蜜柑とアイスの共存

ナイチンゲールと棘のない薔薇

十一月

 少し前まで青々としていた木々も赤や黄色に色づき、袖口から入ってきた風はひやりと腕を撫でていく。早朝や深夜の空気は日に日にキンと鋭さを増していくし、廊下に張り出された保健だよりには風邪に気をつけましょう、と書かれていたのを通りぎわに見た。
 すっかり通い慣れた図書室の扉を開けると、まばらに見える図書室の利用者。いつも整頓されているはずのカウンターの上には、真新しい本が何冊も積まれている。
「こんにちはー……結構な量ですね」
「こんにちは……。今月分の、新しく入った本、だって。表紙を保護するフィルムと……バーコードを貼ればいいみたい」
「わー、……綺麗にできるかな……」
「……沢山ある、けど、他の日の当番の人にもやってもらうから……今日全部できなくても、大丈夫みたい。どちらかというと、綺麗に整える方が大事だから、って」
 話しながら先輩は巻き取られたままのコートフィルムを本に当てる。貼る位置を確認しているようだ。
「ふふ、今日は本、読めないね」
「……ですね。今日は、働きましょう」
 新しく渥美先輩から借りた本――以前借りた本と同じ作家のもので、その中でもかなりライトな書き味の作品――を少しずつ読みすすめていることを知っている先輩は、そうやってオレに笑いかける。渥美先輩としては、オレが先輩の好きな作品を読むこと自体がうれしいことだと思っているらしい。
 先日のことがあってから、オレは渥美先輩からちょくちょく本を借りるようになった。漫画が中心だけど、小説もたまに。その代わりにオレの持ってる本……ほぼ漫画しかないけど、それをたまに貸したりする。もちろんこの学校の図書室にも、市の図書館にも探せばおいてあるだろうけれど、色々とやることが多かったりそもそも小説を読むスピードがそんなに速くないオレは、借りたものを読み切るよりも先に返却期限の方が追いついてしまうのだ。もちろん何も予定がない日に読むこともできるけれど、割としょっちゅう予定は変動するもので。渥美先輩に対して、ものを借りてばかりなことを申し訳ないなと思うところもあるけど、先ほども述べたように先輩は作品を人に勧めることが好きなようだし、内容について感想を言う時の先輩は特に楽しそうなのだ。例えるならとっきーが飼っているネコについて話す時のような。静かに熱されているものが、表に垣間見える瞬間というか。
 人のそんな様子を見ることでオレまで楽しくなってくる。ので、申し訳なさよりは感謝で返そうという気持ちの方が大きくなった。だから、たまにジュースを差し入れたりはしてるけど。何かいいお返しの方法はないものだろうか。
 そんなこんなで渥美先輩にやり方を教わりながら、生徒がカウンターに来たときには貸し出しなり返却作業をする。そしてまた作業にとりかかる。なるほど、バタバタとせわしなく動くものでもないが、忙しくなりそうだ。
「……司書さんがね、さっきまでいたんだけど。……佐鳥くんによろしく、って」
「え? ああー……、はい」
「……? ……忙しいのにいつも来てくれて助かってる、って言ってたよ」
「いえ、そう言ってもらえるのはもちろんありがたいですけど、オレがしたくてしてること、ですから」
「……だとしても、ぼくも助かってる。……ぼくからも、ありがとう、ね、佐鳥」
 そういわれたので、少しだけ間を開けてから返事をした。オレが真面目に委員会に来ている理由を知ったら、渥美先輩はどう思うのだろうか。
 黙々と作業を続けていると、その中の一つに見覚えのある名前を見つけた。逡巡して思い出す、先輩が好きな作家さんだ。
「先輩、これ……」
 コートフィルムを張ろうとしていた手を止めて、表紙を先輩に見せる。すると先輩は無言で、カバンからオレと同じ本を取り出した。
「ぼくも……買いました」
「っふ、」
「……、ふふ」
 どちらともなく笑いだす。さすが先輩、抜かりがない。きっと発売日当日には既に買ってるんだろうな……。小さく笑いながら作業を再開させる。
「……これから、ね」
「はい」
 先輩がぽつりとつぶやくように話し始めた。作業の手を止めずに返事をして、聞いていますよ、という合図にする。
「この……シリーズもの、なんだけど。……三ヶ月連続刊行することになってて……すごく、楽しみなんだ」
「それは……楽しみで待ちきれないですよね」
「……ふふ、うん。……でもね、ちょっと悩みがあって」
「悩み、ですか」
 ぴたりと手を止めて、先輩を見やる。先輩も手をとめていて、だけど視線は手元を見つめたままだ。表情は…──、……、ちょっとしゅんとしているように見える。ような気がする。
「三冊目の、最終巻が……発売されるのが、ちょうどセンターの日の、前の週で……」
「ああ、……ああー……」
 先輩の言わんとしていることがわかった。先輩は三年生。センター試験は受験生にとってとてつもなく重要な試験だ。たまに模試がどうの、という話も聞くし、勉学に励んでいることだろう。その大事なセンター試験本番の一週間前に、先輩が一番好きな作家の新巻が出る。いっそ試験の日の後に発売されるのであれば、それまでは集中して勉強ができるのに。
 と、おおよそこんなところだろう。先輩にとって、間違いなく生殺し以外の何物でもない。
「前日……とか、なら、我慢できるかもしれないけど……一週間前となると……」
「う、うーん……あれ? でも渥美先輩、本読むの速いですよね? だったらそんなに時間も取られないんじゃ……?」
「……一回目から、じっくり読みたくて……」
「あー……」
「それに、絶対に……一巻から読み返したくなる、から……」
「ああー……」
 なるほど。
 ……なるほど。うん、そうとしかいえない。どんよりとした表情で渥美先輩はうなだれている。ちょうど来た貸し出し目的の生徒の応対をした先輩だが、生徒は先輩の目の鋭さと暗い表情に少々驚いているようだった。オレが苦笑いしつつどう答えるべきか考えあぐねていると、渥美先輩はため息をついてかぶりをふった。
「……ごめんね、しょうがないこと、言っちゃって。……佐鳥、結構聞き上手って言われる、よね」
「えっ……? うーん、とりたてて、そういわれた覚えはあんまりないですけど……?」
「……そう、なの……? ……そっか、……ぼくは、佐鳥のこと聞き上手だな、って思うよ。……ぼくは、あまり話すことが得意じゃないけど……佐鳥にはつい、色々話したくなっちゃう」
「……そ、」
 いきなり褒められて、頭が沸騰しそうだ。ていうか渥美先輩、佐鳥にはって言った? 佐鳥にはって、一体どういう意味なのだろう。バクバクと心臓が大きな音を立てているのを感じながら、それでも疑問が沸き上がる。先ほど悩んでいたことは解決したのだろうか、してないよね? オレは何も役に立ちそうなことは言えてないし。でも、ついさっきまで暗い顔をしていたはずの先輩は、どこかすっきりとした表情をしている。……えっ、なんで?
「……それで、結局本はどうするつもりなんですか?」
「……うん、やっぱり……読むと、集中できなくなるから、発売日にとりあえず買ってから……家の人に預かってもらおうかな、って」
「なるほど、誰かの管理下において、抑止力にする作戦ですね」
「そう、だね。自分の部屋に置くと……絶対、読んじゃうから……っ痛、」
「先輩?」
 息を詰めた先輩を何事かと振り返ると、先輩は手元を押さえていた。よくみるとじんわり血が滲んでいるので、ページをめくる際紙で指を切ってしまったようだ。
 紙で切るのって地味に痛いんだよね。紙は繊維がばらばらで切り口がきれいじゃないかららしいけど……。たしか絆創膏を持ってたはず。そう思って制服のポケットを探すと、それらしき感触があった。取り出して、渥美先輩へと差し出す。
「先輩、これっ……前に貰った絆創膏がまだ残ってたので、使ってください!」
「ありがとう……、……」
 受け取った先輩が、そのまま手元をじっと見つめていることに気が付き、オレもつられて見る。絆創膏。それは間違いないのだが…──。
「……うさぎ」
 デフォルメされたかわいらしいうさぎ柄の、薄桃色の絆創膏だったのだ。ゆっくりとオレに視線を戻した先輩が呟くように言った。
「かわいいね」
「あっ……ええと、その……妹からもらったもの、でして」
 絆創膏を持っている、ということのみを思い出しただけで、その柄についてはまるで意識にのぼっていなかった。柄を先輩が呟いたことにより、よけに羞恥心が煽られる。ていうかオレがこの絆創膏使ってたのがバレてしまったことがとても恥ずかしい。いや、決してかわいい絆創膏に罪はないのだけれど、それと同様に親切心で絆創膏をくれた妹にも全く罪はないのだけれど。先輩にはなるべくカッコイイところを見せたいオレとしては、この絆創膏を使っていたことはあまり知られたくはなかったというか。なんというか。
(──…そもそもオレって、先輩からどう思われてるんだろう……)
 ただの後輩とかそういうのはともかく、感情的な面として。
「……や、やっぱり、保健室に行ってきた方がいいですよ! オレは一人でも大丈夫ですから、行ってきてください」
「──…ううん、ありがとう」
 先輩の手から受け取ろうと差し出すが、首を振って保護紙をぺりぺりと剥がしていく。そんな、気を使わなくてもいいのに。そう言おうとしてまごつくけれど、うまく言葉にはならない。行き場を失った手がうろうろと宙をさまよう。その内に、先輩は絆創膏を貼り終えてしまった。指先をしばらく眺めて、徐々にガーゼ部分に血が染み込んでいくさまはやはり痛そうだ。
「……こういう絆創膏、使うのって久しぶり、だな……」
「え……?」
「姉が、いるんだけど……昔は、こういう絆創膏使ったこともあったな……って。……ふふ、かわいいものって……昔はちょっとイヤだったけど、今はそうでもない、みたい」
 たしかに、こういった柄のものはあくまでも小学生か、大きくても中学生くらいまでの子向けのものだろう。それでも女子は特にかわいいものはずっとかわいい、と思う傾向にあるみたいだから、高校生が使っていてもおかしくはないのだろうが。オレはこれを妹にもらったとき、仕方がないとはいえ多少は恥ずかしかったけど、そっか、渥美先輩は、平気、なんだ。気にしないのが逆に豪快でかっこいいというか……、先輩と同じ年齢になったら、オレも自然とそう思うようになるんだろうか?
「……ほ、ほんとうに、いやじゃないですか」
「うん。……絆創膏、ありがとう」
 無理をしているわけではないことを確認して、ほっと一息つく。
「佐鳥は……なにかと気にしてくれてる、よね」
 感心したように先輩が呟くものだから、いやいや、と思った。もちろん人に対する最低限の気配りくらいは持ち合わせているけれど、先輩に関して言えば、それは…──。
「……オレがこんなに気にしてるのは、先輩だからですよ」
 するっと言葉が口をついた。それからハッと我にかえり、引いたばかりの汗が再び噴き出した。なに言ってるんだろうオレ?! そんな、ほぼ告白……みたいな……?! そうじゃなくても普通にめちゃくちゃ恥ずかしいことを口走ってしまった。穴があったら入りたい。
「……佐鳥、」
 先輩が、オレをじっとみつめたあとに名前を呼んだ。いつもは意識すらしないはずの、時計の音がいやに大きく聞こえる。
「……佐鳥って、もしかしてぼくのこと」
「……」
 びくりと肩が跳ねる。どうしよう、心臓の音がうるさい。知られてしまっただろうか。どう答えたらいいのだろう。肯定か、否定か、それとも沈黙か。先輩は少し考えるようにしてから、再び口を開いた。
「ぼくのこと、危なっかしいと思ってるから……そんなに気にしてくれてるの、かな」
 いつもはこんなことにはならないよ、と。だから大丈夫、という風に、訥々と真面目に説く渥美先輩。先ほどの発言を、先輩は特におかしなものだとは思わなかったようだ。しかしバレなかったらバレなかったで、渥美先輩実はめちゃくちゃ鈍くない!?! と思ってしまうオレの心。ね、と念押しをしながら拳を握りしめて頼りがいをアピールしているけれど、主張の根っこがオレの意図とは別のところにあるので肯定も否定もしづらい。先輩が鈍くて助かったんだけど、それはほんとにそうなんだけど。
 たしかに先輩は、本人が否定していても、とんでもなく危なっかしい気がする。
 これ以上ヘタなことを言えないオレはぐっと唇を引き結んで、こちらを見つめる先輩にどうすることもできず曖昧に頷いた。たぶん、頷きの意味は先輩がいいように受け取ってくれる。
 オレの思惑通りいい感じに納得してくれた先輩は、また何事もなかったようにコートフィルムを貼っていく。その人差し指には薄桃色の、かわいいうさぎ柄の絆創膏。
(……先輩は、落ち着いているように見えて、案外鈍くて危なっかしい……)
 そんな渥美先輩を、やっぱりかわいいとか思ってしまったのは、オレだけの秘密だ。



 ボーダーに向かう前に、とっきーがほしい本があるっていうから本屋に寄った。とっきーを待つ間、オレは週刊漫画をぱらっと読みつつ特に目的もなく店内をぐるりと回って。そしたら、渥美先輩がいた。
 なんでこんな場所に、と思ったけどすぐにそりゃいるよ、と思い直す。ここは学校から近いし、先輩は本が好きだし。先輩に比べたら、オレが本屋に行く回数はずっと少ないだろうし。
 夕方ということもあり、学生や大人を問わず客はそこそこいる。しかし、先輩の近くに誰かがいる様子もない。どうやら一人で来ているみたいだ。
 学校以外で会えることなんてめったにないんだから、どうにかして自然に話しかけれないかと機会をうかがう。そう……自然に、……あれ、自然ってなんだっけ? とかなんとか迷走しはじめたころ、ふいに顔を上げた先輩とばっちり目が合った。
「……」
「……」
「……こんにちは」
「こ、こんにちは」
 少しの沈黙ののち、ぎこちない挨拶を交わしてまた沈黙。結局自然とは程遠い態度をとってしまった。どうしよう……と思えば思うほど視線は泳ぐ。何か会話のフックを、と探した先には漫画と──先輩はたくさん持っているんだろうけど、オレからするとあまり見慣れない──新書サイズの小説が先輩の手にあった。
「先輩、その本、買いに来たんですか?」
 本屋にいるんだからわかりきってることなんだけど、会話のタネがこれぐらいしか思いつかなかったのだから許してほしい。先輩は自分の手元をじっとみつめたあと、小さくうなずいた。
「──佐鳥も、本買いに来たの?」
「あ、いえ……オレは友達の付き添い? っていうか」
「そう……なんだ」
 先輩はまだレジを通していない本を抱えなおす。すると漫画の表紙がよく見えた。クラスでも話題になっている少年漫画で、オレも友達に借りて読んでいるものだ。少し嬉しくなって、そのことを口に出すと先輩もやや楽しそうに言葉を返してくれる。それにさらに嬉しくなるけど、顔が赤い気がして渥美先輩から目をそらしてしまう。すると、必然と会話は途切れてしまうわけで。
 先輩との会話は、結構沈黙が多くて。それは今も同じなんだけど、やっぱりいまいち会話になっていない。いつもはオレが多めに話して、先輩は言葉数が少ないながらにもひとつずつ相槌を打ってくれて。そんな穏やかな空気があったけれど、今は少し苦いというか。先輩を意識すればするほど、オレには落ち着きがなくなって……せっかく話ができてるのに、こんなのやだな。というかドキドキして話せないとか中学生か……? なんて自己ツッコミを入れる程度には追い込まれている。どうしよう、とそればかりが渦巻いて、今日はこのままお暇した方がいいんじゃないかとも思う。
 同じように沈黙していた先輩が、おもむろに口を開いた。その内容にオレは肩を跳ねさせる。
「……佐鳥は、ぼくと話をするの……緊張、する?」
「へっ……?」
「……違ったら、ごめん。……でも……当真とか……うちのクラスの人と話すときとは、少し違うように見える、というか……」
「え、ええと……」
 それはオレにとって、先輩が特別だから。理由ははっきりしているものの、それを先輩に言えるぐらいならそもそもこんな風に先輩に気を使わせることにはならなかったのだ。たしかに、我ながら露骨だとは思う。国近先輩や今先輩といった女性の先輩にも特に意識せず普通に挨拶をするし。渥美先輩に対しても委員会ではなるべく普通にする……ようにはしているけれど、心の準備もなしに会うと、いまのこのザマなわけだし。
 そのせいで先輩の表情を曇らせている。それがただただ申し訳なくて、悲しい。何してるんだ、オレ。
「……ぼくは、よく目つきが悪いって言われるし、そのせいで……人を驚かせてしまうことも、あって……。すごく今更、だけど。……もしかしたら、委員会の時に誘ったのも、迷惑だったんじゃないかな、」
「っそ、それは違います!」
 先輩の声を遮って声を上げてしまった。少し離れたところにいた客がちらりと見てきたのにはっと口元を抑えて、声のボリュームを下げる。
「ごめんなさい、いきなり大きな声を……。あの、オレが先輩と話す時って……違うんです。渥美先輩のことが怖いとかじゃなくて、……」
 うまく言えずにもごもごと言葉がつっかえる。それでも先輩を苦手に思っているなんてことは決してないし、そのことを先輩になんとか伝えたくて、オレは再び口を開いた。
「あの、委員会の時も、誘ってくださってすごく嬉しかったです。渥美先輩がいなかったら、こんなに頑張れてなかったんです。……先輩は優しいし、いつもお菓子くれるし、苦手とかは絶対にありません。でも……誤解させたのは、ごめんなさい。……たしかに、他の先輩方より、緊張してしまうのはあるんですけど、それは決して……悪い意味ではなくて、」
「……」
 勢いで反論したが、じっとこちらを見つめる渥美先輩の視線にたじろいでしまう。その理由はもちろん先輩の目つきが鋭いからではなく、その視線の主が先輩だからだ。
「せ、せんぱいが……カッコいい、から……」
「……カッコ、いい」
 ぽかん、とした顔で先輩はおうむ返しに言った。少し目を丸くする姿はちょっとかわい…――じゃなくて!
「あの、ヘンな意味では、なくて。いや、ヘンな意味って何? って感じなんですけど」
「……、かっこいい……?」
 もう一度繰り返した先輩の表情は、段々と怪訝そうなものへとかわっていく。い、言わなきゃよかったかもしれない……。先輩に変に思われたくはない。
「だからっ、渥美先輩は、オレにとって憧れ……みたいなものなので、ちょっと緊張しちゃうんですっ。でも、悪い意味ではないのは本当なので、そこはわかっておいてほしいというか!」
 先ほどの言葉をかき消すように早口でまくし立てる。わたわたと手振りをするオレをじっくり眺める先輩はまだ首をかしげている。
「……カッコいい、と思った人に……緊張、するの……?」
「えっ! ……うーん、えーと……まぁ、そうですね……?」
「じゃあ……ぼくのこと、カッコいいって、思わなくていい、から」
「っそ、そう言われても……」
「……ダメ?」
「ダメっていうか……」
「……なら、」
 難しいというか、渥美先輩をカッコいいと思ってるのは、本当のことだし……。言いよどんでいると、先輩が顔を覗き込んできた。思わず一歩下がる。
「佐鳥が……緊張しなくなるように、ぼくからもっと、話しかけるようにする……ね」
「え……」
「委員会の時間……ずっと近くにいるのに、緊張してたんでしょ……?」
「それは……」
「大丈夫……。ぼく、冷たそうってよく言われるけど、……一度話してみたら付き合いやすい、とも、よく言われるから」
 気合を入れるようにぐっと拳を握ってやる気を表現する渥美先輩。……オレは、先輩のそういう面も知ったうえでばっちり緊張しちゃってるんだけど!
 その通りなんだけど。先輩がこうしてオレのことを思ってあれこれしてくれるのは本当にうれしいんだけど。どう返すべきか考えあぐねいていると、背後から声がかかった。
「賢、お待たせ。……あれ、話し中だった?」
「とっきー! ……と、当真さん」
「お前ら、こんなところで何してんだ?」
 偶然会ったらしい。とっきーと当真さんが並んでいた。当真さんは何してるんだ、と問いかけたものの、答えは特に求めないまま拳を握りこんだままの渥美先輩と会話をしている。その様子をみるに、二人はオレととっきーと同じく学校帰りに立ち寄っていたみたいだ。渥美先輩、一人じゃなかったのか。当真さんは渥美先輩の手元を覗き込んで、それで全部か? と聞くと先輩は頷く。友達だから当然なんだろうけど、平然とあんなに顔を近づけられる当真さんをすごいなと思う。オレだってできるなら先輩に近づきたいけれど、先輩には先輩のパーソナルスペースというものがあるし、それ以前にオレがもたない。よしんば近付くことができたとしても、緊張でそれどころじゃなくなるのは明らかだった。
 先輩の持っている本に対しさして興味がある様子も見せず、横からへーと物色しては、あー、と納得したような声を漏らす当真先輩。漫画の貸し借りは割とするという話を聞いたことがあるから、オレも知っていた漫画を見たか、もしくは他に持っていた小説が、当真さんの知っている話だったのだろう。当真さんは小説はあまり読まないと聞いたけれど、渥美先輩はよく話を聞いてもらっているとも言っていたし。
「じゃあ……ぼくたちはそろそろ、行くね。……佐鳥」
「――…はい、」
「……また、委員会の日に」
「……はい。また、」
 とっきーと当真さんが来る直前まで話していたことを早速実践している渥美先輩は、しっかりとオレの目を見て挨拶をした。そして、先程の会話の内容までは知らないものの、オレが相談した範囲のことは承知している当真さんがしげしげとその様子を眺めている。
 オレに挨拶をしたあと、先輩はオレの隣にいるとっきーと視線を合わせた。そして二人は静かに目礼をする。なんだか、温度感が似ている二人だ。渥美先輩に続き、当真さんも手をひらひらさせて去って行く。オレたちも挨拶を返してレジに向かう二人を見送った。
「……賢、賢」
 ぼけっとそのまま方向を見続けていたオレの肩をトントンと叩きながらとっきーがオレを呼ぶ。数回目でやっと気が付き、慌てて振り向いた。
「へっ、あ、ご、ごめん。何? ……あれ、そういえば買い物は?」
「もう済んだよ」
 背負っているリュックを指してとっきーは答える。そっか、じゃあボーダーに向かおう。と若干ほうけたまま一歩を踏み出すと彼も歩き出す。そして、出口に行くまでに通りかかった小説の新刊コーナーでふと足を止めた。首を傾げてオレをよぶとっきーに返事をしながら一冊の本を手に取った。先輩が先ほど持っていた新書サイズの本。タイトルは見えなかったけど、ちらちらと見えていた表紙のデザインと、先輩は発売したらすぐ買うだろうから、新刊コーナーにある本を買ったはずだ。ということで、おそらくこの本で間違いないだろう。作家名をみると、先輩が二、三番目くらいに熱く語る作者の名前がそこにあった。同じコーナーの別の本を見ても同じようなデザインの表紙はみられないし、サイズも様々なのでこの本でほぼ間違いはないだろう。
「小説? 賢が買うにしては珍しいね」
「うん、ちょっと気になって。……うわ、とっきー、こういう小説見たことある?」
「ん? ……ああ、このサイズの小説ならスタンダードなんじゃない?」
 ぱらぱらと本をめくると、文章が上下で二段になっていることがすぐにわかった。み、見慣れない……。いや、国語の教科書は同じようになってるページもあるんだけど。ただでさえ小説を読むのに時間がかかるのに、読めるかな。そうは思うが、でも先輩が勧めてくれる本はどれも面白いし、この本は直接勧められたわけじゃないけれど、以前おすすめされた同じ作者の話は面白かったし……、とレジに持っていく。
 店員のありがとうございました。という声を背にしながら待ってもらっていたとっきーに声をかける。珍しく小説を買ったので、頭が良くなった気分になっている。……とか言ったら、頭が悪いと思われそうだから言わないけれど。ほくほく気分のオレを横目で眺めていたとっきーがおもむろに口を開く。
「……さっきの先輩って」
「……? 渥美先輩のこと?」
「渥美先輩……が、最近賢が忙しそうにしてる理由?」
「えっ」
 とっきーには、今までに一言も渥美先輩のことを話したことはないはずなのに──委員会の先輩、という話は一度だけだしたことがあるけれど──どうしていきなり。裏返った声色を誤魔化すように咳払いをするが、そんなオレに対してとっきーは静かにどうなの? という視線をよこしてくる。
「……なんでわかったの?」
「なんで、というか」
「もしかしてさっきの、先輩と話してた内容きこえてた?」
「いや、聞こえてないから安心して。……でも、中学含め今まで委員会関係はほぼスルーしてたのに、いきなり出席したいから遅くなる日がある、って言い出したら、普通は何かあるって気が付くんじゃないかな。まあ、それがどういう理由なのかまでは知らなかったけど」
「……ご、ご迷惑、おかけしてます……」
「迷惑? 遅れた分は頑張ってるし……実際挽回も出来てるし。賢はよくやってると思うけど」
「うう、ありがとうとっきー……」
 やさしい同級生でありチームメイトである彼の言葉が胸にしみる。あと、あっさり知られてしまったオレのわかりやすさにもこっそりと涙がでる。
 しかしそれはそれ。心強いフォローも入れてくれたのだし、今日はこれから広報の仕事が入っていたはずだ。ボーダーのため市民のため、オレの我儘を聞いてくれるチームメイトのため、はりきろう。



 最後の一ページを読み終わり、オレはパタリと本を閉じた。
 なんてリビングでごろごろしていたら妹にちょっと鬱陶しそうにされる。通行の邪魔ですーなんて言いながら軽くどけられたのでソファに上がって座り直した。
 連絡先を交換して以来、主に本を返すときの連絡手段として使っているチャットアプリを開く。軽く本の感想を言い合って、それからいつ頃なら都合がいいのかを話して。そしてどこそこで会うと約束をして。最後にお互いスタンプを使って会話は途切れている。

 文字入力欄に指を滑らせて文章を作って、しばらく止まっては消してみたり。かと思えばまた同じ文字を打ってはその繰り返し。時間をかけて出来上がった文章は、いつも通りたったの一言だった。
『本、読み終わりました!』
 で、送信。それから感想を入れていないことに気が付き、慌てて面白かったです、という簡素そのものな一言を付け加える。もう少し詳しく言った方がいいんだろうけど、送ってしまったという焦りが思考を占拠してうまくまとまらない。そのまま十分ほど経ってもチャット相手がメッセージを読んだという通知は来ず、安堵なのか消沈なのかよくわからないため息がでた。
 ながーく息を吐くと、自然と情けない声が漏れる。同じくリビングでスマホをいじっていた妹からの不思議そうな声になんでもない、それだけを返して、オレはごろりと転がった。妙に力が入っていたのがやっとほぐれ、ようやく本の内容を思い出しながら、感想の続きを打ち込み始めた。
 そして。夜になってそろそろ寝ようかなー、と思っていたところでふとスマホをみると、友達からのチャット通知に混じって渥美先輩からのメッセージがあることに気が付いた。
 手早くロックを外しアプリを開く。動物が喜んでいるスタンプのあとに、オレの話に対する返信と、それから先輩の好きなシーンの感想が続いている。
 いくつかの発言に分かれた先輩の発言を読んでは下にスワイプしていき、一番下にたどり着いたところで指を止めた。『そういえば、』そう話題変換をした先輩からの文字列が嬉しくて口元が緩む。
『ずっと気になってたんだけど、佐鳥の好きなものって何?』
 きっと、先輩はオレになるべく話しかけるようにするという話をした後、オレについての話にも興味を持とうとしてくれているんだと思う。先輩にあれこれしてもらうのが申し訳なくて、でもやっぱりそれ自体は嬉しくて、ちょっとむずがゆい。
 オレの好きなもの。ハンバーガーとか、あるいは音楽プレイヤーに入ってる曲とか。先輩も知ってる漫画とか。好きなものは沢山ある。それを、好きな人に聞いてもらえるのは、すごく素敵なことだと思った。



 それで、次の委員会の日。とはいっても今日は図書室の当番ではなく、委員会全体の集まりで学級図書の入れ替えを行う日だ。前回は任務が入っていて参加できなかったけれど、今日は幸いにもタイミングが合った。余談だが、学級図書は大体図書委員の独断で決められるので人により大分個性が出る。ライトノベルしか借りない生徒や反対に文学系を中心に借りていく生徒。自分で読む用にと図鑑を好きに選ぶ生徒もいた。もちろんオレみたいにじゃんけんに負けて仕方なしに、という生徒は適当に目に付いたものを本棚からまとめて引っ張り出して持っていく荒技を使う人もいるけど、それはそれで豪快なので見ていて面白い。
 ちらり、渥美先輩の方を伺うと先輩もオレの方をみていたようで、ばちりと視線が合う。もう学級図書の選出を終えたのか、その手には数冊の本がある。先輩はゆったりとした足取りでこちらに近付いた。
「佐鳥は……もう、選んだ?」
「はい。先輩も選び終わったんですか?」
 どうやら先輩は、本屋でのことを忘れていなかったらしい。有言実行だ。佐鳥が緊張しなくなるように、これからはぼくから話しかけにいくようにするね。渥美先輩はそう言っていた。気持ちはとてもうれしい。のだけれど、緊張のあまり先輩に不信感を与えていないか不安になってしまう。オレの心臓、はやくもっと強くなって。できればいますぐに。
「うん、クラスの人から、なんとなくのリクエストはもらってたから……。……」
「……?」
「……」
「……渥美、先輩?」
 口を開こうとしては閉ざし、果てにはなにかを考え込むように手を口元にやる先輩にどうしたのかと尋ねると、彼は首を振って、うーん、とやや悩ましげな呟きを零す。
「……ぼくから話しかけるね、って……前に言ったけど」
「はい」
「……あんまり話すのが得意じゃなくって……話題を探すのって、難しい、ね」
「……」
「佐鳥は……よく話を広げてくれるから、すごいなぁ……」
 そう思ってたところ。と静かに言う先輩。先輩はそう言ってくれるけれど、オレとしては全然だと思っている。前にも同じようなやりとりをしたけど、先輩はこと好きなものの話に関しては饒舌になるのでオレはほぼ相槌を打っているだけで。あとは先輩のことを知りたいから、質問したりはするけれど(あんまり質問ぜめにしても引かれるかなって、その境界線が何より一番難しいんだけど……)、その時なにを考えているかといえば先輩が今日もカッコいいやったー! みたいなことばっかりで。友達とかならそれこそどうでもいい話とか、自分からぺらぺらと話して、時にはちょっと静かにしてて、とか軽くいじられるくらいなのに。でも、話題選びとか、先輩はオレと話してて楽しいのかなとか、他の誰にでも気にしなかったことが渥美先輩と話している時はどうしようもなく気になってしまう。その結果口を閉ざしてしまうのは、あまりいい傾向とは言えないだろう。先輩は、聞き上手だと好意的に受け取ってくれているようだけど。
 オレは先輩の話を聞きたいだけで、特に何もしてないんですよ。そこだけを抜粋して先輩に伝えると、先輩は少し考えてからオレと視線を合わせた。
「……そっか、確かに……佐鳥がたくさん聞いてくれるから、ぼくは話しやすいけど……、ぼくは、佐鳥のことを……あんまり、しらないね」
 そう前置きをしてから。
「……ぼく、もっと佐鳥のこと……知りたい、な。……佐鳥のこと、教えてくれないかな?」
 なんて、特大爆弾をおとしてくれた。普通に先輩という立場から言ってくれているのだとしても、オレの思考回路は都合よく勘違いしたがるから、ほんとうに心臓に悪い。
「……お、オレのこと、ですか」
「うん、例えば……」
 先輩がそう言いかけたところで、図書委員の担当の先生が集合をかける。もう大体の図書委員が本を選び終わり、三々五々に散って楽しいおしゃべりタイムとなっていた周りの雰囲気も、図書室にふさわしい静けさを取り戻した。
 委員会の先生と図書室司書の先生――どうやらオレは思った以上に司書の先生にとても気に入られているらしい。いつもにこやかな対応の、さらに三割増しでにこやかな対応をされた。若干の罪悪感があるとはいえ、妙齢の女性にかわいがられるのは、まったく満更でもなくむしろ嬉しく感じる。――に借りる学級図書を申請して、次の入れ替えの時期に関する連絡プリントをもらって、解散。
 そのまま図書室に残って勉強をする生徒や、どこに寄ろうかと楽しげに話しながら出て行く生徒など各々が散って行くなか、オレは図書室のすぐ外でスマホをいじる振りをしながら先輩が出てくるのを待っていた。先程は言い出せなかったけれど、せっかく帰りの時間が被ったし、今日は特にボーダーの用事もないんだし、できることなら帰路を共にしたかったから。
 そして、少し待つと先輩が引き戸を開けて廊下に出てきた。オレの姿を見るとあ、と小さく声を上げて、(おそらく)少しうれしそうにオレに近付く。
「よかった、まだ……いたんだ」
「はい、いますよー。……先輩、オレになにか御用ですか?」
 渥美先輩を待っていたのだからいるのは当然なんです。なんてことはもちろん口に出さずに、何かあるのだろうかと首を傾げる。すると先輩はうん、と頷いた。
「もしよかったら、今日……一緒に帰らないかな、と思って」
 今日は間違いなくいい日だ。実際の空はどよどよの曇り模様だけど、オレの心は晴天の気分だった。
「じゃ、じゃあ、そうですね。一緒に、帰りましょう、!」
 ついどもってしまった。うきうきで昇降口に向かおうとすると、背後の図書室の扉がまた開いた音がして、続いて涼やかな声が聞こえてきた。
「あ、佐鳥くん。ちょうどよかった。あのね、私たちこれから遊びに行こうって話になってたんだけど」
「せっかくなら佐鳥も一緒に来ない? 男子も何人か来る予定だし」
 同じ委員会、同じ学年の女の子が二人。彼女たちとは別のクラスという割には結構話す機会が多くて、たまにタイミングが合えばこうやって遊びに誘ったり誘われたりする。今日は委員会の集まりにきていたから、ボーダーの予定はないと踏んで声をかけてくれたのだろう。彼女たちがわくわくとした表情でいるのを見て、たった今一緒に帰ろうと話しをしていた先輩が口を開く。
「――…佐鳥、どうせなら、」
「ゴメン! オレ、今日は先輩と予定があるから、また今度誘ってよ!」
 その発言を遮って、気が付かなかったフリをして。オレは両手を合わせながらゴメンね、と彼女たちに謝る。すると二人は渥美先輩を見上げてはっとしたあと、少し残念そうに眉を下げた。
「あ……そっか。そうだよね、じゃ、また時間あるときに誘うから!」
「うん。またお願い。オレからもなんかあったら誘うよ」
「先輩、お話し中すみませんでした!」
「……ううん……こちら、こそ」
 先輩にぺこりと頭を下げて、オレには手を振って。彼女たちは去っていった。残念だったね、でもあの先輩かっこよかったね、パタパタと廊下をかけていく足音に混じって会話が聞こえる。彼女たちの背中を見送って、オレたちものろのろと歩きだすと気遣わしげに先輩がこちらを覗き込んだ。
「……よかったの?」
「いいんです。あの子たちとは結構しょっちゅう遊びにいくし、それに、先に約束したのは先輩とですから」
 しょっちゅう、というのは半分嘘だった。けれど先に約束した方を優先するのは普通のことだし、なにより彼女たちとはなにかと理由をつけて遊ぶことができるけれど、先輩に対してはそうもいかない。年が明ければすぐに三年生は委員会も無くなってしまうし、先輩と委員会の仕事ができるのはもうそう多い回数ではなくなってしまっているのだ。それに従って先輩と会うことができる回数も限られて来るし、オレはその機会を少しでも減らしたくはなかった。
 渥美先輩はオレの言った理由に納得してくれたようで、そっか、とだけ小さく返ってきた。

 ここ最近は十二月も近いことがあり、朝の冷え込みが厳しくなりつつある。それに加え、小雨が降っては止んでを繰り返している天気は、より気温の下降を促していた。さっきまでの曇天を通り越して雨が降り始めている。
「わ、雨だ」
「……ほんとだ」
「……先輩、オレ、今日こそは傘、持ってきましたよ!」
 今までに先輩に二回も傘を借りて迷惑をかけてしまっていたオレは、今朝がた傘立てに置いた自分の傘を回収して誇らしげに宣言する。……いや、別に誇らしげに言うことでもなかったかな。でも今日はきちんと朝の天気予報を聞いてから傘を持ってきていたのだ。……実を言うと、それだって実を言うと家を出る直前で母さんに言われて思い出したってレベルなんだけど……。でも、それはそうとして傘を持ってきたのは事実だ。今回は先輩に手間をかけさせてしまうこともない。
「……」
「……先輩?」
 カバンを覗いたままの先輩の沈黙が、いつもの物静かな感じとは少し違うように感じられて首をかしげる。オレが聞いても黙っていた先輩だが、すこししてから口を開いた。
「……傘、忘れた……」
「えっ……置き傘も、ですか?」
 一拍置いてこくりと頷く先輩。珍しい。雨が降りそうな時に傘を持ってくるのはもちろん、自分のロッカーに予備の傘も置いている先輩が。……でも、ここ最近は天気が不安定だったから、たまたま傘を持ってきておらず、置き傘で帰った日もあったのだろう。もしかすると先輩のことだから、オレに貸してくれたのと同じように、誰かに貸したのかもしれないし。
 ぱらぱらと小気味良い音を立てては散る雨空を見上げる。これまでに二回先輩から傘を借りた時と違う状況といえば、ざあざあ降りでないこの小雨。
「……えっ……と、駅まで、入っていきますか?」
 多少声が上ずっているのを自覚しながら提案した。大して強い風が吹いているわけでもない今日ならば、傘を使っていてもなお二人揃って濡れてしまう。ということにはならないはずだ。

 で、帰り道。肩を並べて駅までの道を歩いているオレと先輩。委員会でとなりに座っている時よりもさらに近い距離に先輩がいる。これってもしかして夢なんじゃない? そんな気分になっていた。
「もう、息が白くなってきたね」
「うぇっ、あ、そ……うですね! 雨だから余計かもですし、朝とか、びっくりしますよね」
 先輩が吐き出した息も、オレが吐き出した息も薄く白くなっては消えていく。これから十二月に入って、もっと冷え込むようになったらさらに息は真っ白になって、目に見えるこれも、もう少し長く残るんだろうけど。
そろそろパーカーを着てるだけじゃ寒さをしのげなくなるな、そう考えながらぼんやり歩いていると、先輩が不意に声を漏らした。
「……ねえ、佐鳥は、」
 しかしそこまで言ったところで、傘を打つ雨音が急に大きくなっていく。ついでと言わんばかりに風も強くなり、傘も煽られて気合いを入れないと持っていかれそうになった。それに加えて、すぐに足元を濡らすようになる。
 このままではずぶ濡れになることは必至だと、慌てて屋根のある場所──喫茶店に駆け込んだ。閉じた傘からは雨粒がぼたぼたと流れ落ちてはすぐ地面に水たまりを作っていく。濡れた裾や袖を絞り水滴を払いつつ、店員に案内された席に腰掛ける。すると、柔らかいものが頭に被さり視界を遮った。
「わぷっ、せ、せんぱい……?」
「――…佐鳥、ごめん、ぼくのせいで……」
「ええ? 天気は先輩のせいじゃないですよ、」
 やけに切羽詰まったような声色だ。傘を忘れたことに責任を感じているのだろうけど、天気はどうにもならないから、気にするようなことじゃない。それよりも今、先輩に、頭を拭いてもらってることの方がよっぽど大きな問題というか。
「こ、これ、先輩のタオル……ですか」
「うん、――…あ。雨が降ったとき用の、まだ、使ってない、やつ、だから」
「え!? いや、そういうことを気にしているんじゃなくって」
 そのまま洗剤の匂いがどうの、とか、余計にもほどがあることを滑り出そうとした口をつぐむ。さすがに変態さがにじみ出すぎていて一発退場のレッドカードものだ。よかった、先輩が指を切った時のように、頭の検閲を通さないまま思ったことを口に出すのはあまりにも危険すぎる。
「――…て、いうかっ、先輩のタオルなら、先輩が使ってくださいっ」
 わしわしと髪を拭く先輩の手をとめて、タオルに埋もれていた顔を上げる。いつもより至近距離でみる先輩。常に困ったように下がっている眉が、さらに困った表情をしている。
 ひんやり冷たい先輩の手。照れる気持ちもあるが、いまはそれどころじゃない。雨に濡れているのは先輩も同じなのだ。不意に先輩の手が触れて、冷えてるじゃないですか、と。気を利かせてくれた店員さんがちょうどタオルを持ってきてくれたので、ありがたく受け取って先輩の手を拭っていく。
「……先輩が風邪とか、引いたら……大変じゃないですか」
「……ぼくは……いい。佐鳥の方が、大変、だよ」
「おれは頑丈ですから。それに先輩、受験生ですし。模試とか大変なんじゃないですか」
「……う、ううん……」
 先輩が勉強している姿は接点の少なさから当然見たことのないオレだけど、それでも知り合いの三年生からは校外模試がどうの、というのはちょくちょく聞くのだ。その話を持ち出すと先輩は珍しく歯切れが悪そうにもご、と言葉を濁らせた。――やはり受験生にわざとその話を持ち出すのは、ナーバスになってしまうのでよくないのだろうか。大学に行くらしいことは会話の雰囲気から察していたけれど、あまり突っ込んで聞くこともできないでいたので、どこの学校に行くのかすらも知らないオレはチリチリと胸を痛む。
 オレの首にかけられたタオルを、先輩の手を拭うのに使わせてもらう。先輩の人差し指には、以前渡した絆創膏はもう貼られておらず、傷跡もすっかり無くなっているようだ。
「……、佐鳥、今日はグイグイくる、ね」
「そっ、そんなの、先輩の体調がかかってるんだから当たり前です!」
「う……ごめん、なさい」
「えっ、い、いや、そんな強く言ったつもりは……」
 しゅん、とうなだれる先輩に、つい語調が強くなってしまったことへの罪悪感が積もる。グイグイというか余裕の無さが表に出まくっていたのはまったくの事実で、慌てて心配なんです。とその理由を伝えると先輩は眉根を寄せて、口を開いては迷ったように再び閉ざした。いつもじっくりと言うことを考えてから発言する先輩にしてはその行動が珍しくて、どうしたんだろうと疑問に思う。さっきも言っていたようにオレが雨に濡れたことを気にしているのだろうか? でも傘を忘れたにしても、一緒に帰ろうと誘ったのはオレの方だし、いきなり雨が強くなったことに関しても、仮に一人で傘をさしていたとしてもどのみち濡れることは変わらないのに。加えて言えば、もし逆の立場だったら先輩は今のオレと同じように気にしないでと言うはずだ。
 まだおさまらないのだろうかと空の様子をうかがうために視線を外すと、先輩の横の席に置かれたカバンが目に入る。慌ててタオルを引っ張り出したからだろう。先輩のカバンの口は大きく開いていた。
 中身は至って普通だけれど、その中で一つだけあれ? と思うものがあった。カバンの中は参考書や筆記用具など、学生としては当たり前のものが入っている。それからお菓子の箱に、先輩が好きな作家の本や、誰かと貸し借りをしているのだろう、漫画が数冊。それらが多少の乱れはあるものの、おおよそ整頓されて詰め込まれている。
 学生としてはいたって普通の中身だが、ではなぜオレがあれ? と思ったのか。それは、以前オレが先輩から借りた、藍色のストライプの折り畳み傘。その柄の部分に酷似したものがのぞいていたからだ。それを見た瞬間、オレの思考回路は正常な動きを止めた。昇降口では先輩は自分の荷物をしばらく見ていたはずだし、煩雑に詰め込まれているオレのバッグの中ならともかく、整頓されている先輩のカバンの中で物が迷子になることはまずないだろう。多少荷物が乱れているのは、きっと急いでタオルを取り出したせいで…――。
 そこで、もう一つの疑問が湧き上がる。渥美先輩が本当に傘を忘れたとしたら、どうしてタオルはもっていたんだろう? 雨が降ったときのためにとあらかじめ用意をしていて、家を出るときに傘だけ忘れてしまったという可能性は十分にある。もちろんある。けれど、それにしたって、今見えているもの――先輩の折り畳み傘がここにあることは、オレの見間違いではないはずだ。
 この状況から考えられるのは、先輩が傘を忘れたと咄嗟に嘘をついたのだろうということ。嘘をついたという自覚があるならば、先輩が焦った様子でしきりに謝るのも理解ができる。
 でも、それじゃあ、次に浮かぶのはなんで? という問いだ。なんのために渥美先輩は嘘をついてまで、傘を持っていることを隠したのだろう。帰ろうとしたときは小雨だったとはいえ、多少は濡れてしまうことは想像に難くないし。
 なんでだろう、と考えてはみるもののわからないので段々思考はそれていく。オレが今日傘をもっていかなければ、先輩は自分が傘を持っていることを隠さなかったのかなぁ、とかそういうこと。もしそうなったら、一本しかない傘でいまと同じように、逆の立場で先輩が相合傘に誘ったりしてくれてたのかなぁ、とか。
 ……あれ、もしかして、渥美先輩。オレと一緒に帰りたかった、とか? ……一本の、傘で?
 いや、いやいや! さすがにそれは自分に都合がよすぎる。肌寒さを感じていたはずなのに、ただの想像だけで一気に顔に熱が集まった。妄想を打ち消すように首を振ってふと思い出す。そういえば、さっき雨が降り出す直前に、先輩は何か言いかけていたようだ。そう、何か話があったはずなんだ。
「――…渥美、せんぱい」
 鋭さを持った彼の瞳は揺れている。きっと罪悪感からなんだろうけど、なんと声をかけたらいいのかがわからない。先輩の髪からぽたり、オレの手の甲に雫が落ちた。それに気がついた先輩は髪を軽くしぼって、雫をタオルで拭ってから髪を耳にかける。いつもは隠されている赤い石のピアスも、髪と同様に濡れていた。──やっぱり、傘のことが気になってしまう。
「……あの、その傘」
「……、ああ……うん、その。……ごめん」
 オレが先輩のカバンを指差すとはっとしたように横を見て――そして観念したように頷いた。
「いえ……でも、どうして、傘がないって」
 先輩はもういちどオレに謝ってから、眉根を下げて少しばかり赤面する。
「うー……ん、こんなにずぶ濡れにして……本当に、申し訳ない、んだけど。……この前、本屋で……できるだけぼくから話しかけにいくって、話をした……よね」
「……はい」
「……それで、今日、佐鳥と帰ろうって、なって……同級生の子たちとの誘いも断ってくれたのに、……ええと、駅まで無言に、なるな……と思って。でも、駅に着いたらそこで解散になるし……」
「はい、……」
「なんて、言えばいいのかな……せっかくなのに、というか……勿体ない、というか……」
「……それで、駅まで話せるように、傘を忘れたっていったんですか……?」
「うん……。雨で頭が冷えたんだけど……血迷ってた……と、思う。……ごめんなさい」
「えっ、ハイ。……いやいまのハイは肯定じゃなくって!」
 先輩はもう一度謝罪を口にした。羞恥心からか冷えからか、頬を赤くしてうなだれる先輩に対して、先輩が思っているような呆れだとか怒りだとか、そういう感情は少しも湧いていない。これが仮に太一のやらかしだったとしたら、ちょっと、もーって怒るかもしれないけどけど……いや、怒りはしないか。そのかわりすっごい笑うけど。何してんのって。オレの方こそとっきーに何度も傘に入れてもらったことがあるし、助けられるばっかりなのでこのことに関しては少し人に寛容になれるのかなと思う。
 ……うん、やっぱり人に借りすぎなので、傘はちゃんと持ってこようって思うんだけど、ね。思ってます、ハイ。
 あんまり露骨にならないように、深く深呼吸をして、いつものようにうるさい心臓を落ち付けようと試みる。テーブルのサイドに立てかけられたメニュー表を取り出して、渥美先輩、そう声をかけると先輩はゆっくりと顔を上げる。
「……何か、あったかいものでも頼みましょうよ」

 ほかほかと暖かそうな湯気をたてている二つのカップ。オレは紅茶で先輩はコーヒー。先輩は甘党だけどコーヒー派なのか、と思って見ていると、一口飲んでから美味しいと呟いた。コーヒーはオレも飲めなくはないけど、ふつうにジュースの方が好きなので先輩は大人だなぁと感心する。紅茶にさらさらスティック砂糖を溶かしていると、先輩はコーヒーをもう少し飲んだところで横に避けていたミルクと砂糖をコーヒーの中に投入した。
「途中で入れるんですか」
「一粒で二度美味しい……のは、チョコだけじゃない、から」
「……、なるほど?」
 やっぱり先輩は甘党みたいだ。
 オレも甘くした紅茶を飲んで、じんわりと滲む暖かさを享受する。冷えた指先をカップで温めてほっと息をついた。
「……そういえば、先輩にお借りしていた本、もうすぐ読み終わりそうなので、読み終わったらまた伺いますね」
「……うん、いつもわざわざ、ありがとう」
「いえ、お借りしているのはオレの方ですから」
 とか言って、理由をつけて会いに行きたいだけなのだ。連絡先の交換はしてあるのでそれを使えば都合はつけやすい。

「……そういえば、さっき先輩が言いかけてたのってなんでした?」
「さっき?」
「雨が大降りになる直前の」
「ああ。……あのね、佐鳥が学級図書に選んだ本が、どんなのだったか、そういえば……聞き忘れてたなと思って」
「ああ! おれも先輩と同じ感じですよ、 クラスのみんなからどんな本がいいかってなんとなくリクエストもらったり」
 言いながら、この数か月の中で変わったことを思い出してオレは笑みを深める。渥美先輩がいなければ起こりえなかったことがあったからだ。
「先輩のおかげで、クラスの本好きの子と話すきっかけができたんですよ」
「そうなの?」
「はい、前回の学級図書の入れ替えて、どの本がいいか迷ったから先輩が進めてくれて面白かった本を一冊入れたんです。 そしたら、同じクラスの子が話しかけてきてくれて」
「そっか……」
「いままであんまり喋るような間柄じゃなかったんですけど、よくよく話してみたらやってるゲームとか、聞いてる音楽とかちょこちょこ共通点があって」
「仲良くなったんだ?」
「はい!」
 うなずくと、渥美先輩もよかったねと言わんばかりに微笑んだ。一拍おいて、先輩がふと気付いたように店内を見回した。
「聞いてる音楽といえば……これとか……そう、なんじゃない?」
「これ?」
 壁に設置されたスピーカーを控えめに指さした。
「前に、佐鳥が好きって言ってた……」
 耳を澄ませると、喫茶店の店内BGMが周囲の喧騒にまぎれて聞こえてきた。たしかに、チャットアプリでやりとりする中で話題に出した曲のうちのひとった。スリーピースのロックバンド。公式の動画URLを送ったんだけど、あのあと聞いてくれてたんだ。
「あ、ホントだ……。すごい、よく気が付きましたね」
「昨日ちょうと聞いたところだったから、耳に残ってた……のかも」
 先輩がはにかんだ。そして、ミルクと砂糖の入ったコーヒーを飲む。
 先輩の、海の底にある空みたいな色をした髪はまだしっとりと濡れていた。店員さんから借りたタオルを使ったはいいものの、やはり水気を完全に取り去ることは難しい。それは当然、オレも同じなんだけど。先輩に拭いてもらって少しはマシになったけれど。若干ひたいに張り付く自分の茶髪をよけてから、ほんのり甘い紅茶を飲んだ。
 ほどよく物音がする店内で、外は雨。委員会をきっかけに距離が近づいた好きな先輩と、各々の好きなものについてや、学校について色々話す。ゆったりとした空間が心地よくて、この時間がずっと続けばいいのにとすら思ってしまう。
 けれど、時間は絶えず流れていく。
「……雨、止んだね」
 ぽつりと呟くように言った渥美先輩は窓の外を見ていた。オレもそれにならって顔を向けると、あんな大降りだった雨が上がっている。直ぐにまた降り直しそうな、分厚い雲が広がっているけど、帰るなら今のタイミングだろう。中身がなくなり、ほんのりと温かさを残すばかりのカップをソーサーに戻す。先輩から借りていたタオルを畳みながら、今日は傘を借りなかったけれど、結局他のものを借りてしまったな。とぼんやり思った。先輩は畳まれたタオルを受け取ろうとしたが、結局オレが使ってしまったので、洗って返すべきだろう。そういうと、渥美先輩は少し迷ったように頷いた。オレが荷物をまとめている間に、先輩は店のタオルを返し会計を済ませてしまった。慌てて自分の分を渡そうと追いかける。が、オレが話しかける前に、こちらを振り向いた先輩が口を開いた。
「……佐鳥、寒く、ない?」
「大丈夫です、暖房入ってましたし! ……渥美先輩こそ、本当に大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
「……あ、ていうか、お茶代!」
「いいよ。……ぼくのせいだし」
「先輩は、そう言いますけど、オレは別に……」
「……あと、安いかも、しれないけど。……傘のこと、忘れておいて、ほしいから」
 ……。口止め料というか、先輩が言いたいのはまあ、そんな感じのことらしい。安いとかどうとかじゃなく、オレは絶対に忘れることは出来ないんだけど。取り敢えず、蒸し返さないでほしい、という意味も含まれているとは思うので、オレは口をつぐむ。
 先ほどの羞恥心に顔を覆ったりうなだれる姿のことも。……また思い出しているのか、ほんのり恥ずかしそうに、困ったような表情をしている渥美先輩のことも、忘れられる気はしない。
 それから。喫茶店から駅までの道のりはそう長くなかったけど、その間気まずさが後を引いているのか、先日の宣言とは裏腹に先輩は口を閉ざしていた。
 駅について、オレたちと同じように、きっとどこかで雨宿りをしてから帰路についたのだろう。同じ時間帯のいつもより多い人混みの中で、先輩は口を開いた。
「……じゃあ、佐鳥、風邪とか……引かないようにね」
「はい、先輩こそ、家に帰ったらすぐに暖まってくださいね」
 気まずさは残っているのだろうけれど、それでも声をかけてくれるから先輩はやっぱり先輩だな、と思う。じゃあまた。そう先輩に笑いかけて、オレはホームに向かった。