蜜柑とアイスの共存

ナイチンゲールと棘のない薔薇

九月

 九月。夏休みは終わったものの、まだまだ残暑が尾を引いているこの季節。教室では下敷きをうちわ代わりに扇いでいる生徒も多い。ある日の放課後、オレは友人である時枝充こととっきーには先に帰ってもらうように伝えて、指定されたとある教室へと向かっていた。
 図書委員。主に図書室で本の貸し借りの業務を行なったり、学級文庫を図書室から教室まで定期的に往復させるのが仕事の、本を読む生徒にとってはなくてはならない委員会である。配布されたプリントにはペア当番と書いてあるから、同級生か上級生か、誰かと一緒に図書室の貸し出し当番をするらしい。
 運悪くじゃんけんに負け続けてしまったオレ、佐鳥賢は、後期の図書委員を務めることになっていた。上級生の教室がある階に上ると、オレたち下級生の教室がある廊下と作りは同じはずなのに、不思議とまったく違う雰囲気を感じる。クラスの書かれたプレートと、担任教師から配られた藁半紙のプリントを見比べて、そこが目的の教室であることを確認した。クーラーの冷気を逃さないために窓や扉は閉められているが、それでも外までガヤガヤと人の話し声が聞こえてくるということは、もう結構な人数が集まっているのだろう。知っている人、欲を言えば友達がいればいいなぁ、とぼんやり思いながら、オレは教室の扉を開けた。
「……あれ、渥美先輩……?」
「……、佐鳥?」
 クーラーの冷気があるとはいえ、カーテン越しの日差しが暑いだろう窓側の。後ろの方の席に一人で座っていたのは、ただの顔見知りというには親しくて、でも親しいというには繋がりが間接的な、渥美和仁先輩だった。知っている人が居てくれたらありがたいな、そうは思っていたもののまさか渥美先輩がいるとは思わなくて、ドキリ跳ねる心臓を咳払いでごまかした。後ろ手に扉を閉めてから、声をかけたのにこのままスルーするのもおかしいからと先輩に近寄る。すると先輩はそれまで読んでいたらしい文庫本を閉じて、二人分の席がくっつけてある机。そのうちの廊下側の席においていた荷物を、自分の座っている校庭側の席に引き寄せた。オレが座れるようにと気を使ってくれたのだ。
 ありがとうございます、そう言ってオレは荷物を置いた。先輩は首を横に小さく振り、荷物を探り始める。取り出したのはきのことたけのこがモチーフになったお菓子の箱。ふたつの「のこ」が仲良く一つの空間に混ざっている箱を開けて、先輩は二つの机のちょうど真ん中あたりに置いた。
「佐鳥は、チョコ……大丈夫、だっけ。おやつ、食べる?」
「はい、好きです! いただきます」
 渥美先輩とは久しぶりに会うが、やたらと人におやつを勧めるところは変わってはいないようだ。ほぼ初対面のころは少し戸惑ったなぁ、なんて思い出しながらありがたく一つをつまむ。たけのこだ。奥歯でクッキー生地を噛み砕いて、飲み込んでから先輩の表情をうかがった。涼しげなつり目に、少し困ったように下がっている眉、片目が隠れるか隠れないかくらいの長めの前髪。最後に先輩を見たのは、夏休み前の終業式でたまたま後ろ姿を見かけたときだ。一ヶ月半くらいの期間をやけに長く感じているのは、相手が渥美先輩だからだろうか。
 そんなことをぼんやり思っていると、どうやら見つめすぎていたらしい。ふいにぱちりと先輩と視線があった。先輩はひとつまばたきをして、どうしたの、と問いかける。
 ──…しまった、ガン見しすぎた。
 焦ったオレは慌てて手を振りながらごまかしの言葉をなんとか捻り出す。
「い、いえっ、渥美先輩とおしゃべりするの、久しぶりだなって思って……! あの、渥美先輩が図書委員って、結構イメージできるっていうか……立候補したんですか?」
 すこし挙動不審になってしまっただろうか。訪ねたオレの言葉に渥美先輩は少し考えるようにしてから首をすこし傾けた。さらりと髪が揺れる。
「ううん……特別図書委員になろうと思ってたわけではないんだけど……。ちょっとじゃんけんで負けちゃって。残ってた係の中だと、新しく入ってきた本を優先的に借りられたりするし……いいかな、って」
 やっぱりじゃんけんで負けて、というのはどこでもあるあるの理由みたいだ。オレもじゃんけんで負けちゃったんですよ、おどけてそういうと、先輩はおかしそうにすこし笑った。その表情にまたドキリとする。
「じゃあ……ちょっと運が悪かった同士、委員会がんばろう、ね」
 運が悪かった。オレもそう思っていた。ついさっきこの教室に来るまでは。
 一夏を越えても、オレの中の先輩への感情は消えなかったらしい。むしろ、大きくなり続けている気さえする。

 渥美先輩は、当真さんの友人だ。なんでも中学の時から付き合いがあるそうで、おまけにほぼ毎年同じクラスだということもあり、腐れ縁のようなものだと二人が語っていたのをよく覚えている。なぜよく覚えているのかというと、制服をきちんと着ていて成績優秀な渥美先輩と、着崩して課題も授業もサボりがちな当真さんは優等生と不良、といったように、どちらかというと真逆の印象を受けるからだ。
 オレは渥美先輩と、今年の春に当真さん経由で知り合った。ボーダーの任務関係で相談をしに当真さんの教室へ行ったときに、先輩と一緒にいたのが渥美先輩だ。思えば当時もおやつを机に広げてオレに「食べる?」と勧めてくれていたし、当真さんは横からパクパク食べていた。もっというと当真さんだけではなく、同じクラスの先輩方も「ちょうだーい」と言いながらつまんで食べていたし、普段からおやつをよく人に勧めているようで。
 ぼんやりとしているオレに、今度は先輩が話しかけてきた。オレはボーダーに所属しているが、委員会は放課後も潰れてしまう。隊員としての活動は大丈夫なのかと心配してくれている。
「うちの学校とボーダーは提携してて、委員会とかに選ばれてもちゃんとボーダーを優先できるようにってなってるんです。委員会担当の先生がかわりに当番になってくれたり」
「……それは、最初からボーダーの人達が係にならないようには、できなかったのかな……?」
「あー……どうなんでしょう? クラスによっては隊員が多いところもあるでしょうし、もしかしたら回りきらないのかも……。たしかに、同じタイミングで係をすることになる人には迷惑かけちゃうかもなんですけど……」
「そっか……大変、だね? ……。なら、ぼくとペア組まない?」
「えっ」
「……?」
 まさか先輩から提案されるとは思わなかった。というか、さっきの話はまさかそういうフリみたいになってなかっただろうか?! まごつきながら先輩の表情を伺うが、先輩はあまり大きく表情を変えるタチではないので、あいにくオレにはその機微がよくわからない。うう、とすこし唸ってから先輩に尋ねる。
「い、いいんですか? さっきも言ったように、オレちょくちょく来れないときとか、出てきちゃうかもですし……」
「大丈夫。図書委員になるのは、今回が初めてっていうわけじゃないし……それに、代理の先生も来るんでしょ?」
 今度は先輩の気遣いに対し素直にうれしく思って、じゃあ、よろしくお願いします! とぺこりと頭を下げた。すると先輩はこちらこそ、と返してくれる。
 けれど、先輩と一緒の委員会当番。先輩が気遣ってくれたことはこれ以上ないほど沁みているし、嬉しさで浮足立っているのが自分でもわかる。
 ボーダーの仕事の関係で迷惑をかけるのとはまた違う理由で、委員会の仕事を休みにくくなってしまったと、残暑のせいだけではない頬の熱さに思うのだった。



 そんなこんなで、図書委員として初仕事の日がやってきた。とはいってもそう難しい作業はなく、基本的には昼休みと放課後の二回貸し借りの作業を行うだけだ。昼休みの間に先輩が一連の流れを改めて見せてくれたし、特にこれといった問題はない。放課後、ホームルームを終えたオレは図書室の扉を開け──る前に一旦立ち止まり、髪が乱れていないか軽くチェックをする。うん、問題ナシ。今日もセットが決まってる! ガラガラと引き戸を開けると、渥美先輩は既にカウンターの中にいた。
「先輩、お疲れ様です。はやいですね」
「佐鳥……お疲れ様。うん、うちのクラス、ホームルームも長引かない方だし……それに、ここから近い、から」
 そう言って先輩は持っていた本をバーコードにかざす。ホームルーム直後ということもあり、図書室を利用しに来ている生徒はせいぜい一人か二人しかいない。返却作業が溜まっているとは思えず表紙をのぞくと、それは先輩が昼休み中に読んでいた本で。
「……あれっ、その本もう読み終わったんですか」
「ああ……これ? うん、……五限はプリントだけ配られて自習だったし……面白くて、一気に読んじゃいたかったから」
 そう語る先輩はオレにもわかるぐらい満足げな表情だ。よっぽど面白い本だったのだろう。カウンターの内側に入りながら相槌を打ち、もう一度表紙を見る。あれ、作者の名前、どこかで見たことがあるような……。そんな感想をそのまま口に出すと、先輩の表情がわずかに息を呑んだ。すかさずカウンター後ろの机に置いた荷物から一冊を取り出して、オレに見えるように表紙を掲げる。
「同じ作者の作品で、今年の春ぐらいに映画化されたものなんだけど……。佐鳥は、知ってる、かな」
「あっ、知ってます。オレは見に行ってないんですけど、友達が面白かったって言ってたような」
 そのタイトルには見覚えがあった。確か、学園恋愛ものだったような……。うろおぼえのオレに先輩は頷いた。曰く、日常の少し不思議な事件を解決しながら、少しずつ主人公とヒロインの恋愛模様が進んでいくというストーリーのようだ。寡黙がちな先輩がやや饒舌に解説をしてくれている様子は熱が入っている。それだけその本が好きなのだということが伝わってきて自然とこちらの口元も緩んでしまう。ざっくりとしたストーリーしか知らなかったオレにもわかりやすく、かみ砕いて説明をしてくれた。
 単純なオレが今度映画をレンタルしてみようかな、という気にさっそくなっていると、一通り言い終えたあとで渥美先輩ははっとしたように口を閉ざした。
「……渥美先輩?」
「……一人で、熱くなっちゃった……」
「? 先輩のお話聞くのすごく面白いですよ。おすすめするの上手いですね」
「……、そう……? ありがとう」
 少し恥ずかしそうにうつむく渥美先輩は初めて見る姿だ。確かにあまり濃くはないとはいえ、今までの付き合いの中でも見たことがないほど熱の入った語り口だった。それほど夢中になっているということだろう。ちょっときゅーんとしたものを胸に感じていると、続いて先輩がオレに尋ねる。
「……佐鳥は、小説とかは読むの、?」
「うーん、たまにですかね……友達に借りたりとかはありますけど、自分からはあんまり。漫画の方が多いぐらいです」
「なるほど……」
「……、あの、先輩って、その作家さんがお好きなんですか?」
「? うん、この人の作品は……全部もってる、よ」
「じゃあ、もしよかったら、オススメとか……教えてもらったりとかって……いいですか? あんまり小説読まないオレでもいけそうなのとか、あればなんですけど」
 先輩が好きなものについて知りたい。というのが半分。単純に先輩の話をきいて興味がわいた、というのが半分。そう思って尋ねれば、先輩は少し考えてから顔を上げた。
「……この作者の文章は、読みやすい方だと思う。小説に慣れてないなら……短編集とかが、いいのかも。映画化した作品は漫画にもなってて、そっちも面白いから……また持ってくる、ね」
「ホントですかっ、ありがとうございます!」
「ううん、こちらこそ……うれしい」
 先輩はそういって目を細める。ぱっと見はクールに見える先輩だけれど、微笑むと周囲の空気が一気に柔らかくなったように思える。これはきっと、俺が先輩を贔屓に見ているからではない。きっと誰が見ても、彼の微笑みは綺麗だと思うに違いない。
 当真さんを尋ねにいくと、たいていいつも一緒にいる渥美先輩だけど、当真さんとも小説の話をするのだろうか? 当真さんにも特別読書をするようなイメージはないけれど、意外と読書家だったりするんだろうか。そう思って渥美先輩に聞くと、彼は首を横に振った。どちらかというと当真先輩とは漫画の話が多いらしい。それも少し意外だった。一応不要物に入ってしまうので教師からあまりいい顔はされない。とはいえ、教室で漫画を回し読みするのはよく見る光景だ。けれど、渥美先輩は漫画ではなくいつも小説を読んでいるイメージがあって、だからきっと漫画は好んで読まないものだと思っていたから。
 そう伝えると、先輩はああ、と小さく呟いてからオレに理由を話してくれた。
「……漫画は、一冊がすぐ読めちゃうから。小説の方が軽いし……。でも、回ってきたジャンプとかは、読んでるよ」
 さすが、昼休みから放課後までの間に小説を丸々一冊読破してしまうだけある。それとも先輩はなんでもないように言っているところを見るに、あまりオレが読書をしないから余計にそう思えるだけなのだろうか。
「当真とも本の話はするけど……その話になると、大体、ぼくの話を聞いてもらってることが多い、かな。……あいつは聞き上手、だと思うよ」
「へぇ~……」
 そう語る渥美先輩の表情は穏やかだ。好きなものの話になると口数が増えるらしい渥美先輩。先輩オススメの本を読めば、オレにもそういう話をしてくれるようになるのかな。
 そうなればいいな、なんて。



 渥美先輩が差し出したのは、書店のブックカバーがかけられた文庫本だった。受け取ると想像よりもずっと薄くて軽さに驚く。
「前に言ってた……本、だよ。読むのも返すのもいつでもいいから」
「わ、ほんとに持ってきてくださったんですね。ありがとうございます」
 紙をばらばらめくったり、ブックカバーの隙間から表紙を眺める。写真と明朝体のタイトルが載ったシンプルなデザインだ。
「短い話が三本ある短編集だから、普段あまり読まない人でも読みやすいと思う。……まあ、当真は無理だったみたいだけど……」
「当真先輩もチャレンジしたんですか」
 その時のことを思い出しているのか、先輩の目元は笑っている。
 もう一度手元に目を落とす。最初の一話分の厚みを確認して、確かにこれなら……読めるかもしれない。幸い渥美先輩はいつ返してもいいと言ってくれているし、せっかくだから挑戦してみるのもいいだろう。
「じゃあ、ありがたくお借りしますね! ちょっと長く借りちゃうかもしれませんけど……」
「うん、全然大丈夫だから、遠慮しないで」
 間違っても表紙が折れてしまわないよう、カバンの中に丁寧にしまう。
 家に帰ってから少し時間があったから本を聞いてみたけれど、オレが本を受け取ったときの、先輩のうれしそうな表情を思い出してしまって文字が頭に入ってこなかった。

「あれ、もう来てたんだ」
 嵐山隊の隊室で例の本を開いていると、とっきーが部屋に入ってきた。とっきーこと時枝充、オレの友人であり同じ嵐山隊のメンバーでもある。
 今日は哨戒任務ではなくて広報の仕事がある。根付さんが呼びに来るまで待機だし、指定の集合時間まではまだ余裕があるから本を読もうと思ったんだけど。でもとっきーが来てくれたし、と思って本を閉じる。クラスで面白いことがあったからそのこと話そうとしたけれど、それよりも先にとっきーがオレに話しかけた。
「賢が本読んでるの、珍しいね」
「あ、これ? うん、委員会の先輩に借りたんだ。オススメだって」
「そうなんだ」
 ブックカバーがあるからとっきーからはオレが何の本を持っているのかわからない。タイトルを聞かれて答えると、ああ、と納得したように彼はうなずいた。
「もしかして、この本読んだことある?」
 尋ねると彼は再びうなずいた。なるほど、とっきーはオレよりよっぽど読書家だ。きっと、渥美先輩が普段読んでいる本のいくつかは彼も読んでいるのだろう。オレはタイトルも作者名も、たまに聞いたことがある、かも? くらいだけれど。そうだ、と思いついてもう彼に質問をした。
「この本の最初の話って、どんな話だった?」
「賢が今読んでるんじゃないの?」
「そうだけど、ホントに読み始めたばっかりだからさ。それにオレはあんまり小説って読み慣れてないし……あらましを知っておいた方が読みやすいかもしれないじゃん?」
 これは、もしかすると名案じゃないだろうか。国語の教科書に載っている小説の中にも、何となく知っているものとまったく知らないものがある。ふたつを比較したときどちらが読みやすいかというと、きっと何となくでも知っている方に軍配が上がるはずだ。
 そう説明すると、とっきーも納得したのか大まかな内容を話してくれた。そのあらすじもオレに配慮してくれたのか、どういう展開になるんだろうと気になるところで区切られてしまって。彼がそこで口を閉ざしたことに驚いて続きは?! と催促すると、それは賢が確かめてみて。と本を指さした。とっきーは説明が上手だ。
 今ならすごいスピードで読み進められるかもしれない。そう感じてもう一度本を開いたところで、嵐山さんたちが部屋に入ってきた。ちょっと名残惜しいけれど後の楽しみが増えたと思うことにしよう。広報の仕事も仕事で楽しいんだし、本は決して逃げないのだから。



 昇降口で、オレは雨模様を眺めていた。午後からいきなり降り出した雨に、傘を持っていないオレ。ううん、低く唸って雨足をうかがう。ここから駅まで走って、教科書やノートは無事でいられるのか。答えは「だいぶアヤしい」である。
 先生からの頼まれごとをしていたから、いつもの下校時間から少し遅めになってしまった。頼れそうな知人友人はまだまだ部活に勤しんでいるか、すでに帰ってしまっているかの二パターンだ。体育着のジャージでなんとかカバーできないか、と模索しつつ、少し重めのため息をついた。
「……佐鳥、いま帰り?」
「へぁっ?! 渥美先輩?!」
 素っ頓狂な声を上げてしまった。振り向くと、階段から先輩が下りてきているところで、その手には傘が一本。今のオレには先輩に後光が射して見える。とても焦っていたところでの登場だったので、勢いに任せて手を合わせ頭を下げる。
「せんぱいっ、お願いです、オレを駅まで、傘に入れていってください!」
「……。……忘れちゃったんだ、いいよ、これ……どうぞ」
「! あ……ありが……っせ、せんぱい?」
 少しきょとん、とした後は迷うそぶりもなくオレに傘を渡した。まさに天の恵み! と言わんばかりにお礼の言葉を返そうとするが、傘をオレに預けたことと先輩が背を向けて階段に戻っていくのをみてオレは慌てて追いかける。
「渥美先輩? これ、ええと、傘……」
「……その傘、今日の天気予報見て持ってきて……、教室にも一本、置き傘がある、から。佐鳥は、……それ、使って」
「ええっ」
 用意周到な先輩はすごい……。とか言っている場合じゃなく、オレは焦っていた。先輩が背を向けた理由は分かったが、置き傘、ということはつまり折り畳み傘なわけで。傘を忘れたオレが立派な傘をこのまま借りるわけにはいかない! というべつの焦りに変わっていた。
 そんなことを先輩に伝えると、律儀だね、とのんびり返されたが、ただでさえ迷惑をかけているのにこれ以上してもらうわけにはいかないのだ。三年生の教室につき、ロッカーから傘を取り出すわずかな時間を待つ。図書委員の集まりの時にも思ったが、やはり上級生の階の廊下は、自分の学年の廊下とは少し変わった雰囲気があるように思える。場所によっては、雨で外が使えない運動部が屋内練習をしているとはいえ、放課後の人の少ない時間だから余計にそう思うのだろうか。
 ほどなくして先輩が戻ってくる。手に持っている傘を交換してまた階段を降りる途中、少し落ち着いたからか湧いてでてきた疑問を口に出した。
「渥美先輩は、今日は帰る時間がゆっくりなんですね?」
「うん、図書室で借りてた本が、あと少しだったから。……図書室に返してから、帰ろうと思って」
「そうだったんですか……。うう、その選択をしてくださって、ありがとうございました……」
「そんな、大げさな……。……ああ、でも、雨に濡れるのは大変、だもんね」
 そうして、再び昇降口についた。靴を履き替えると、心なしか先ほどよりも雨足が強くなっているような気がした。雨どいからは雨水が滴り落ち、コンクリートに跳ねては小さな飛沫があたりに散っている。先輩に続き、借りた傘をさせばバラバラと雨粒が派手な音を立ててどこかへ舞う。水たまりに気を付けながら、この天気で右往左往してたからこそ先輩と会うことができたけれど、帰りながらおしゃべりを楽しむ、という選択肢はとれないなと大きな水たまりを飛び越えながら思った。

 激しい雨足が遮るのは視界だけではない。濡れないようにと気を付ければ自然と歩幅はいつもよりも小さくなる。駅につき、やっと屋根のある場所だと息を吐きながら借り物の傘を畳んだ。足元に気を使いつつもやはり濡れることは避けられず、肌にぴったりと衣服が吸い付く不快な感触に眉をさげる。先輩も、ぬれた髪を整えたり、袖についた雫を払ったりとやはり被害は避けられなかったようだ。
「先輩、傘はまた今度、返しに伺いますね」
「……ああ、うん。いそがなくても、大丈夫だからね」
 手についた雫を振り払いながら先輩はそう返す。その光景を見ながらオレは、あることを思い出していた。懐かしくて、思わず笑い声をもらすと先輩はどうしたの、というように首をかしげる。
「ふふ、……春頃にも、こうして先輩から傘を借りたことを思い出して」
「……そういえば、そうだね」
「……って、度々おかりしてすみません。笑いごとではないですよね……」
「ううん……傘を貸すぐらい、なんでもないよ」
 そうだ。あの時も、渥美先輩は気にしないようにと同じことを言ってくれた。あの時点でオレと渥美先輩は、当真さんを介して何回か会ったことがあるかないかというぐらいの面識だったはずだ。

 五月のある日。梅雨に入りかけてじっとりとした湿気が肌をまとわりつくようになったあの季節。オレは同じように曇天を見上げて少しばかり重めのため息をついていた。



「……傘、忘れたの?」
 後ろから降ってきた声に振り向くと、最近顔見知りになったばかりの上級生が後ろにいた。片目にかかっている長めの前髪をよけた彼の名前を、なんとか頭の箪笥の中から引っ張り出す。
「ええと……渥美、先輩?」
「うん。きみは……佐鳥、だっけ」
「はい、佐鳥です! ……先輩がお察しの通り、傘、忘れてしまったんですよね……」
 しょんもりと肩を落とすと、先輩は手に持っていた傘をオレに差し出した。戸惑いつつも反射的に受け取ると、「それ、使いなよ」と促し、あわあわしているオレをよそにカバンの中からもう一つの折り畳み傘を取り出した。
「……に、二個持ち……ですか」
「こっちは、置き傘。今日は、雨が降るかもって……朝ニュースでいってた、から」
「なるほど……」
「あと、友達が使う予定だったんだけど……彼女と連絡が、とれたみたいで、二人で帰っていったから。……だから、それは、きみが使って?」
 あまり表情筋をせわしなく動かす人ではないらしく、渥美先輩の表情は少々読み取りづらい。ただ、これだけオレに傘をすすめてくれるのだし、経緯も話してくれたのだし、本当にオレが使ってしまってもいいのだということはわかる。傘を受け取ったままの中途半端な体勢からありがとうございます、とお礼を言うと先輩は頷いた。そして、傘を開こうとしてハッとする。
「お、オレが借りる立場ですし、折り畳みの方を使わせてください!」
「……そんなこと、気にしなくてもいいのに……」
 律儀だね、とつぶやいてから先輩は通学鞄から傘を取り出して、オレの持っている傘と交換した。ほぼ顔しか知らないような間柄にもかからわず、ためらうことなく傘を貸してくれる先輩。すごくいい人なんだな。と素直に思ったし、そういう人だからこそ、自分の持ってきたお菓子を人に分けることに対してためらいがないのだろうな、とも思った。
「オレが借りてるんですから、やっぱり気にしますって」
「そう? ……じゃあ、帰ろうか」
 ──…そう、その時、先輩はすこし微笑んでオレを振り返った。
 やけに主張するオレが面白かったのかもしれないし、もしくは特に意味なんてなかったかもしれない。
 とにかくオレは、渥美先輩のそのやわらかい笑みに目を奪われたのだ。
「……、」
「……佐鳥?」
 急に黙ったオレに先輩がどうしたのかと問いかける。慌てて首を振ってなんでもありません、と否定したが、なんでもないわけがない。バクバクとうるさい自分の胸に手を当ててはやく落ち付けようと深呼吸をするもうまくいかない。
 駅に着いたあとはなんとか平常心を装って先輩と別れたけれど、内心はどうしようもなくなっていた。今までいろんなタイプの女性に惹かれてきたオレだが、先輩は男性だ。背だってオレよりいくらか高くて、声も低く女性的な要素は感じられない。顔つきだって――いわゆるイケメンに部類されるぐらい綺麗に整ってはいるけれど、それも間違いなく男性的なものであるわけで。
 だけどどんなに反論を自分の中で作ったとしても、この高鳴りに関して心当たりのある感情といえば、一つしかないのだ。
「……もしかしてオレって、渥美先輩のこと……好きになっちゃった……?」
 ぼそりと呟けば、それが正解だとでもいうようにカッと熱くなる頬。
「うっそぉ……」
 まさか、ただ笑いかけられただけで好きになってしまうだなんて。
 あまりに信じられずに言葉が飛び出たが、そう悪いものだと感じているわけでもない。そんな風に思う自分に照れのようなものを覚え、じたじたともんどりうってはいたけれど。
 オレの呟きは誰にも届くことなく、雨音にかき消されてしまった。



 あれから数か月経った今、奇しくもほぼ同じ状況になっているのだ。自分の気持ちを自覚したあの日から、渥美先輩へのオレの気持ちは変わらずに、ずっと先輩の方を向いている。これまでも女性に対してかわいいと思ったりかっこいいと思ったり、様々な感情を持つことがあったし、いわゆる恋心に部類されるようなときめきを持ったことも数多くある。そのどれに対してもオレは本気だったし、その想いが通じることも通じないこともあった。その中で、男性が含まれたのは渥美先輩が初めてなのだ。
 今まで好きになった人たちと、渥美先輩。どちらへの気持ちが大きいとかそういう話ではない。まあ、話しかけるだけでも緊張で喉がカラカラになるなんて経験はほとんどしたことがなかったんだけど、それはきっと渥美先輩が先輩だからというのも大きいだろう。
 それにオレはあんなに女の子のことが好きだったのに、まさか男の人を、みたいな。自分でもそう思っているところはあるのかもしれない。いや、女の子のことが好きなのは今でもそうなのだけれど、なんて表現すれば的確なんだろう……。先輩だったらこういうとき、上手く心情を表現する言葉がでてくるのだろうか、なんて。またふと先輩のことを考えてしまう。
 自然に失恋するように、自然と別の人を好きになるように、もしかするとこの気持ちもしばらくすれば収まるのかもしれないと考えることもあった。けれどこの半年の間――性別に関係なく――オレは新しく誰かを好きになることはなかった。とにかく何が言いたいかというと、オレが今好きなのはつまり、渥美先輩ただ一人なわけで。
 ふ、と息をついて隣の先輩を横目で見る。水も滴るなんとやら……。雨に濡れている時も先輩はかっこよかった。見つめているのがバレてしまう前に口を開く。
「じゃあ、オレはこっちなので」
「うん……気を付けて帰ってね」
「ハイ、先輩も」
 会釈してホームへ向かった。藍色のストライプ柄の折り畳み傘からポタポタと雫が垂れるのを、夕方の混雑で誰かに当たってしまわないよう気を付けて歩く。
 今日先輩に会えたのは本当に偶然だったけれど、おかげで委員会の日だけと言わず、彼に会いに行くのに傘を返すという口実ができた。先輩に余計な手間を取らせてしまったということは十分にわかっているけれど。それでもオレは、ひっそりと喜んでしまうのだ。