蜜柑とアイスの共存

break tea time

break tea time


 昼下がり。ぽかぽかとした陽気がドイツの街並みを柔らかく照らしている。テオ──テオドールはいつも通り、仕事がひと段落したのを見計らっていつものカフェにいた。
 昼食を取りつつコーヒーを一口飲むと、深い香りが鼻腔をくすぐる。この店はコーヒーも料理も格別で、それを目当てにこのカフェを訪れる客が後を絶たないと最近雑誌にも取り上げられたらしい。かくいうテオも店のメニューに惹かれた内の一人だ。店内に流れるジャズミュージックに、周囲の人間のささやきが混ざる。ゆったりと時間が流れているように感じられる雰囲気も、このカフェを気に入っている理由の一つだ。
 そうして一人の時間を満喫していると、顔見知りのとある店員がテオのかけているテーブルへと近付いた。その手には小ぶりなケーキが乗っている。見上げると、彼はいつもの爛漫とした顔で笑った。
「こんにちは。これ、よかったら食べてみて」
「えっ……」
「いつもお仕事を頑張ってるお客様にサービス。……なーんてね。他のお客様には内緒だよ」
 テオが何か言葉を返す前に空になった皿と交換し、そして、彼はぱちりウィンクを残して新たに訪れた客の対応へと戻って行った。
 どういうことなのだろうか、とブルーベリーののった小ぶりなケーキを見下ろすと、皿とトレイの間に何かが挟まれていることに気がつく。店内に備え付けてある紙ナプキンとは別のものだ。それを開き、テオはわずかに目を見開く。
「……あの人の、連絡先……だよね」
 ルーカ・カブリーニという名前。そして、コイルのアドレスらしき文字の羅列。このケーキはサービス、と彼は先程言っていたが、きっとこの連絡先を渡すことが目的だったのだろう。
「……」
 慌てて彼の姿を探すが、彼は他の常連客と楽しげに話しておりこちらを振り向くような気配はない。再びケーキ、もとい連絡先と向き直りしばし首をかしげる。彼とは接客の一環としての範囲で会話をしたことはあるが、深く込み入った話をしたことはない。知っているのは、外見的特徴からみてラテン系だということ、彼が気さくで人好きのする性格であり、よく楽しげに客と会話をする人物だということ。頼りがいのあるルックスもあり、口元のほくろがセクシーだと女性客からよく声をかけられているということ。
 同じ常連客だとしても、テオよりも他の女性客の方がずっと高い頻度でルーカと会話をしており、より深く彼のことを知っているだろう。
 売り物のケーキ、意味深なウインク、忍ばされた連絡先。ここまでしておいて、ただ単に仲良くしましょう、というだけの意味である、なんてことはありえるのだろうか? 答えは否。それ以上の含みがあることは明らかだ。
 意味もなく紙を裏返したり、また戻したり。ぐるぐると考えだしたところでコイルが鳴った。もうじき仕事にもどらなければならない時間だ。ケーキをどうするか迷ってから、このままにしておくには勿体ないし、考えるよりも前に彼の意図を否定するように思えてしまい、結局は平らげた。わずかな酸味とクリームのほどよい甘さを残りのコーヒーで中和して、今度はルーカの姿を探さないように意識しながら彼は店を後にする。



 帰宅後、テオはカフェの店員――ルーカから預かった連絡先を眺めていた。彼の名前と連絡先。その個人情報があるだけで、他には一言もメッセージなどは添えられていない。
 ――確かに彼は、僕に向けてこのカードを渡したのだろうか?
 どうにも自分に意味深な感情が向けられているらしいことにピンと来ず、昼間その場で解消したはずの疑問がまたむくむくと起き上がる。テオは自身の恋愛経験の少なさを理解していた。幼少期より家の名に恥じぬよう教育を受けてきたし、兄が家を出てからはなおのこと己を律して色恋がどうこう、ということもなかったからだ。社交場で女性との出会いがなかったかと言えば嘘になるが、無碍にするほどではなくともそういう気にはなれなかった。
 正直戸惑いが大きいのが事実だ。いっそのことどういうつもりでこの連絡先を渡したのか、このアドレスにつなげて尋ねてみようか? ……いや、それではあらぬ期待をさせてしまうかもしれない。
 結局結論は出ず、テオはいつの間にか眠ってしまっていた。
 数日後、いつもより日を開けてテオは動物園近くのいつものカフェを訪れていた。ちょうど仕事が立て込んでいたというのもあるし、連絡先をもらってなんとなく気まずくなっていたのも事実なのだが、日を開けるほど行きづらくなるだろうということは理解していた。加えてそろそろこのカフェの料理が恋しくなってしまったのだ。オーダーを済ませていつもの席に腰かけていると、しばらくして料理が運ばれてくる。運んできたのはルーカだった。視線が合えば、にこりと明るい笑顔が返ってくる。これは、いつも通りだ。テオに限らずどの客にもしている、彼の中のデフォルトの接客。
「……あの、この前の、メッセージカードのことなんですけど」
「うん? ああ、よかった。もしかして、気が付いてなかったのかな? って」
 人好きのする表情で冗談めかして彼は言った。
「……僕が、あのカードを無視している、とかは考えなかったんですか?」
 あまりに裏表のない笑顔に見えたのでそう問いかけてから、意地の悪い物言いだということに気が付いた。慌てて発言を取り消そうとするが、彼はその言葉にも特に引っかかりを覚えていないという表情で答える。
「君がこうして話しかけてきてくれたんだから、少なくとも無視はされていないでしょ?」
「な……なるほど……?」
 自分に自信があるのか、物事を裏表なく直線的にとらえる人なのか、それともその両方なのか。テオはある種の感心を覚えていた。かと思えば。
「……でも、君は今まで毎日のようにここへ通って来てくれていたから、おれのせいで君が来なくなったら、どうしようかと思ってた」
 なんてしゅんと眉を下げたまま微笑む。少し気まずさはあったものの、早いうちに足を運んでおいて正解だったようだとほっと胸をなでおろした。これ以上日を開けていたら、きっとこの会話はもっと気まずいものになってしまっただろう。
「いえ、その……僕は、この店の料理が気に入っているので……」
「そう。店長に伝えておくね、きっと喜ぶよ」
 彼はそう言ってテオの席から離れようと──して、大事なことを言い忘れていた、と数歩行ったところを戻る。
「先日のカードのことだけどね」
 ぴくりとテオの肩が跳ねた。そう、テオはこれを尋ねるために彼を呼び止めたのだ。テオがこの話を持ち出さなければ、ルーカはきっと料理を置いてそのまま立ち去っていただろうから。
「君は、おれの目にとっても魅力的に映るんだ。もしよかったら、君がおれのことをいいなって思えるかどうか、考えておいてほしいな」
 連絡待ってるね。とウインク付きで言われてしまった。どうやら勘違いではなかったらしい。テオが曖昧にうなずくのを心底嬉しそうにほほ笑んだ彼は、今度こそ席を離れていった。


18/3/4