて見る私服姿の先輩は新鮮で、当たり前だけどいつも見ている制服とはがらりと印象が変わる。
 シンプルなスタイルは先輩のカッコよさをめいっぱい引き立てているし、いつもと一番違うところといえばレンズが大きめの眼鏡をしているところだ。
 ふと、スマホから顔を上げた先輩と目が合った。手を上げて合図する先輩に、見惚れていたオレははっとして小走りで駆け寄る。
「渥美先輩、おはようございますっ。ごめんなさい、遅れちゃいましたね」
「ううん。ちょっと早いぐらい、だよ。ぼくも、今来たところ……だから」
「今日はコンタクトじゃないんですか?」
「ああ、これ……?」
 先輩は、眼鏡のつるをちょいと上げた。そのまま縁を撫でる指先は軽やかだ。
「ついこの前、買ったんだけど……度の入ってないオシャレ眼鏡でね。コンタクトはちゃんと付けてるよ。……ふふ、気付いてくれた」
 よほど気に入っているのだろう、楽しみにしていた新刊をレジに持っていくときと同じくらい渥美先輩は上機嫌だ。
「そりゃあ、気付きますよ。先輩、いつもは眼鏡かけてないから」
「あはは。……そうだね」
 先輩が眼鏡をかけているのを見たのは、去年コンタクトが外れてしまった事件に出くわして以来だ。初めて見る先輩の私服姿に、あと、お気に入りの眼鏡をお披露目してにこにこの先輩。なんかもう、これだけで今日先輩と水族館に来てよかったって思える。おつりがくるぐらいだ、まだ着いてすらいないけど。
 休日に渥美先輩と会える喜び以上のものを噛みしめている間に、先輩は「そろそろ行こうか」と目的地を示している。オレは返事をしてついていった。

 受付を通り過ぎて中に入ると、すぐに青い空間が広がっていた。絞られた照明が経路を案内するように点々と続き、壁には反射した水槽の波紋がゆらゆら揺らめいている。
 休日だけあって、オレたちと同じように学生だけで来ているグループや家族連れなど多くの人が訪れている。けれど館内が暗いことも手伝ってか雰囲気は落ち着いていて、人混みに流されたりはぐれてしまうほどではない。
「ゆっくり見ましょうか」
「うん。ちょうどいいぐらいかもしれないね」
 展示されている魚たちは、通路よりも明るい光に照らされている。テレビでよく見る魚、名前だけは知ってる魚、聞いたことも見たこともない魚を見ながら、オレたちはゆっくりと通路を進んでいく。やがてクラゲやカニ、ペンギンのコーナーを抜けて、そのたびに先輩といくつか言葉を交わす。先輩はむしろいつもより言葉少なな気がするけれど、それだけ水族館を楽しんでいるということだろう。熱帯コーナーを抜けると、上階が吹き抜けになっているホールにでた。
 開けた場所に出たこともあり、人混みは少しマシになっていた。ちょうど案内が表示されているレストランへ向かう人が多いのもあるはずだ。吹き抜けの中心部には太陽の光が揺らめいている。さらに上の階にはイルカショーの水槽があるらしいから、そこから光を採っているのだろう。その証拠に、ちらちらとイルカらしき影がすいすい現れては消えていく。
 きょろとあたりを見渡した先輩にどうしたんですかと声をかけると、先輩はちょいちょいと手をこまねいてオレを呼んだ。
「たぶん、このあたりなんだけど。……ええと、写真撮っていい?」
「えっ? ハイ、大丈夫ですけど……?」
 答えたとき先輩はすでにスマホを取り出していた。背後に気を配りながらオレにカメラを向けて、画角を調整したいのか少しずつ下がっていく。先輩を待っている間も、照らされたこの場所にはゆらゆらイルカの影が行ったり来たり。水面や強化ガラスの関係なのかたまに眩しい。
 何枚か写真を取った後、ふと高さを固定していた腕が下ろされる。渥美先輩は画面を眺めて確認すると、またすぐこちらへ駆け寄った。画面を見せるために肩を寄せられドキリとしたけれど、緊張をほぐすための息を吐く暇もなく、先輩は心なしか楽しそうに弾んだ声でオレを呼んだ。
「佐鳥、これ、見てみて」
 さっきのオレの写真。広いホールの中にひときわ大きな水槽があって、頭上には天井の窓から差し込む光があった。
 水面の揺らめく様子と、イルカの影。どこか非現実的な空間がそこにあった。驚くとともに、少しの既視感を覚える。
「よく撮れてる、でしょ? ……でね、こっちも見てほしくて……」
 画面を横にスワイプして見せられたのは本の表紙だ。それを見た瞬間オレはあっと声を上げた。
「そっくり……」
 思い出すのは先輩がオレをこの水族館に誘った時のこと。「本の表紙のモデルになっているという噂を聞いたから行ってみたくなった」と先輩は語っていた。水族館は全国に数あれど、ここまでロケーションがぴったりあてはまる場所もきっとそう多くはないだろう。
「うん、ほんとに……ぴったり」
 渥美先輩は大層満足そうな表情をしているけれど、ちょっとまって。そういう話なら、満足してもらうにはまだ早い。一人うなずいたオレは先輩を呼ぶ。
「渥美先輩!」
「? 次の展示、行こうか? それとも……ご飯にする?」
 そのどちらともに首を振った。先輩は大事なことを忘れている。
「ここがロケ地なんですよね?」
「うん……ほぼ間違いなく、そうだろうって……話」
「その話を聞いたから、先輩は聖地巡礼に来たんですよね?」
「……うん、そうだね」
「なら、おれじゃなくて先輩が〝ここ〟に立たないと!」
 オレは自分のスマホを構えてみせた。先輩は虚を突かれたようにぱちぱち瞬きをして、それから照れたようにはにかんだ。
「そう言われてみれば、そうかも……ふ……」
 よっぽどツボに入ったのか、先輩は口元を抑えてくすくす笑っている。オレも笑い返して、さっきの先輩と同じようにゆっくりと後ずさりながら位置を調整する。ちら、渥美先輩に射す光にイルカの影が映りこんだ。シャッターボタンを押し込むと連射の音が聞こえる。
 表紙に描かれていたものはどこか深海のような、底知れなさを感じさせる雰囲気だったけれど。せっかくの聖地巡礼なのだし、遠出をした水族館なんだし。
 楽しい休日の一ページみたいな、こんな笑顔の写真もぴったりだと思う。

 それぞれの撮ったお互いの写真を交換して、先輩はしげしげと眺めて言った。
「佐鳥は撮られる方も……撮る方も上手い、ね」
「……そう、ですか? 撮られ慣れてる、っていうのはあるかもですね」
「ああ……広報の」
 撮る方は被写体がいいからですよ、という言葉を言おうかどうか迷って、結局飲み込んでしまった。ちょっとクサすぎる気がしたし、よしんば言えたとしても先輩は、ああ、水族館が。と別方向に納得してしまう気がした。
「カメラマンさんも、撮影中はめちゃくちゃ褒めてくれますし。どの角度がいいね! とか」
「そうなんだ。……佐鳥の一番いい角度って、どんなの?」
「えっ……えーと、それはぁ……」
 ちょっと恥ずかしいけど、先輩の期待に満ちた(ように見える)目にせかされてやってみる。──と、パシャパシャ、なにやらシャッター音が聞こえた。
「せっ……先輩?」
「あ……ほんとだ、……かっこいいね」
「渥美先輩?!」
 思わず口から心臓が飛び出そうになった。至近距離から撮影したオレの写真を見て渥美先輩はしみじみうなずいている。嬉しさと恥ずかしさの感情がごちゃ混ぜになって押し寄せてきた。
 消してください、そう口を突きそうになったけど楽しそうな渥美先輩を前に何も言えなくなってしまった。先輩にからかいの気持ちは……ちょっとは、ありそうだけど。でもいい角度を意識して撮られたものだし、そうおかしい写真にはなっていないはずだ。それに、先輩ならきっと変に扱うことはしないだろう。
 魚を余所にお互いの写真を撮りあっている。これってどういう状況なんだろうと考えながら、オレたちはやっとホールを後にした。

 昼食後、ちょうどイルカショーの時間だからと最上階に上がった。すでに見物客がちらほらと席を取り始めているようで、出入口近くの席は早くも埋まっているようだ。比較的すいている前方の席に座り、開演時間を待つ。
「まだ、席空いててよかったね」
「ですね。……ところで、このビニールって、なんでしょう?」
 座席の足元には、席の横幅よりも少し長いくらいの大きなビニールが置いてあった。客席をざっと見渡してみても前方数列分しかないようで、よく目を凝らすと濡れていることがわかる。それを見てはっとした。これは、もしかして。
「イルカが跳ねるとね……降ってくるんだって。飛沫が」
 さらによく見てみると、足元も水槽近くが一番濡れて、座席の段があがるにつれ薄くなっていた。グラデーションデザインというわけではなく物理的に濡れていたようだ。前方の席が比較的空いていたのは水が降ってくるから、という理由もあるのかもしれない。
「ビニールがあるから大丈夫だと思うけど……佐鳥、ちょっと濡れちゃうかも。大丈夫?」
「はい、オレは全然」
 答えると、ちょうど前の席に座っていた小学生くらいの子供が勢いよくこちらを振り返った。そして目が合う。にっこり笑って挨拶すると、その子はきらりと瞳を輝かせた。
「佐鳥隊員だぁ……」
 その表情にも顔にも、憧れとか感動とか、そういったものがたくさん詰まっていてつい頬が緩んでしまう。きっと、オレたち嵐山隊の活躍をテレビで見てくれているのだろう。その子の両脇に座っていた両親も子供の様子に気が付いたようで、オレたちを振り返って「あっ」という顔をする。幸いその子の上げた声がそれほど大きくなかったのと、開演までのおしゃべりを楽しんでいる人がほとんどだから周囲に気付かれた様子もない。
「こんにちは」
「こ……こんにちは」
 挨拶するとぎこちなく返してくれた。キャップを浅くかぶりなおしたオレは、ちょっと大げさなくらいに体をかがめて口元に人差し指を立てた。その子の目線と合わせて、内緒話みたいにする。
「実はオレ、極秘任務の最中なんだ」
「ごくひにんむ……?」
「そう、三門市を守るためのね」
 そういうと、その子は渥美先輩にも視線を向けた。多分この子の中で渥美先輩は、極秘任務の相棒的な立ち位置になっている気がする。
「……すごーい……!」
「あはは、ありがとう。……だから、オレがここにいること……他のみんなに内緒にできる?」
 その子ははっと目を見開いた後、両手で口をふさいで何度も大きくうなずいた。
 またにっこり笑って、様子を見守っていたその子の両親とも会釈をする。やりとりの中でオフだということは察してもらえたみたいで、開演の音楽が流れると同時に親子は前に向き直った。前説の間子供がちらちらとこちらをうかがう度に、両親のどちらかがやさしく肩をたたいてイルカと飼育員に注意を向けさせる。
 オレのせいでショーに集中できなかったらどうしよう……と少し心配だったけど、イルカが水上何mも飛び跳ねるのに一気に心を奪われた様子で歓声を上げている。
 ちら、と横目で先輩の様子をうかがうとばっちりと視線が合った。先輩は目を細めて、また水槽に視線を戻した。
 輪くぐりやボール回し、トレーナーをクチバシの先に乗せての遊泳。技の一つひとつが決まるたびに会場が拍手に包まれる。演技も進み、思ったよりも飛沫は飛んでこないな、と思っていたところに、ビニールを持ち上げるようにとアナウンスがあった。どうやら波を大きく立てる泳ぎ方があるようで……。
 結果からいうと、わずか数分の間に驚くほどの量の水が飛んできた。飛沫なんてかわいいものじゃない。それこそバケツごととか、ホースを伸ばして水道を思いっきり捻ったみたいな水量に襲われた。
 イルカが間際を通って、ビニールが濡れるたび楽しそうな悲鳴が上がる。前に座っている親子連れも、オレと先輩も、たくさん笑った。

 閉場のアナウンスを聞きながら、ぞろぞろと人が減っていくのを座って眺める。立ち去りぎわ、先ほどの小学生がこちらを振り返った。先輩と目を見合わせ一緒にばいばいと手を振れば、嬉しそうに振り返してくれた。
「……流石、人気者だね」
 気持ちこっそりと囁いてきた先輩に笑い返した。
「おかげ様というか、なんというか……。ちっちゃい子相手だと、これもあんまり意味ないですね」
 キャップを被りなおすと、つばの先の方が濡れていた。ビニールでは庇いきれなかった飛沫が飛んだのだろう。変装用も兼ねて被ってきたキャップだけれど、目線が低い小学生相手に効果は薄かったようだ。
「あ……そっか、目隠し用だったんだ」
「いつもはボーダーの友達が一緒とか、クラスの子とは制服のまま遊びに行くことも多いからあんまりしたことないんですけどね。見つかっちゃいました」
 どうしても一緒にいる人──今回は先輩だ──に時間をとらせてしまうから、たまにこうして変装をしているんだけど。でもさっきの子みたいなファンが見つけてくれると、やっぱりうれしいって気持ちもある。かくれんぼみたいだ。
「そっか……」
 先輩は少し考えるように目を伏せて、ぱちぱち瞬きをした。心なしか楽しそうだ。
「佐鳥、ちょっと目、閉じてて?」
 そういわれて、反射的に目を閉じる。なんですか? と聞いても先輩は無言のままだ。──…と、米神にかすったような感覚があった。次いで耳と鼻に何かが触れている感触。
「もう開けてもいいよ」
 ぱちり目を開けると、視界の縁に違和感があった。……これは、
「先輩の眼鏡……ですか?」
「うん、眼鏡かけてると体感程度だけと、声をかけられる確率が減る……ような気がする、から。──佐鳥は、どうだろう?」
 そう首をかしげる先輩はいつも学校でみていた風貌だ。風にあおられて、顔にかかった髪をよけると赤いピアスが見えた。
「いっいやいや、借りれませんよ! これは!」
「度は入ってないよ?」
「そ、そういう問題じゃなくって……!」
 言い分から察するに、先輩も顔を隠すためにつけてたんじゃないの? そう言って眼鏡を返そうにも、先輩がかけたものをなんとなく触れづらく感じて、オレの手は宙をさまよう。
「似合ってる」
 焦りつつも先輩が微笑むのに喜んでしまうんだから、オレってほんとに単純!
 いつも以上にぐいぐい来る先輩にひたすら翻弄されてしまう。なんでだろう、聖地巡礼にテンションが上がってるせいか、受験が一息ついて開放的な気分になってるのか、どっち?! どちらにしてもこのままだとオレがもたない。うれしいけど、大変だ。さっきファンの子に見つかった時よりも強く、相反する感情がオレを支配した。思考はぐるぐると一回転半したらしく、オレの口からでてきたのは自分でもどうして? と思う言葉だった。
「……じゃ、じゃあ、交換!」
 そういってオレは自分のキャップを先輩にかぶせた。濡れているのはつばだけだから問題ないはずだ。……と、思ったんだけど、オレのキャップを被っている渥美先輩は、それはそれでオレの心臓に悪いかもしれない。もしかすると自爆したかも。けれど行動してしまった手前やっぱ返してくださいとはとても言えない。
「これでプラマイ、いい感じになると思います!」
 なるだろうか。ちらりと伺った先輩がしばし考えた後うなずいたので、なるということにしておく。
 気が付くと、会場からはもうほとんどの人がいなくなっていた。そろそろ行きましょうと立ち上がり、オレたちは足早に出入口へ向かった。

 *

 ルートに戻り、また展示物を見ていく。途中で鯨や古代海水生物の骨格標本だったり進化樹形図だったり、興味深いものがたくさんあった。先輩は相変わらず説明文の一つひとつをじっくりと熟読している。こういうところにも読書好きって出るんだな、と少し面白くなって笑った。声が聞こえたのか、先輩が文章から目を離してオレを振り返る。
「……楽しんでくれてるみたいで、よかった」
「めちゃめちゃ楽しいです。誘ってくれてありがとうございます」
「こちらこそ…… 来てくれて、ありがとう」
 ゆったりしたペースで見ても、やがてすべて回り終えて施設の入り口まで戻ってきた。 お土産屋があるのを見つけたから少し見て回ることにする。
 お土産として定番のクッキー、キーホルダー、ぬいぐるみ、Tシャツ。いろいろあるけれど、やっぱり数の入ったおやつがいいかな。隊のみんなや友達に配る用のおやつを吟味していく。
「……佐鳥、みて、これ」
 先輩が控えめにさしたのは、チンアナゴクッキー。パッケージが中身に合わせて長細い筒状になっている。ポップな色味を見るにバラエティ色が強い商品なようで、先輩はオレに見せた後迷わずカゴの中に入れた。当真さん用に、ということらしいけれど、当真さんへのお土産ってもしかして毎回あんな感じなのだろうか。

 会計後、先輩はとあるコーナーで足を止めた。つられて見ればそこはくじコーナーだった。一回二千円、A賞からD賞までのぬいぐるみくじ。ハズレ無しで、上位賞になるほどぬいぐるみのサイズが大きくなっていく。くじの中身は当たった賞だけが書いてあってどの生き物にするのかは自由に選べるらしい。
 説明をしげしげと眺めているけど、気になるのだろうか? オレのもの言いたげな視線に気付いたのか、先輩はオレを振り返りくじコーナーを控えめに指さした。
「……。姉に、おつかいを頼まれてて」
「くじのおつかい、ですか?」
「うん。……A賞のイルカを……連れて帰ってきてね、って」
「賞も指定ですか?!」
「まあ……半分冗談で、イルカだったらなんでもいいんじゃないかな……。それに、車ならともかく……ぼくたちは電車だし」
 D賞は大きめのキーホルダーサイズだけど、A賞ともなると抱き枕くらいのサイズになる。たしかに、ぬいぐるみを抱えたまま電車に乗るのはそこそこの勇気が必要だ。人目が気になるというのもあるけれど、混雑していればそれだけ大変だし。なるほどと頷きながらきょうだいからの無茶ぶりはたしかにオレにも覚えがあった。──どこの家も、結構そんな感じなんだろうか。
 本気でA賞を当てに行かなければならない、という事情ならともかく、そんなに気負っていない様子の渥美先輩は待機していた店員に支払いを済ませ、落ち着いた様子でガラガラを回した。ころりと出てきた赤色の玉は何賞だろうかともう一度掲示されているポスターを見たところ、
「A賞でーす、おめでとうございま~す!」
 カランカラーン、店員が豪快に鐘を鳴らした。鐘の音に振り向いた、小さい子からの無邪気な「いいな〜」という言葉を耳が拾う。
「……、……」
 呆気にとられた渥美先輩はおもむろにオレと目を合わせ、そしてもう一度転がった赤玉を見つめる。
「……当たっちゃった」
「……当たっちゃい、ましたね」
 先ほどの会話が聞こえていたらしい店員が、苦笑しつつもほほえまし気に「A賞の中からお好きなものをお選びください」と先輩を促す。特大サイズのぬいぐるみのイルカが数匹つぶらな瞳で渥美先輩を見つめていた。
「……う~ん」
 先輩は少し迷った後、一匹を棚から取り出した。渥美先輩は身長があるけれど、そんな先輩が持ったとしても中々の大きさだ。これを抱えて電車にのる先輩を想像してややぽわぽわした気持ちになっていると、すかさずさっきの店員が大きいサイズのショッパーを差し出してくれた。デキる店員さんだ。
 ショッパーにイルカの頭を突っ込み、それでもなお飛び出るヒレ。ショッパーにでかでかと印刷された水族館の名前や海洋生物のイラストも相まって一目でお出かけ先がわかるスタイルだ。
 荷物を肩にかけた先輩はやっと落ち着いた様子でお待たせ、とオレに声をかけた。
「いいえ! 全然! 全く待ってないです!」
「……、なんか、元気だね……?」
「そうですかね? それよりちょっと、写真撮っていいですか?!」
「……いいけど……これ……?」
 控えめに承諾した先輩をうかがうと、どうやら彼は少し照れているらしい。いつだかに渡したうさぎの絆創膏には抵抗がないと言っていたけれど、ここまで大きなサイズになるとまた別問題なようだ。大きなぬいぐるみを持っている渥美先輩もレアだけれど、照れている渥美先輩も相当レアだ。照れながらも写真を承諾してくれたのが余計にうれしくて、思わず大量にシャッターを切ってしまう。
(……渥美先輩にぬいぐるみのおつかいを頼んでくれて、ありがとうございます。お姉さん……!!)
 まだ会ったこともなく顔も知らない先輩のお姉さんに、オレは深く感謝したのだった。

 *

「渥美先輩、今日はありがとうございました。すっごく楽しかったです」
「ううん、こちらこそ。付き合ってくれてありがとう」
 駅のホームで少しだけ立ち話をする。渥美先輩はこんな言い方をしたけれど、水族館自体が久しぶりだったしイルカショーなんかは小さいとき以来だ。下手したら、目的地を決めた渥美先輩よりもオレの方がはしゃいでいたかもしれない。
「……次は、佐鳥の行きたいところに行こうね」
「はい。また、考えておきます」
「うん」
「でも他にも聖地巡礼したいところ見つけたら、教えてくださいね!」
「うん、そうだね」
 先輩の乗る電車が来た。開くドアへ向かって、思い出したように先輩が振り返る。
「……? 先輩……わっ、」
 ぽすりと、柔らかく帽子を被せられた。すっかり忘れていたけれど、人から見られないように交換していたんだった。オレも慌てて渥美先輩のオシャレ眼鏡をはずして……えいやという気持ちで──もちろん慎重に、先輩に眼鏡をかける。
「……ふふ」
 そんな様子が面白かったのか、先輩は少し笑った。──ほんとに、よく先輩の笑った顔を見られるようになったなと思う。じわりとこみ上げる嬉しさを噛みしめて、発車メロディが流れる中で車両へ乗り込んだ先輩に伝える。
「先輩、また連絡しますね」
「うん、待ってる。……おやすみ、佐鳥」
「おやすみなさい。渥美先輩!」

「ただいま~!」
 電車を見送って帰路につく。高いテンションのまま帰宅すると、リビングにいた妹に「元気良すぎない? もう夜ですけど」と呆れたように突っ込まれた。
「え~~? へへへ、そうかな~。あっこれお土産、食べていいよ!」
「あ、ありがと……水族館? ……ははあ。賢兄ぃ、さてはデートか」
「ふっふっふ」
 もったいぶった返事をして自分の部屋に戻る。スマホを開いて、待ち合わせ直前のメッセージを見つめながらキーボードを立ち上げた。
『ただ今帰りました! また遊びにいきましょうね』
 送信して、すぐに既読はつかないことを確認すると画面を閉じてベッドに寝ころんだ。はずみで脱げたキャップを眺めて、半日これを先輩が被ってたんだよな……。という事実を再確認する。
「どうしよう……。おいそれと被れなくなっちゃったかも……」
 とか言いながら、結局は使うんだろうけど。カメラロールを見返すと、魚もたくさん写ってたけどそれ以上に先輩の写った写真が多い。これだけ撮ってたら先輩も気付いてただろうな、とか。でも何も言われてないってことは、許してくれてたんだよな、とか。先輩から返信がくるまでオレは、ベッドの上でずっとじたばたし続けるのだった。
 次は、どこに先輩を誘おうか。先輩とどこへ行こうか。