蜜柑とアイスの共存

break tea time

call you


 ルーカから連絡先を渡される、というアプローチを受けてからしばらく経った。その数日後訪れたカフェで連絡待ってるね、と直接言われてからも、しばらく経っている。しかしながらテオは、いまだにルーカに対して連絡をする、という行為には及んでいなかった。
 何故かと問われれば、単に彼がアプローチをしたのと同じだけの感情は持っていないからだ。店での様子を見ている限り、特に理由なく連絡をとっても素直に喜びそうな人物ではあるのだが、逆に言えば、テオの気持ちの上ではあまり簡単なことではなかったのだ。
 先日カードの意味を尋ねた時に連絡を待っていると言ったきり、ルーカは催促などは一切してこない。──…ただ、たまに目が合ったかと思うと、挨拶のように人知れずぱちりと片目を閉じたり、特別な笑顔を向けられたりしているというのは、きっと気のせいではないのだろうが。
(……今日も、ルーカはいるのかな)
 なんというか、心臓に悪い、というのか。テオがルーカが望むものを返せる保障はどこにもないのに、ルーカは懲りずに接してくる。嫌悪感があるというわけではない。ないのだが……逆に、ルーカのあの手馴れている感じは何なのだろうか。やはりラテン系だからなのか。
 なんて、シャイなラテン人も当然いることを知りつつ今日もテオは店へと入っていく。
 しかし、テオの考えに反してあの太陽のような笑顔の持ち主の姿は見られなかった。今日は休みなのだろうかと拍子抜けしたような気持ちでいつも通りの席に着き料理を待つ。彼のいない店内は心なしかいつもより静かな気がする。本来カフェはそういうものなのだろうが、ここしばらくは静かにコーヒーを楽しむというものとは少し異なる時間を過ごしていたため、むしろ違和感を覚えてしまう。
 そう考えると、ルーカにはかなり影響を受けているのかもしれない。その日は、久々のひっそりとした雰囲気を満喫することにした。

「あら? 今日もルーカはいないの?」
 後日再び店を訪れたテオは、先に店内にいた客のそんな言葉を聞きつけた。その客の対応にあたった店員が頷くと、女性客はやや不満そうに口をとがらせる。彼女の姿には見覚えがあった。いつも品のいい猫のオールメイトを連れており、テオと同じく常連客としてこの店をよく利用している。先ほどの言葉からもわかる通りルーカのファン、とでもいうのだろうか。親しげに会話しているのをよく目にする。
「なぁんだ、ルーカにマキアートを作ってもらおうと思ってたのに」
 とは言いつつもカフェは利用するらしく、カウンター席に腰かけてそのまま注文をした。テオはそこからやや離れたいつもの席に座りぼんやりと考える。
 ──…そうか、今日もルーカはいないのか。
 見慣れた顔を数日見ていないことに一抹の寂しさを覚える。彼からのアプローチはなんだかむずがゆくなるのだが、憎からず思っていることは確かなのだ。そこそこ長い間顔見知りをしていたこともあり、彼はすっかりこのカフェにはなくてはならないものだと思うようになっていた。
 出来立ての料理を持ってきたのは、ルーカと同じく顔見知りの店員だった。数日彼は店に顔を出していないようだが、その理由はなんなのだろうか。ただ休暇を取っている、というだけならばよいのだが、例えば病気に罹っているのだとしたら心配だ。そう考えはするものの、大して深刻に思っていなかったテオは店員から告げられた言葉に息を呑んだ。
「──…え? 国に帰った?」
「はい、彼の祖国……イタリアなのですが。前々から決まっていたことで……そういえば、お客様は彼と仲がいい様子でしたよね。聞いていませんでしたか?」
「ええと、それは……聞いて、ませんでした。……あれ、でも先ほどの女性も」
「先ほどの女性? ──…ああ、あの方ですね。そう言われてみれば、確かに……じゃあ、彼はお客様には伝えないようにしていたのかも……」
 店員がしまった、というような顔をする。多少仲がいいとはいえ店員の動向は立派な個人情報だ。それをむやみに口に出してしまったことに、そしてルーカが客に対して国に戻るということを伏せた心情を考えたのだろう。
「……あの、お客様」
「あ、いえ……すみません。もうこれ以上は聞きませんから。……他の方にも、言いません」
 言いづらそうにまごついた店員の態度を推しはかりそう言うと、彼は安堵と焦燥が混じった表情で礼を言って立ち去った。
 彼が国に帰った? 僕に何も伝えず、直前まで変わらずに接客をして? しかし、考えれば考えるほど、ルーカにはテオに国へと戻ることを伝えるほどの理由があったようには思えない。テオは彼のアプローチをかわし続けていたし、ましてや色よい返事など一言もしたことがない。しかし、それでも……顔見知りの店員と客という間柄でも、その話はしてほしかった。身勝手にもテオは強く感じた。しかし、店員には店の都合があるから当たり前として、おそらく自分よりも親密であろう先ほどの女性客にも伝えなかったのは何故なのだろうか。あくまでも店員と客。それだけの関係だからだろうか。
 せっかくのお気に入りのカフェでの食事なのに、今回ばかりは全く味を感じなかった。



 自宅へ帰り、両親との挨拶もそこそこにテオは自室へと足早に向かった。机から取り出したのは以前彼からもらった連絡先の書かれているカードで、彼は震える指でコイルを操作する。呼び出し音が鳴る中、テオは異様に緊張していた。この心拍の上昇は、単に急ぎ足でここまでたどり着いたことだけが理由ではないだろう。もしこの電話がつながらなかったら。もし、話すことさえ拒否されてしまったら?
 コールは鳴り続ける。実際どのくらいの間鳴り続けているのかはわからないが、テオにとってとても長いものだった。
 ブツッ、呼び出し音が強制的に止まった。彼はテオの呼び出しに応じなかった。
 それをやっと認識できた後、テオはようやく自分が息を止めていたことを思い出した。深く息を吸って、ゆっくり吐いて、そのままソファへと寝転ぶ。行儀が悪いが、いまはそんなことを気にしていられる余裕などなかった。
「……、……」
 思った以上に自分自身が落ち込んでいることに気が付いたテオは、再び大きく息を吸い込んだ。
「……、何してるんだろう、僕」
 心臓を落ち着かせて、のろのろと身体を起こしたところで電子音が鳴る。不意打ちにテオは肩を大きく震わせた。慌てて発信元を見ると先ほど入力したばかりの文字が並んでいた。指をもつれさせながらもなんとか通話ボタンを押すと、時計の針の音しかなかった部屋に賑やかな音が飛び込んでくる。人が大勢いる場所にいるのだろうか?
『Buona sera!』
「え、あれっ……」
 イタリア語だ。そういえば今日接客をしてくれた店員が、ルーカの祖国はイタリアだと言っていたのを思い出した。かろうじて同じ言葉を彼に返しつつも、そのあとに電話口から聞こえてくる彼の言葉は聞き取ることができなかった。言語は違えども聞き覚えのある声は、とても懐かしいものに思える。気を取り直して、少し息を吸った。スピーカーの向こう側から聞こえてくる音楽はとても陽気で楽しそうだ。
「……あの、こんばんは。僕です、テオドール……です」
『……、……きみ、……えっ、テオドール?!』
 少し間があき、心底驚いた、という声がキーンと響く。きっとその場にいる人たちと会話をしているのだろう、スピーカーから少し声が遠ざかり、陽気な音楽も一緒に遠ざかっていく。
『驚いた、君から連絡をもらえるなんて……うれしいよ、ありがとう』
「……、はい。あの……ええと、貴方は今イタリアに、戻られていると聞きましたが」
『うん? そうだよ、誰から聞いたの?』
「店員の、方に……」
『そっか、……ふふ、あのね、いますっごく楽しいんだ、久々に会うやつらも集まってさ』
「──…あの!」
 ルーカの言葉を遮るようにテオは言葉を荒げた。どうしたの? と尋ねる彼の言葉は真摯な響きを持っていたが、焦りを逆撫でされているように感じた。息を吐きだし呼吸を整えてから彼に尋ねる。
「……あの、ルーカは、もう、ずっとそちらに行ったまま、なんですか……?」
『……、……えっ、来週にはもうそっちに帰ってるよ?』
「……、……へ?」
 お互いが、お互い何を言っているのかよく理解できなかったのだろう、しばらくの沈黙が落ちる。ごちゃつく頭のなかを必死で整理しながら、テオはもう一度ルーカに尋ねた。
「貴方は、……祖国に帰ったと、聞きましたが」
『うん、そうだよ。今イタリアにいるんだ、ノンナ……祖母の誕生日祝いに』
「た……誕生、日……?」
「そう、誕生日。……ねぇ、君ほんとに誰から聞いたの?」
「……、……」
 絶句した。彼は、仕事を辞めてイタリアへ戻ったわけではなく、祖母の誕生日を祝うために数日間の休みを取っていたようだ。彼の事情を理解するや否や、感じていた焦燥や不安は羞恥へと変わっていく。とんでもない勘違いをしていた。恥ずかしくてたまらない、穴があったら入りたいとはこういうことか。テオは身をもって実感していた。
「……今回のこと、貴方と親しくしている客にも話していなかったみたいですが……それは何故……?」
『え? おかしいなぁ、ウチでは祖母の誕生日は毎年みんなで集まって祝うっていうのが恒例になってるから、楽しみで……店に来てくれる人たちにも結構話してたよ?』
「貴方と仲良くしている女性には……?」
『女性? 誰のこと?』
「ええと……いつも猫のオールメイトを連れている、ブロンドの」
『ああ、ニーナのことか! 彼女はね、おれが他の女性の話をすると、不機嫌そうに振舞うんだ。ほら、女性は笑顔が一番じゃないかい?』

 つまり、たまたまルーカが話をしていなかった客をきっかけに、店員が客にあまりそういう話をしていないという誤認をし、テオも中途半端な情報をもとに勘違いをしていた、と。では、何故テオはルーカからその話を聞いていなかったのだろうか? ルーカによれば、どちらかというと誕生日パーティーの話をした客の方が多いような口ぶりだったが。
「……僕も今日、初耳だったのですが」
『あー……それは、ごめんね。君と話したら、誕生日パーティーのこと以外もいろいろ話したくなってただろうから。……その、なんだい? おれが君をどれだけ好きか、とか』
「……っ」
 益々顔が赤く染まるのを感じた。少しバツが悪そうな口ぶりはいつもと少し雰囲気が違う。何故顔がこんなにも熱くなってしまうのか、何故彼が祖国に帰ってしまったと知ったときにあんなにモヤモヤとした気分だったのか、苦しかったのか。曇った気分が晴れた今、その理由は自分がよくわかっていた。彼に言葉を返せずにいると、畳みかけるようにルーカはテオへ声をかける。
『……テオドール、おれの連絡先、捨てないでいてくれてたんだね? とっても嬉しいよ』
「……」
『ねぇ、どうかな。君が良ければ、今度食事でも一緒に』
 今はまだイタリアにいるけど、来週にはもう帰ってるからさ。先ほどよりも幾分かトーンを落としてささやかれる声は、はにかんでいるようなやわらかい響きを持っていた。
「……テオ、」
『うん?』
「テオ、で、いいです。僕のことは、テオと呼んでください」
 はっと息を呑む音が聞こえてきた。続けて至極嬉しそうな笑い声も。彼がどんな表情をしているのかが思い浮かんだ。思い浮かべることが、できてしまった。
『うん、テオ! 君の名前がようやく呼べる。お土産も持っていくから、楽しみにしていてね!』
「……はい。えっ?! あの、お土産は、お構いなく」
『おれが持っていきたいんだ! ……あ、ごめん、もっと君と話していたいんだけど、そろそろ切らなくちゃ』
「ああ、はい、僕の方こそ突然電話なんて、すみませんでした」
『ううん、おれが君からの連絡を待ってるっていったんだから! 全然気にしないで、とっても嬉しいよ』
「……はい」
『……ね、今度はおれから君に電話してもいい?』
「……はい、勿論です。……待って、いますね」
『ああ! テオ、愛してるよ、Ciao!』
 そう彼が言ったのを最後に電話は切れた。わずかに聞こえていた音楽も途切れてしまい、部屋の中で響くのは時計の針の音のみとなってしまった。だが、それは寂しさを感じる静けさではない。
 脱力して、再びソファへと寝転んだ。まくし立てて話した訳でもないのに、なんとなく息が弾んでいる。
 彼に連絡してよかった。
 尚も整理のつききらないテオの考えをシンプルに表すならば、その一言だ。
 愛してるよ、と最後に彼から告げられた言葉を思い出して、火照る頬と心地よく高鳴る胸の温度にもう少し浸ろうと、テオはそっと目を伏せた。


18/3/5