蜜柑とアイスの共存

ナイチンゲールと棘のない薔薇

一月

 冬休みもあっという間に終わり、学校が始まってすぐの頃。オレにとってはまだ何回かあるけれど、先輩にとっては最後の委員会。その前日の夜、いまいち寝付けずに惰性でスマホをいじっていると、ピヨピヨとチャットアプリの通知が鳴いた。
『明日の委員会、佐鳥は来られる?』
 行くという話はしていたから確認のメッセージ。きっと、先月はボーダーが忙しくて中々委員会に参加できていなかったからだろう。先輩からのメッセージには、もちろん行きます! と返す。……少し、勢いがありすぎたかもしれない。明日が来れば、とうとう先輩に会える回数もほんとうに少なくなってしまう。前々からわかっていたことだけど、やっぱりさみしいものはさみしい。そうぐるぐる考え始めるとキリがないのはわかってる。もやもやしたものが思考を占拠する前に思いっきり息を吐き出した。
 そのままぼんやりチャット画面を眺めていると、猫が尻尾で丸を作っているスタンプが軽快な音とともに現れた。
『こちらは少し遅れます』
 続けて送られたメッセージに珍しいなと思いつつ、かわいらしいスタンプにふふ、と笑い声が漏れる。読みましたよ、という意味を込めて、自分の持ってるスタンプの中でも随一のかわいさを誇るものを選んで送信した。そうしてすぐに既読がついたのを確認して、やっとスマホの画面を閉じて寝返りを打つ。
 そっか、先輩、明日は遅くなるんだ。なんの用事があるのだろう。やっぱり受験生だし授業終わりに何かあったり、もしくは先生からの呼び出しとか、あるんだろうか。理由はわからないけれど先輩と一緒にいる時間が少し短くなってしまった。しょうがないと納得することと、それでも残念に思ってしまうことは両立するはずだ。
 深いため息を吐いて、こんなのオレらしくないと大げさに深呼吸をした。ため息で出しちゃった分のやり直し、みたいな。つきつき痛むみぞおちのあたりを抑えて考え事をしているうちに、オレはすっかり寝入ってしまった。

 *

 ガラガラと図書室の引き戸を開けカウンターを見たけれど、やはり期待していた先輩の姿はなかった。念のため、いつぞやに仮眠をとっていたカウンター奥を覗いても案の定誰の影もない。先輩のクラスのホームルームはいつも早めに終わるみたいだし、位置的にもオレのクラスより近い。オレが諸々の理由で遅れることはあっても先輩が遅れることはなかったから、ただ一人図書室のカウンターに座っているのはこれが初めてだ。でも、あと何回かある委員会ではこれが普通になるんだろうな。──勿論、卒業する三年生の代わりに、受け持ちの先生がきてくれるのだけれど。
 先輩は少しと言っていたし、きっとすぐに来るだろうと荷物を広げようとしたところでちょうど扉が開く。先輩か、そう思ってぱっと視線を上げたけれど、図書を返しに来た生徒だった。
(……いくらなんでも、来るには早すぎだって)
 そう自分に突っ込みを入れながら委員会の業務をこなしていく。
 十五分ほど待っただろうか。休み明けとはいえ数日たてば長期貸し出しの返却をする生徒も落ち着いてくるらしく、あまり多くない利用者に、先輩を待つ時間が余計長く感じる。
「佐鳥……お待たせ」
 図書室の引き戸を開け、渥美先輩は図書室へ現れた。挨拶をした直後、先輩の手にある紙袋に気付き注視する。縦ではなく横に広い、奥行きのあるタイプだ。そう、例えばケーキ屋でよく使われるようなサイズの…──。
「……ケーキ、買ってきたから、食べよう」
 ──…本当にケーキだった。周囲にいる生徒に聞こえないよう声をひそめ、オレが疑問符を浮かべている間に先輩はカウンター奥のスペースへ潜り込んで手招きをする。オレは少し迷って、カウンターへ向かって来る生徒がいないことを確認してから席を立った。

 周囲の本や道具を避けた後。渥美先輩は明日の日付が書かれたシールを開けて、中に入っていたおしぼりをそれぞれの前に置いた。ちょっと覗いた箱の中は小さな宝石箱のような、特別な感じがする。
「わ、美味しそう。先輩、何か良いことあったんですか?」
「良いこと……うーん、……ぼくは今日が、委員会最後だから、ありがとうとお疲れ、っていうのと……。あと、来週ついに最初の試験があるから、ケーキで気分を上げたいのもあるし……。それから、ええと。……一足遅い、あけましておめでとう……?」
「なんで疑問形……?」
 首を傾げながら言う先輩に、少し笑いながら思わずツッコむ。すると先輩は、ほとんど、食べたかったから、っていう理由がメインだから……。と小さくこぼした。それならそう言ってもらえれば納得できるのに。そういうものなんだなって。でも、先輩はオレの質問に真面目に考えて、食べたかった、の根っこの部分にある理由を探してくれたらしい。
 そうですか、と返して、箱の開けられたケーキを改めて覗き込む。紅くキラキラしたドーム状のムースケーキと、ココアパウダーが薄く散らばったチョコケーキ。
「これ、イチゴですか?」
「ちょっと惜しい……それは、フランボワーズ」
「フランボワーズ……」
「ラズベリーだね。甘酸っぱくて、美味しいよ」
「なるほど」
 チョコケーキは一目見てわかるけれど、ムースケーキの方は色だけでは識別が難しかった。マカロンの味でよく聞くやつだ。フランボワーズ、口の中で復唱してみる。先輩の解説によるとフランス語らしい。
「……佐鳥は、フランボワーズが、気になる?」
「気になる……といえば気になりますけど」
「じゃあ……、こっちあげる」
「へっ?! いやいや、先輩が買ってきたものですし、先輩が選んでくださいよ! 先輩はどっちが食べたいんですか?」
「……ぼくは……同じくらい食べたいものを、買ってきただけだから……どっちでも」
 先輩は、ほんとは食べたかったけど……みたいなそぶりとか、そういったものは一ミリも見せないでただ曖昧に「気になる」と答えただけのオレにプラスチックの小さなフォークを差し出した。もう先輩の中では、オレがフランボワーズのムースケーキを食べることになっているらしい。この半年間……いや、おやつ自体は知り合った時からもらっていたから、だいたい一年弱。先輩からおやつをもらうことに慣れきっているオレでもさすがに首を横に振った。
 でも、同じくらい食べたいと主張する先輩の話はたぶん本当。先輩は美味しいものは誰かと一緒に楽しみたい、というタイプみたいだから、誰かにおやつをわけることも全く気にしない人なんだろうけど。ここでオレが二つとも食べてくださいよ、と言ったとしても、二人で食べるために買ってきたんだから。そう言うだろうことは容易に想像がつく。先輩は、そういう人だ。
「……先輩は、どっちも同じくらい、食べたいんですよね……?」
「うん。……だから、佐鳥が食べたい方持っていって」
「あの……半分こ、しませんか」
 ケーキの見た目が崩れても、先輩が気にしないなら。そう付け加えて提案すると、先輩はわずかに目を見開いた。そしてなるほど、と鷹揚にうなずいてから一言。
「佐鳥……さては天才……?」
「ええ……?」
 その発想はなかったらしい。ふふ、と笑い混じりの息を漏らした。

 オレは急遽ホットドリンクをそこの自販機で買ってきて、その間に先輩が半分にしてくれたケーキをカウンター奥で食べる。時折図書室の利用者が顔を見せるが、利用者はやはり少ないようで。委員会の仕事をしたのも一人か二人分くらいだ。
 本来なら飲食禁止の図書室で、誰の目からも隠れて、先輩とケーキを食べる。いけないことをしているのはわかってるけど、こんなにワクワクする経験はそうないだろう。フランボワーズを一口食べて、先輩の言った通り甘酸っぱい味に口元が緩む。
「……美味しい、ね」
「……はい」
 紅色を口に運んだ先輩も、楽しげな表情を見せた。フォークを口に含むたび、半分にわけられたケーキがさらに小さくなっていく。
 黙々と食べて、飲み込んで、たまにドリンクを飲んで。やがて最後のひとかけらを飲み込んで、「あの、」言おう言おうとしていたことを、とうとうオレは切り出した。ホットレモンを飲んで酸っぱそうにしている先輩がオレと視線を合わせ、どうしたのかと問いかける。
「この前お借りした本、まだ全部読めていなくて……あの、でも、先輩が自由登校にはいるときまでにはお返しするので……もう少し、待っていてもらってもいいですか」
「うん……。まだね、自由登校っていっても、関係あるのは推薦とか、私立の人だけだから。……ぼくは、まだ学校あるし……」
 先輩は気にしないでいいよ、と返してくれる。後ろめたさに先輩から視線を外した。整理途中の本がひとまとまりに集められ、その群れがカウンターの手前と奥側の視界を遮っている。オレは少し嘘をついた。本をまだ全て読めていないのは事実だが、読もうと思えば全て読めるくらいの時間はあった。でも、読み終わってしまえば、もう先輩と会う口実がなくなってしまう。先輩と会える最後の日を、少しでも先送りにしたかった。

 *

 けれどいくらやだな、と思っていても時間は変わらず流れるもので。読み終わった本をまとめて、先輩にメッセージを送る。いい加減、借りっぱなしでいる本を返さないといけない。
 オレは基本的には学校で本を借りている。だからいつも通り時間と場所を決めるため端末に文字を打ちこんでいく。いついつにどこそこで、時間と場所を決めたあとに先輩から、とある文章が返ってきた。
『他にも貸したい本があるから、また持っていくね』
 え、と声がこぼれた。どう返そうか少し迷ってから、たどたどしく画面の上に指をすべらせる。
『先輩が学校終わるまでに読めるかわかりませんよ~』
 慌てている様子のスタンプを押す。すぐに返事は返ってきた。
『いつになってもいいよ、卒業しても家がすごく遠いっていうわけでもないし』
「……」
 そのメッセージを見て、オレは指を止めた。オレは、先輩が卒業したら、きっともう会えないものだと思ってた。でも、先輩はそう思ってはいなかったんだ。
 そのことに気がつくと急に胸の奥の方が熱くなった。オレが、諦めた方がいいんじゃないかと思っていたことを先輩は悩むこともなく、当然のように「次」の話をしてくれる。オレの胸の中の暗雲はただ単にはやとちりをして、勝手に抱えていたことだったらしい。
 ……そっか。先輩が卒業してからも、オレ、先輩に会いに行っていいんだ。
 曇っていた気分が晴れていくようだ。ほーっと長い息を吐き出して、確かめるようにチャット画面をずっと遡っていく。オレと先輩とのやりとりが並んでいるそれ。どんどん遡るうちに、最初の頃は文章も硬かったな、みたいなことを思い出してはやたらと恥ずかしくなる。ここなんかは誤字もしてるし……と過去の自分に突っ込んだりしながら。
 気がついたらそのまま寝入って朝になっていたので、慌てて「了解です」という文字が添えられた、キラキラ輝くスタンプを送信した。

 それで、数日後。昼休み先輩と待ち合わせをした場所へ向かう。三年生の教室の近くを通ったが、下級生の教室とは違ってやはり人数が減っているようだ。受験の追い込みの時期ということもあるのだろうか、楽しそうに休み時間を過ごしつつもやはりどこか隠しきれない、ピンと糸が張り詰めたような独特の空気を感じる。
 待ち合わせ場所につくと、先輩はすでにそこにいた。窓から射し込む陽の当たるところに腰掛けて、うつらうつらしているようだ。渥美先輩の海の底みたいに深い色をした髪が照らされて、ちらちらとオレの目に眩しくうつる。
 まるで、先輩のいるところだけ別の空間にあるみたいで…──そう考えかけて、振り切るように頭を振った。敷居を一歩踏み出して、同じ場所に入り込む。先輩はここにいる。遠い存在じゃない。
 緩やかに上下する先輩の肩を見る。今日はよく晴れているし、待っているうちに眠くなってしまったのだろう。一応、休み時間に入ってからすぐにきたつもりなんだけど……それとも先輩の寝つきがいいんだろうか。まさか寝不足……?
 いくつか考えられるところはあるけれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。渥美先輩に近寄ると、気配かそれとも足音か。気がついたように先輩はゆっくりと顔を上げた。起こした方がいいのだろうとは思っていたけれど、それよりも先に起きることは想定していなかったから少し吃ってしまう。
「……おはよう、ございます」
「……おはよう、佐鳥」
 あ、笑った。そう思ったのも一瞬で、手の甲で口元をかくしてくぁ、とあくびをした先輩がその隣を示す。あくびをしてても絵になるなんてすごいな、なんて考えるオレこそ寝ぼけてるのかもしれない。先輩が指したのはきっと座りなよ、という意味だろう。素直にそこに腰掛けた。
「ここ……暖かくて、つい……眠たくなっちゃった」
「今日は、特にぽかぽかしてますからね。……結構、待ちましたか?」
「……ん、ああ……佐鳥が遅かったわけじゃ、ないよ。前の時間、自習で……先生もいなかったから、いいや、と思って」
 抜け出してきちゃった。そう先輩は眠たげな目を細めて笑った。先輩はもしかすると、結構アウトローなのかもしれない。オレが答えに窮していると、先輩は言葉を続ける。
「自習のプリントは、きちんと終わらせてから、きたから」
 だから、大丈夫。とでも言いたげな先輩の表情は得意気だが、いいのだろうか? いやあ、ダメだと思う。少なくとも生徒として褒められた行為ではないだろう。けれどオレの授業態度だって褒められたものではないわけで、そもそも咎めるつもりもない。ただ単に、渥美先輩にもそういう一面があるというだけの話だ。一人納得して、微妙に話題を変える。
「三年生になると……そんなに、自由になるものなんですか?」
「どうかな……うーん、クラスの人数も減ってくるから……少し……開放的な気分には、なるのかも?」
 そこで首をかしげられても。オレはうなずくことも首を振ることもできずに、どうなんでしょうねと一緒になって首をひねるしかない。
「……おれ、先輩のこと、はじめはすごく落ち着いていて、真面目な人なのかなって思ってました」
「ううん……そうでもないよ」
「割と、そうみたいですね」
「がっかり、した?」
「……しませんよ」
 愉快そうにするでもなく、残念そうにするでもなく。真面目な表情で聞いてきた渥美先輩にオレは首を振って笑いかけた。すると先輩は柔らかく笑って「そう」とだけ返されて。それから、それのことだけど、オレが持ってきた本を緩く指して話し始める。
「……佐鳥が、ぼくのことをどう思ってるのかはわからないけど……。ぼくは卒業したからって、それで先輩と後輩の関係も終わる、……っていう風に、するつもりはなかったというか……なんて、言ったらいいのかな、」
 渥美先輩は、ゆるく握った拳を口元に持っていき、考えるように再び首をかしげる。さらさらと流れていく髪は、相変わらず陽の光にキラキラと反射していた。
「ぼくはつい、卒業してからもって言ったけど……佐鳥はどう思ってるのかな、って……。送ったあとに、気がついたから……」
「……?」
 含意をよく読み取れずに、オレは先輩と同じように首をかしげた。先輩はまた少し考え込むように目を伏せて、それからこちらを見つめる。
「ぼくとしては……同じ本読んでる人が出来て嬉しいし、単純に……それを抜きにしても、佐鳥と話したいんだけど……。もし、本たくさん持ってくるのが、迷惑だったらどうしよう……とか思ったりして。でも、ぼくは……一応、先輩だし。もし迷惑だと思ってても、言えないよな……とか、色々」
「……えっと、」
 心なしかしゅんとしているように見える。落ち込んでいる先輩には申し訳ないけれど、オレは、先輩もそういう風に悩んでいたんだ、と感慨深く思うと同時に、どちらかというちょっと面白がっていた。面白がっていた、というか……先輩、気づいてないのかな。
 落ち込んでいる人の前で笑うのは失礼だからと、少し気合いを入れて唇を引き結んだ。言うかどうか迷ったけれど、言ってしまおう。
「……先輩、おれは、渥美先輩に借りた本を楽しく読んでますけど……それ、おれに直接言っちゃったら意味ないですよ」
「……うん、?」
「先輩っていう立場的に、渥美先輩が薦めるからもしかしたらオレが断れないのかも、みたいな話じゃなかったですか? 今のって」
 先輩の危惧しているところはきっと、学校の先輩と後輩っていう上下関係があるから、内心オレが嫌だなと思ってても言い出せてないんじゃないかっていうところだ。別にオレは先輩にそう思ったこともないけれど──というかそもそも、悩むほど誰かを慮れるような人はそうそう無理強いはしないだろうみたいな。そういうロジックもあると思うけど。
「……え、……あ、そっか……。うーん、難しいな……。ええと、この本べつに好きじゃないなとか思ったら……読むのやめても全然……だからね? それもそれで、一つの読書体験というか……ぼくだって、今まで開いた本を全部読破してきたってわけじゃないし……」
「……っふふ」
 今度は慌てる先輩にとうとうこらえきれなくなって、笑ってしまった。先輩が卒業したらもう二度と会えない、ぐらいに思っていたオレもオレだけど、先輩も先輩だ。どちらも脇が甘いとでも言えばいいのか。お互い、気づかっているつもりで、気にしすぎなだけなのかも。
 気まずそうに頬をかく先輩は、オレが最初に抱いたイメージとはずいぶん違うけれど、先輩の色んな面を知ってもオレの気持ちは変わらないままだ。むしろずっと強くなっている気さえする。おかしくて笑ったのと、それから安堵と。うっすらと滲んだ涙を、肩をふるわせたまま拭ってようやく本題に入る。ついつい話し込んでしまったけれど、本来の目的は先輩から借りていた本を返すことだ。ちょうど昼休みだから、とご飯も一緒に食べられることになったんだけど。

 窓の外の空はどうやら薄く雲がかかったようで、少し暗くなったかと思えば陽気が一変、冬らしいひんやりとした空気が肌を覆ってしまう。これでもまだ閉め切られた室内だからマシなんだろうけど、これから二月に向けてさらに冷え込んでいくのだろう。
「……さっきの話じゃないけど……。前に……ぼくと話すとき、緊張するって言ってたのは……もう、慣れた?」
 弁当を広げつつ先輩が不意に問う。想定外の話題転換にオレはいくらかうろたえながらもかろうじてそうですね、と返した。
「はじめの頃に比べたら、だいぶ……慣れたと思います。先輩がたくさん話しかけてくれたおかげですね」
 正直今思い出しても恥ずかしいことを言っていた自覚があるので、はやく忘れてほしいのだけど。それに、以前と比べて挙動不審になることはほとんどなくなったとは言え、胸の高鳴りがなくなるわけではない。
「ふふ、ぼくも……佐鳥にぼくのこと知ってもらえるようにって話しかけるようになって、他の、あんまり関わりが無かった人とも……少しずつ、話せるようになったんだ」
「そうなんですか?」
「うん。改めて、結構受け身だったんだな、ってわかったというか……。だから、佐鳥のおかげ、だね」
 オレとの会話をきっかけに、先輩にも何かプラスの出来事があったのならそれ以上のことはない。よかったです、そう照れ笑いを浮かべると、不意にずい、と先輩がベンチに手をついて、その分オレに近づいた。オレと先輩の間には二人分の昼食がおいてあるけれど、まるで猫が狭く雑多な道を選んで歩くように、その隙間に手をついている。ぱちぱち、瞬いた瞳はまっすぐにオレを写している。
「せ……せんぱい?」
「……」
 先輩は迷ったように唇を開いた。うわ、先輩、前にも思ったけどまつげが長い……なんて考えてる場合じゃない。勢いに圧されて少々のけぞったオレを見つめて、ぽつりと囁くようにこぼす。なんとなくだけど続けて話し始めた言葉は、先輩が最初に考えていた言葉とは違うものだったんじゃないかと思った。
「佐鳥、さっきも言ってたでしょ? ぼくのことを、落ち着いてて真面目な人かと思ってたって」
「……はい」
「そんなことないっていうのは……もうわかってもらえたと思うんだけど。ええと、前にも言ったことあるよね? 冷たそうに見えるってよく言われるって」
「ああ……そうでしたね」
 今思い出したような言い方をしたけれど、あのときの先輩の言葉はオレにとってそれなりに衝撃的だったからよく覚えている。
「だから多分……ぼくの見た目のせいで、ほんとは仲良くなれる人との機会を失ってることもあるんだろうなって。まあ、言葉にするほど気にしてるわけでもないんだけど……。ただ、佐鳥はそれを押して話しかけてくれて、こうやって仲良くなれたから……嬉しいなって」
 何かを思い出すようにふ、と口角を緩めた。オレはそれをみつめて、けれど続いた言葉にわたわたと慌ててしまう。
「最初から避けられてたら、ぼくの方も……そもそも相手を知ることができないから。……それに、落ち着いてて真面目な人だと思われても、その期待には応えられないからね」
 嫌な意味でドキッとした。
「わっ……わー! ごめんなさい先輩! オレ……」
「……ふふ。……冗談、だよ」
 けれど先輩は目を細めていた。からかわれたのだと理解して、気まずいようなくすぐったいような気分になる。先輩が言ったようにオレたちは仲良くなった、のだと思う。それこそ、こういう冗談を先輩が言うようになるくらいには。
 それから先輩はベンチについていた手を離して、元から座っていた場所に腰を下ろす。雲間が消えて、オレたち二人は再び窓から射し込むまぶしさに包まれる。この日差しが、頬の熱さをごまかしてくれたらいいのに。

 *

「佐鳥さん、木虎さん、ご準備よろしいでしょうか」
「バッチリです!」
「はい、もちろんです」
 ラジオ局のスタッフさんに尋ねられて、オレも木虎も元気合を入れて答えた。
 三門市のローカルラジオ局では、嵐山隊がボーダー広報部として定期的に番組のパーソナリティを務めている。そして今日は番組を公開録音をする企画回で、多数の機材がある企画用録音ブースはお客さんが立ち見で見られる窓に面していた。ラジオ局がそもそも商業施設の通りに位置していることもあり、休日に合わせたこの番組は通りすがりも含めて、毎回多くの人たちが見に来てくれる好評企画だ。
 そして今回は俺と木虎の当番回。新年会などの節目はともかく、基本的に嵐山隊五人の中からペアを組んでの持ち回りで出ることがほとんどだ。一番評判がいいのはやっぱり嵐山さんが出る回なんだけど、オレと木虎の回も中々にお便りが賑わうらしい。
 いつもは優等生然としている木虎がオレに鋭く突っ込む掛け合いが人気、ということのようだ。そういう評判を聞いて少しは意識することもあるけれど、意識しすぎても過剰な演出になってしまう、というのはラジオ局のスタッフさんからも言われていることで。だから、ちょっとは気にしつつも、けれど隊室でのいつもの空気感を大切にするようにはしてる。
 スタッフさんが公開録音ブースへ続くドアノブを握りオレたちと目を合わせる。秒読みが始まり、その隙にオレは木虎に声をかけた。
「木虎、今回も楽しもうね」
「……先輩の場合は、しっかりやろうね。です」
 釘を刺されてしまった。こういうところがお客さんにはウケてるのだろう。ふふ、と息を漏らして、スタッフさんの開けた扉をくぐる。まだ録音は始まってなくて、まずは窓の外のお客さんたちに手を振る。まだ外に音は聞こえていないから、今この場にいるのは公録があることを知ってわざわざ足を運んでくれたかぶりつきのファンだ。
 笑顔で手を振り返してくれる彼らに余計にうれしくなって。マイクに通す声がつい弾んでしまう。
「三門市のみなさんこんにちは。ボーダー嵐山隊所属の木虎藍と」
「同じく嵐山隊所属の、佐鳥賢でーっす!」
「……佐鳥先輩、今日はいつも以上に元気ですね」
「だって、なんと公開録音してるんですよ! 始まる前から大勢集まってくれてうれしいな〜って」
 オレのしゃべりに合わせて木虎が立ち見のお客さんたちに挨拶をする。と、窓ガラス越しに聞こえるくらい元気のいい挨拶が返ってきた。

 冒頭の挨拶も終わり順々にコーナーを進めていく、ラジオらしくお便りコーナーはこの番組でも好評企画の一つだ。スタッフさんからあらかじめ渡されていた葉書をめくり内容を読み上げていく。
 トークを進める合間にも、ちらりとお客さんの様子をチェックする。素通りする人、少し見て、やっぱり立ち去る人。後ろの方で遠巻きに眺める人、立ち去った人の隙間にちょうど収まりにいく人。人だかりがあると足を止める人も出てくるから、ほどほどに人も増えてきたところで、ボーダーの宣伝やグッズの宣伝なんかも入れたりして。うん。いつも通り盛り上げられてる。
「……じゃあ次のお便り。『来週、ついに高校入試の試験日で緊張が止まりません。お二人は大切な試験があるとき、どうやって緊張をほぐしているか教えてください!』……木虎と同い年の子だね。どう?」
「緊張……、そうね。結局はいつも通りに過ごすことが一番じゃないかしら」
「そうだね、いつもと違うことすると、逆にリズムが崩れちゃうかもしれないし」
「やるべきことをきちんとやることが大切ね。たしかに受験は大きな舞台だから緊張するのもわかるけど……あなたがこれまで勉強してきたことはあなたの身になってるはずよ。……佐鳥先輩は、他にアドバイスありますか?」
「オレは……うーん、勉強のことは置いておくとして……」
「置かないでください」
「あはは、試験が終わった後のご褒美のことを考えたら緊張もほぐれるかも? って思ったけどどうかな。定期テストでもちょっと我慢することってあるじゃん? それの延長線上っていうか。できてなかったゲームの続きとか、普段は手が届かない、いいとこのおやつを食べに行くって決めたり」
「試験の、その先を考えるということですか?」
「そうそう」
 言いながら、頭の隅にふっと渥美先輩のことが思い浮かんだ。先輩も、連続刊行する予定の本を受験が終わるまで家族に預かってもらうという話をしていた。それ以外にも本は発売されるだろうし、試験後の先輩の予定は、きっと読書で埋まっていることだろう。
 木虎も学年的には受験生だけど、星輪女学院で内部進学をする場合はほぼ確認テストみたいなものだと以前言っていた。とはいってもストイックな木虎の話だから実際はもう少し難しいテストでも驚かないけど、彼女曰く「普通に勉強していればまず落ちることはない」テストらしい。
「ちなみに……今日来ていただいている方の中にも、受験生がいるんじゃないでしょうか」
 木虎が客席に話を振るとちらほら反応がある。中でも目立ったのは、ぴょこぴょこと手を上げ飛び跳ねた三人組の女の子だ。見たところ小学生くらいのようだから中学受験だろうか。オレは高校受験まで入試を意識したことがないから思わず畏敬の念を込めて見つめてしまう。
「この会場にいる方も、ラジオを聞いてくださっている方も受験頑張ってください!」
「受験生に限らず、日夜なにかを頑張っている方々。私たちも応援しています、お身体には気をつけて頑張ってください。……ところで先輩、受験がない私たちには、そろそろ学年末テストがありあますね」
「えっ?! まだ先だよね?!」
「毎回そう言ってませんか?」
「そ、そんなことないって……」
 くすくす笑うお客さんたちが目に入る。ついさっきまで受験生を応援してたはずなのにおかしいな?!

 *

 予想外の話の進行はあったものの、大きなトラブルもなくラジオはつつがなく終わった。名残惜し気なお客さんたちに手を振って、オレたちは控え室に戻っていった。
 それから続けて次回分の打ち合わせの会議もあるけど、こっちはそんなにかからない。
 荷物をまとめて、このまま帰るか一度ボーダーに顔を出そうかと迷いつつ端末を開いたとき、メッセージアプリの通知が目に入った。表示された名前は渥美先輩で、途端に心臓が跳ねる。一瞬呼吸をするのも忘れて、手早く中身を確認した。
『ラジオの公開録音があったんだね。少しだけだけど、立ち寄ったから聞いたよ。試験頑張るね』
 体温が急に上がった。先輩、さっき、あの中にいたんだ。全然気が付かなかったのが惜しいような、もし本番中に先輩を見つけてたら、動揺してしまっただろうから見つけられなくてよかったような。そしてメッセージは一つだけではなく、そのすぐ後にもう一文送信されていたことに気が付いた。
『佐鳥が勉強も頑張ってるのは知ってるからね』
「……~~っ!」
 以前、小テスト前に先輩へ泣きついたことを思い出す。それのことを言っているのだろうか? ガタン、音を立てて立ち上がった俺に、ちょうど帰り支度がすんだらしい木虎がびくりと肩を震わせた。
「な、なんですか先輩。いきなり……」
「あっ、いや、なんでもない。知り合いからラジオ聞いたってメッセージきてただけだから……」
「……はぁ……?」
 相槌を打ちつつも木虎はいぶかしげだ。彼女の内心は、「そんなの大して驚くことでもないだろう」といったところか。確かに知り合いから雑誌読んだよとかテレビ見たよとか、そういう応援の言葉はありがたいことによく受け取る。それはそうなんだけど、今回はメッセージをくれた人が誰で、どういう言葉をかけてくれたかが重要なのだ。
「……木虎、俺、次のテスト勉強いつもよりちゃんとしようかな……」
「それは……いいことだと思いますけど。……でも、明日は雪でしょうか。厚着しないと」
「ねえ酷くない?! たしかにこんなこというの珍しいかもだけどさ……」
「初めて聞きました」
 そう言われてしまえばぐうの音も出ない。
「……。まあいいや、もう帰る? 駅まで一緒に行こうか」
 誤魔化すよう口早に伝えると、彼女はマフラーを手前で結んで、ふうっと息を吐き首を横に振った。
「……いいえ、お気持ちだけ。このあと家族と待ち合わせをしているので」
「そっか、家族と予定? いいね、楽しんで」
「はい。お疲れ様です」
「お疲れさま~」
 律儀に一礼してから去っていく彼女にゆるく手を振る。開いたままだった端末を眺めて、先輩からのメッセージを何度もかみしめるように読み返す。
 木虎に驚かれたようにオレだってまさかこんな考えに至るだなんて思ってなかった。赤点の危機でもないのに、勉強をやる気になる日がくるなんて。
 スタッフさんが控え室を訪れるまで、俺はずっと、メッセージをなんと返そうか端末とにらめっこするばかりだった。

 *

 第二次大規模侵攻から数週間。会見のおかげで急増した新規隊員を捌くために、隊室でひいひい言いながら書類仕事を片付けていたらスマホの着信音が鳴った。直接番号にかかってくる通話じゃなくて、チャットアプリに付属した機能の方。
 誰だろうと思って画面を見ると、表示されているのは渥美先輩。思ってもみない相手だった。渥美先輩とは普段チャットでしかやりとりをしたことがない。
 予想だにしていなかった人物の名前にしばし呆然としていると、三コール目の途中で呼び出し音が止んだ。しまった。慌ててロックを解除してチャット画面を開く。先週のやりとりのあとには通話取り消しのアイコンだけがあって、その他はいつも送られてくるようなチャットはない。通話ボタンを押すと、軽快な呼び出し音が数回繰り返されたのちプツッと音がした。
「……もしもし、渥美先輩? えーと……、佐鳥ですけど」
『……佐鳥、』
 どうしたんだろう。ちょっと声に違和感があるような気がする。けれど電話越しだからといえば納得できる範囲ではある。もう一度先輩? と尋ねると、彼は相槌なのか独り言なのか判断の付きづらい声を漏らした。
『──、あ……ああ、佐鳥。……ええと……疲れたり、してない?』
「へっ?」
 いつもとは違う様子の先輩をちょっと心配してたら、逆に心配されていた。素っ頓狂な声をだしたオレに先輩はまた悩むように低くうなる。
『ううん……なんて言ったらいいかな……』
「……え、えと。何かありました?」
『ぼくは、なにもないよ。ただその──佐鳥は、元気かなって……思って、』
「……? げ、元気です……?」
『……元気?」
「はい。朝ご飯もお代わりしました」
『──…ふふ、そっか』
 言ってから、ご飯のことまで言わなくてもよかったかなと思った。けど先輩が笑ってくれたからやっぱり言ってよかったかも。
『なら、よかった。……急に電話してごめんね』
「ああいえ、それは全然。……あの、先輩も、元気ですか?」
『うん、元気だよ』
「ホントですか? 先輩こそ、いろいろ疲れてないですか? 例えば……えーと……勉強……とか……」
『あはは、試験はひとまず終わったから……やっとのびのびしてるところ。……じゃあ、またね』
「はい、お疲れ様です」
 プツン、音が途切れた。チャット欄に戻った画面を眺めてわずか数分足らずの出来事を思い出す。最初に思った違和感はきっと、先輩がオレを──心配してくれていたから、多分そのせい。それで、なんで先輩がオレのことを心配してたかっていうと。思い当たるところはひとつ。オレがいま忙しくしている理由の、大本の事件だ。
「あ、佐鳥くん通話終わった?」
「うひゃっ! 綾辻先輩?!」
 一人だと思っていたところにひょっこりと綾辻先輩が顔を出した。大げさに驚いたオレが面白かったのか彼女はくすくすと笑って椅子に座る。電話に夢中で人が入ってきたことにすら気付かなかったなんて。
「お、お疲れ様です。いらしてたんですね。……ちなみに綾辻先輩、いつから聞いてました……?」
「お疲れ様。ええと……ご飯お代わりしてたあたりかな?」
「うわーっ! めっちゃ恥ずかしいところじゃないですか!」
「ふふふ、ごめんね? なるべく聞かないようにとは思ってたんだけど」
 首をかしげながら答える。それはつまり聞こえてたということで。とはいえ聞かれて困るようなことを話していたわけではないし、気付かなかったオレもオレだから全然いいんだけれど。
「聞こえちゃったついでに、聞いてもいいかな?」
「? はい、なんでしょう」
「今の話してた相手って、ボーダーじゃない人?」
「……はい。学校の、先輩です」
 頷いたオレに綾辻先輩はにこりと微笑む。どうやら先輩は、先ほどの電話の真意に気付いているらしい。
「そっか。私もね、友達や親戚から連絡来たんだ。大丈夫? ケガしてない? ちゃんとご飯食べてる? って」
「綾辻先輩もですか?」
「うん」
「……綾辻先輩」
「なあに?」
「……オレ、やる気めっちゃ出てきました……」
「わあ、頼もしい~! じゃあ、三雲くんのおかげで増えた入隊希望の書類、捌いちゃいましょ」
 そういって綾辻先輩は、もともと俺が作業した机へさらに束を追加した。……やる気が出たのはいいとして。やっぱり少し、いや、結構大変かもしれない。