蜜柑とアイスの共存

break tea time

dear


 その日は、雨が降っていた。昼前から本格的に降り出した空はどんよりと分厚い暗雲が立ち込め、いつもは客で混み合うカフェも通りを出歩く人々が減れば準じて少なくなる。雨のカーテンをくぐり抜けて訪れる客はそうそうおらず、ちょっとした解放感を覚えるほど店内は静かだった。
 朝から降っていないのならなおさら、傘を持っていない者も多いだろう。恋人の訪れを待っていたルーカも、今日はあまり期待せずにいた方がいいだろうと息を吐いた。それはそれとして、次に会える楽しみが募るので決して悪いことばかりではない。来客を知らせる扉の音に、いらっしゃいませと笑顔を乗せて客を振り返った。見慣れたストロベリーブロンドをみつけるとその笑顔はさらに華やぐ。
「いらっしゃいませ、いつもの席が空いているよ。どうぞ」
 傘を閉じたテオは服の裾がやや雨に濡れていた。今日は雨が強いからという世間話に頷いたテオに違和感を覚える。
「……テオ? 君、声が」
 彼の声色がいつもと違うことに気が付いたルーカは、いつもの席に案内して振り返ったところでぎょっとした。先ほどは彼がうつむいていたので気が付かなかったが、目元が赤く腫れている。
「ど、どうしたんだい?! こ、こんな……目が……」
「……あ、ええと……これは……」
 理由を説明しようと枯れた喉でテオが言うと、不安げに揺れていたルーカの瞳がさらに心配そうに歪められる。初めてみた彼の表情に思わず口を閉ざすと、ルーカは息を呑んでテオの目元に触れる。いつも通りテオよりも高い体温だ。
「──…とりあえず、その、大丈夫」
「何がだい。とりあえず、濡れタオルを持ってくるから…──」
「これは、嬉し泣きのあとだから」
 心配されているはずのテオが、驚くほどうろたえているルーカを安心させるように微笑んだ。そのかいあって多少は落ち着きを取り戻したルーカだが、今度は声が枯れるほど嬉し泣きをする出来事とはなんだろうか、という疑問が浮かぶ。それらをひとまずは何とか喉の奥に飲み込んで、ルーカは濡れタオルを用意しに厨房へと引っ込んだ。

「兄さんが帰ってきた?」
 雨天のため、他の客をしきりに気にする必要がないほど今日の来客は少なく、また暇そうにしているもう一人のホール担当がソワソワとしているルーカを追い払った。テオがいつも着く席は出入り口から見えない位置にあることも加わり、ルーカはこの時間、ホールの奥の接客を担当する、というていになった。ルーカはその提案をしたもう一人のホール担当に嬉々としてハグと投げキッス──それを相手は受け取ることは選ばず、あえなく叩き落とされた──を送り、奥の座席へと消える。
 そして、ルーカから渡されたタオルで目元を抑えているテオから、告げられた言葉をオウム返しに呟いた。
「うん、兄さんについて、前にも話したことがあるよね」
「……何年か前から、行方不明だったっていうお兄さんのこと、だよね?」
 確認するようにテオの表情をうかがう。テオはゆっくりと頷いた。
「それで、兄さん、ドイツにけじめをつけに戻ってきたって……。いままで日本に居たみたいで、そこでお世話になった人がいるらしくて……、その人のおかげで、こっちに戻ってくる気になったって言ってた」
「……そうなんだ……」
「僕がいま父さんの会社を継ぐために色々してるのを、手伝わせてくれって。……それを聞いて、久しぶりに兄さんと会えたことが、帰ってきてくれたことが、……っ、うれしくて……」
 兄との会話を思い出したのか、またぼろぼろと涙をこぼし始めるテオ。目元を冷やすために渡したタオルがその涙を吸っていく。一連の話を聞いたルーカはしみじみとそうなんだ、と同じ言葉を繰り返して、テオの顔にかかった前髪をよけた。
「また、お兄さんと会えたんだ……、よかったね。本当に、よかった」
 テオがどれほど兄のことを想っているのかは、以前の会話の様子や今のこの姿を見ればこれ以上ないほどに伝わってくる。彼の姿にルーカも鼻の奥にツンとくるものを感じながら彼の背中をさすった。なるべく落ち着けるようにとゆっくり撫ぜて彼にささやく。
「テオ、それ以上泣くと君の目が融けてしまいそうだよ。そろそろ俺に笑顔を見せてほしいな?」
 勿論、泣いてる君も魅力的だけれどね。最後に冗談めかして付け足すと、何言ってるの、と涙に濡れた笑い声が彼から漏れた。ぽろりとこぼれた涙を拭って、注文がまだだったことを思い出す。何か飲み物と食べられるものを持ってくるね、と告げて厨房へと向かった。

 ルーカが料理をもって戻ると、テオはもう泣き止んでいた。再び涙を流したことで店に入ってきた時よりも目元の赤みは増しているが、その表情は晴れ晴れとしている。
 きっと身体が雨で冷えてしまっているだろうと野菜がメインのスープを出し、飲み物もいつものコーヒーの代わりに別のものを用意した。喉を痛めているのに刺激物はいただけない。ふうふうとスープを冷ましつつ口に運ぶテオを見届けて、あまり見つめているのも食べづらいだろうと窓辺へ近づいた。先ほどとよりは幾分マシになった雨足だが、小雨と呼ぶにはまだまだ足音が激しすぎる。
 家を出るときはまだ降っていなかったため、傘をわすれたルーカは帰宅時間にもまだ降っていたらどうしようかと考えて、いつもは自宅で留守をしているオールメイトに迎えを頼もうかといまだ厚い雲に覆われている空にぼんやり思う。
 店の入り口から来客を知らせる音が鳴り、少ししてホール担当がこちらに顔を出した。どうやら時間切れのようだ。
「じゃあ、おれはもう戻るね、ごゆっくり」
「ルーカ」
「うん? なんだい、テオ」
「ありがとう、話を聞いてくれて。……一緒に喜んでくれて。すごく、嬉しい」
「……お礼を言われるようなことは何もしていないよ。でも、そうだね、……うん。どういたしまして」
「……あと、伝票が見当たらないんだけど」
「あれ、バレた? いいことがあった日くらい奢らせておくれよ。君の兄さんが帰ってきたお祝い、だよ」
 胸ポケットに入れていた伝票軽く示してウインクすると、何か言葉を続けようとしていたテオはしばらく迷って口を閉ざした。そうして、少し困ったように、だが嬉しそうにふわりと笑った。
「──…ありがとう、ルーカ」
「どういたしまして、テオ」


18/3/7