蜜柑とアイスの共存

ぼくのSubの二宮さんがあまりにもズルすぎる


最後のプレイ

※二宮さん(19歳)と夢主(13歳)の合意のほっぺキスと非合意のキスがあります


 二宮から打診されて是と返した日付まではあっという間だった。やってきてほしくない日ほど早くくるというのもあるが、純粋にランク戦から始まり隊員募集、諸々の追加提出書類なりとやることは山ほどあった。純粋に忙しかったのだ。ここしばらくは趣味の散歩も"人助け"のために徘徊する時間をとることもできずに、防衛任務と試合対策の反復。その合間に授業を受け、家にはほぼご飯を食べ寝に帰るだけという状態になっていた。充実しているといえば聞こえはいいし実際楽しんでいるのは確かなのだが、これで高校生や大学生はどういう生活を送っているのだろうかと首を捻るばかりだ。フリーのB級でいた頃に暇をしすぎていたと言われれば、たしかにそうなのかもしれないが。

 いつも通り駅まで迎えにきた二宮は驚くほど変わりなかった。表情筋をあまり動かしていなさそうな顔も、柳瀬への態度も。上位帯の試合は時間の許す限りチェックしていたため、二宮隊は相変わらず一位をキープし続けているということは知っている。彼は何も変わっていない。
 いざ自分が参加してみると距離の遠さに目眩がする。柳瀬隊は、中位帯をうろうろしつつたまに下位帯に落ちるというのを繰り返していた。三つ巴、四つ巴ルールのB級ランク戦においてはチームワークが何よりも重要だ。味方の援護が望めない柳瀬隊は、できたての隊ということもありまず真っ先に狙われる立場にあった。けれど戦闘員が同じく一人の漆間隊がいるため、戦闘スタイルが違うという点を差し引いても隊員が一人きりだからという言い訳は通用しない。加えて氷見が紹介したオペレーターは優秀で、氷見に負けず劣らずのオペレーション能力を有している。となればこの結果は純粋に、柳瀬の力不足だ。
『柳瀬隊長は攻撃を重視しすぎて防御を疎かにするきらいがありますね。得点は確かに重要ですが、自分の継戦能力をより第一に考えて行動すれば、もっと上に行けるはずです』
 前回のラウンドで解説に来ていた村上からの評だ。その弱点は自分でも分かっているし、再三オペレーターにも言われていることだった。実際、オペレーターに警告されなければ更に前のめりになって落とされていた場面も数多くあった。
 師匠である影浦と同じく柳瀬もサイドエフェクトを持っているが、内容は全く別種のものだ。影浦も大概剥き身で戦場を駆け抜けているが、柳瀬が同じことをしても村上から評されたように落とされる場面が増えるだけなのは目に見えている。以前かげうらでレイガストをオススメされたことを思い出し、むむ、と眉間にしわを寄せて防御について考える日々が続いていた。

「最近、うちの作戦室に来ないな」
「へっ? あ、ああ。どうにも忙しくて……けど、元々そんなに行ってた訳でもないじゃないですか」
 柳瀬が思考に耽っていたのもありどちらも無言のまま歩いていたが、不意に二宮が訪ねてきたのに返す。嘘はついていない。そういえば、二宮隊の他の三人は柳瀬隊の作戦室を訪れたにも関わらず二宮は未だに来たことがないことを思い出した。一回くらいは来てくれてもいいのになとは思うが、よくよく思い返せば二宮から柳瀬を訪ねてきたのはプレイが急務な切羽詰まった状況だけだ。これ以上深く考えようとすると落ち込んでくるので、意識的に視界へ集中する。やっぱりこの地域は猫が多くていい。
「あそこの猫、前もいましたよね。このあたりが縄張りなのかな」
 民家の塀の隙間、香箱座りをしているサビ柄の猫を指しながら話を振った。遅れて覗き込んだ二宮は吐息のように同意を返し、そしてつい、と視線を猫から柳瀬へ向ける。
「……おまえは、自分の目に頼りすぎだ」
「はい……?」
 突然の駄目出しに気の抜けた声が出てしまった。柳瀬がぽかんとしている間にも二宮は構わず言葉を続ける。
「攻撃を当てるために踏み込みすぎだ。煙幕でも壁越しでも相手の位置が分かるのは利点だが、おまえのサイドエフェクトはもう周知されつつあるんだ。那須隊と当たったとき落とされたのは、迷わず攻撃を当てにくるのを読まれてたからだろ」
「……」
「それにフェイントの入れ方も甘い。読まれることも計算に入れて動かないとこの先…──おい、聞いてんのか」
「……は、はいっ、聞いてます」
 どうやら彼は猫探しについてではなく、ランク戦についての批評をしているようだ。彼の言葉は、実際解説や隊の反省会でも指摘された箇所と重なる。煙幕越しの攻撃によって、ストレートに落とされたのは那須隊との試合が初めてだが、実際これまでにも何度か危ないシーンはあった。他にも二宮からの意見はどれも的確で、彼は今でこそ懲罰でB級に落ちているが間違いなくA級部隊の隊長だったことを伺わせる。戦術についてやっと勉強を始めた柳瀬の考えつくことなどとっくに了解しているのだろう。しかし、二宮がいつになくわかりやすいアドバイスをくれたこと自体に驚いたのもあるが、柳瀬が気を取られたのはそこだけではない。柳瀬の参加した戦闘のシーン一つひとつを二宮が詳細に記憶しているところにあった。
「……二宮さん、ぼくの出てる試合……全部チェックしてくれてたり……します……?」
 期待なのか緊張なのか、自分でもよくわからない理由で心臓が飛び跳ねる。今日限りで二宮とはまともに会うのをやめにしようと思っていたはずなのに。思っている、はずなのに。

 二宮は柳瀬の問いに眉を寄せた。実際にはすべてではないが可能な限りは見ていたし、太刀川や加古が解説を担当した試合があれば詳細を尋ねたりもした。これは柳瀬が隊を作るきっかけとなった辻や氷見も彼を気にして同じような行動を取っていたから何もおかしなことはないはずだ。
「全部は無理だ……。そもそもは、おまえが言ってたことだろ」
「あっ、まあそうですよね。……言ってたこと?」
「俺の隊に追いつくだとか」
「ああー……そっちですね……」
「? 他に何があるんだ」
「や、ない。ないです、なんでも」
 彼は顔を俯かせて、勢いよく首を横に振った。いつにも増して百面相が激しい彼に内心首を傾げるが、柳瀬は喜んでいいやら何やらで表情筋の使い方すらよく分からなくなり始めていた。いや、でも、二宮からの戦闘アドバイスはこれ以上ないくらいに有用だし貴重なものだから、話してもらえるのなら聞けるだけ聞いておきたい。それは間違いない。
「それに、おまえの戦術もあるが……戦闘員一人で上位に行くのもそう簡単じゃないだろ」
「! そうなんです! それがついこないだ……あっ……、それについては……待て次回、ということで……」
 かと思えばぱっと顔を上げて熱弁しようとした勢いが、あっというまにしゅるしゅると萎んでいく。二宮はあえて確認をとらなかったが、つまり、次の試合までに戦闘員が増えることを意味していた。まだ二宮隊の順位には遠く及ばないとはいえ競争相手に情報を与えないのは戦術として基本中の基本で、しかしそのあまりの露骨さに二宮はどうしたものかと閉口する。けれど人数について話し始めたのは二宮なので、直な指摘も口に出しにくい。
 結局、柳瀬の戦いぶりを含めた批評をまた二、三個追加で話したところではた、と柳瀬がテストの答案用紙を持ってきたときのことを思い出した。今の彼はしっかりと二宮の話を聞いているように見えるし、そこまで落ち込んでいるようには見えない。しかし、あのときも二宮は柳瀬の様子に気付かず解答直しと思い込んだまま話を進めていたのだ。その反省として、彼の行動の中で評価できる点を思い出してみる。……。
「……、」
「あっ、ちょっと待ってください二宮さん」
「……なんだ」
 しかし、口を開きかけたところで当の本人に止められてしまった。彼は顔の前に両手でガードを作っている。歩くときの距離が心なしかいつもより遠く感じることといい、あまり目が合わないことといい、やたらと彼の言動に壁を感じるのははたして気のせいだろうか。
「いま、ぼくのこと褒めてくれようとしました? 違ったらいいんですけど、今のところ二宮さんから褒めてもらえるようなところ一個もないので、褒めないでください。その……学校の勉強と、ボーダーは、違う話なので」
「……そうか」
「でも、ありがとうございます」
 いくら学年差があれど経験の差があれど、ボーダーでは同じ隊員だ。そう考えるとたしかに彼の意見は筋が通っているだろう。深々と礼を述べる柳瀬の後頭部を見つめながら、そんなに深く考えることでもなかったのかもしれない、と。自宅の扉を開き柳瀬を招いた。



「セーフワードは?」
「Red」
「うん。じゃあ、そうだな……手を握ってくれる?」
 最後のプレイなのは二人とも了解しており、そして二人とも変わりなくプレイに進んだ。一つめはお決まりの簡単な指示だけ。ローテーブルを避けて、クッションを敷いて向かい合う状態で両手のひらを差し出せば彼はためらいなく柳瀬の手を握った。相変わらず大きな手だ。骨張っていて、節々の凹凸がはっきりしている。指と指をからめてきゅっと握る。ありがとう、そう褒めればわずかに彼の頭が揺れた。
 新しく見つかったという二宮のプレイ相手は──三門大でダイナミクスを研究している教授らしい。聞いていた通り相手方とのセッションは順調に進み、問題なくプレイが可能だと確認できたようだ。教授というからには年齢は二宮よりもさらに年上なのだろう。であれば柳瀬相手には出来なかったプレイも当然できるということだ。二宮はSub spaceに興味がないらしいから、他のプレイだってどこまでを求めるのかは知らないけれど。ダイナミクスの研究に協力する代わりにプレイに応じてもらえるという話もしていた。具体的に何をするのだろう。心配だ、と感じるのは、一般論的な心配ではなくて、執着しているSubへの独占欲なのか、もう自分では分からなくなっていた。
 いくつかコマンドを出して、そのすべてに二宮は応えてみせた。ぎゅうと抱きしめて頭を撫でると、彼は安心したように息を吐く。この温かな時間も今日で終わりなのかと思うと柳瀬の胸は締め付けられるばかりだった。
「匡貴、ハグして」
 つい逸らしがちだった視線も、プレイ中なら真っ直ぐ見つめることが出来る。ゆっくりと近づいた彼からきつく抱きしめられる。指を舐められた際、お仕置きが終わったあとに教えたことを二宮はずっと覚えていたし、あれ以降彼が彼自身の行動を制御できなくなることもないようだ。けれどプレイ相手が変われば、また彼は同じようなことをするのだろうか、そして、躾け直されるのだろうか。それとも受け入れられるのだろうか。そのどれもを想像すらしたくない。
 そもそも、他のプレイ相手を持つことを認めるという話は最初に取り決めて書類にも残してあるのだ。この部屋のどこかに原本があるし、柳瀬の端末にもきちんと写真は保存されている。柳瀬のプレイ相手だってなにも二宮だけではないのだから、そもそも嫉妬すること自体がお門違いなのだ。そんなつまらない感情はせめて気付かれないように隠さなければ。大丈夫だ、残りは今日だけなのだから。そうだ、二宮に書かせた書類の写真も、不要なトラブルを招かないため近いうちに消去しなければならない。二宮にも、忘れることはないだろうが念のため破棄を勧めた方がいいだろう。

 中々次のコマンドを出さず、二宮の髪の感触を楽しんでいた。すると二宮は顔を上げ「褒めすぎだ」と不機嫌そうにする。ぼんやりとした表情を浮かべつつ、過剰であっても不足があっても不満そうにするところが、二宮のかわいいところだと、彼とプレイを始めて以来ずっと思っていた。以前褒めすぎて何がいけないのか聞いたとことがあったが、どうやら褒められすぎると心地いいのを超えてぞわぞわするらしい。
「じゃあ、抱っこして」
 言うなり彼は立ち上がった。腕を引かれて「フラついてない?」聞くと「問題ない」そう返される。ふ、と息を吐いた彼が柳瀬の身体を持ち上げる。以前されたのと同じように、部屋の窓から遠くの町並みが見えた。
「……どう? ぼく、あのときより重くなった?」
「……変わらん」
 彼の頭を撫でつつ尋ねれば、難しそうな表情で返された。そんな、食べる量は明らかに増えてるのに。あのとき二宮にガリガリだと言われた腹にも、多少は肉がついたはずなのだが。
 視線が高くなるのは相変わらず新鮮で気分が良かったが、やはりあまり良くない気がして。早々に下ろしてもらい次のコマンドを打つ。
「せっかく最後なんだしさ、お疲れのキスしようよ」
「……? そんなセオリーがあるのか」
「いやしらないけど。やったじゃん前も! 好きなところにキスしていいよって!」
 これは明らかな下心だった。あのときは、よりディープなコマンドの方が欲求の解消に有効だという理由からキスをコマンドしたが今回は違う。せめて最後に二宮からのキスが欲しかった。
「匡貴、好きなところにちゅうして。……ぼくも、同じ所にキスしてあげるから」
「……」
 二宮はまぶたを何度かしばたたかせてしばらく迷ってから、やはり口づけには頬を選んだ。本当に触れるだけのそれはまるで羽毛がかすったようでくすぐったい。その柔らかさに肩をふるわせながら、二宮の頬に同じだけのキスを返す。すればするだけ彼のことが好きなのだと実感する。そしてこれは今日限りのことであると。
「……じゃあ、最後はぼくからするね。匡貴は、同じとこに返して?」
「ああ」
 ぼんやりとした、とろんと眠そうな表情で彼は頷いた。柳瀬はなんとか二宮のDomでいられたらしい。彼の安心しきった表情に自身が満たされているのを感じながら、そしてどうにも埋まらない場所があるのを感じながら。じっとキスを待つ二宮の、その唇へ。

 柔らかい唇だった。乾燥のせいか少しかさついていて、けれど今までのキスのどれよりも柳瀬を満たす口付けだった。
 今日のプレイは、二人のプレイは、二宮がキスを返せばそれでおしまい。残り数秒だけだった。
 けれど、二宮からのキスが柳瀬に返ってくることはなかった。
「……っ、……」
 眠そうだった目をしきりに瞬かせて二宮の呼吸が荒くなる。はく、と口の開閉を繰り返して、どうしたのかと尋ねるよりも前に、彼は苦々しげに告げた。
「っあ、……れ……Red……」

 ぱんっ

 目の奥で何かが破裂する音がした。──セーフワードだ。Subの──二宮の様子につられてふわついていた気分が一気に覚醒する。プレイの余韻もすべてが消え失せた。
「──っあ、……え、まさ、たか……」
「っ……」
 セーフワードを使わせるほどのコマンドを使ったせいで、二宮に負担がかかっている。自分のしでかしたことに血の気が一気に引き、徐々に下がっていく二宮の頭を抱きしめてケアを行った。
 セーフワードを使うには、信頼関係がないと双方にリスクがある。Sub側は見捨てられるかもしれないという恐怖、Dom側は身体的な苦痛となって現れるそれは、信頼関係があれば軽減される。柳瀬には衝撃こそあったものの苦痛はない、しかし、二宮は目に見えて苦しんでいる。咄嗟に言葉が出てこなかった。
「っあ、ああ、ごめんね、こわ、かった、よね。セーフワード、使ってくれてありがとう、もう、もうしないから。もう、嫌なことしないから」
 そうだ、これは嫌なことだったのだ。二宮は柳瀬とキスをしたくなかった。けれど柳瀬は彼に強要した。
 セーフワードの練習をしたときと違い彼の告げたセーフワードで少しも胸が痛まなかったのが、かえってどうしようもなく痛かった。
 大きく息を吸った二宮が喘ぐように声を絞り出す。縋り付くようにシャツを引かれ屈むと、彼の声はすぐそばだった。
「……、俺は……俺と柳瀬は、恋人でもなんでもない。ただのプレイ相手だ……、勘違いするな……」
 それは柳瀬も理解していたはずの、ごく当たり前のことをだった。柳瀬と二宮はあくまでも同じ組織に属しているだけの間柄で、年齢だって遠くて。何の因果かたまたま、本当に偶然が重なって、暫定的なパートナーになっただけだ。
「っ、ご、ごめん、なさい……ごめんなさい」
 泣くことなど許されているはずがないのに、泣きたいのは彼の方だろうに。謝るごとにどんどんと声が滲んでいく。
「ごめんなさい……っ二宮さんのことが好きで、……ごめんなさい」
 柳瀬は逃げ出すように二宮の家を後にした。



 好きな場所にキスをしていいよと言われて、魔が差しそうになった。結局選んだのはいつかと同じ頬だったけれど、あと数センチも横にずらしてしまえば、それが自身の求めているものだと確信していた。満たされることはわかっていた。けれど、それは違う。相手は子供で、いくらDomとはいえ二宮の勝手な行動で彼をどうにかしてしまうだなんてやっていいはずがなかった。
 キスは頬だろうと唇だろうとプレイにおいてよくする場所というのは知識として知ってはいたが、長いことプレイ経験のなかった二宮にとっては、ただ唇"だけ"とは思うことができなかった。――否、二宮自身はべつにいいのだ。これまでの人生で恋人が全くいないわけでもなかったし、そもそも唇ひとつに騒ぎ立てるほど箱入りの貞操観念をしているわけではない。柳瀬も初期の段階でキスのコマンドをしたということは、二宮以外とのパートナーとのプレイで幾度となくしてきたことがあるのだろうことは想像にたやすい。けれどそれで柳瀬と二宮がしてもいい理由になるかと言えば、二宮は首を横に振る。二宮は、これ以上柳瀬自身を二宮に差し出させるようなことは好ましくないと思っていたからだ。
 ただでさえ柳瀬を自身の体質のせいで縛り付けている。だから一刻でも早く彼を解放して、真っ当な距離感で側にいてやりたかったのに。
 何回かの頬への口付けは短かいようで長かった。選択権がある、自由があるというのは裏を返せば、選ばなければならないということだ。こういうやり方が一般的なプレイにおいてスタンダードなのかはわからないが、少なくとも彼は好きなようだった。いつでも彼の唇を奪ってしまえるという状況で、それを欲しがっている状況で頬だけを狙うのは難しかった。震える息すら押し殺して彼の頬に唇を押しつけて、彼からも頬にされる。嬉しい反面拷問のようなそれがやっと終わって、今度は彼からの口付けがあるという。
 ふわふわと心地いい気分でそれを聞いて、たしかに彼からキスをされたことはなかったから、さてどこにされるのだろうかと心がそわついて。

 ――ただのキスが、こんなにも嬉しくなるだなんて。こんなに大それたものだなんて、彼の唇へ、口付けしてみたいと。けれど絶対にしてはいけないと、そうずっと考えていたのを差し引いても尚、思ってもみなかった。

 けれど、違う、違う。勘違いしてはいけない、彼がキスをしたのは二宮が特異な体質をしていて、それを自らも犠牲にするほどの奉仕精神にかられているだけだ。自分を犠牲にするのは止めろと言ったのに聞いてくれない。これを、まちがっても彼から二宮への個人的な愛情だと思い込んではいけない。
 だから、今すぐ口付けを返すべきだ、返さなければならないと命令する脳みそを無理やり押さえつけてセーフワードを告げた。こうすればこれ以上彼を、二宮によって損なわせることにはならないだろうと考えて。欲求と矛盾する行動のせいで、どうしようもなく寒くなっていく。怖い、暗闇の中へ真っ逆さまに落ちていくような心地がする。指先が震えた。
 彼は震えた声でなお二宮をケアをし続けた。しきりに謝る彼に違う、おまえはこんなことをする必要はない。そう言ってやりたかったがどうしても己の喘鳴が聞こえるだけだ。嫌だけど嫌ではないのだ。色んなことを許されてしまえば二宮自身が止められなくなりそうで――お仕置きをされたとき以上のことをしてしまいそうで、その危険性を排除するためのセーフワードなのだ。その言葉は荒い呼吸にかき消えてしまった。恐怖と怒りと寂しさでどうにかなりそうだった。
 つい目の前にあったものを何かも理解もせずつかみ縋りついた。彼との関係を勘違いしてはいけない。自分がどうしたいのかもわからないままとにかく考えていたのはそれだけだった。
「……、俺は……俺と柳瀬は、恋人でもなんでもない。ただのプレイ相手だ……、勘違いするな……」
 これだって至極当然の、ただの事実のはずなのにどうして胸が締め付けられるのか自分で自分が理解できなかった。Sub性に引っ張られてDomの身体に惹かれるうちに、感情まで引っ張られてしまったのだろうか。そんなことは許されない。ただの事実確認の言葉は、自分に言い聞かせるための言葉になっていた。
 二宮はただ、彼が無茶をしないよう見ていられるぐらいの距離にいられればそれでいい。そのはずだ。
 ああ、柳瀬が泣いている。誰だ、泣かせたのは。泣くな、泣かないでくれ。身体が上手く動かないがコマンドを、今すぐ泣き止ませろと命令してくれ、そうすれば俺はきっとおまえを、
「ごめんなさい……っ二宮さんのことが好きで、ごめんなさい」
 彼は、今なんと言った?

 自身のSubとしての欲求を無視してセーフワードを言うのは、やはりそれなりにリスクのある行動らしい。はっきりと時計を見ていたわけじゃないから正確な時間はわからないが、十数分はケアを受けてなおうずくまっていたようだ。
 やっと落ち着いて身体を起こした時にはもう柳瀬はいなくて、慌てて玄関を見ても靴はなく、玄関からでて当たりを見回してもそこにいたのは地域猫と、どこかへと向かう通行人しかいない。あの小さな影はどこにも見つからなかった。


2023/06/25