蜜柑とアイスの共存

ぼくのSubの二宮さんがあまりにもズルすぎる



 方々への報告が終わり、急ぎの仕事を終わらせた後。二人はケーキ屋に来ていた。話していたとおり二宮の誕生日を祝うためだ。そう遅くはないはずだがが、ケーキ屋としては閉店間際の時間に慌てて駆け込むことになってしまった。隙間の多いケースを眺め、一足先に入った柳瀬が振り返る。
「なにケーキがいいですか?」
「……柳瀬は何が食べたい」
「いやいや、二宮さんのお誕生日ケーキなんだから」
 そうは言ってもケーキにこだわりはなかった。大切なのは柳瀬が一緒に食べて祝ってくれるケーキだから。とはいえ知っていたとおり彼自身、好き嫌いなく食べる量こそ増えたものの、やはり食に対してこだわりというこだわりはないようだ。強いて言うならば春キャベツが好きだと前に上げていたが、今いるのはケーキ屋で。ついでに言うと季節は秋で、彼の好物はようやく種が蒔かれる時期だ。
 どうしたものかと考えていると、彼は小さく声を上げた。
「まだホールケーキある。他に気になるのがないならアレにしません? お誕生日っぽいでしょ」
 小さめの、三号のショートケーキだ。とはいえ二人で食べるには多いだろうか? いや、胃の許容量が増えた柳瀬ならば食べられるかもしれないし、残っても冷蔵すれば少しは持つはずだ。頷くと彼は張り切って待機していた店員に話しかけた。
「これください、あと、お名前プレートも付けてください。『まさたかくん』で」
「おい、待て。何でだ」
「お誕生日ケーキに付けないでいつ付けるって言うんですか」
「いつでもいらん」
「絶対いります」
 結局柳瀬に押し切られてしまった。店員からその様子を微笑ましげに眺められていたのがまたむず痒さを加速さえる。第三者から見て、自分たちは一体どういう関係に見えているのだろう。
 ケーキ代も自分で払うと言ったが「お誕生日なので」と一刀両断にされた。柳瀬にとって誕生日という理由付けは伝家の宝刀なのかもしれない。


「どうぞ」
 人感センサーで明るくなった玄関を上がる。ぱちぱちとリビング周りの電気を付け、その流れといった動きでラジオがついた。「あっ」と気付いて慌てて切ろうとするのを止める。
「どうせ付けたんだからそのままでいい。いつもそうしてるんだろう」
 気を遣って言ったわけでもないのに、柳瀬は嬉しそうににへっと笑った。少しだけ音量の下げられたそれをBGMにして尋ねる。
「いつも何聞いてるんだ?」
「ミカドFMがメインですね、嵐山隊のラジオもそこそこ聞いてて、あとは……ずっと音楽流してるところが多いです、リクエスト制の。散歩の時とか聞きながら歩くと楽しいんですよね~」
 にこにこと嬉しそうに語るのを聞き流しそうになって、しかし聞き逃さなかった。食事の用意を進める柳瀬におい、と声をかける。
「おまえ、外歩くときも耳塞いでんのか」
 指摘すればあからさまに余計なことを言ったという顔をした。懇々と説教をはじめるのを柳瀬は何とか阻止しようとしたが明らかに分が悪い。結果はやはりというべきか、もうしませんから! という言葉を引き出したあとにやっと食事をはじめた。言質は取った。
 食事自体は普通だけれど、やはりどこか特別感がある。浮ついているのを自覚しながら奇しくも加古の言葉通りになったなと思い出す。「なにも誕生日会は当日にしかやっちゃいけない決まりなんてないもの」。たしかにそうかもしれない。が、素直に頷くのは記憶の中だけだとしてもやはり癪だ。太ポップした女を脳内から追い出した。二人きりの時間を邪魔するんじゃないと言わんばかりに。

 食事も済み、いざケーキに挑む時が来た。買ったとき一緒についてきたろうそくを二本立てて火を付けて、一瞬だけ電気が落とされる。柳瀬の歌う張り切ったハッピーバースデーは、声色から楽しんでいることがこれでもかというほど伝わってくるけれど。二宮からすると嬉しいながらも中々に据わりの悪い時間だった。
 直接言葉で祝われはするものの、からかいがひとつもない歌はいつぶりだろうか。ここ数年は両親から歌を歌われた覚えもない。欲しいという意味ではなく、その分柳瀬から贈られたものが希有だという話だ。息を吹きかけてろうそくの火を消した。
 ケーキカット……とは言っても二人分で、さらに柳瀬がホールに近いまま食べたいと目を輝かせて言うので半分に切るだけだ。包丁を持つ彼を眺める。流麗な字で書かれた『まさたかくん』お名前プレートをつまみ、皿に置くかと思いきや――二宮の眼前へ差し出した。
「あーん」
 プレイ中でもないのに、パブロフの犬よろしく考えるよりも先に口が開く。プレートは長いため一口では食べきれない。半分ほどで力を込めて、バキリ、という大きな鈍い音の後にパキパキ、小気味のいい音が続いた。食べ落とした破片はちょうど皿の上に乗っている。床は汚していない。目の前の彼は、いつもの少年らしい無邪気な笑い方とは違う、二宮の輪郭を視線だけで撫でるような、どこか蠱惑的にも見える瞳で二宮を見つめていた。
 ぞわ、と背筋に甘い痺れが響く。想いを自覚しただけで、彼も同じ想いだと知っただけで、こんなにも影響が出るものだろうか。ましてやプレイでもないのに。
「っ、もう半分は、おまえが食え。全部は甘い」
 感想は本音だ。彼は素直に頷き、二宮が一口で食べた残りの半分をさらに二口で食べた。ふふ、と笑みが溢れる。すっかり年相応の表情に戻っていた。

 柔らかな甘さのショートケーキをつつきながら尋ねる。
「辻たちに聞いたんだが、やはりSubの勝手な行動を止めるのは事前の躾かGlareが有効だと」
 柳瀬はどきりとした。いつのまに尋ねていたのか、いや、それよりも彼にそこまでさせたのは柳瀬自身だ。動揺を気取られないように、努めて冷静に頷く。
「ぼくも、マサ先輩と柿崎さんにちゃんとGlare使えって話をされました。……練習、してもいい?」
「練習というか……実地だな。頼む。……だがその前にすることがある」
 一旦フォークを置いて鞄から取り出したのはA3用紙にプリントされた紙だ。そのタイトルを見て、柳瀬はぱちぱちと瞬きする。
「……これ、前にぼくが持って行ったのと同じやつですよね。プレイについての同意書」
「ああ。前回とは変わる箇所と……あと、見落としてたところがある。一旦書き直すべきだ」
 見落としてたところ? オウム返しにすると二宮の指先がある一点を示した。……。なるほどと柳瀬は頷き、慌てて柳瀬の端末から例の画像を探し出す。大きなバツ印の中にその項目は入っていた。
「たしかに、今までは関係なかったですけど……いりますね。これは」

 食べきれないかもしれないと思っていたケーキはクリームの甘さに飽きが来なかったこともあり、以外にも食べきれてしまった。一通り片付けたあと彼から渡されたボールペンを握る。前回記入したときと違うのは、二宮の家ではなく柳瀬の家で書いてるということ。そして、向かい合って座るのではなく、二宮の利き手の逆側にぴったりと柳瀬が位置していることだった。
「……近い」
「んぇ? ああ、ごめんね」
 腕を絡め、肩に頭を預けるように紙を見下ろしていた彼に声をかけると一瞬何のことかわからない、と言った様子で、しかしあっさりと腕はほどかれ身体も離された。その代わりのように、カウチソファに置かれたクッションを抱き込み、また紙を眺める。
「? 書かないの?」
 あまりにもあっさり離されるとそれはそれで名残惜しさが生まれる。自らの矛盾に内心で衝撃を受けつつ、そういえばラウンジや廊下ですれ違ったときも一緒にいた友人たちとは大概距離が近かったことを思い出す。前回記入したときは向かいに座っていたのもあるが、そこまでの距離感ではなかった。だが距離が近くなったとはいえ、この行動は恋人同士だから、つまり、相手が二宮だからという理由でなされた行動ではない。
「……おまえ、それ……誰にでもやるのか」
「へ?」
「やたらとひっつくのは」
「うん、仲いい人には? ……あっでも、そんな仲良くないとか、密着するの苦手っぽい人にはやってませんよ?!」
「……」
 それはそうなのだろうが。色々と──二宮自身も処理しきれない程度には複雑な気持ちを抱きつつ、ペンを持ち直した。まずはお互いの名前だ。
 大して内容は変わらないだろうと思っていたが、書き直すと意外にも内容が更新されていくことに気が付いた。勝手がわからず書きようのなかった好きなプレイは、柳瀬が気ままにコマンドするのが気に入っているとして。ご褒美は特に頭を撫でられることが心地いいと、隣で柳瀬に見られているにも関わらず、照れも躊躇いもなく書くことのできる自分にまた驚いた。
 すると柳瀬が膝をそわそわ揺らし、クッションをより強く抱きしめたのがわかる。喜んでいるのだ。そしてきっと、先ほどよりもさらに強く二宮とくっついていたいと思っている。
 意趣返しというわけではないが、彼の様子にちょっとした優越感を覚えた二宮は口元だけ笑みを浮かべ、また続きを記入していく。
「お仕置きは……結局、部屋の隅を向いて放置ってやり方でいいのか?」
「うーん……うん、そうだね。またやり方変えることもあるかもだけど、ひとまずは。あと、さっき話してたGlareかな」
 覚悟は決めたようだが、まだ少し怯えのようなものが残っているらしい。後で書き足せばいいのでGlareとはまだ書かずに、次の項目へ。セーフワード。
「……柳瀬」
「ん?」
「セーフワードを変える」
「おぁ~、なんかいいの思いつきました? いいですね、それにしましょう」
 確認も取らずにうなずいて、何にするの? と身を乗り出した彼をより近くに呼ぶため隣を叩く。ひっつきたいと思っていたから彼は嬉々としてすぐ隣に収まり、二宮は彼へ語りかけるように視線は紙へ向けたまま、彼のいる側へ首を傾けた。
「柳瀬」
「うん」
「セーフワードだ」
「……へ? あっ、ああ? ぼくの名字? ……えへへ、ふーん? セーフワードでもぼくの名前呼びたいの? なーんて……」
「そうだ。……なあ、いいだろう? たつき」
 冗談にしようとする彼の耳に吹き込むように囁いて、そしてこめかみにキスを落とした。ぎゃあ、と虫のつぶれたような悲鳴を上げながら、あからさまに身体を硬直させる。さらには抱きしめていたクッションを壁にするように、二宮の顔へ押し付けた。
「なに、急に、なに?!」
「ダメなのか」
「いいよ!!」
 ためらいのない承諾が返ってきた。少し肩を揺らしたあと、また机に向かってペンを走らせる。「なんなの、もぉ……」とへろへろの声で唸った彼はそのまま後ろに倒れこんだ。
「そんなのしなくてもさあ……いいよって言ったじゃん……」
 その声は天井に向かって放たれる。ただ二宮はちょっとしたいたずら心と、彼の好きなスキンシップを取ってやろうと思ったのだ。いささかやりすぎたようだけれど。

 それ以降は性的なコマンドの欄が並ぶが、前回と同じ轍を踏まないよう一つ一つチェックをつけていく。恋人とパートナーは同じ。そして、別のパートナーを持つか否かについて。二宮は気になってはいたもののずっと聞いていなかったことをついに尋ねた。
「たつき、」
 再び呼ばれた名前にどきりと心臓が跳ねる。DomとSubを入れ替えてプレイを行ったことを思い出したのだ。けれど今回はプレイの真似事ですらない。セーフワードを名字に変えたのは、つまりそういうことで。こんな呼び方の変え方ある? と、少女漫画でさえ読んだことのないやり口に、寝転んだままなぁに、と聞き返した。
「パートナーが他にもいると言ってたが、何人いるんだ」
 その問いに、ゆっくりと身体を起こした。指折り数えて、ええと、思い出しながら口を開く。
「ホントにたまにしかプレイしない人も含めて……五人かな。でも、二宮さんと正式にパートナーになったし、解消しようと思ってる」
「……俺には別のパートナーを許すのにか?」
「ぼくは二宮さんとは事情が違うもの。お互い他にもプレイする子はいる前提だし、絶対必要なわけじゃなくて……遊びの一つみたいな」
「……そうか。……どこまで、何をしたかは、聞いても?」
 う、と言葉を詰まらせた。ここにきて教えろという聞き方ではなくお伺いを立てるような言い方をするのは内容も相まってずるい。けれど恋人のプレイ歴が気になるという気持ちも理解ができるのでまごつきながら答えた。
「あーと……まぁ、ほぼ二宮さんにしてることと同じですよね。ハグとか、頭撫でたりとか……。……あと……ちゅーも、したことあります……」
 柳瀬のパートナーは二宮以外全員同年代だ。別に倫理的に同題があることをしているわけでもなく、ただ二宮が尋ねたことを正直に答えているだけなのに。柳瀬はどこか罪悪感にも似た何かを覚えてしまう。
「……それだけか?」
 二宮の声は涼やかで詰問するような色はまったくない。まっすぐに柳瀬をみつめる彼に、針山の上に立たされているような気分になった。視線を四方八方にうろつかせながら正直に答える。
「……たまに……盛り上がって……舌、とか入れたり……」
「……そうか」
 ふい、と視線が紙に戻った。柳瀬は焦って二の腕のあたりの服をつかんだ。先ほどのように機嫌がよくて、ひっつきたくて引っ付いているのとは違う。縋りついているという表現が正しい。
「……お、怒った?」
「怒ってない。おまえを責めようなんて思ってないから気にするな」
「そ、それ以上のことはしてないよ? ほんとに、しちゃいけないし、そもそも友達だし」
「わかってる」
 なるべく穏やかに聞こえるよう返事をしたが、いくら気になっても聞くべきではなかったかもしれない、と二宮は少し後悔していた。嫉妬するからではない。
 プレイはからきしだが、二宮だってそれなりに恋愛経験は重ねているのだし他人との性的な接触をしたこともおおよそ人並み程度にはある。しかしいくら二宮が気にしていないと言ったところで質問してしまった時点で柳瀬は引っ掛かっているだろうし、かといってわざわざ二宮の恋愛遍歴を語るのもよくないだろう。そうした場合、また別の方向から彼を追い詰めることになることは予想に容易い。
 柳瀬に尋ねたのは柳瀬に経験があったら嫌だとかそう言う感情ではない。そもそもキスのコマンドは、場所こそ二宮に選択権があったものの二回目のプレイで既に指示されていたのだ。他のパートナーと口でしていても、多少濃厚なものだったとしてもおかしくはないのだ。
 気になっていたのは確かだけれど、なければ嬉しいとかでもない。把握しておきたかった、というのが一番近いのかもしれないと、二宮はしばしの自問の末に行き着いた。

 しかしいくら二宮自身が納得したとして、このまま彼を放置して記入を進めるのもよくないだろう。ペンを置き、多少は体重が増えたかもしれないがまだまだ軽いままの彼を膝の上に乗せる。驚き声を上げる彼と額を合わせ、彼の瞬く瞳をじっと見つめた。
「本当に怒ってない……。余計なことを聞いて悪かった。……何に合わせるでもなく、俺とたつきのペースで進めればいい。違うか?」
「……ち、ちが、わ、ない……」
 首を振ったのを確認して、彼の頬にキスをして抱きしめた。柳瀬は安心したように身体の力を少しだけ抜いて、ぐりぐりと肩口に頭を押し付ける。少し唸った後、彼は控えめに主張した。
「ねえ、いまぼく、めちゃくちゃ……ちゅーしたいんだけど……」
「舌を入れないならいい」
「怒ってる?!」
「怒ってない。が、舌は入れない」
「……な、なんで?」
「まだ早い」
「うぅ~……友達とはしてるのに……」
 ふにゃふにゃとぐずる彼にしばし無言になる。早い、というのはやや語弊があるというか、二宮の見得のために少々飛躍した言葉だった。彼が大人になるまで手を出さないと言う言葉に偽りはない。が、手を出す出さないのふたつしか無いわけではないのだ。その間には無数の隔たりや忍耐、葛藤がある。やはり少し迷った後、二宮は重々しく口を開く。
「……言っただろう。俺はおまえが思ってるより、おまえのことが好きだと」
「……、」
「俺は……好きな奴には触りたいんだ。だが、まだそれは早い」
 二宮の答えを聞き、柳瀬は全身の血液が沸騰しそうだった。尋ねる前よりもさらにキスをしたい気持ちが増していくけれど、実行に移すわけにはいかない。すれば、絶対にそこまでしたくなってしまう。
 かといって身体を離すこともできないまま、二人はしばらくの間言葉もなく抱き合っていた。



 どちらも動くことは無く何も言わなかったが、二宮の腕の中で不意に柳瀬が身じろぎした。もう降りるだろうかと腕の力を緩めると、柳瀬が肩口から顔を上げて「あの、」伺うように尋ねる。
「ぼくは、結局……二宮さんにどこまで触れていいんですか」
「……今触れている範囲であれば、問題ないが」
 ううん、少し迷うように頭が揺れた。不満だろうか。これ以上となると無理なことはないにしても、色々と気を回す必要が出てくる。
「それも、あるんですけど。そっちじゃなくて……コマンドとか。前にキウイ食べたこと、あったじゃないですか。あれって二宮さんがやりたくてやったことじゃないんですよね」
 ぎくりとした。やりたくなかったことというと語弊がある──正しくは、やってはいけないことだったからだ。あれは、明らかに肉欲的なものだった。肉欲というと今抱き合っているのだってそうだけれど、あれはその比ではない。それに、柳瀬自身が大したことではないと考えているなら余計にああいった行為は危うい。
「……二宮さんにばっかり言わせるのはズルいと思うので、言いますね。あのとき、ぼくも……結構、ギリギリだったんです。その……元々ダメだって言ってた、コマンドを……したくなってしまった、というか。だから、二宮さんはお仕置きや躾を望みましたけど……本当に良くなかったのはぼくだったんです。ぼくのしたかったことを止めるために、あなたのせいにしたんです」
 柳瀬の手が二宮のシャツを握った。二宮は自分が手を出す出さないの話ばかりをしていたが、Domとしてコマンドを出せる以上、プレイの主導権を握っている以上その注意は柳瀬にだってされるべきなのだ。柳瀬が柿崎に言われたDomである以上二宮を守る必要があるという言葉は、二宮が暴走しそうになったとき止める必要があるという意味以外に、そういう側面も含んでいた。何より恋人であるならば、年齢差という超えられないものがあるにしろ……対等でいたいと考えているならば、お互いが気を付けて引くべき一線は引かなければならない。
 柳瀬の言わんとしていることを理解して、二宮は細く長く息を吐いた。彼は二宮が思うほど何も分かっていないわけではないようだ。
「……そうか。そうだな……」
「それに嫌なときは嫌だと、セーフワードも、ちゃんと、使って欲しいです。ぼくがちゃんとしなかったせいであんなことになっちゃいましたけど……使う理由がわかってるから、ぼくも無理矢理キス……した以上のショックは、もうないので……」
「わかった。おまえが過剰なコマンドをしたと思ったら、俺は迷わずセーフワードを使う。……逆に、俺からおまえに触れるようなことで……コマンド以上のことをしそうになったら、止める。というのはどうだ」
「……たしかに、そういう基準が一番わかりやすいですよね……。うん。それくらいがいい塩梅になりそう」
 彼の声は考え込むように浮ついてから、ややあって頷いた。互いが互いの抑止力になるのが恐らく一番いいのだろう。それぞれが耐えなければと考えてある程度は上手くいっていたが、ある程度を過ぎたところで瓦解したのだから。
「逆に、たつきは我慢してるプレイはないのか。プレイに入る前にいいかダメか判断しておくのも手だと思うが」
「え? ん~、基本的に好き勝手やってるのとおもうんですけど……あっ! 一個だけあります」
 耳を傾ける。同意書で明確にバツ印を付けたコマンド以外で、出来ることなら何でも叶えてやりたかった。……が、続けられた言葉にしばし二宮は固まった。
「二宮さんのこと、抱っこしたいです!」
「……おまえが、俺をか?」
 逆ならば、まさにこの状況を含めて結構な頻度でやっているが。体格差を考えると物理的に難しいだろうと渋面になるが、ずっと二宮の肩に預けていた身体を起こし、にっこりと頷いた。
「生身では無理ですけど、トリオン体なら楽々ですよ! 一番最初に二宮さんとプレイしたときだって、作戦室の前まで運んだんですから」
 そういえばそうだった。しかし、どうしてわざわざ自分のような上背の者にそうしたがるのか二宮は理解できなかった。どう答えたものかと悩んだところで柳瀬がしゅんとしたように伺う。
「……ダメ、ですか?」
「……、……換装するなら、ボーダー内でだ」
「やった! じゃあぼくの隊の作戦室、開けられるようにしておきますねっ」
 二宮は甘やかそうとしなくとも、柳瀬に十分甘いことにまだ気付いていない。



 気を取り直して、というか、のんびり抱き合っていたら電車があるうちに終わる気がしない。はっとして二宮の膝から降りた柳瀬は変わり身早く彼を急かした。
 とは言っても、それ以降はあまり変わった項目もなく比較的スムーズに記入を終えられた。今回は原本を柳瀬の手元に、二宮は写真をデータ保存することにした。
 今日のうちに済ませておきたいこと、残りはGlareの練習だけだ。
ラジオを消した柳瀬はソファへ座り、二宮はさらに一段腰を下ろして、クッションを座布団がわりに、カーペットの上へあぐらをかいていた。いつもとは見上げる側が逆になる。この方がやりやすい。
「はじめるね」
「ああ」
「セーフワードは?」
「柳瀬」
「ふふ、うん」
 早速だ。笑みを深くして呼吸を整えた。
 柳瀬がGlareを使うのはどんなときか、先ほどの会話を思い出しながら二宮は思案した。練習するのであれば、シチュエーションを似せた方がやりやすいし、いざという時も身体が動きやすいだろうと考えてのことだ。
「例えば……お仕置きか。俺が言うことを聞かなかったときに出すGlareは、おまえのコマンドを無視すればわかりやすいか」
「う……うん。そうだね、状況的に……。あと、二宮さんとのことに限らず……これまででぼくが怒った時のこととか、参考になるかな……」
「……、空き部屋でプレイをしたとき、たつきが萎縮してプレイにならなかったことがあっただろう、俺が立ち去ろうとしたとき……Glareを使おうとしてたんじゃないのか? すぐに感情ごと引っ込めたみたいだが」
「……ああ……」
 プレイの途中であるにもかかわらず、闖入者によってこれ以上のプレイは無理だと二宮は切り上げようとした。柳瀬がDomとしてのプライドを傷付けられたように感じ声を荒げてしまったときのことだ。あのときは自分や二宮個人の問題ではなく、どちらかというとDomとSubという属性で考えていたからああいう怒りに繋がったような気がする。結果的にプレイは続行でき威圧のGlareも放つことはなかったのだが、身勝手な感情の乱れに振り回された経験はあまり楽しい思い出とは言いがたい。
 そもそもGlareをむやみに人へぶつけることは避けるべきだと教えられてきたから、堪えることに慣れている柳瀬にとって瞬間的に、過剰でない範囲でGlareへぶつけることは心理的なハードルが高かった。だからこその実地訓練なのだが。下手をすると一気にSub dropまで落としてしまいかねない行為だけに心臓が嫌な音を立てる。
(……ううん、このためにマサ先輩は……)
 師匠の顔を思い浮かべる。ぶつけられたアレをいきなり二宮に試すことはためらわれる。緊張で乱れかけた息を整えるために口元に手を添えて、受けたGlareの半分くらいをイメージして、深く息を吸った。
「……匡貴、ぼくと目を合わせて」
 いつもの癖か、一瞬だけちらと柳瀬を見上げたがすぐに彼は視線を逸らした。Subがコマンドに従わない。セーフワードは使われていない。悪い子には、お仕置きをする必要がある。
 そういえば、お仕置きを受けたいがためにDomの気を引くことを目的として、わざとコマンドを無視するSubもいると聞いたことがある。どうしてこのタイミングで思い出したかはわからないが、柳瀬の方を一瞥してからわざわざ目をそらした二宮がそんなSubを彷彿とさせたのかもしれない。そう考えると──怒りよりも愛しさの方が勝った。
「……こら、」
 咎める声は甘かった。彼を呼びながら、調節したGlareを一瞬だけ飛ばす。二宮が息を呑み、視線がそらした場所に固定された。
「匡貴、こっち見て」
 ぐら、瞳がややぶれてから、道に迷ったように柳瀬を見上げる。彼と目を合わせたまま二宮の側頭部を包み込み、彼の頭を撫でながら目一杯褒めた。
「Glareびっくりしたね、耐えてくれてありがとう。ちゃんと目を合わせてくれたね……逸らされたときはドキドキしちゃった」
「……、……ああ……」
「痛くない?」
「いた……くは、ない」
「どんな感じした?」
「……想像してたほどの苦痛も、押さえ付けられる感じもしなかった。……真夏に、冷房の効いた部屋から炎天下に出たような……」
「十分ヤなやつじゃん、それ」
 くすくす笑いながら、もっと彼を褒めてあげたくてソファから腰を下ろした。彼の返答は思ったよりはっきりしているが、指先が冷えているようだ。
「……、」
 練習とは言ったけれど、やはりやめた方がいいだろうか。セーフワードの練習と違って柳瀬にはダメージがない分、加減がわからない。一応Glareをきちんと出せることはわかったのだし……。決意したにも関わらず怖気づいていると、二宮の冷えた指先が柳瀬の細腕をひとまとめにした。片手で柳瀬の両手首を拘束し、大儀そうに細長く息を吐く。
「抵抗してみろ」
「……? うん……」
 彼の意図がよくわからず、けれど言われた通りにしてみる。抵抗ということは、きっと拘束から抜け出せばいいのだろうと腕を引いてみた、が、二宮の指は外れないどころか柳瀬自身の腕すらろくに動かせない。
「っ、え、嘘ぉ……」
 どれだけ力を込めても二宮の拘束はびくともしない。徐々に意地になって押したり引いたりひねったりを繰り返すが、がっちりと固定されたままの腕はついぞ離れることはなかった。

 一通り試してやはり駄目だということを悟った彼を、二宮はぐいと引き倒す。背中にラグの柔らかい衝撃があり、そろそろと目を開けると柳瀬に覆いかぶさる二宮と、天井をゆったり回るシーリングファンが目に入った。
 頭上に持っていかれた腕は先ほど以上に動かない。ぱちぱち、瞬きを繰り返して二宮の顔をうかがえば、彼は表情の読めない瞳で柳瀬を見つめていた
「言っておくが、これでも本気じゃないからな」
「……う、ん……そ、そうだよね……」
 その言葉に柳瀬がうろたえて、しかしあざのことを思い出す。まったく痛みはなく、あれほどの力は感じない。柳瀬、呟くように呼ぶ二宮にはどこか凄みのようなものがあった。
「向き合ってる状態でもろくに抵抗できなかった。この体勢になればなおさらだ」
「っ、にのみやさん、なんっ……」
 二宮は空いた方の手で柳瀬の腹を服越しになぞった。驚き収縮するそこに指先を押し当て、揺れる瞳をとらえながらそのままへそを通り胸、喉、そして顎を伝って唇に到達する。
「やめ、……ぅひっ」
 いつもとは明らかに違う、痺れを纏わせる触れ方に柳瀬は身をすくませ、けれどはっきりと口にした。
「やっ……止まっ、て、ダメ!」
 顔を背け拒否をして、コマンドは正しく機能している。ぴくりと二宮が反応したが、振り切れないほどではない。二宮はまとめ上げている手にじわりと柳瀬の汗が浮くのを感じながら、それでもやはり止めなかった。
「コマンドは、その気になれば無視できる。多少煩わしさはあるが……なら、塞いじまえばいい」
「……!」
 二宮の指先が、半ば無理やり正面を向かせた柳瀬の口元を覆うその瞬間。部屋を一陣の風が吹き抜けたような気がした。全身の力が抜けて震えながら柳瀬の上に倒れこみ、二宮の関節という関節――自身の意志ではぴくりとも動かせない指先まで、嫌な音を立ててきしんでいるような気がする。
「……っはあ、あ、はあっ……」
 その下から何とかして這い出た柳瀬が大きく息を吐く。もうとっくにGlareは引っ込めていたが、柳瀬が影浦から受けたものと同じように余韻がひどいらしい。荒く上下させる二宮の背中を、彼の呼吸を乱さない速度で撫でさする。
「……ごめん、ごめんね……、ありがとう」
 二宮の意図は柳瀬にも伝わっていた。彼が怖気づいていることを二宮は気付いていたのだ。もし万が一のことがあれば、二宮は柳瀬を好きにできてしまう。片腕でやすやすと抑え込まれてしまったのがその証拠だ。だからこそ取り返しのつかないことになる前に二宮自身を止めろと示していた。

 手に伝わる呼吸が徐々に穏やかなものへ変わっていく。頃合いをうかがってこっち向ける? とコマンドを使えば彼はゆっくりと体を反転させた。滲んだ汗に張り付いた髪をよけて、いい子だねと囁きを繰り返す。ハンカチを取り出し彼の汗をぬぐえば彼は目を細めてほうっと安心したように息を吐いた。Glareにより無防備に剥ぎ取られた心には、Domから与えられる何もかもが深くしみこんでいく。
 汗も落ち着いたところで柳瀬はしてほしいことはあるかと尋ねた。ご提美の延長線だ。つらいコマンドに耐えたあとはとびきりのご褒美でねぎらってやる必要がある。威圧目的のGlareを浴びたともなるとなおさらだ。二宮は少し考えたあとに口を開いた。
「……キスを、」
「……、ん、いいよ。してあげる」
 寝そべる二宮へゆっくりと顔を近づければやがて、ちゅ、と小さなリップ音がした。それは発汗のせいか夕方に数回だけしたキスよりもずっとしっとりしたもので。柳瀬の危機感をあえて煽るためとはいえ、今の今まで密着していたのも相まって余計に生々しく感じてしまう。妙な照れから早々に身体を離し首まで赤くさせる彼を知ってか知らずか、二宮は足りないとでも言うように再び口を開いた。
「……、キスをしろと、……命令してくれ。コマンドされたい」
「……匡貴、ぼくに、キスして」
 乞われるままに言ったけれど、より顔が赤くなるのを自覚する。想いを確認しあった今、柳瀬が指示せずとも二宮がキスする場所は一つだった。
「……たつき、……」
 やはりゆっくりと上体を起こした二宮が柳瀬を呼んだ。その声が掠れているのは強烈なGlareを浴びたせいか、それとも別の理由があるのか。しっとりとした彼の唇の感触は柳瀬がした触れるだけのものよりも少し長かった。唇を離した後も二宮はじっと目の前の恋人を見つめ、やがて柳瀬の肩に頭を預けた。
 肌寒い気温に彼の体温が心地良い。二宮の体温にすり寄り背中へ手を回そうとしたところで、頭を持ち上げた二宮は柳瀬の頬へ唇を寄せた。
「わっ、……っふ、ふふ、くすぐったいよ……」
 そして断続的に行われる音、唇が引っ付くのに合わせて繰り返されるリップ音は、場所が違うからかそれほど羞恥心を煽るものではなかった。しかし、繰り返すそれは徐々にもう一度、柳瀬の唇へ向かっていることに気が付いてしまう。
 これは、このままでは、この頻度で唇にされてしまったらどうなってしまうかわからない。ほんの少し想像しただけで言いようのない強烈なむず痒さを感じた。
 そろそろご褒美には十分なはずだと止めようとしたところで。
 二宮の舌が、柳瀬の唇を、べろりと、
「っキス、って、言ったじゃん……!」
 一瞬固まりかけた思考が一周回ってGlareの存在を思い出させた。先ほどと全く同じように二宮の身体が硬直ののち弛緩し、柳瀬に向かって倒れ込んでくる。後ろ向きに倒れるよりずっといいが体格差の分だけ支えるだけで一苦労だ。ずり落ちそうになる彼の脇に手を差し込んで抱きつくように支えながら、落ち着かせるためケアをしていく。彼の目的はわかっているけれど、この場合必要なのはケアかお仕置きか、どちらかわからないくらい柳瀬は羞恥に混乱していた。
 今のは二宮が暴走したわけでもお仕置き目的にわざとコマンドを無視したわけでもない――否、強いていえば後者なのだが――柳瀬をGlareの行使に慣れさせるための行為だった。二宮へ言葉をかけながら、しかしふにゃふにゃと妙な鳴き声のようなものを上げる柳瀬に二宮はまた目を細めた。
「……たつき、」
「うん……なあに?」
「……俺はGlareを受けても、死ぬわけじゃない。……わかっただろ」
「……うん、」
 そう伝える彼は怠そうな発声だが、彼の持つ芯の強さがうかがえる。
「……おまえが望まないことはしない。おまえが望んでも、キス以上のことはしない。もしかするとその関係で、変に距離を取ったように思うこともあるかもしれない。だがもし不安になったら、言え。その度伝える。……たつきのことを、俺がどんなに思ってるか」
 それは熱烈な愛の告白だった。なんと返事したら良いのか分からず、ただ今は顔が見えない体勢で良かったと。返事の代わりに二宮の肩に顔をうずめることで答えた。

 二宮が手を回せばすっぽりと包み込まれてしまう。これではどちらが抱きしめているのかわからないと柳瀬はひっそりと笑い、すっかり穏やかな呼吸にもどった二宮へ声をかけた。
「……ねえ、もうちょっと落ち着いてからでいいんだけどさ。Glareのちゃんとした……正統派? な使い方も、してみたいんだけど……」
「うん……?」
 しかし二宮の返事が存外眠気を連想させるものだったので、慌ててオープンにしかけた要求を半分くらいに戻した。
「威圧とかお仕置きじゃなくて、プレイの、ご褒美の時に使うような……。ああ、いや、また今度会うときとかで、いいと思うんだけど」
「……いや、今日しよう。調節の加減も……この機会にしっかり慣れておいた方がいい」
 そう語る彼の声はやはりどこかまどろんでいる。やはりGlareを受けた疲労が出ているのだろうか?
 柳瀬は頷きながらもコマンドを用いて彼を待たせ紅茶を用意して様子をうかがう。二宮の世話を焼きながら、もう少し彼が落ち着くまで待つことにした。



 体勢はやはりやりやすいという理由で最初と同じ、二宮がラグとクッションの上に座り、柳瀬がソファへ浅く腰掛ける位置でスタートすることにした。
「匡貴、ぼくと目を合わせて、こっち見て」
 ぱち、と視線が合う。これから使うのは、同じGlareでも別種のものだ。柳瀬はラジオのチャンネルを合わせるように、音量のつまみを上げていくように。慎重にGlareの出力をひねっていくようイメージした。二宮はきっと、事故でもない限りGlareを浴びた経験もなかっただろう。
「どんな感じがする?」
「……、さっきより、ふわふわする……落ち着かない。なんだ、これ」
 ふ、と息が詰まったような音がする。少し混乱しているようだ。柳瀬は威圧目的でGlareを使っているわけではないが、慣れない感覚はやはり不安を覚えるらしい。
「怖い?」
「……いや」
 数秒考えて、目は合わせたままでゆるりと首を振った。
「……おそらくだが、すぐに慣れる」
 この数往復の会話の中でも既に、違和感は心地よさに変わりつつあった。二宮の様子をつぶさに確認しつつ柳瀬はGlareの量を増やしていく。Glareを──それも意識的に放つのは久々も久々だったが、影浦からぶつけられたそれは調子を思い出すのには十分だった。あれがなければ、ここまで上手く調節できていたか分からない。
「そう、答えてくれてありがとう。変な感じしたら教えてね」
「ああ」
 いつものように二宮の髪を撫でる。彼はソファにかけているためいつもより上の位置から来るそれを受け入れる。いつもと変わらないはずだ、けれど柳瀬の行為も言葉も、普段以上に二宮の深いところへ浸透していった。
「……、っは……、?」
 なんだこれは、そう思うけれど、あっという間に馴染んでいく感覚は十分に覚えのあるものだ。こもる息を吐き出して、まだ目は合わせたまま。このコマンドは続いている。柳瀬の、二宮を隅々まで観察するような眼差しが、視線の動きまでが全て見える。二宮から見えると言うことはつまり、柳瀬も二宮の動きが全て見えているということだ。視線の動きだけではない。表情も息遣いも全てだ。

(……いま、俺はどんな顔をしている? たつきは、何を思いながら俺を見ている?)

 考えれば考えるほどぞくぞくした。もっと己だけをみて、己だけのことを考えてほしいと思う。コマンドはいつまで続くのか、次のコマンドはいつ放たれるのか。期待してはじっと堪える。
 プレイの高揚感は酩酊感と似ている、と以前初めて飲酒した際に二宮は感じたが、Glareの影響はその比ではないようだ。きっと立ったままプレイを始めていたら、その場に座り込むか倒れるかしていただろう。次第に平衡感覚が狂い、意識がどこかに引きずり込まれそうになる。横になったらすぐにでも眠ってしまいそうな感覚、浮遊感。慣れない感覚に不安はあるけれど、でも、見つめている相手は柳瀬だ。このまま彼に全てをゆだねてしまっても大丈夫なのだから、楽になってしまえと頭の中で何かが囁く。さらに誘惑はどんどんと強くなっていく。
 甘美なめまいについぎゅっと目を瞑ってしまう。けれど柳瀬はそれを許さない。
「匡貴」
 短く名前だけを呼ばれた。目をそらしていいとは言われていない。はっとしてまた彼を見上げる。閉じそうになるまぶたを開き、じっと目を合わせたままでいる間にもどんどんとぐらつく感覚は強くなる。
「つらい?」
 尋ねられた。ばち、瞬きを彼がするたびに増していく未知の感覚。ひくつく喉で無理やり唾液を飲み込み、首を横に振った。
「つらくない、まだ、できる、」
 つらくはない、けれど、自分が座っていられているのかすら定かではなかった。それでも柳瀬と目が合っている。自分が彼を見ていて、彼も自分をみている。だから大丈夫だ、身体を投げ出されてなんかいないと安心できる。彼は二宮の灯台だった。
 彼の指先が二宮の頬へ触れた。それだけで気持ちがいい。なぞるように撫でられるのも、いつも彼が褒めるのと同じ動きで。無言でいるのに褒められていると錯覚してしまう。炭酸のようにぱちぱちと、歓喜の泡が無数に弾けては消え、また次々生まれていく。
「いい子」
 たったその一言で、また瞼を閉じてしまいそうになった。彼の声だけ聞いてひたすらに浸っていたい。けれど、彼から褒められるには彼のコマンドを守らねばならない。彼と見つめあうのも気持ちがいい。目を閉じたいと思う反面、瞬きすら勿体ないとも思う。これ以上ないほどに甘やかなジレンマだった。
「ぼくの言うとおりにできて、いい子だね、匡貴。かわいい、大好き」
 彼が囁くたび、二宮の口から細かな息遣いが声帯を震わせ逃げていく。返事をしようとしているのではない。勝手に出てしまうのだ。普段とは比べ物にならないほど二宮の思考回路や意識はどろどろになっている。柳瀬に一つ褒められるたび、指先が甘やかすたびに不安定さはなくなり身体のこわばりもとけていく。いつもなら「褒めすぎだ」と文句を言うくらい言葉を重ねられているが、今回ばかりはなにも言わなかった。そう考える余地すらないのかもしれない。

 柳瀬が深くソファへ座り直した。背もたれに身体を預け、彼自身慣れないGlareに少なからず興奮しているのか、息を震わせるように肩を揺らし両手を広げる。
「……そういえば、まだこれをやってなかったね。──匡貴、手を握って?」
 コマンドを受けわずかに冷静さが戻る。視線を下ろし、二宮の眼差しは柳瀬のゆるく開かれた両手へ注がれた。先ほどまで手を伸ばせば届く距離だったが、深く座り込んだことで少し遠くなってしまった。ソファへ乗り上げないと握れないだろう。
 そう考えている間にも彼から感じるGlareの量は確実に増えていき、なお二宮を包み込んでいる。彼とはわずかながらに距離があるはずなのに、まるで全身を抱きしめられているようだった。
 ごくり、知らずのうちに口内へたまっていた唾液を飲み込んだ。視線を彼の手元へ注いだまま緩慢な動きでクッションから腰を上げる。足の長いラグの上に手をつき、ふらついて倒れてしまわないようしっかりと指先に力を籠めた。一歩というにはあまりにも短い間隔だが、そのたびに二宮にまとう空気のようなものが揺れるのを感じる。二宮がコマンドを達成すべく行動するさまを見て柳瀬が喜んでいるのだと、なぜかはっきりと理解できた。
「……っ……」
 もっと彼を喜ばせたい。おまえのSubはここまでできるのだと、おまえの言うことを忠実に守れるのだとを証明してやりたい。彼の膝に手をかけた。途端、溢れだした彼からの喜色のGlareにめまいがする。決して不快なものではなくより二宮の意識をとろけさせるもので、思わず膝や肘から力が抜けそうになった。それもなんとか堪えてにじり寄る。
 ソファへ乗り上げて、やはりフラつかないように少しの間耐える。ついに彼の指先を捉えて、手繰り寄せるように握る。与えられたのは、ずっと二宮を包み込んでいたもの以上の抱擁と口付けだった。

 ありがとう、よくできたね、身体はつらくない? 彼が問いかけるたびにこたえようとするが、目からは相変わらず息が音になっていくだけで言葉らしい言葉は発することができない。変わりにうなずいたり、逆に首を振ることで意思表示をした。
 つらくはないが、自分で身体を動かそうとは思わない。彼の手を握るために立ち膝していたのが彼に声をかけられるたび、撫でられるたびに力が抜けてずるずると落ちていく。柳瀬も無理に体勢を整えさせるようなことはせず、彼が倒れこんでしまわないよう浅く座り直して、両足で二宮の身体を挟み込むように支えていた。
 彼の太ももに頭を預け、夢見心地で彼の声を聞く。彼の囁きは直接二宮の頭に響き、彼以外の音が世界から消え去ったように感じる。まるで世界で二人きりになったようだ。ずっとこのままこうして彼との時間に浸りきってしまいたいと考える。まどろみのような幸福な時間。
「Glareの練習、上手くいったよ。ありがとう」
「……、ん……」
 やはり返事というほどの返事はできない。多幸感に溢れたまま、目元をくすぐる彼の指先に目を閉じた。
「上手にぼくのGlare受け入れてくれたね」
 言って、目じりをぬぐわれた。知らずのうちに涙が滲んでいたらしい。Glareはもう放ち終えたのか、気が付けば二宮を包んでいた感覚は消えていた。けれどふわふわとした気分はそのままで思考力も戻ってこない。ただただ、彼と触れあうことが心地よい。
 もっと褒められたい、触られたい。彼からのコマンドなら何でもできるという気持ちになっていた。
「好き、匡貴、大好きだよ」
「…――、……」
 じんわりと熱さが灯った。息を吐くと、柳瀬は何かに気付いたように取り出したハンカチで二宮の口元をぬぐい、自らの太ももとの間に挟み込んだ。どうやら二宮は、口も満足に閉じられないほど脱力しているようだ。
 けれど羞恥心よりもずっと、このDomに──他でもない、柳瀬に世話を焼かれていることに満たされていく。
 彼の指が、手が、二宮を甘やかす。耳に触れ、肩をなぞり背中を抱き指先を握る。漂うようなこの心地よさをずっと味わっていたいと願っていた。
「ねえ、匡貴」
 柳瀬は内緒話をするように耳元で囁いた。それだけでため息のような吐息が漏れてしまう。二宮は何も発せなかったけれどその吐息が返事になったのか、彼は唇で二宮の耳殻をなぞった。続きを待っていたが、柳瀬は少し迷ったような動きをして、はじめに考えていたこととは別の言葉を告げる。
「──…、やっぱり後でにしよう」
「ぁ……、?」
「……匡貴、そろそろ戻っておいで」
「……、……」
 彼に呼ばれた。どこから、というのは言われずとも理解できた。深くに沈み込み、ゆらゆら揺れていた意識が一気に引き上げられる。

 ぱち、目を開けるとすぐ側で柳瀬が目を細めていた。二宮の思考は彼の言葉をきっかけにして、驚くほどすっきりしている。身体を起こして、いまのは、そう尋ねる前に柳瀬に抱きしめられた。
「おかえり! どう、気持ち悪いところとか、ない?」
「あ、ああ……。無い、が……」
「入れたねぇ」
「……今のは、」
「Sub spaceだよ、Glareがあれば、すっと入れちゃうこともあるんだね。今までそれっぽい感じなかったのに」
「……」
 呆然として、柳瀬の言葉に返すことが出来ない。身体を離した彼がふっと笑って二宮の口元に指を伸ばした。
「っ、いい……」
 はっとして顔を逸らす。拭ったのは渇き始めた唾液だ。
「……、やっぱり、ヤだった? Sub space入るの……」
 彼が気遣わしげに尋ねる。そうだ、二宮は柳瀬にSub spaceへ入りたくないと主張していたのだ。しかし戸惑っていたとはいえパートナーに相応しい態度ではなかった。
「いや、ちがう……すまない。……驚いただけだ。思っていたSub spaceと、違ったから……」
「あー、ええと……ぼくのこと、襲うみたいな、話?」
「……そうだ」
 しかし先ほどの様子からすると、二宮に柳瀬を襲うような余裕というか、余力のようなものがあるようには思えない。彼は終始脱力していて、後の方なんかは柳瀬の支えがなければ床へ崩れ落ちてしまっていただろう。全身で二宮を支えるのは、体格差の分重かったけれど頼られているようで嬉しかったし、かわいかった。口が半開きになって目がとろんとしていたところなんて、それだけ気持ちよくSub spaceに入れているということがわかる。柳瀬にとってはおつりがくるほど得るものが多かった。
 いつも以上に楽観的な見方になっているのは自覚しつつ、でも気にしすぎても仕方ないんだし、と言い訳をしながらフォローした。
「え~と……偶発的ではあったけど、とりあえずの懸念が一つは消えた……ってことで、いいんじゃない、かな?」
「……」
 簡単に言ってくれる。二宮は思った。しかし考えても知りようのないことではある。今回のことで柳瀬はGlareを自発的に使えるとがわかったのだし、トータルで言えば圧倒的にプラスなのも分かっている。
 大きく息を吐いて、それで? 二宮は尋ねた。
「後でにするって、何のことだ」
「うん?」
「Sub spaceから戻ってくる直前、何か言おうとしてただろ」
「ああ! へへ、えっとね。Sub space入ってるときに言ったら、コマンドみたいになっちゃうかなって思ったから言わなかったんだけど」
 柳瀬の人差し指が二宮の着ているシャツの襟ぐりに入り込む。彼の喉仏から始まり首筋を半周して、うっそりと微笑んだ。
「せっかく正式なパートナーになったんだし、誕生日プレゼント……って訳じゃないけど、Collar、ぼくからプレゼントしたいなぁって……いいかな?」
 Collar。パートナー関係にあるDomからSubに贈られるアクセサリーだ。原義は首輪だが、互いにCollarであると認識していればそれはCollarとなるため、代表的なものはチョーカーやブレスレットからはじまり、ミサンガや他にも指輪、ピアスなど選択肢は多岐にわたる。
 Collarを身につけていれば、Domと離れている間でもSubは安定し、頻繁なプレイが必要な者でも必要性は減ることが多い。Subが身につけているそれを見る度に、己のものであるとDomも満足できる。Collarは、DomとSub双方に精神的な充足をもたらすものだ。

「二宮さん、なんでも似合うと思うんだよね。何を付けるのかは……二宮さんが付けるものだから好みのものを選んでもらうとして……ぼくのSubなんだよっていう印を付けて欲しいんだ」
 どうかな? 首を傾げる柳瀬はまだ二宮の首元をなぞっている。つい官能が刺激されそうになり、手のひらごとつかんで止めさせた。でなければ彼の指示ですっきりしたはずのSub space中の熱までうっかりぶり返してしまいそうだった。
 気取られない様にひっそりと息を吐いて、柳瀬が不安に思わないよう指を絡ませる。嫌だから止めさせた訳ではないという意思表示だ。
「わかった。ただし、俺のCollarを選ぶのはおまえだ、たつき」
「……ん、いいの?」
「俺のDomはおまえだろう。俺がおまえのものであるという証なんだ、おまえが選べ」
 元はといえば柳瀬の「ぼくのSub」という発言が発端なのに、「俺のDom」という言葉を聞き柳瀬は律儀に顔を赤くさせる。身体を密着させても早々照れないのに、こういう所で照れるのはどうしてなのか。でもそんな彼がかわいくて、もう少しだけ困らせてやろうと二宮は挑発するように微笑んだ。
「さぞ、俺の気に入るCollarを贈ってくれるんだろうな? 俺のDomは」
 やはり所有格にドキリとしたあと、思った通り彼は焦りだした。
「そ、れは、勿論頑張るけどっ! ど、どういうのが好きかとかは聞いてもいいよね?!」
 これからしばらく、柳瀬は二宮に贈るCollarのことで頭がいっぱいになるのだろう。想像するだけで気分がいい。つかんだ指先を伝って腕を伸ばせば彼は易々と密着を許す。腕に力を込めると、すぐさま彼は嬉しそうな笑い声を上げて二宮の背中へ腕を回した。



「……ほ、ほんとに大丈夫、ちゃんと家まで帰れる?」
「……大丈夫だ」
 何度目かのやりとりにいい加減二宮はため息をつきそうになった。二宮の誕生日祝いも同意書の書き直しも、Glareの練習だって上手く行った。二宮がSub spaceに入ったために少し時間はかかったが、それでもボーダーで仕事が溜まっていればこの時間になることもある、という範囲に収まっていた。
 しかし、そう。まさにSub spaceに入ったことで柳瀬はしきりに彼を心配しているのだ。
「……別に、ぱやぱや、だったか? してないだろう」
「う、うーーーん……」
 おそらくぼうっとしている、くらいの意味合いなのだろう。彼の心配しているところは二宮が正常な意識のまま家に帰れるかどうからしい。今は大丈夫に見えても後からふらつく可能性がとか色々言っているが、終わりの見えない問答についにため息が出た。
「……やっぱり泊まってかない?」
「馬鹿、昨日の今日どころじゃないんだ。そんな簡単に言うな」
「簡単でもないけど……じゃあ、せめて駅まで送って……」
「何時だと思ってる」
「……」
 まだ十分電車もある時間とは言え、中学生が出歩くには遅い時間だ。柳瀬はこの時間でも一人で出歩くくらいはしているのだが、また藪蛇が見えていたため口を閉ざす。言えば問答無用で二宮が玄関から出て行ってしまうことは想像に難くなかった。
「……わかった、じゃあ家に着いたらメールする……それでいいだろ」
 あからさまにぐずる彼の、少し俯いた頭を撫でた。……そういえば、これは嫌だったんだか。そう思い手を離そうとしたとき、彼の頭が押し付けるように擦り寄ったのがわかった。
「……駅! こっちと、二宮さん家の最寄りに着いた時も送って!」
 こいつ、案外束縛するタイプか? 他人事のように頭の隅で考えた。心配性は元来の性格に由来しているのか、恋人・二宮相手だからなのかは追々確認していくとして。お互いの妥協点はそこだろうと頷いた。しかし彼は心底心配だ、というふうなため息をつく。ため息をつきたいのはこっちだ。
 彼の手が伸ばされたのを捉え、何かを言われるでも考えるでもなく、二宮からも無言で抱きしめていた。ハグが好きな彼に、やはり条件反射を作られている気がした。二人きりならいざ知らず、外では気を付けなければ。
 彼の背中は相変わらず小さくて薄くて悠々腕が回ってしまう。包み込むようにすると、ほぼ同時に彼の腕も二宮の背中に回った。
「また明日」
「うん……気をつけて帰ってね、おやすみ」


 二宮を見送ってからも落ち着かず、柳瀬は玄関や居間をうろうろしていた。二宮からのメールを知らせる通知にぱっと中身を開き、特に問題なく駅に着いたことを確認する。
 ふ、と息を吐いて一言添えた返信をした。やっと少し冷静になったけれど、それでもなお柳瀬はもし彼が公道で"ぱやぱや”してしまわないかどうか気が気ではなかった。確かに会話していた限りではその傾向はみられなかった。しかし、以前──まだ二宮がプレイ慣れしていないときに見たその状態の二宮は、今思い出しても、あまりにも、危うかった。
 当時はかろうじて顔見知りである彼への老婆心として、「鏡の前でトリガーオフするように」と注意したけれど今回の心配はその比ではない。本当ならば誰にも見られないよう閉じ込めてしまいたかった。
 と、そこまで考えて危険思想に一歩足を踏み込んでいることを自覚する。これは自分のSubを守るための行動──Defenseの一種なのだろうか? 二宮への心配だって杞憂で終わるだろうことは理解しているはずなのに、なんとも不毛な防衛反応だ。

 落ち着くために水を飲み、それでもやっぱり落ち着けないので切っていたラジオを再度つけ。けれど音声は右から左に通り過ぎていってしまう。
 やがて二通目のメールを着信した。一通目の文面とほぼ同じ最寄り駅についたという連絡。また少しほっとする。そして、面倒くさい要求だったことも自覚している。にも関わらず律儀にメールをよこす二宮に、少し余裕が出てきたことで、喜びと照れと愛しさが同時にこみ上げてきた。
 返信をすませ、やっと落ち着いてきたところで洗い物を片付けているとまた着信を知らせるために電話が鳴った。今回はメールではなく通話だ。もしや、何かあったのだろうか? ドキリとして濡れたままの手もろくにぬぐわないまま通話ボタンを押す。
「も、もしもし?」
「たつき、家についた」
「あ、……おかえりなさい……」
「……なんだそれ。ああ、ただいま」
 スピーカー越し、少しくぐもった笑い声が聞こえる。どうしてメールではなく通話なのかという疑間は声色にも乗っていたようで、柳瀬が尋ねるより先に二宮が答えた。
「……、それで? 言いつけを守ったご褒美はそれだけか?」
「え、あっ、……え?! コマンド、に、なってました?!」
「……」
 二宮は無言だ。さっきと違ってマイクにかかる息もないから彼がどんな表情をしているのかはわからない。しかし、やはりコマンドを使った覚えはなくあくまでもお願いの範疇であるはずだ。それでわざわざメールではなく通話をする意味とは。
 そこでやっと、彼の声はやはりいつも通りで、帰り道の間、何事もなかったらしいことに思い至った。その証明として二宮は柳瀬にメールではなく通話で直接連絡をとった。
 彼からの気遣いにやっと気が付き、一呼吸置いてから柳瀬は二宮へ語り掛けた。
「……ぼくのお願い、聞いてくれてありがとう。声もしっかりしてるみたいだね」
「気は済んだか?」
「うん、安心した。……ごめんね」
「……」
 沸いてきた罪悪感から謝罪が口をつく。少しの沈黙の後、ぼそりと言われた言葉は重々しいものだった。
「……これで少しは、俺の気持ちも理解してくれればいいんだがな」
「っあ、え? ……あ、ああ~……ハハ……、はい……」
 少し考えて思い至った、再三言われている「無茶をするな」「余計なことに首を突っ込むな」等々の言葉たち。身に覚えがありすぎるそれにさっきまでキリキリと締め付けられていた腹や胸のあたりをさすった。たしかにこれは、経験してみないとわからない気持ちかもしれない。
 急にバツが悪くなって言い淀む柳瀬に、またくぐもったため息が聞こえた。

「もう切るぞ。おまえもさっさと寝ろ」
「うん。二宮さん、あの……ありがとう、大好きだよ。おやすみなさい」
「……たつき」
「うん?」
「愛してる。……おやすみ」
「……、……びゃっ」
 かろうじて反応できたかどうかのところで通話が切れた。数分の通話時間を知らせる画面を見つめ、徐々に何が起こったか理解するにつれ、比例して顔に熱が集中する。
「……うぅ、なんなのあれぇ……、……かっこいい……ずるすぎる……」
 そして膝からずるずると崩れ落ちていく。柳瀬はしばらくの間、そこから動くことができなかった。





ぼくのSubの二宮さんがあまりにもズルすぎる【完】











後日談



 休日の駅前は人通りが多い。予定より早めに待ち合わせ場所へ着いた二宮は何をするでもなく改札の方を眺めていた。
 彼の長身であれば、人混みに紛れても悠々と辺りを見渡すことができる。とはいえ待ち合わせ相手は人混みにすっかり紛れてしまうから、探してもきっとわからないだろう。

 柿崎たちと話し合った後、作戦室に戻った二宮の顔を見て部下三人はあからさまにほっとしたような顔をしていた。
 理由を聞けば「カゲの手が出てたらどうしようって話してたんですよ」と脱力したように言った。どうやら心配をかけていたらしい。とはいえ二宮自身も、たとえ拳が飛んでこようとも柳瀬に対する責任の一つだと思っていたので、特に何も揉めることなく話し合いが終了したのは意外に思っていた。二宮が席を立っている間彼らの中でどういった話し合いがされていたのかはわからないままだが、柳瀬の表情からしても大きな問題はなかったのだろう。
 だからあの日以来影浦からの視線が鋭い気がするが、それくらいは必要経費と考えても安すぎるくらいだ。

 柳瀬と正式なパートナーになってからも二宮は、何かあった時のため三人目のプレイ相手探しを続けていた。三門大の教授とは、セッションこそしなくなったもののそれ以外の研究は協力を続けている。
 前回のやり取りでおおよその経緯は察したのだろう、深く突っ込まれることはなかったが「被験者のバイトはいつでも募集していますからね。……ボーダーの方がよっぽどお給料はいいでしょうけど」と冗談めかして言っていた。要は、また必要になったらいつでもセッションは可能だということだ。

 そういえば誕生日以来、時折加古が雑談の合間に「例の子とはどうなの?」と尋ねてくるようになった。その度におまえには関係ないと突っぱねているのだが、その度に東からの「何年の付き合いだと思ってるんだ」という言葉がリフレインする。加古とは以前東隊で同じく所属していたし、それこそ高校からの付き合いがある。東ほど情報は持ってないとはいえ彼の理論でいくと彼女もいずれ気付きかねない立場におり、そうでなくとも元より好奇心の強いタチをしている。加えて酒の席とはいえ(彼女はアルコールの顔は摂取していなかったが)不穏な事を言われたのだ。彼女が本気で言っていたわけではないと理解しつつも、二宮は警戒せずにはいられなかった。
 加古とはそりが合わないと普段から公言する二宮にとって、彼女は最も警戒する相手になっている。太刀川も同じく気は合わないが、戦闘以外に関しての勘はからきしだし大量に飲酒したせいで何も覚えていないだろう。そもそも興味もないはずだ。
 彼女に大学で話しかけられたとしても無視しようか……。そう思案する二宮は、会話の反応から二宮と〝例の子〟が、どうやら上手くいったらしいことを彼女はとっくに察していることに気が付いていない。


「二宮さん!」
 この半年の間ですっかり聞きなれた声に呼ばれた。声のした方へ顔を向けると、二宮のパートナーがにこにこと手を振りながら駆け寄ってきた。
「早く来れたと思ったのに。二宮さん早いですね」
「思ったより早く着いた」
「どこか入っててもよかったんですよ」
「そこまでじゃない」
「そっか。……あ、親に二宮さんの話したんですけど、予定より前倒しで帰ってくるって」
「……わかった。申し訳ない……が、ありがたい」
 彼が隣に来たのを確認して、移動しながら会話する。二宮と柳瀬はCollarを買いにいくため待ち合わせをしていた。柳瀬の提案した商業施設へ向かいながらそれで、と尋ねる。
「何にするのか決めたのか」
「えーとですね……ひとまず、チョーカーは向かないと思うんですよ。そもそも見せるためのアイテムだから。単にオシャレでつける人も大勢いますけど二宮さんはそういうタイプじゃないし……同じ理由で指輪とピアスもないかな、って思ってます」
「そうか」
「となると、ネックレスかアンクレット、しいていえばブレスレットくらいが候補になるんですけど……自分で外しちゃだめってなると、どうしても腕も足も邪魔になる気がするんですよね。アクセサリー慣れしてないなら尚更」
 ふ、と口角が上がるのを感じた。Collarの着脱をSub自身が行ってもいいかどうかはパートナー間の取り決めによる。何があっても外してはいけないと決める者もいれば、会えないときだけつけていればいいと決める者もいる。柳瀬は「どうしてもとは言わないけれど、できる限りつけてほしいし着脱も自分がしたい」タイプだった。その反面、つけている間の快適さは気にしている。
 逆に、多少邪魔になるくらいなら二宮は構わないと思っていた。稼働の多い箇所につけるアクセサリーは素材に気を遣う必要があるがその分意識する機会も多く、より彼を近くに感じることができるだろう。
 一部の者を除いて二人の関係は隠しており、また二宮は自身のダイナミクス性を隠しているというほどではないにしろ、わざわざ喧伝することでもないと思っているため他人から見えない箇所にCollarをつけるという意見は二人の間で一致していた。
「だからやっぱり、隠しやすいネックレスが一番いいかなって。二宮さん襟のある服よく着てるし」
 二宮から〝ヒント〟……好みのものを聞き出した後、懸命に答えたのだろう考えに耳を傾けて彼は相槌を打つ。
 柳瀬が言った通り普段の二宮に飾り気はない。普段から好んで身に着けるアクセサリーの類はなく、強いて言えば腕時計くらいか。着るものだってデザイン性のあるものよりはシンプルなものをより好む傾向にあった。
 だから実のところ、柳瀬がどのようなデザインのものを選ぶかというよりは、柳瀬が考え抜いて選んだものがどんなものになるか、というのが二宮の楽しみだった。
 ネックレスであれば、アクセサリーショップに限らずどの店にも置いてある。ずっと身に着けることを想定しているためやはり素材に気を遣う必要はあるが選択肢は多い。
 いくつか事前に見せられ好みを答えたアクセサリーの写真は、店選びに使われたのだろう。段取りよく、こことそこ、あとはここに行きます、指さされた聞きなれないショップ名に反対する理由もなくうなずくと、彼は二宮を仰ぎ振り返って宣言する。
「二宮さんに似合うCollar、ぼくがちゃんと選んでみせますからね!」
「……ああ、期待してる」
 気合を入れ張り切る様子の彼に、知らず頬が緩んだ。


2023/06/25
加筆:2023/07/02