蜜柑とアイスの共存

ナイチンゲールと棘のない薔薇

二月

 オレはごくりとつばを飲み込み、目の前のインターホンを押していた。指先が若干震えている。我ながら緊張しているのがよくわかるな……と乾いた笑いをこぼして大きく深呼吸をした。冷たい空気が胸を満たすとぶるりと身体を震わせる。今日はよく冷える。
 持っていた紙袋の音をガサゴソ立てつつ、左右の裾と裾をすりあわせて指先の暖を取った。意図せず怪しい商人みたいなスタイルになる。そんなことをしても所詮は焼け石に水──ただし今は冬──だけど、気持ちの面では少しはマシになるはずだ。
「……佐鳥、こんにちは。いらっしゃい」
 やがて、音を立てて開いた玄関から渥美先輩が顔を覗かせた。その瞬間背筋をただして、裾へ引っ込ませていた手も外に出す。こんにちは、オレもそう返すと先輩はドアを押さえたまま、家の中へ招き入れるようについと腕を振った。
 なぜオレがこんなに緊張しているのか。
 今日、オレは先輩の家にお呼ばれしたからだ。
「……お、お邪魔、します」
 敷居をまたぎ、靴をそろえて先輩の部屋に向かう。どうやら今回も、渥美先輩のご家族は出かけているようだ。

 暖房の暖かさに迎えられた二度目の先輩の部屋は、前に訪れたときよりもものが増えていた。去年先輩の部屋にお邪魔したときはその辺にてきとうに置いてある、なんてことはなかったのだが、今日は多少煩雑な印象を受ける。とはいえ汚れているわけではない。様々な大きさの本が、あちこちに積まれているのだ。
「ちょっと……散らかってて、ごめんね。最近……ずっとごろごろしてたから」
「いえ、お構いなく」
 恥ずかしそうに言った先輩にそう返してローテーブルの上をみやると、またそこにも数冊の本が置いてあった。きっと先ほどまで読んでいたのだろう。カバーの折り目がすり切れかけている本が、飲みかけのコップとともに置かれていた。
 本棚をみてもどうやら整理途中だったみたいだし、きっとオレがくるからと片付けていた途中に、懐かしい本を見つけて読んでいたらオレが来た、というところだろう。その証拠にシリーズごとにまとめられた本を迷うことなく本棚に詰め込んでいるし。先輩の行動にオレにもよく覚えがあった。常に散らかってる部屋が、テスト期間中だけちょこっと片付いたり、かと思えば懐かしいものを掘り当てて、その作業すら中断してしまう、あれだ。
「……と、先輩。これ……どうぞ」
 そう言って、オレは先輩に紙袋を差し出した。いかにもプレゼントボックスですといった風体の、帯太のリボンがかけられた大きめの円柱状の箱。その中には、焼き菓子の詰め合わせが入っている。先輩のご家族もみんな甘いものが好きということは事前に知っていたので、贈り物にはぴったりだろうと考えた。受け取った先輩はきょとんとして、それから中を覗き込む。箱を開けずとも、小窓があってそこから中身が見える仕組みになっているのだ。
「ありがとう……。どうしたの、これ」
「ええと、今までにいただいたおやつのお返しとか、あと……合格のお祝いとか、色々、です!」
「……そっか、……ふふ、佐鳥からは、頻繁にお返しをもらってるなぁ……。でも、いいの? こんなに立派な」
「いいんです! ……あの、ちょっと前……クリスマスに……おっきなプレゼントをもらうのって、憧れますよねって話をしてたじゃないですか。それで、お祝い事だし、良い機会だなって思って」
「……ぼくに、用意してくれたんだ?」
「はい……」
「……中、開けてもいい?」
「それは、もう、どうぞどうぞ」
 円形の箱はリボンとシールで留められていた。先輩はそれを丁寧にほどいて蓋を開ける。ショーケース越しに見たものと同じ、色んな種類の焼き菓子が顔を覗かせていた。
 オレはドキドキとその様子を眺めている。拒否されることはないだろうとは思っているが、その先の反応が気になる。先輩は、オレからの贈り物をどう喜んでくれるのだろうか。いつも通り控えめに、微笑んで受け取ってくれるのだろうか。
「……前にぼくが言ってたこと、覚えててくれたんだね」
「……、オレも、先輩と同じように、大きい箱とかにはワクワクするので……喜んで、もらえたらなって」
「そう、なんだ。……ありがとう、佐鳥。すごく、うれしい」
 先輩は一言ひとことをかみしめるように伝えてくれた。よかった。店先でずいぶん悩んでしまったけれど、渥美先輩が喜んでくれたなら、それ以上のことはない。
「……じゃあ、これは、今日のお茶うけにさせてもらおうかな」
「えっ、そ、それだとお返しの意味が……!」
 焦るオレに先輩はゆっくりと首を振った。
「佐鳥は、おやつのお返しって言ってくれたけど。……ジュースとか、お茶とか、いつも持ってきてくれた、よね。それに……一緒に食べる人がいた方が、美味しいよ」
 ね。そう微笑まれて、オレは照れながらうなずいた。すると先輩はまた穏やかにうん、と返してから、お茶をいれるために下の階へ降りていった。オレも手伝います、と言えばよかったのだろうか、いやでも人様の家のキッチンに入ってもいいものか。そう悩んでいるとすぐに時間は過ぎていく。
 箱の中身はクッキーやマフィン、カヌレ。味もプレーンから抹茶、イチゴ、アーモンドと様々な顔ぶれだが、先輩が一番に手にとるのはどれだろう。普通なら好きなものから推理して答えを導き出すのだろうけど、そうしようとして、オレはすぐにやめた。お菓子の中でどれが特に好きなのか。基本的にみんな好きだけど、特にこれが好きだと答えが返ってきたことはない。問いかけると首をかしげられて、うーん、全部? そんな会話が前にあった。
 図書室でケーキを食べたときも、同じくらい食べたいものを買ってきた、といっていたから多少の好みもなくはないとは思うのだけど。それとも気分によってかわったり? それは、まぁ。今日はパンの気分とかあるもんね。結局あのときもオレに選ばせてくれて、最終的には半分こということで落ち着いたけれど。
 先輩が部屋に戻ってきて、温かいお茶で指先を温めながらオレのもってきたおやつを食べる。先輩が最初に手に取ったものは抹茶味のマドレーヌ。それに続いてチョコレートクッキーを手に取る。半透明の個包装を剥いて一口食べると、サクサク小気味いい音がした。おいしい。
「……佐鳥って、美味しそうに食べるよね」
「?! なんっ、……!」
 不意に目が合ったと思えば、そんなことを言われた。前にもほぼ同じようなことを言われた気がするけれど、思わずむせて咳き込みそうになったところに、先輩が慌ててお茶を手渡してくれる。
「ごめん、そんなに……びっくりするとは」
「い、いえ……。……でも、美味しそうに食べるって言うなら、先輩の方がそうだと思います」
「そう……? そうかな……まぁ、美味しいから」
「……」
 それはその通りなんですけど。……というか、なにを必死になってるんだろ……。何も言い返せないまま、視線をうろつかせた末に先輩を見る。するとちょうど先輩もこちらを見ていたようで目が合った。で、視線を外す自然なタイミングを図れずに。そこから何か話題を見つける訳でもなく。オレは照れてうつむいてしまい、自然とはほど遠い形で視線を外すことになった。
 何か話題を探さなきゃ、視線を彷徨かせて見つけたのは、先輩の志望校の参考書。先輩が卒業するまであと少ししかない。
「……先輩」
「なに?」
「先輩は、もうすぐ……卒業しちゃうんですよね」
「……そうだね」
「……」
「……。さみしく、なるね」
「──…、……」
「佐鳥と、せっかく……色々話ができるように、なったのに、ね」
 顔を上げて、先輩の横顔を見つめる。以前よりはずいぶんと色んな表情が見られるようになったけれど、さみしくなるね。そう言った先輩がどういう気持ちでいるのかはわからない。ただ、そうか。
(……先輩も、今までみたいにはもう、会えなることを惜しんでくれてるんだ……)
 期待してなかったわけではないけど。渥美先輩も、少しぐらいは惜しんでくれるんじゃないかって。卒業してからも会ってくれるという話はしたから、純粋に同じ学校でなくなるという意味での話。オレは言わずもがなだけれど、先輩からみても定期的に会う後輩はあんまりいるわけじゃないだろうし。
 でも、実際に本人の反応を目の当たりにしてつい面食らってしまう。オレは先輩から視線を逸らして、どう返そうかも決めていなかった口を一度閉じた。そして意味もなくすこし身じろいで、やがてぽろりとこぼすように言う。
「さみしい、です」
 緊張でひりつく舌を動かして、なんとか思いを口にする。今のオレは、渥美先輩の目にどう映るのだろう。わからないけど、ここしばらくずっと感じていたことを、本人に直接言ってしまったオレは、先輩から同じ言葉を聞けたこともあり、半ば高揚していたのかもしれない。渥美先輩なら、茶化したりせずにきちんと聞いてくれるという思いもあったのかもしれない。どちらにせよ、勢いに任せて、もう、言ってしまえ。そう思った。
「オレも、さみしいですよ。先輩と、せっかく同じ委員会になれたのに、三年生の後期は他の学年よりもはやく終わっちゃうし。校内ですれ違うことも無くなるんだなとか。……先輩と一緒におやつ食べるの、実は結構楽しみだったんです。オレ」
 視線を落とし、指先を組んではほどいてを繰り返す。しかし緊張からか変に力が入ってしまい、爪の先が白く変わっていく。ほどけばすぐに薄紅色に戻るけど、またすぐに力を込める。さり、短い爪が手の皮膚を掻くように撫でた。
 チャットで会話していたことを思い出して、オレはもう一度同じ質問をしようと口を開く。先輩の言葉の通り、オレもわかりやすくさみしがっていたのだ。先輩の口から、改めて直接聞きたかった。
「渥美先輩。先輩が大学生になっても、また、オレとこうして過ごしてもらえますか」
「──…うん。それは……もちろん」
 恐る恐る顔を上げると、先輩と目が合った。肯定されて、そうだったらいいなって、期待した通りに目が合って。そこまでオレに都合が良く進むと途端に我に返ったかのように恥ずかしくなった。かなり狡い聞き方をしたものだ。
(かっこいい……とは、ほど遠いな)
 渥美先輩の前だと、いまいちうまくいかない。色んなひとからいじられて二.九枚目だのなんだの言われることはあるけど。そういうおどけ方も、渥美先輩の前だとやり方を忘れたかのような振る舞いになってしまう。うまくいかないな、と気恥ずかしさに顔を熱くしていると、そんなオレをどう思ったのか先輩は何事かを考えているのか、首を傾げてから口を開く。
「ぼくが卒業しても、今日みたいに……また、うちに遊びに来なよ」
「……いいんですか」
 本当にまた来ちゃいますよ、とかろうじて冗談っぽく言うと先輩は柔らかな微笑みとともにうなずいた。そわそわとしたうれしさがこみ上げるのと同時に、先輩の言葉で一喜一憂するオレを我ながら忙しいなと思う。
「……佐鳥、」
 先輩が物言いたげにオレの名前を呼ぶ。けれど、返事をしようとした瞬間に階下で物音がした。続けてただいまー、と大きく呼ぶ声が聞こえる。渥美先輩のご家族だ! どきりとオレの心臓が跳ねた。
「あ……母が、帰ってきた……みたい」
 ちょっと下見てくるね、そう言って先輩が席を立ち、階段を降りていく。
 ……お、お邪魔してる以上オレもご挨拶をした方がいいのでは? そうは思いつつも、先輩に待っててね、と言われた手前動けずにそわそわするだけだ。落ち着かない時間をすごして、誤魔化すようにぬるくなったお茶を飲んでいると、それからしばらくも経たないうちに先ほど聞こえてきた先輩のお母様の声がオレの耳に届く。
「嵐山隊の佐鳥くんなんでしょ? ご挨拶しなきゃ!」
 それに対する先輩の声は扉越しにくぐもっていてうまく聞き取れないが、お母様を引き留めようとしていることはわかる。声の近さ的に、二人は二階に上がってきているようで。聞こえないフリをするのもなんなので、カチャリとドアを開ける。ひんやりとした空気を感じて廊下を見回すと、にこやかな渥美先輩のお母様とちょうど目が合った。
 あら、と嬉しそうに声を上げる。渥美先輩とよく似た顔立ちのその女性は、渥美先輩とは違う笑顔でオレに笑いかける。
「こんにちはー、お邪魔してます。佐鳥賢です!」
「こんにちは、ご丁寧にありがとう。いつも和仁がお世話になってます」
「いえっそんな! ボクの方が先輩にはお世話になりっぱなしで……」
「ふふ、いつも和仁からお話は伺ってるわ」
 オレの手を取り挨拶をするお母様の後ろで、先輩がごめんねと手を合わせている。以前もお家にお邪魔したことがあるし、ご挨拶はしたかったからいい機会というか。本当に気にする必要はないんだけど。オレがお邪魔している立場なのに、律儀だなと思う。
 オレとしてはそのことよりも、先輩がご家族にオレの話をしているという情報にテンションが上がっていた。
(く、詳しく話を聞きたい……!)
 けれど、矢継ぎ早にあれこれ話を続けるお母様を見かねたらしい先輩が間に割って入って会話は途切れてしまう。
「母さん……またすぐ家出なきゃなんでしょ。時間は、いいの?」
「ああ……そうだったわ。ごめんなさいね佐鳥くん、またいつでも遊びにきてね」
「は、はい。ありがとうございます」
 お母様は忙しなく階段を降りて行った。その背中を見送った先輩は、ふぅと一息ついて、それからオレを振り返る。
「……ごめんね、うるさくして」
 オレはぶんぶんと首を横に振った。
「ご挨拶できて嬉しかったです!」
「……ありがとう。……ちょっと、外に出ようか」
 先輩が眉を下げるけれどオレの言葉に偽りはない。けれど、学校の友達や知り合いに家族を紹介するのが気恥ずかしいという先輩の気持ちも……まぁ、わかるし。とにかく極力先輩が気にしないでくれればいいんだけど。

 *

 誘われるままに外へ出て、ゆったりとしたスピードで歩いて行く。土地勘はないし、渥美先輩の進む方向へついていくだけだけれど。
 そのまま住宅街を進んでいくと、やがて公園に着いた。公園とは言っても遊具があるような場所とは少し違う、散歩やジョギングのコースによく使われそうな、舗装してある歩道の脇にはよく剪定された樹木が立ち並び、芝生が敷き詰められた方からは子供達がボール遊びにはしゃぐ声が聞こえる。まだまだ冬の空気は鋭いけれど、柔らかい日差しと憩いの場とでも言えばいいのか、ほどよく自然を感じられて、ほどよく人の気配があるこの公園は居心地がいい。
「こういう公園って、来るの久々です」
「そうなんだ。佐鳥の家の近くは……?」
「オレの家の近所はスタンダードというか。ブランコとか砂場がメインなので、新鮮ですねー」
「なるほど。ボール遊びしない子は、そういう遊具のある公園にいくみたい」
「逆に、砂場があるところではボール遊びが禁止の公園も少なくないですよね。小学生の頃は放課後のグラウンドで遊んでたな〜」
 懐かしさに目を細めると先輩は興味深げに頷いていた。先輩は小学生の頃から本を読む習慣があったんだろうか。
 先輩がはぁ、と白い息を吐き出して手を擦り合わせた。
「……はあ。なんだかんだ言っても寒いね。佐鳥、大丈夫?」
「オレは大丈夫です。渥美先輩こそ、上着だけで大丈夫ですか?」
「うん、……歩いてたら、温かくなるし」
 とは言ったものの、少し歩くうちにぽつ、ぽつ、と頬に雨粒が落ちてきた。空を見上げると確かに雲はところどころにあるけれど曇りというほどではない。雨が降り出しそうなほどの暗さもないし、その一方で天気雨というほど晴れているわけでもない。曖昧な空模様を不思議に思っていると、頬を叩く雨粒は徐々に増えていく。
「佐鳥、あそこ」
 先輩が指さしたのは公園内に点々と設置されている東屋だ。四畳ほどの屋根の下に長椅子が二脚。大雨というほどではなくとも、季節柄濡れてしまっては大変だ。オレと先輩は屋根の下に駆け込んでほっと息を吐いた。公園を訪れていた他の人たちももう帰ったのだろう、遠くから聞こえていた子供の笑い声はいつしか聞こえなくなっていた。
 ただぱらぱらと、木の葉を雨粒がたたく音が聞こえる。じっと耳を澄ませているとその音がどこかリズミカルにも聞こえてくるから不思議なものだ。
「降ってきちゃいましたね」
「……そうだね」
 じっと空を見つめていた先輩の視線がこちらを向いた。
「寒くない?」
「……ふふ、大丈夫です。先輩は?」
「ぼくも、大丈夫。歩いてたからね」
 さっきと同じ質問をされたことに思わず笑ってしまう。先輩は椅子に腰かけるでもなく、雨に濡れないぎりぎりまで外に出かけて、灰色と青のまだら模様を眺めている。
「……。すぐに止むかな」
「どうでしょう。……明るいのに雨が降ってるって、なんだか不思議ですね」
「そうだね……。上空で風が強いと……雲がなくても、遠くから飛んでくるんだって」
「へえ~」
 聞いてみればなんでもない答えだけど、面白みを感じる。雨が降りつつも晴れていて、風は少し強くて冷たい。
 ひときわ強く吹いた風に渥美先輩の髪がさらわれる。長めの前髪で隠れてしまいがちな表情も、耳のピアスもよく見えた。そういえば先輩が耳を隠しているのは、校則では禁止されているピアスが先生たちに見つからないようにって理由らしいけれど。卒業した後はもう隠さなくなるのだろうか。オレだけなんてことはないんだろうけど、先輩の秘密を知っているという特別感がひとつ失われてしまうのはちょっと惜しいような。その反面、耳を出すスタイルの髪型が見られるのはうれしいような。なんて、ばかなことをぼんやりと考える。
「……やっぱりちょっと、寒くなってきたかも。雨も、これ以上強くは降らないだろうし……。そろそろ帰ろうか」
 乱れた髪を整えながら、先輩が振り返った。
 あ、やっぱりオレは、先輩のことが好きだなって。なぜかこの瞬間に再確認した。
「……あの、先輩」
「うん?」
 帰ろうか、と提案する先輩の言葉に返事もせずに、オレの口は動いていた。
「……先輩、好きです」
 どうしてこの日のこのタイミングだったのかは、後になって思い出してみても分からない。いつも頭の中では思ってることだったけれど、この時ばかりはどうしてか、口からするりと出てきた。緊張も照れもなくただ端的に。なぜだかどうしても、伝えたいと思ってしまった。
 先輩は何度か瞬きをしている。ぱちぱち、驚いているのだろう。そりゃあそうだ。オレだって、どうしてこのタイミングでいきなり、こんなことを言ったのかわからない。でも、特別な場所でもなんでもないからこそ、とも思う。 
 息を吐いて、何も言わずにオレを見つめたままの先輩に向き直る。見上げるほどではないけれど、オレよりもすこし背の高い先輩の目をそらさないようにしっかりと見て、口を開いた。
「オレ、ずっと前から先輩のことが好きです。卒業してからもまた会いたいって言ってもらえて、すごく嬉しくて。けど、これから会うのはただの後輩としてじゃなくて……恋人としてだったらいいなって思います。だから、オレと。……オレと付き合ってください、渥美先輩」
 言い切った。すると、オレの心臓は急に緊張を思い出したかのように早鐘を打ち始める。一呼吸がものすごく長い時間のように思えて。オレが知らず識らずのうちにぎゅっと目を瞑っていたのを、先輩の言葉に目を見開いてやっと気が付いた。
「……うん。よろしくお願いします」
「はぇっ……」
 理解が遅れたというか。二度三度脳内で先輩の言葉を繰り返す。よろしくお願いします? よろしくって、どういう意味だっけ。
「……い、いいんですか?」
「いいもなにも……ふふ、佐鳥に、先に言われちゃった」
「え……、……えっ?」
「うん?」
「……え? 先に?」
 驚きと嬉しさと混乱で、心の中がぐちゃぐちゃになる。その混乱は渥美先輩にもしっかりと伝わっていたようで、先輩もまた首をひねっていた。
「……? 佐鳥は、ぼくが佐鳥のこと好きだって知ってて告白してくれたんじゃないの?」
「?! ……い、いえっ。そ、そうだったら嬉しいなとは思ってましたけど……。えっと、……先輩、おれとホントに、付き合ってくれるんですか……?」
「うん」
 むしろこっちからお願いしたいくらい、そう付け足す先輩に、オレはとうとう目眩がしてきた。
「なんて伝えたらいいのか……わからなくて。気持ちを伝えることと付き合ってほしいことは別だから段階を踏んで……まずは気持ちだけ伝えるべきなのかな、とか。でも、好きとだけ言われてもだから? ってなるよね、とか」
 ちょっと悩んでたんだ、と先輩はうっすらとはにかんだ。彼の言葉を、オレはちゃんと理解できているのかわからない。
「……あ、渥美先輩は……もしかしたら、恋人を作る気持ちがないのかもって思ってました……」
「うん? そうなの……? それは、またどうして」
「その……、前の彼女さんと、ちょっと揉めたって……」
「……。当真だね?」
 仕方がないな、とでもいうようにふっと息を吐いた渥美先輩。やっぱり、あまり首を突っ込んで聞くことではなかったかもしれない。遅まきながら謝ったオレに先輩は首を振る。
「ううん……。佐鳥が謝ることじゃないよ。ただ、少しかっこ悪いってだけだから。まあ、端的に言うと……当時付き合ってた人に、思ってたような人じゃなかったってフラれたことがあるんだ」
「……そ、そんな……」
 先輩はなんでもないように言ったけれど、中々に苦々しい理由だ。それと同時にやっと合点がいった。当真さんに恋愛相談をしにいったときに佐鳥次第だと、まずは仲良くならないと付き合う付き合わない以前の話だと言われた。勿論それは、渥美先輩に限らず、誰であっても至極当然の正論なのだけれど。当真さんは、前の彼女さんとのことは詳しく聞いてないと言っていたけれど、実は詳細を知っていたんじゃないだろうか。
 どう声をかけていいかわからずおろおろしていると、先輩は少し困ったように──けれどおかしそうに笑って首を振った。
「もう昔の話だし……なんともないよ。それに、いまぼくと一緒にいるのは……ぼくのことを、よく知ってくれてる佐鳥だから。そうでしょ?」
 先輩こそ、俺がどうしたら喜ぶのかをよく知っているみたいだ。言葉少なに肯定したオレに、先輩は満足そうにうなずいた。
 いつから先輩も同じ気持ちだったんだろう。きっかけは。オレと一緒にいてどんな気持ちだったの。次々に聞きたいことが出てきて、けれどそのどれもが口から出ていくことはなく、オレはその場にへなへなとしゃがみ込んでしまった。
「わ、……どうしたの。……大丈夫?」
 どうしたもこうしたも。顔を覆ったオレを渥美先輩が呼ぶ。返事をしなくちゃっていうのはわかってるんだけど。言いたいことが溢れすぎてなにも言えないオレがやっと発することができた声は、なんとも情けない色をしていた。
「なんだか……夢、みたいで」
「夢じゃないよ」
 そう返した先輩の声は思ったよりも近かった。そろそろと隠していた手を下ろすと、渥美先輩はオレに合わせてしゃがんでいる。同じ目線で、さっきオレが先輩にしたみたいにしっかりとオレを見つめながら、彼ははっきりと言い切った。
「佐鳥、ぼくは、佐鳥が好きだよ」
「……はい、」
 なんで、どうして。そうやって浮かぶ疑問は数えきれないくらいだ。けど先にそう言われて、やっと実感が、嬉しさと一緒になってこみ上げてきた。
「伝えてくれて、ありがとう」
「……はい。……いえ、いいえ。おれの方こそ……ありがとうございます。先輩、好きです」
 さっき言ったばかりだというのにまた言いたくなってしまった。先輩はまた目を細めて、嬉しいなって顔をして笑う。

 *

 えーっと、次の予定はなんだっけ。そう考えながらボーダーの廊下を歩いていると、のしっ、オレの肩に何かが覆い被さってきた。
「よーっす、佐鳥」
「当真さん!」
 腰をかがめて上からオレの顔を覗き込む。彼はにや~っと笑いながら「男前じゃねえか」と、狙撃手の合同訓練でばっちりオレに当てたマーカーを指さした。オレも訓練の成績は悪い方ではないけれど、当真さんにかなうかというと中々難しくってちょっと悔しい。
「次はオレから当真さんに当てますからね」
「おーおー、言うじゃねえの。まあ楽しみにしとくぜ」
 当真さんの射程は長すぎて、当てられた直後に当て返そうとしても射程外で諦めざるを得ないことがほとんどだ。A級二位の実力は伊達じゃない。とはいえ、オレだって嵐山隊でまだまだ上を目指している。そのためには負けていられないのだ。
 やる気を燃え上がらせるオレをよそに当真さんは「そういえば、」と話題を変えた。
「聞いたんだけどよ、渥美と付き合うことになったんだって?」
「うぇっ?! ……は、はい……おかげさまで……」
 思わず口から心臓が飛び出そうになった。渥美先輩、当真さんに言ってたんだ。でも共通の知り合いだし、渥美先輩にとっての当真さんはオレにとってのとっきーみたいなものだろうし、そりゃ言ってるよね。ロックバンドのドラムのごとくハイテンポになった心臓を押さえながら深呼吸した。
「よかったじゃねえか」
「はい、あのありがとうございます。当真さんには、色々と話を聞いてもらって、ありがたいと思ってます」
「おー、図らずもキューピッドになっちまったぜ」
「キューピッド……?」
 楽しそうに言う当真さんに首を傾げつつ、そうですね……? と返した。返事が曖昧になってしまったのは、キューピッドと当真さんがあまりにも結びつきにくかったからだ。
「渥美のすすめた本、あれっきりじゃなくてずっと読んでるんだって?」
「読んでます。面白いですよ」
「かぁ~っ、佐鳥は俺と同類だと思ってたのによ」
「同類?」
「俺ぁ本を開くと眠くなる体質なんだ」
 ちょっと黙った。その体質はおれにもよくよく覚えがある。特に教科書でその効果は抜群だ。否定も肯定もできないでいると彼はぐい、と伸びをして俺の背中を叩いた。
「ま、おめでとさんってことで」
 当真さんの用事は本当にそれだけだったようだ。オレは少しぽかんとして、けれど慌てて、口笛を吹きながら去っていく彼の背中にお礼の言葉を投げかけた。