蜜柑とアイスの共存

ナイチンゲールと棘のない薔薇

十月

「……」
 昼休み、委員会の仕事をまっとうしに図書室へ足を運んだオレは首を傾げた。たいていオレよりはやく図書室についている渥美先輩だが、扉を開けた段階でカウンターに見えるはずの姿が今日はなかった。午前中の授業が長引いているのだろうか?そう深くは考えずに、待っていればすぐに来るだろうと図書委員の定位置へ座ろうとした。のだけど。
 カウンターの奥に見慣れない影を見つけた。カウンターの中は本がそこそこ高く積まれた机や棚が連なっている。なので周りからは死角になっていて、数人なら入ることのできる、ちょっとしたスペースになっている。違和感を覚えたオレは、カウンターの中に入り奥を覗く。そこには腕を枕代わりにして、机に突っ伏している渥美先輩がいた。
 腕と髪で顔が隠れてしまっているので表情はうかがえないが、規則正しく上下する背中。静かな図書室だからこそ聞こえてくるわずかな呼吸音。……寝ている。渥美先輩は完全に、眠っている。
 ……起こした方がいいのだろうか? 図書委員の仕事はオレ一人でもなんら問題はないし、もし疲れが出て眠ってしまっているのだとしたら起こすのは忍びない。形のいい、まるい後頭部を眺めてしばし悩む。悩んでいると、次はむくむくと好奇心のようなものが顔を出してきた。
(前から思ってたけど、渥美先輩の髪って、さらさらだよなぁ)
 毛先は少し外に跳ねているけれど、あまり癖は感じられない。さらさらの髪といえば、オレと同じ隊の隊員であり友人でもあるとっきーもそうだ。オレ自身は結構癖が強くて、くわえてそこそこ硬めの髪質をしているので、寝ぐせなんかを整えるにも結構苦労するんだけど。
 ゆっくりとした足取りで渥美先輩に近づいた。やっぱり、起こした方がいい……よね? 夜に眠れなくなっちゃうかもしれないし、それに、今日は先輩には伝えないといけないこともある。なんて言い訳がましくひとりで頷いてから、先輩の肩を軽くたたいた。
「……せんぱい、渥美先輩」
 ここが図書室ということもあり、控えめに声をかける。先輩はぴくりとも反応しない。震えそうになる手を一度握りしめて、また緩めてから再び渥美先輩の肩を叩く。
「……渥美、先輩」
 先ほどよりも気持ち強めに叩くと、先輩は身じろぎをした。んん、と吐息を漏らして、その拍子に夜の海みたいな色をした髪が一房オレの指にかかる。咄嗟にぱっと離れて胸元で手を握る。先輩は目を覚ましただろうか? 顔をうかがうと、体勢が少し変わったせいで前髪の隙間から閉じられたまぶたを見ることができた。縁取るまつげは長く綺麗で、本を読むときに伏し目がちにしているのはよくみるけれど、完全に閉じられている状況は今回が初めてでとても新鮮だ。
 いつも見ている先輩とは少し違うその姿。中でもとりわけオレの目を引いたのは、先輩の耳元だった。渥美先輩の髪は肩にこそつかないものの男子生徒にしては長く、また前髪で片目が隠れがちなので本を読むときに邪魔じゃないかな、と思うこともある。同じように伸ばされた横髪も耳にかけているというわけでもなく、いつも耳が隠されていた。そんな先輩の耳元を飾っていたのは、石だけのシンプルなピアス。教師に見つかれば注意を受けるだろうそれを、先輩は隠していたのだ。初めて見たそれに驚く。先輩って、隠れアウトローだったのかもしれない。そして次に思考に上がってくるのは、先輩のピアスについてどれぐらいの人が知っているのだろうか、という疑問だ。教師からは隠しているのだろうし、じゃあクラスメイトは?
 渥美先輩がピアスをしていた、ただそれだけのことなのに、オレはやたらと衝撃を受けていた。先輩が隠していたことを、本人の知らないところで知ってしまった後ろめたさ。そしていくらかの高揚感。オレは息を浅く吸い、わなないた唇を引き結んだ。
「──…せんぱ、」
「すみませーん、図書委員さんいませんかー?」
 もう一度声をかけようとしたところで、カウンターの向こう側から元気な声が聞こえてくる。考えるまでもない。貸出か、返却か、そのどちらかの用事がある生徒だ。完全に意識の外へやっていた背後からの声に、反射的に「はいぃ?!?」と返事をしてしまう。してしまったというよりも、返事をすべき時なのだが。
 先ほどの生徒の元気な声か、それとも今のオレの返事か、もしくはその両方か。ぐっすりと眠っていた渥美先輩も目を覚ますに至ったようで、のっそりと身体を起こし「……寝てた……」とぼそりつぶやいたあと、ワンテンポ遅れてはぁい、とカウンターに向かってそう返事をした。
「……あれ、佐鳥、もしかして……起こして、くれてた?」
「はいっ?! あ、いえっ、そうなんですけど……っお、おはようございます! お疲れでしたか?」
「ううん……今日は、夜中に録画した番組見るために、早くに起きてたから……。……あ、おはよう、ごめんね……」
 まだ眠気が覚めないのかどこかぼんやりとしていて、それから小さく謝る先輩。オレは焦るあまり言葉を返すことができず、首だけをひたすら横に振る。先輩は不思議そうにしていたが、カウンターで待っている生徒がいるのだった、と棚や机の間をすりぬけて声のした方へ向かっていった。
 カウンターにいる誰かに呼ばれたことにより、オレは反射的に渥美先輩から身体を離した。だから、渥美先輩はきっとオレのしたことには気が付いていないはずだ。口から飛び出しそうなほど音を立てている心臓の音を聞きながら自分にそう言い聞かせて、オレもカウンターへと向かった。
 貸し出し作業を終えて、まだ緊張している身体を解くために少し長めに息を吐く。と、そこでようやく用事があることを思い出した。
「ハッ、そうだった。オレ、渥美先輩に伝えなきゃいけないことがあるんです」
「……うん、どうしたの?」
「えっと、今日は夕方から任務が入っていて、早退するので放課後の委員会には来られません」
「そっか……お疲れ様、頑張って、ね」
「ハイ、ありがとうございます! ……あと、これ、長らくお借りしていたものです……」
 おずおずと差し出したのは、先輩から借りていた小説の短編集。一緒に借りた漫画は既に読み終わって返していたけれど、小説の方はなかなか読み進められなかったのだ。何冊かあったとはいえ、一ヶ月くらいずっと借りたままだったのをようやく読み終えて、今回返すために持ってくることができた。ああ、と納得したように先輩は呟いてオレから本を受け取る。何かを確かめるようにぱらぱらと軽くめくってから閉じられた文庫本。書店名のロゴが大きくプリントされたカバーは随分と読み込んでいるのだろう、折り目が薄く擦り切れかけていた。
「すっごく面白かったです。お話一つ一つの方向性は違ったんですけど、語られてる内容は結構共通してて」
「……、よかった。そうだね、この人の作品は、人だったり物だったり……何かを信じてる話が……多い、かな」
「はい! あー……それで、えっと、読むの遅くって、すみません」
「ううん? そんなこと、ない。……本は、読みたくなったときが読み頃、だから」
 先輩はゆっくりと首を振って気にしなくていい、と言ってくれる。ゆっくり読んでも、急いで読んでもいい、と。オレへのフォローもあるのだろうけど、読書に関して先輩がそう思っているのは本当なのだろう。オレは先輩のポリシーのようなものを感じて、単純に、それってなんかいいな、シンプルにそう思った。



(……あ、当真さんだ)
 古文の授業中。教師に悟られないよう横を向いてあくびをかみころしていると、ちょうど外で体育の授業をしているクラスが目に入る。体育着の色からして上級生なのはわかっていたが、当真さんは遠目からでも目立つ格好をしているので自然と目がいく。となると、渥美先輩もすぐ側にいるのでは……、視線を走らせるとすぐに見つけることができた。なかなかレアな姿についじっと見入ってしまう。
(サッカーかぁ……、先輩、運動得意なのかな)
 チームメイトなのだろうか、近くにいる男子数名と集まりなにかを話しているようだ。やがて彼らはコートの中へ散っていき、持ち場につく。体育教師が笛を咥え、合図が鳴る。
「──…コラッ、佐鳥」
 と、同時にポコン、と頭上に軽い衝撃。慌ててそちらを振り向くと、古文担当の教師が顔をしかめて立っていた。
「……せ、先生」
「ボーッとするのはほどほどにな。お前も忙しいかもしれんが、学生の本分はあくまでも勉強だっていうことを忘れるんじゃないぞ」
「はぁい……すみません」
 頭を叩いたのは古文の教科書だ。それほど強くは叩かれなかったようで全く痛みは感じないが、その反面勉強、という言葉には力がこもっていた。オレの成績はお世辞にもいいとは言い難いので、彼の危惧することもわかる。わかるというか、とどのつまり正論なのである。
 とはいえ先生もオレがボーダーの隊員として活躍していると聞けば自分のように喜んでくれる、得難い人だ。ボーッとしていたオレが悪いのは事実なので、クスクスとクラスメイトに笑われる現状を受け入れ素直に謝った。

「さっきなに見てたの?」
「先生何回も、佐鳥のこと呼んでたよ」
 昼食を食べながら、クラスメイトである太一と日佐人がさっきの話を掘り返してきた。半崎は他のクラスへ遊びに行っているため不在である。
「……え、ホント? 全然聞こえてなかった……」
「そうだよ。あー……さっきの時間ってB組が体育だったっけ、いま女子が外使ってるし、それ?」
「うーん、いやあ同級生じゃ……って、わー! この話はナシ!」
「なんだ、やっぱ見てたんだ」
 二人はニマニマ笑いながら、どうせ女子を見ていたんだろう、という風にオレを見てくる。完全に墓穴を掘ってしまった。同級生じゃないならどの学年なのか、と続けて尋ねる。もちろん本気で突っ込んでいるというのではなく、ただ単に先ほどのことでオレをからかいたいだけだろう。
「でも、ただ見てただけにしてはほんとに気付かなかったよな。先生も言ってたけど寝不足とかじゃない?」
「……ううん、それはホントに大丈夫。ありがと」
 そのあとはきちんとこうしてオレを心配してくれているので、なんだかんだいい友人をもったなぁ……としみじみする。二人はオレが本来免除されるはずの委員会にも可能な限り出ているのを知っているので、こうして親切に言ってくれるのだ。その理由を言うには、さすがに気恥ずかしさが勝るため伝えられてはいないけれど……。そう、本来ならボーダー隊員のカバーをする役である図書室の司書さんにも、この前直々にお礼を言われてしまったのだ。ボーダー隊員でその上広報隊に所属していて、ただでさえ忙しいのに、と。正直オレも渥美先輩のことがなければ他の隊員と同じように、免除される制度に甘えていただろうから、その感謝の言葉には少なからず罪悪感を覚えていたけれど。
(不純な動機でごめんなさい……)
 思い出し、心の中で謝罪する。それから、先ほど注意を受けてしまったことについて思い出していた。
 ……さすがに、声をかけられても気がつかないのは、まずいよなぁ……。
 遠目だったこともあって、視界に意識を集中していたという言い訳は通じるだろうか。どうしよう、ちょっと途方にくれながら、オレは食事を進めるのだった。



「なんだ? お前自覚なかったのか」
「はい?」
 と、いうようなことがあったと、具体的に「誰を」見ていてそうなったのかはぼかした上で当真さんに相談をしたら、平然とした顔で返ってきたのはそんな反応だった。自覚、とは? いやたしかに、心ここに在らずといった状態を自覚していないのはまずかったかもしれないけれど、していなかったからこそボーッとしていたのだし、そのことを言われても仕方ない、ような。というか、当真さんにすら様子がおかしいと思われていた?! しどろもどろになりながら聞き返す。
「いやー、どう考えてもお前、渥美のこと見過ぎだし」
「ハッ?!」
 声が裏返った。オレは渥美先輩の名前は一言も出していない。当真さんに相談したのは同級生には言いづらく、嵐山さんに言うには同じ隊であることから必要以上に心配をかけてしまうかもしれないと思ったからだ。
「そもそも、端末やらで伝えればすむこともわざわざウチのクラスまできてる時点で相当露骨だろ」
「……」
 追い討ちのようにかけられた言葉に顔を覆った。ちなみにここは中庭にある校舎沿いのベンチだ。授業までの時間を運動をして過ごす生徒や、次の移動教室へ早めに向かう生徒と多くすれ違うため、人は多いがその騒がしさで逆に他のグループの話し声は聞こえない。
「……ちなみに、渥美先輩はこのこと知ってたり……しますか……」
 蚊の鳴くような声で尋ねる。当真さんは紙パックジュースを吸いながら首をひねった。
「さぁ、俺からは何も」
「ううっ……」
 もう一度顔を覆う。そりゃそうだ。前からオレのことを気が付いていたらしい当真さんは、今までこの件に関して何も言ってこなかったのだから。それはつまり、自分から積極的に関わる気はないということだろう。そこでハッとしたオレは顔をあげて当真さんに詰め寄る。
「当真さんは、オレが渥美先輩に近付くのって……迷惑とか、やだなーって思ったりしますか?」
「……、いや。そりゃあお前……」
 当真さんは少し考えてから、またジュースを吸った。中身はもうないのか断続的にズズズ、と聞こえてパックが凹む。緊張して返答を待つオレを数秒眺めてストローから口をはなす。ベコ、と小さく音を立ててパックの凹みが少し戻った。そのままオレから目線をはずしてベンチの手すりに肘をつく。
「それは、俺に聞いても意味ないだろ。お前が渥美をどう思っていようと、俺が何か口出しすることじゃあねーし」
「……そう、ですか」
「ま、俺としちゃ良いも悪いも無しにフツーって感じだな。少なくとも、かわいい後輩の邪魔はしねーよ?」
 ニヤッといつもの調子で当真さんは口端を吊り上げる。……ううん、反対されなかったことはうれしいんだけど、どことなく面白がられてる感があるような……。
「信じてなさそうな顔だな。んじゃお前が知りたそうな情報を一つ教えといてやる。渥美にはいま付き合ってるヤツはいない」
「ほ、ほんとですか!」
 確かにそれは、知りたかったけれど知る機会のなかった情報だ。今まで知ることのできる範囲では渥美先輩に恋人がいるような雰囲気はなかったけれど、確信を持つにはいたらなかったから正直当真さんの情報はありがたかった。しかし、続いて聞いた言葉にオレは眉を寄せることとなる。
「ってーのも、前に付き合ってた彼女と一方的な……喧嘩みてーのをして、それに懲りたんだってよ」
「一方的な喧嘩……ですか?」
「詳しく聞いちゃいないが……その後フっただかフられただかして、それ以来は全然らしいぜ」
「はぁ……、そうだったんですね……」
 一方的な喧嘩とは、一体何があったんだろう? とにかく渥美先輩は以前の彼女さんとのことがあってから、今に至るまで誰とも付き合ってはいないようだ。聞いた話を頭の中で整理して、はっとして当真さんに尋ねる。
「それって、渥美先輩は全く誰とも付き合う気がないってことですか……?!」
 元恋人との確執が原因で次の恋人を作る気をなくすというのはよく聞く話だ。異性に幻滅しただとか友情の良さを再確認しただとか、色々理由は聞くけれど、もし本気でもう恋愛はたくさんだ、と思っているのなら恋愛対象として見られる以前の問題で。それはすなわち渥美先輩の特別になりたい、というオレの望みもなくなってしまう。聞いたオレに当真さんはうーん、と少し考えてから、まるで慰めるようにオレの肩に手を置いた。
「ま、それは佐鳥次第だな」
「すっごくてきとうな回答!」
「お前、最近渥美から本借りてんだろ? それでいいんじゃね?」
「あくまでもただの後輩に甘んじろと?!」
「そうじゃなくて」
 オレとしてはめちゃくちゃ必死なんですけど?! のらりくらりと躱す当真さんの態度に半泣きになりながら身を乗り出すと、当真さんはまあまあと落ち着くように言う。
「……オイオイ、急ぎすぎるなよ佐鳥。まずはあいつと仲良くなんねーと、付き合うとかそれ以前の問題だろ」
「うっ……」
 ごもっともだ。勢いがしゅるしゅるとしぼんでいく。確かにそうなのだ。渥美先輩への気持ちを自覚した当初よりはだいぶよくなったけど、渥美先輩との会話は緊張でいつも通り話すことが難しくなる。普段は気にもしないようなことをあれこれと考えてしまって、いまこのタイミングであの話をするのはおかしいだろうか、変に思われないだろうか、そんな考えばかりが浮かぶ。
 おかげで、先輩に恋人がいるのかどうかすら直接きくことはできなかったし、先輩個人について、オレはほぼ何も知らないのと同じなのだ。
 深くため息を吐きうなだれたオレを当真さんはのんきそうに眺めている。ひとまず付き合わせてしまったお礼を言ってから立ち去ろう、と顔を上げようとしたところで、カラカラと背後で物音がした。
「当真、……何してるの。次移動」
「お、渥美。サンキュー」
「……っ?!」
「それと放課後……進路のことで、話があるって……先生が。……あれ、佐鳥も一緒だったんだ……出直した方がいい?」
 オレと当真さんを見比べて、窓から顔を覗かせた渥美先輩はそう言った。おそらく教師から用事を頼まれて、廊下を移動していたらたまたま当真さんを見つけた、というところだろう。当真さんのものらしきペンケースやら教科書をほいほい投げて、投げられた当真先輩は器用にすべてを受け取る。
 そうしてようやくオレに気付いた渥美先輩は邪魔したかな、という具合に首をかしげて尋ねた。ボーダー隊員でこっそり集まっているタイミングに出くわすとだいたい同じことを尋ねるので、おそらく渥美先輩は気を使ってくれているのだ。たしかにボーダー隊員以外に話しちゃいけない話題はそこそこあるけれど、そういう話をするときはそもそも誰が聞いているかもわからない学校では話さない。話すとしても、今日の防衛任務の当番は、とかそういった聞かれても特に問題のない、当たり障りのないことのみだ。
「いんや、もう話は終わった。……だよな、佐鳥?」
「……、は、はい。大丈夫です」
 ある意味、先輩はタイミングがよかった。周りの喧騒もあり、とりあえず話は聞かれてはいないはずだ。頷くと、先輩は小さくそう、とだけ返す。ちらりと当真さんを伺うと、先ほどの会話を全く気にしていない様子で渥美先輩と話している。……というか、当真さんは俺が口出しすることじゃない、なんて言いつつなんだかんだ相談に乗ってくれたし……渥美先輩のことも教えてくれたんだよね。
「……進路相談って、当真何かした? 留年でも、する?」
「んなわけねーだろ、多分アレだ。大学の話だ、推薦の」
「あー……ボーダー、特待生枠?」
「それそれ」
 軽口を叩きあう先輩と当真さん。いかにも気心の知れた友人同士、といった様子だ。オレも、もう少し渥美先輩と緊張せず話せるようにならないとな……、そうぼんやりおもったところで予鈴が鳴った。三人そろって少し焦る。
「佐鳥、次移動とかじゃない? 大丈夫……?」
「大丈夫です、お気遣いありがとうございます! ……当真さんも、ありがとうございました。じゃあ、オレはこれで」
 二人に会釈をして急ぎ足で立ち去る。曲がり角で少し振り返ると、彼らが何か話しながら渡り廊下を行くのが見えた。きっと、先ほどの軽口の続きなのだろう。



「……もう、随分涼しくなってきたね」
「ですねー、夜とかさすがにもう寒いですし」
 放課後、夕方から夜に移り変わる途中の空を見上げて、窓を閉めながら渥美先輩は呟いた。もう図書室を閉める時間が迫っており、利用する生徒もいなくなったので少し早めだが戸締りをしてしまおうという話になった。わずか数分のことだけど、先輩と一緒にいる時間が減ってしまうことを残念に思いつつ、オレも乱れた机や椅子を整えたり、片付け忘れられている本があれば元に戻していく。
 十月も半ばにさしかかり、日没の時間も日に日に早くなっている。そよぐ風が先輩の髪をさらうと、彼の耳元を飾るピアスが夕焼けに反射してきらり光った。
「……先輩って、そのピアス、いつごろから開けてるんですか?」
「……これ? 気付いてたんだ……」
 尋ねると、先輩は髪をおさえて耳元を示す。オレの口ぶりから以前から知っていたことを察した先輩は、思い出すように少し視線をずらした。
「たしか、高校に上がってしばらくした頃……だったかな。開けた後に、ピアス禁止ってことに気が付いて……でも、塞ぐのも勿体ないからって、隠してる。……先生には、内緒、だよ」
 しい、というように人差し指を口元に当てる先輩。普通なら開ける前に禁止されていることに気が付きそうなものなのに。新しく知った先輩の一面にくすりと笑う。
「そうだったんですね……、ふふ、先輩って、もしかして意外とうっかりさんじゃないですか?」
「うーん……そう、なのかな」
 気恥ずかしそうに首をかしげる先輩。その拍子に珍しく晒されていた耳元は再び髪に隠れてしまう。次の窓を閉めようとすると、また風が渥美先輩の髪を揺らしていく。大きな窓のサッシに手をかけて、濃色に染まりつつある空を仰ぐさまは、さながら一枚の絵画のようだ。
 ……なんて、オレがちょっと恥ずかしいことを思っているなんて、先輩は知るはずはないのだ。知られても恥ずかしいだけだから、もちろん知られなくていいんだけど!

 戸締りを確認して、職員室に図書室の鍵を返却しにいく間にも多くの生徒とすれ違う。それを目で追ってから窓の外を見るとすっかり暗くなっていた。しかし校舎は居残りの生徒により、まだ昼間と遜色ないにぎわいを見せている。その理由といえば一つしかない。
「いよいよ文化祭が近いなーって気がしますね」
「そうだね。……そういえば、佐鳥のクラスは、何するの?」
「うちのクラスはですね、なんとお化け屋敷なんですよ!」
「おお、すごいね……」
 文化祭のクラス毎の出し物は全体で偏りがで過ぎないようにある程度調整される。その中でも人気があるお化け屋敷はやりたいというクラスが多く、加えて卒業を控えた上級生の意見が基本的に優先されるため、下級生が人気の出し物をもぎ取れることはあまりない。しかしそこはうちのクラスの実行委員がかなり頑張ってくれたらしく、クラスへ希望通りの出し物が取れたことを報告する姿はとても誇らしげだった。
「先輩のクラスは何するんですか?」
「うちはタコ焼きを売るよ。中身はチーズとかチョコとか、タコ以外のものも結構入れて……バラエティ豊かにするんだって、はりきってた」
「へえー! 凝ってるんですね、楽しそう」
「うちのクラスは、イベント事に積極的な人が多いから、かな。……あとは、やっぱり最後の文化祭っていうのも、大きいのかも」
 相槌を打ちながら、オレは気が付いた。運良く文化祭の話になった今なら、一緒に文化祭を回ろうと誘えるのではないかと。唾を飲み込み、意を決して口を開く。
「あのっ、先輩。文化祭の自由時間って、もう誰かと回る約束してますか?」
「約束……は、してないけど……どうして?」
「その、もしよかったら、オレと……文化祭、回りませんか」
「……いいけど、佐鳥は友達と回らないの?」
「えっ、えーと……オレはいいんです! 来年もありますし、先輩こそ、当真さんとは回らないんですか?」
 聞き返すように話を振るのはちょっとずるい手かもしれないけれど、これ以上突っ込まれるとボロが出そうだ。そう判断したオレは問うと先輩は頷いた。曰く、他に誘いがなければ何となく一緒に回っただろうが、前もってそういう話をしているわけでもないので、他のグループに誘われればそちらにいっても何も問題はない、とのことだ。結構自由な感じらしい。
「……当番の時間って、もう決まってる?」
「はい、……あ! でも、またシフトとか確認してからにしたいので、連絡先、教えてもらってもいいですか?」
「そうだね……交換、しようか」
 頷く先輩に、ここしばらくで一番強いガッツポーズをとった。もちろん心の中で。オレはいま、まれに見る自然な流れで連絡先を交換することができたのではないだろうか!? 全力で自分を褒めながら、チャットアプリを起動するとやがて現れた渥美先輩の名前と文鳥のアイコン。すぐさま追加ボタンを押して、友達欄に新しく表示された先輩の名前は、ひときわ輝いて見えた。

***

 三年生の廊下に上がったら、渥美先輩がぼろぼろと涙をこぼしていた。
「っ……、あ、えっ?!」
 驚きのあまり声が詰まってしまった。けれど先輩には届いていたらしく、水道の蛇口をひねりながら顔をこちらに向けた。
 ぱちぱち瞬きをしてぎゅっと目を瞑る。また開いて、瞬きを繰り返す。ぐっと眉間にしわを寄せてまぶしそうにこちらを見つめて……やっぱり瞬き。そのたびに先輩の目からはしずくが零れ落ちていた。
 ただ泣いているにしては様子がおかしい。どこか違和感を覚えたオレは、もう一歩近寄ってから先輩に声をかける。
「あの……渥美先輩?」
「……、佐鳥?」
 呼びかけると、先輩はようやくおれに気付いたように声を上げる。さっきからおれの姿は視認できていたはずだけれど。内心首をかしげたけれと、その疑問は先輩の言葉によって解消された。
「ごめん、今……コンタクトがずれちゃって、何も見えてなくて」
 やっぱり瞬きを繰り返しながら水道に向き直る。よくよく見れば水道のりにコンタクトケースが置いてあった。大したことではなかったらしいことにほっと胸をなでおろして、片方だけ外してコンタクトケースにしまった先輩を見守る。
「びっくりさせた……かな。ごめんね? 当真に用事? いま自販機買いに、席外してるけど……」
「あ、そうなんですね。いえ、用事ってわけじゃ……。……あれ、コンタクトって、片方だけでも大丈夫なんですか?」
「……?」
「? 片方だけ外してましたよね」
「ああ、ええと……もう片方は、外で落としちゃって」
 思ったよりもただ事じゃなかった。つまり先輩はいま裸眼の状態で、先輩の視力がどれくらいなのかはわからないけれど、少なくとも、高々数メールの距離でもオレが誰かわからないくらいの視力で。
「渥美先輩って、視力どれくらいなんですか?」
「〇.〇一….…くらい?」
「……ええと、?」
 メガネにもコンタクトにも縁がないオレには、取り敢えず良くはなさそうなことしかわからなかった。自分で聞いたにも関わらず首をかしげていると、渥美先輩が一歩オレに踏み出した。ちょっと混み始めた電車くらいの距離だ。
「ここからでも……佐鳥の顔がぼやけてて表情がわからなぐらい。……っていうと、わかりる……かな」
 さっきよりはやや控えめに、眉間にしわを寄せながら先輩は言った。全然、ぶつかるような距離でもないのに、たった一歩先輩から近づかれただけで心臓が飛び跳ねている。たぶん赤くなってしまっている。先輩の不運を喜ぶわけではないんだけれど、先輩が今オレの顔を見れなくてよかったって、ちょとだけ思ってしまった。
「……あれっ、ていうことは先輩、黒板も見えませんよね。あとの授業って大丈夫なんですか?」
「カバンに、予備の眼鏡がある……から」
 うなずいた先輩はいつもよりゆったりとした動きで教室へ向かった。……と、思ったら目測を誤ったらしく教室の扉に肩をぶつけていた。……し、心配だ。
 けれど先輩はそう戸惑っている様子もなく、手で机と机の間合いを慎重に測りながら、その隙間を縫って自分の席にたどり着いた。カバンの中からメガネを取り出してかける。遠目だけど先輩の眼鏡姿は初めて見た。すごく新鮮だし、先輩がいつもよりさらに理知的に見える。
 振り返った先輩が微笑んで、オレにゆるく手を振った。…たぶん、見えるようになったよ、って意味だと思うんだけど。
 理知的な眼鏡姿でも、そんな先輩はやっぱりちょっと、かわいいのかもしれない。……なんて。

***

 ついに文化祭当日がやってきた。チャットで相談して決めたように、少し早めに当番が終わるオレが、渥美先輩をクラスまで訪ねにいくことになっている。そわそわと浮き足立ちながらも階段を踏み外さないよう慎重に、上級生の階へ進む。この時期は文化祭の雰囲気が充満していて、ハロウィンが近いこともありところどころオバケやコウモリや、それっぽい飾りも見られた。お祭りムード全開の飾りつけがされた廊下はどの学年も同じで、今回は違う学年の階だろうと違和感を覚えることはない。
 どうせなら渥美先輩のクラスの出し物だというタコ焼きも、どんなものがあるか興味があるし買っていこう。そう算段を立てながら意気揚々と歩いていく。すれ違う人々の中には、オレに向けて気軽に挨拶をしてくる人もいる。オレはボーダーの顔として広報隊に所属しているので、直接面識はなくとも「あっ、嵐山隊の佐鳥だ」、なんて風に言われることも多い。それににこやかに返していく。オレがクラスを訪ねる賑やかな祭りの雰囲気に包まれながら、クラス名と出し物がかかれたポップな看板を確認して入って行った。
「渥美先輩~、佐鳥が来ましたよ〜」
 教室に入ってすぐのところにエプロン姿の先輩がいた。エプロンの紺色が、先輩のクールな感じを引き立たせている。クラスメイトと何か話しているようだったけれど、声をかけるとすぐに気が付きこちらを振り向いた。その手には大小様々な袋が抱えられている。
「先輩、もう色々回って来たんですか?」
「え……?ああ、これは……違うよ、クラスのみんなが……」
「ハロウィンだからだよ〜」
 下手をするとバランスを崩してしまいそうだ。手伝ったほうがいいのだろうと思いつつどう手を出すべきか悩んでいると、横から声が飛んできた。渥美先輩と同じく、かわいらしいエプロンがとっても似合っている国近柚宇先輩だ。ほにゃほにゃと柔和な笑みを浮かべながら、彼女は渥美先輩に向けて大きめのトートバッグを広げる。すると先輩はお礼を言ってバッグの中へ抱えていた袋を半ば落とすように入れていく。よくよく見ると中身はお菓子がほとんどのようで、いつも先輩が食べているような市販のお菓子や、かわいくラッピングされた手作りのお菓子も入っていた。たまに紙パックやペットボトルの飲料、サンドイッチなんかも見える。
「ハロウィンだから、ですか?」
「そうそう。みんな、渥美くんには日頃からおやつをお世話になってるからね〜、そのお返し、みたいな?」
「たまに、どうしてか関係ない人からももらうんだけどね……」
「おやつがある場所に、更におやつが集まるんじゃない? ホラホラ渥美くん、トリックオアトリート、だよ~」
「……トリックオア、トリート。国近さん」
「フフフ、渥美くんにはこれを渡してしんぜよう。いつもありがと~。……そして次のテストもなにとぞ、なにとぞよろしくお願いします渥美様……」
「ハロウィンのお菓子がナチュラルに賄賂に……」
 国近先輩は深々と頭を下げて手を合わせた。ひらにひらに、と言葉を尽くして頼み込んでいる。今先輩が、よく課題やテスト対策を手伝っているという話は聞いたことがあるけれど、どうやら渥美先輩も教える側にいるらしい。先輩は悩ましげに頷いた。
「国近さんは、いいんだよ。一番の問題は当真だから……」
「よかったー!」
 快諾されたことにほっとしたらしくぱっと花が咲くように国近先輩は笑った。そして、さっきもお菓子貰ったしね、そうのんびり言いつつ、懐から動物のイラストと、その動物に対応した英単語がかかれたビスケットの箱を一つ袋の中に入れた。
 渥美先輩がお菓子を配る、ちょくちょくその光景を見ていたし、オレ自身ももらったりはしていたが、クラスの垣根を越えて集まったらしいそれはかなりの量になっている。聞けば、それは毎年恒例の行事のようなものらしく。去年はバレンタインもすごかったねー、なんて話を親しげにする先輩方。
 膨らんだトートバッグは個人用ロッカーには到底おさまらないので、机で仕切られたスタッフフロア側の隅の方に置いておく。ご丁寧に『渥美』と大きく書かれた紙が、先輩のクラスメイトの手によりぺたり蓋をするように貼られた。どうやら渥美先輩宛のプレゼントはこうされるのが恒例らしい。
「……ていうか、二人ともいつのまに仲良くなってたの?」
 ふふふ、とにこやかに国近先輩は尋ねてきた。渥美先輩はそのまま委員会が同じだから、と答えるが、オレとしてはどこか含みを感じるような感じないような、な国近先輩の表情にどきまぎしてしまう。気にしすぎだとは、思うんだけど。
「国近先輩! あの、オレ、ここのクラスの出し物も気になってるんですけど!」
 一つください! 話題転換もふくめて頼むと、先輩は待ってましたとメニュー表を取り出した。スタンダードなたこ焼きからチーズ入り、チョコ入りなどさまざまな品目が並んでいる。オレはそのうちの一つを指して首を傾げた。
「あの、このお楽しみセットというのは?」
「ああー、それね。それはいろんな味が楽しめるメニューだよ。……っていうのは建前で、あんまり売れ行きが思わしくないものをどちゃっと入れたものでーす」
「……国近さん、ぶっちゃけすぎ……」
「あはは、そうかな? でもいっぱい用意しすぎちゃったメニューもあるし、みんなで試食はしてるからちゃんと美味しいよ」
 エプロンを外し、先ほどのトートバッグの上に置いた渥美先輩が突っ込む。フォローを入れた国近先輩に、せっかくだからとお楽しみセットを頼んだ。
「了解〜、まだ早い時間だから、今のとこ一番評判いいやつも入れたげるね」
「ホントですか、ありがとうございます!」
 オレからお金を受け取った後に国近先輩はそこの席に座ってて、と席を示してスタッフフロア側へ向かっていった。席にかけて、渥美先輩に尋ねる。
「試食をしたって仰ってましたけど、ボツになった味もあるんですか?」
「うん……ふざけて持ってきた人もいるから、鷹の爪が入ってるものとか」
「えっ?! それ、食べたんですか……? みんなで……?」
「ううん、流石に……持ってきた人は辛いもの得意だったみたいだけど、辛すぎたから、普通にボツになったよ」
「そりゃそうですよね……」
 その様子を想像してちょっと笑った。話には聞いていたけど、先輩のクラスは本当にノリのいい人が揃っているみたいだ。
「あとはエリンギとか……塩胡椒で味付けしたやつが、食感とか……ぼくは、結構好きだったんだけど……決め手がいまいちってことで、ボツになっちゃったんだよね……」
「そうだったんですか……じゃあメニュー入りしたものは、みんなそういう競争に打ち勝ったものなんですねー」
「……ふふ、その表現、ちょっと面白い……ね」
「おまたせしましたー、お楽しみセットでーす!」
 シンプルなテーブルクロスの上にスチロール皿と、水の注がれた紙コップが二つ置かれた。綺麗に焼き色のついたそれは、見た目からは何の味かわからない。
「えっとねー、こっちから順番に、チーズ、チョコ、イカ、納豆、マシュマロ、キムチです!」
 じゃあ楽しんでいってねー、と国近先輩は次の接客へもどっていった。
「本当に色々入ってるんですね」
「うん、納豆も、案外美味しかったよ」
 一番の変わり玉に思えるが、先輩がそういうならと一口大のそれを口に運ぶ。……あ、たしかに意外とイケるかも……。納豆に味付けがされているらしく、生地のふわふわとしょっぱさがいい感じにマッチしている。難点といえばねばつく口内だが、一緒に出された水を飲めば多少は誤魔化せるだろう。
「先輩も、どうぞ食べてくださいね」
「ううん……ぼくはいいよ。さっきも言った通り試食はしてるし……どれも美味しいから、佐鳥に食べてほしい」
「……、……そ、そうですか」
 こういう時にまなじりを緩めるのだから、嬉しく感じてしまう。あまり表情が豊かな方ではない渥美先輩の表情も、以前よりは会う頻度が増したことにより少しずつ分かるようになってきた、とは思う。先輩自身は特に意味のある言葉としていったんじゃないことはわかっているけれど、よりにもよって「佐鳥に」だなんて。少し頬が熱いことを自覚しながらも気を取り直して、一つずつこれも美味しい、あれも美味しいと夢中で食べていく。先輩はまだじっとこちらを見つめているようで、視線を上げるとばちり目線がかち合った。先輩はそのことに驚いたように、ほんの少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつも通りの表情に戻る。
「……先輩、オレの顔になにかついてますか?」
「……ううん……佐鳥は、いつも美味しそうに食べるから、いいな……って」
「……そうですか?」
 いつもって、もしかして渥美先輩がオレにちょくちょくお菓子をくれるのはそういう理由もあるんだろうか? なんだか孫にたくさんご飯を食べさせる親戚みたいな……と、そこまで考えて自分でツッコミを入れる。孫って。それにオレは普通に食べてるだけで、もちろん美味しいけど、にやけてるなんてことはない。至って普通……な、ハズ。
 少しだけ悶々としながらもすぐにたこ焼きを食べ終える。それぞれどの味もそれなりにクセがあったけれど、文句なしにおいしかった。またねー、と手を振る国近先輩をはじめとした三年A組の先輩方に手を振り返し、オレたちは教室を後にした。

「どこに行きたいとか、ある?」
 あらかじめ配られていた出し物マップを広げながら先輩は問いかけた。横から覗き込み、ううんと唸る。
「うちのクラス、オレが出てきた時はそんなにお客さんもいなかったので、どうせなら来てみませんか?」
「ああ……お化け屋敷、だっけ。いいね、楽しそう」
 そう言って先輩はわずかに口角を上げる。よかった、こういうのは苦手ではないらしい。この様子を見るに、むしろ好きな方なのだろうか? 高校生の手作りお化け屋敷なのでリアリティがあるとはいえないが、そういった雰囲気があるだけでダメな人もいるから、ほっと胸をなでおろした。
 備品室にあったらしい遮光カーテンと、足りなかった分は窓にダンボールを貼り付けて可能な限り暗くした教室内。それでも隙間から漏れる光はあるが、真っ暗すぎても危険だということでそこはそのままに。受付をしていたクラスメイトに挨拶をしてから一歩中に入ると、周りを見渡して渥美先輩は呟いた。
「……すごい、ね。雰囲気もあるし……」
 べたべたと付いた赤い手跡を指す。予定ではもう少し控えめなはずだったが、みんな楽しくなってきて、次から次へ手のひらに絵の具をつけては押していった結果、やたらと手の数が多くなってしまったのだ。そのエピソードを知っていると恐ろしさは半減どころか、十分の一くらいにまで減ってしまうだろう。楽しんでいるらしい先輩に水を差すようなことはせず、あとで話題にしようと小さく微笑んだ。
 おどろおどろしいBGMが響き、ろうそくを模した明かりがぼんやりと狭い通り道を照らす。五寸釘(にしては小さめの釘)で貫かれたわら人形があったり、怪しげな笑い声が聞こえてくる仕掛けがあったり。二言三言感想を言い合いながら、オレたちはゆっくりと進んでいった。
 やがてたどり着いたのは、障子っぽく紙をはりつけた小窓。その横には、わかりやすく「開けてね」と指示の書かれた張り紙。先輩がそれを開けた瞬間、ぬっと青白い手が飛び出てきた。
「ぅわっ」
 いきなりのことに渥美先輩は肩を揺らし、一歩引く。
「大丈夫ですか?」
「……あ、うん、大丈夫……ありがとう」
 ぶつかるのを阻止するために先輩の肩を抱くような形になってしまった。抱くというか、両手で先輩の肩を受け止める感じというか。思わぬ接触にドギマギしつつ、なるべく平静を装って先輩の顔をうかがう。暗くて今一見えないが、おそらく先輩もオレの方をみているのだろう。学ラン越しに伝わる先輩の体温はすぐに離れた。
「ドッキリ系の仕掛けも……あるんだね」
「ですねー、……あ、先輩、早いとこ次に行かないと」
「……?」
 と、言いかけたところでオレたちの背後、通ってきた道からバタバタと大きな物音が聞こえた。振り返ると、頭を矢で貫かれた落ち武者がこちらに向けてズンズン歩いてくる。
「……」
「立ち止まってる時間が長いと、ああやって後ろから追いかけてくるんです……」
「……」
 この暗闇の中で走るのは危ないから禁止されているとはいえ、通常の歩くスピードよりもずっと速くこちらへ向かってくる様は、血まみれの姿も相まってかなり威圧感がある。
「……さ、佐鳥、こっち?」
 くい、と控えめに手を引かれた。順路はわかりやすく書いてあるので先輩はそれに従っているようで、お化け屋敷も終盤だったこともあり、そう時間はかからず出口へたどり着いた。
 廊下のまぶしさに目を細めながらも、先輩に手を引かれ人と人の間を縫うように抜けていく。少し歩いて、人の流れがまばらになったところでオレたちは足を止めた。そして、渥美先輩は振り返る。
「……佐鳥、ごめん。最後、急いじゃって……」
「エッ、いえ、全然! オレは楽しかったですよ?! ……先輩こそ、やっぱり怖いのダメだったりしませんでした……?」
 そっと先輩の様子を伺う。クラスメイトの落ち武者に追いかけられた先輩は、かなり焦っていたように見えたから。それに、その……いまも手をつかまれているわけで、うん。先輩にとって、それぐらい動揺した出来事だったということで。すると、先輩は気まずそうに目線をうろうろと泳がせたあとに小さく呟いた。
「……こっちに……向かって来られる系は……ちょっと……」
「……それ、大体のホラーがダメってことじゃないですか……?」
 中に入った当初は無理をしている様子も見られなかったので安心していたけど、オレの目がただの節穴で、本当は怖がっていたのだとしたら?! オレは自分の不甲斐なさに頭を抱えていたが、それでも、やっぱり渥美先輩は首を横に振る。
「いや……本当に……奥から手前にくるやつじゃなければ、ジャンプスケアは余裕だし……」
「ジャンプスケア?」
「いきなりでてきたり大きな音で驚かせるやつ。あとは血みどろとか……ああいうのは、たまにびっくりすることもあるけど……。向かってくる系が、ダメなだけ、だから……」
「う……うーん……?!」
「……本当、だよ?」
 念を押すように先輩は言う。手にも、わずかに力が入っている。そうなのかな? 判断にはかなり迷うところだけれど、多分、本人がそういうならそうなんだろう。だってほら、わさび系の辛さは苦手だけど唐辛子系の辛さは得意っていう人もいるわけだし。うん、渥美先輩のホラーに対する耐性も、きっとそんな感じなんだろう。
「……あ……、ていうか、ごめん……手汗酷かった、よね……?」
 今気が付いた、というように先輩はずっとつかんでいた手を離した。あ、いえ、とかよくわからない返事をオレは返す。オレも全く気付いてなかったというか、手をつかまれたという事実にばっかり目が行っていたから。
「いえ、大丈夫です! ……えーと、先輩、他のクラスの出し物も、色々見て回りましょうよ」
 部活で出し物やってるところもあるから、楽しそうですよ。そうマップを開いてみせると、先輩は頷いた。

「そんなに長い時間じゃなくても、結構回れましたね」
 にこにこと先輩へ笑いかける。あれからも色々見て回って、たまに知り合いと遭遇してすれ違いざまに挨拶をしたりもして。そろそろ自分のクラスに帰らなきゃいけない時間が迫ってきた。名残惜しくはあるものの、こんなに先輩と一緒にいられることは初めてで、自分でも驚くぐらいハイになっていた。
「あ、あと先輩、これ……今更感ありますけど、ハロウィンなので」
 そう言って差し出したのは先ほど買ったばかりのさつまスティック。まだほかほかとあったかい。手作りだから今日中には食べてもらう必要があるけれど、これなら冷めてもおいしいし、なかなかぴったりだと思う。袋の口を閉じてしまえば多少の無理は効くし!
「……ぼくに、だったんだ……ありがとう、じゃあ、もらうね」
 渥美先輩はふわりと笑って受け取ってくれた。それだけでオレの口元はめちゃくちゃに緩む。はい、と返事をして、この辺りでお別れをしようとしたところで、「そういえば、まだ佐鳥に渡してなかったね」と先輩がどこからか取り出したのはハロウィン限定包装がされているお菓子。
さつまスティックのかわりに手のひらに置かれたそれをしばらく眺めて、オレはふふふと笑う。いつものお礼にって渡したのに、そのお返しを今貰ってしまっては、お礼にならないんじゃないだろうか。
「佐鳥……? どうか、した?」
「んん、いえ……へへ、なんでもないです。渥美先輩、いつもお菓子ありがとうございます」
「……どう、いたしまして」
「じゃあ、オレはこれで」
「うん、またね」
 ひらりと手を振って、そう別れの挨拶をする先輩。何の意識もしてないんだろうけど、またね、の一言が嬉しくて、オレは元気よくはいと返した。