蜜柑とアイスの共存

ぼくのSubの二宮さんがあまりにもズルすぎる

サイドエフェクトの弊害


 影浦が柳瀬の顔を覗き込んでいた意味を、二宮が知るのはあれから少し経った頃の話だ。
 部下は先に帰らせ、一人でまとめていた報告書も提出が済み帰宅しようとしていたところだった。廊下の端で小さな影が座り込んでいるのが見えた。思わず浮かんだ犬飼の称した比喩を思考から追い出し、呆れつつ声をかける。
「また居眠りか? 柳瀬」
「……? にの、みやさん…….?」
 どうやら柳瀬は起きていたようだ。けだるげに首を傾け、くっ、と目を凝らすが、しきりに目をしばたたかせている。そんな彼に眉を顰めた。
「やあ……ちょっと、頭痛くて」
 誤魔化すような笑みが痛みにひきつった。事情が違うことを理解した二宮は足早に近づき額に手を当てる。
「おい、目が赤い……怪我でもしたのか? 熱はないな。医務室へ行くぞ」
 腕を引こうとする内に彼は慌てて首を振った。
「い、行きました。その帰りっていうか、どうしようもないっていうか……その、サイドエフェクトの使い過ぎです」
「使い過ぎ?」
「探し物……手伝ってて、けど無事に見つかったん、っう〜……」
「もういい、黙ってろ。……家の住所だけは教えろ。送っていく」
 端末を操作し、ボーダーと市街地を繋ぐ直通通路を少し行ったところ――危険区域よりも外にタクシーが来るよう手配した。いいですとか、大丈夫ですとか言って尚も拒もうとする柳瀬に「無理やり抱きかかえて連れ帰ってもいいが」と吹き込めばやっとおとなしくなった。夜遅い時間だが、人通りはまばらながらもそれなりだ。
 タクシーに揺られる間、自販機で買った水をハンカチにかけ目に当てさせた。着くまで寝ていろと言ったが、落ち着かない呼吸と時折堪えるように漏れる声を聞くにやはり難しいらしい。

 やがてたどり着いたのは大きな家だった。しかし中の明かりがついていない。空はとっぷり暗くなって夕飯時もとうに過ぎている。不審に思い柳瀬を振り返っった。
「……保護者の方は?」
「いな……あー……ええと、親は、どっちも仕事でほとんど帰ってきません」
 四年前の出来事で家族を喪った者は多い。故に家族についての話は三門市において、積極的に触れようとする者はあまり多くない。しかし今回は尋ねざるを得ない状況で、柳瀬はそれに該当するのか、言外にその意図が含まれていたのを遅れて気が付き慌てて付け足した。
「待っててください、いま、タクシー代持ってくるので……」
「っ、おい」
 腕を引かれて振り返る、ちか、二宮のトリオンが視界を刺した。度を超えた頭痛が目眩も連れてきて、式台にしゃがみ込んだ。
「……っ……」
「病人が無理をするな、タクシー代もいい。親御さんがいない状況でその目は不便だろ。……邪魔するぞ」
 靴を脱ぬぐとそのまま柳瀬を抱き上げた。驚き声を上げる柳瀬に「目を閉じてろ」と言うと、意図を察した一方あまり納得していない様子で静かになった。彼がどう感じていようと結果があれば二宮にとっては問題ない。
「おまえの部屋は」
「……二階、の、奥の部屋……」
「そうか」
「……」
「……なんだ。"抱っこ"は好きじゃなかったのか?」
「……、……。ちがう……自分から言うのと、急にされるのとじゃ」
 コマンドとして指示されたときは二宮が訝しげな反応をしたが、どうやら今回は柳瀬が納得いってないらしい。羞恥心を誤魔化すためなのかぐりぐりと二宮の肩口に額をこすりつける彼に「目を圧迫するなよ」と注意した。二階に上がるとどれが彼の部屋かはすぐにわかった。おそらく手作りの、しかし本格的なネームプレートが扉にかかっていたからだ。
 彼の部屋は想像していたほど散らかっていなかった。床は綺麗に片付けられているし、勉強机も整頓されている。壁にはどこか海外の風景を写したポストカードが幾何学的に貼られており、シェルフには雑誌がいくつかと動物のフィギュアがまばらに並んで、一角にミニジオラマを形成していた。乱れがあると言えば、朝抜け出したままの形になっているベッドくらいか。
 彼をベッドに下ろしその脇に荷物を置く。ほっと緊張が解けたように彼は息を吐いて、目を伏せたままありがとうございます、と頭を下げた。
「目はすぐに治るのか」
「そうですね、長くても次の日中には。……あー、連絡しなきゃ、ケータイ……」
 ぱっと思い出したようにリュックを探る。横ポケットに入っていたそれを見つけ手渡すともう一度礼をのべた。
「家までありがとうございました、お金は後日ちゃんと返します、それから、鍵はポストに入れてもらえればいいので……」
 一刻も早く二宮を帰らせようとする彼にやはり違和感が付きまとう。一人の自宅に知人を招く緊張、遅い時間帯まで付き合わせた申し訳なさ、もちろんどちらもあるのだろうが、それだけの焦りではないように感じられた。

「……柳瀬、おまえは……どうして廊下でうずくまるまでになる前に、誰かに助けを求めなかった?」
「……? えと、医務室には、行きましたよ……?」
「そうじゃない。おまえは、大抵誰かと一緒にいるだろう。柿崎でも影浦でも……誰でも呼べばいいだろうに何故そうしなかった」
「……。あは、や、ここまで酷くなるとは思ってなかったんですって。……でも、それで二宮さんに迷惑かけてたらダメですね、ごめんなさい」
「そういうことを言いたいんじゃない、わかるだろう」
「……」
 尋ねたが、彼は困惑しているようだ。病人に追及するべきでないとは二宮もわかっていたが、彼のアンバランスさはこのまま放っておけばいずれもっと大きくなってしまうのではないかという懸念があった。
「おまえは人に手を差し伸べる。今回もそれが元なんだろう、俺の時だってそうだ。……助けられたのは事実だが、おまえ自身を犠牲にするのはやめろ」
「そ、そんなことしてな……」
「じゃあその目はなんだ?」
 息を呑んだのがわかる。あの空き部屋で初めて会ったとき、何故、柳瀬は腕に跡をつけられてもなお二宮のケアをし続けたのか理解した。理解してしまった。己が傷ついてでも誰かを助けたい――もしくは、助けなければならないとまで思っているのかもしれない。
 人よりものがよく見えるというのは一見いいことのように感じるが、見たくないもの、見えなくてよいものまで見えてしまうということでもある。柳瀬のある種歪みを孕んだ行動原理に怒りを感じると同時に、それに負担をかけている己自身にも二宮は怒りを向けていた。
「……これは、加減を間違えただけで……いつもはこんなふうには……」
「そうか、ならおまえが廊下で寝ていたとき、影浦がおまえの顔を覗き込んでいたのはたまたまなんだな」
「……」
 とうとう柳瀬は黙り込んでしまった。らしくない、と思う。こんなにしょぼくれた様子の柳瀬も、こんなに饒舌に詰問する己も。
「……どうして拒否する? おまえの師匠にも友人にも、普段から存分に甘えているだろう。体調が悪い時に手を貸してくれと頼むのと何が違うんだ」
「わ……わかんないですよ、ぼくだって……。……に、二宮さんだって、誰にも相談しなかったからあの日倒れかけたのに……」
「おまえと一緒にするな、あれ以降はしかるべき機関に相談してる」
「……」
 柳瀬は震えた息を吐き出した。彼が相談できないのは、自己管理能力のなさを責められたら、というような理由でないことは見当がついている。二宮は片膝をつき柳瀬と目線を合わせた。――彼は言われた通り目を閉じている。

「……いい。理由はわからなくとも、俺が方法を教えてやる」
「……え?」
 二宮の言葉が理解できなかったのと、声の位置が変わったことで反射的に目を開けようとした。それを手のひらで覆って留める。
「俺の指示に応えられたら褒めてやる、簡単な指示しかださないから安心しろ」
「――…えっ、え? DomとSubを入れ替えるってことですか? なんで……というかそもそも、ぼくも二宮さんもSwitchじゃありませんよね」
「そうだ。これでダイナミクスによる欲求が満たされることはないしただのままごとでしかない。だが…――おまえもSubの気持ちを少しは理解するべきだ、たつき」
「ど、どういう……」
 柳瀬は言葉を探すように口を開きかけて――見つからなかったのかそれともやめたのか、やがてそっと閉じた。それを見届ければ、今度は二宮が口を開く番だ。
「セーフワードは何がいい」
「……いつも通り……Redで」
「わかった。目は……閉じたままでいろ」
「……うん、」
 こくりと頷いた。目元を覆っていた手をそっとのけて、いい子だ、そう囁きながら撫でるように、少し伸びた前髪を耳にかける。ぶわ、と彼の額から首までみるみるうちに赤みが広がる。直前に言った通りこれはプレイとして成立していないただの真似事だ。だが――確かに効果はあるようだ。
「たつき、体調はどうだ」
「……目が、痛くて、頭も……、でも、さっきよりはマシ……かな」
「……そうか、よく話してくれた」
 褒め言葉を口にすることは二宮とて慣れているというほどではなかったが、手本は柳瀬だ。彼はプレイの経験が恐らく同年代と比較しても多いらしく、その分蓄積されたものが多くあった。
 硬く結ばれた手を、輪郭をなぞるようにして触れた。一本ずつほどいて、絡ませて指遊びのようにするとやがて彼も乗ってきた。重い吐息を漏らしながらも控えめな笑みがほころんでいる。頃合いを見計らい二宮は次のコマンドを出すために口を開いた。
「今までに同じことが起きたときはどうしていた?」
「……前回、は、マサ先輩が気付いてくれて、マサ先輩の家で一晩お世話になりました。……先輩の家族は、ぼくが先輩みたいな、変わった体質があるって聞いて、過ごしやすいようにしてくれて。またいつ来てもいいからねって言ってくれて……」
 体調が悪い中、師匠の話になると言葉数が増えるのに少し安心する。そうか、と相槌を打つ声は柔らかく響いていた。
 それからもいくつか質問をした。上手に話せたら手を握ったり、頭を撫でたり頬にキスをしたり。″上手に″の基準だって答えがない質問なのだからあってないようなもの、口に出せさえすればそれでよし、誤魔化すような、後ろめたさの滲む回答であれば少し聞き方を変えてやる。通常の二宮であれば考えられないくらいの甘い採点だ。
 彼への行動はすべてがすべて、元は柳瀬が二宮にしてきたことだった。二宮は柳瀬以外とのプレイの成功体験を積めていない。病院や、東からの紹介で何度となくセッションを行なってきてもそれは変わらなかった。けれど柳瀬との擬似的なプレイにおいては、彼との経験があれば十分だった。
 柳瀬からの経験を一つずつ彼に手渡しながら、二宮は最後の質問をする。
「……たつき、おまえは、俺にどうしてほしい?」
「――…」
 彼の唇が戦慄いた。二宮は甘く、「うん?」と相槌を打つ。質問を重ねてきたことで、何を答えても二宮は柳瀬を拒否したり、叱ったりしないと教え込んだ。どう答えても受け入れると。やがて掠れ震えた声で柳瀬が呟く。
「……そ、側に、いてほしい」
「ああ。……当たり前だ」
 会話するためにずっと一定の距離感を保ち続けていたのを、そっと引き寄せて抱きしめた。いつもの彼のプレイからするとむしろ遅すぎるくらいのハグだが、柳瀬はきついくらいに二宮を抱き返す。宥めるように背中をゆっくりとなで下ろし、しかし力強く腕を回す。長い間二人は何も言わなかった。お互いの呼吸の音と身じろぎする音だけが聞こえていて、互いの体温がじわり眠気を誘った。いつからか混じっていた鼻を啜る音が止み、彼の身体が完全に脱力するまで──どれくらいの時間がたったのかはわからないがとにかく、ずっとずっとそうしていた。
「……」
 起こさないよう慎重にベッドへ寝かせ、穏やかな寝息を立てる彼の顔を眺める。うっすらと目元に残る跡を指先でなぞった。



 目が覚めた。朝だ。まだわずかにちらつく視界とつきつき痛む頭を押さえながらゆっくりと起き上がる。すこしぼうっとするから、もしかすると熱があるのかもしれない。それよりも、昨日の夕方以降のことがあまり思い出せなかった。……ああそうだ、探し物を手伝って、けれど無理をしたせいで体調を崩して、そして家まで送ってくれた二宮と、
「っ…──!!」
 思い出した。明確に、はっきりと。飛び起きたせいでかたんと音が鳴るが、自室には柳瀬一人しかいない。どこかほっとしたように──落胆したように息を吐く。そうだ、昨晩のあれは柳瀬を宥めるために行ったもので、流石にもう自宅へ帰っているだろう、と。
 期待が一瞬のうちに落胆に変わるのを見ないふりをして。布団に突っ伏しかけたところで、階下に、自分以外の誰かがいることを柳瀬のサイドエフェクトは知らせていた。
「っえ、なん、で……!」
 もつれかけた足をなんとか叱咤して階段を駆け降りる。居間の扉を開けると長い足をカウチソファに投げ出して、二宮が眠っていた。けれどよほど騒々しかったのか、彼はうっすらと目を開けた。ぱち、ぱち、何度か瞬きをして、茫然と佇む柳瀬へ視線を向けるように首を傾けた。
「……あぁ、もう朝か」
「……お、おはようございます……じゃなくて、に、二宮さん、帰ってなかったんですか」
「帰るなと言ったのはおまえだろう」
「……きゃ、客間もあったのに!」
「そうか、まあ。家主がいないのに家の中を漁るのもな。……この家のソファでかいし、困らなかったぞ」
「……」
 何も気にしていない様子で、二宮はカウチソファから起き上がるとその横を軽く叩き示した。やや緊張しながらも腰掛けた柳瀬の顎を掬い上げまじまじと見つめる。
「まだ少し赤いか、……熱くないか?」
「……微熱、です……」
「……おい」
「昨日より全然楽ですよ、ほんとです!」
「……」
 疑うような目つきで、ぶに、両頬をつままれた。昨晩無理をしたことは柳瀬も自覚しているのでされるがままになっている。しばし無言の攻防があったのち二宮はため息をついた。昨日に引き続き病人に詰問を重ねるのも良くないと判断したのだろう。
「キッチン借りるぞ、何かあるか」
「……、朝ごはんなら、作り置きがあるので温めればすぐ食べれますよ」
 立ち上がった二宮のあとを雛鳥のようについていく。柳瀬の言った通り冷蔵庫を開けると料理がタッパーに詰められ並んでいた。丁寧に一つ一つにラベルが付けられており、どれもが少食の柳瀬に合わせた量だ。
「これはご両親が?」
「や、そんな頻繁に帰ってこないです。ハウスキーパーさんがまとめて作ってくれるんです」
 冷蔵庫の扉を支える二宮の腕をくぐり、タッパーを二つ取り出した。また腕の下を潜り戻ろうとして、はたと見上げる。
「……二宮さん、一つじゃ足りないですよね」
「いや、おまえの食糧だろう」
「いえ……ここでぼくだけ食べる方があれですし、何のお構いもできてないので、朝ごはんくらい食べてってくださいよ」
「……わかった、いただこう」

 もう一つ追加でタッパーを取り出してレンジで温まるのを待つ間、柳瀬はちらと二宮を見やった。ぱちりと目が合いなんだといつもの調子で尋ねると、一瞬迷ったように視線が泳いで、しかししっかりと二宮を見据える。
「……あの、誤解されてたらヤなので一応言っておきますけど、昨日はたまたま体調が悪かっただけで普段は一人が寂しいとか、そんなことないですからね」
「……、ああ」
 やや戸惑うように瞬きした。柳瀬は壁にもたれかかり、かと思うとずるずると膝を折り座り込む。
「ずっとラジオ聴いててもうるさいって言われることないし、友達いつでも呼べるし、ふつうにエンジョイしてますから」
「そうか」
「それぞれの誕生日と結婚記念日近辺は家族で過ごしますし」
「ああ」
「だから、その……」
「……」
 言いよどむ彼の、いつもよりも更に、ずっと低い頭を見下ろした。表情は隠れて見えない。
「……、かわいそうとか、親がひどいとか、思わないで下さいね。幼稚園の頃から無限に言われてきてるので。そういうの」
「……無限か」
「無限、ですね」
 二宮は少し目を伏せて考えた。どの家庭にも、自覚の有無に関わらず他と比較して変わったところ――問題や歪みと受け取られるところはあるはずだ。親がいるいない、子供がいるいないのところから始まり、家事分担や、キャリア形成に進学、石鹸は買い物当番に選択権があるだとか、果てにはカレーにちくわを入れるだとか。それらが負担になるかどうかは一部を除いてほとんどの場合が個々人間の相性で、問題として表面化するかどうかは運やタイミングも大きく関係すると二宮は考えている。
 家族以外の単位で言えば、例えばボーダーでの部隊のような。現在は自由にチームを組めるため問題になっていないことも、例えば上層部から指示されたメンバーで隊を組むことになれば、各々の性格や行動の癖が問題として顕在化することもあるだろう。
 二宮の家庭とて例外ではない。二宮自身が問題と捉えているが両親はそう思っていないこともあれば、彼が気付いていないだけで両親は問題に思っていること、家族三人の誰もが問題に思っていないが、何かの折に他者に知られたら問題と受け取られるものもあるだろう。
 しかしそれと同じくらい、他の家庭の事情を心配しての言葉は、その家庭にとって負担になる場合もある。少なくとも柳瀬の両親についての話はそうであるようで、彼の口ぶりを聞くに言われ方にも問題があったようだ。
「……俺の生まれた家庭は、おおよそ一般的な範囲に含まれると思っている。が……普通や一般的という言葉は結局、相対的な評価でしかない。個々人の視点に立ったとき、その単語にどれほどの意味があるのかと考えることがある。……特に、この三門市では」
 四年前、大規模侵攻により三門市民の日常は大きく変化した。日常が非日常に、非日常が日常に変わったままそれが何年も続いている。世界的に類を見ない組織が興り、少年達が武器を手に街、国、ひいては世界の平和を維持している。家や家族、友人知人関係なく大なり小なり──なんて比較が残酷に思えるほどになにかを喪った者がほとんどで、その上で"普通"を口にする。そんな日常。
 二人の間にしばらく沈黙が降りた。レンジの低いモーター音だけが響いている。
「……そうですね、余計なことを言いました。忘れて下さい」
 柳瀬は顔を上げないままそう話を切り上げた。少し後悔の色が滲んでいるように聞こえたのは二宮の気のせいかもしれない。気のせいでも、そうでなくても変わらない、深く考えず低い位置にある丸い頭に指を滑らせた。
「自分の要求を言えたなら上々だ、昨晩の成果が出たな」
「?!」
 驚き丸くなっている瞳と目が合う。その拍子に手がずれて彼の頬を滑った。
「……き、昨日のプレイって、まだ続行中なことないですよね……?」
「なんだ……褒められるのが好きと言ったのはおまえだぞ、柳瀬」
「い、いいましたけども……」
「Subの気持ちを、少しは理解できたか?」
「……、……たぶん、ですけど……おかげさまで……」
 どうやら照れているだけらしい。言いよどみながらごにょごにょと言い訳を続けていた柳瀬がふと、何かに気付いたように二宮の手にすりより目を細めた。
「……普通にあったかそうに見えるのに……二宮さんの手、冷たくて気持ちいいかも……」
「……。それはおまえの体温が高いだけだ」
 柳瀬の体感とサイドエフェクトは矛盾しているようだ。相変わらずの病人具合を思い出したのと同時に、レンジの呼び出し音が鳴った。



 二宮と朝食を共にして、その流れでテレビを付けたら思いきり平日だった。昨晩の出来事が出来事だったせいかすっかり曜日感覚が抜けていた柳瀬は短く悲鳴を上げながらテレビの左上にある時間表示を見る。七時半。巴と登校の待ち合わせをする時間だった。
「うそっ?! あれ、二宮さん学校は?!」
「俺は昼からだから問題ない、おまえも熱があるなら休むだろ」
「お、お家に連絡、ちゃんとしました……?」
「おまえは俺のことを中学生だと思ってんのか」
 のんびりと柳瀬がいれた紅茶を飲んでいる。マイペースが過ぎる。
「いっつも友達と待ち合わせしてるんです! ……で、電話してくるのでちょっと席外します……」
 ざっくり説明だけして、慌てて自室に戻り履歴から友人を呼び出した。数コールもせず出たのは心配そうにする声。時間を忘れていた罪悪感にきりきりと胸を締め付けられながら熱があるから休む旨を伝えると、彼は念を押して大丈夫なのかと繰り返し尋ねる。
「ほんとに大丈夫。今日はハウスキーパーさんも来てくれるし、しんどくて動けないなんてこともないから!」
『……わかった。先生にはおれから伝えておくから、ちゃんと休んでよね』
「うん、ありがとうこた。じゃあね」
 電話が切れたのを確認し、次はハウスキーパーに電話をかける。昨晩連絡しようと思って忘れていたが、よくよく考えればあのときは夜も遅かったので今気付いてよかったかもしれない。
 数コールして出た彼に事情を説明すればやはり心配そうな声。
「や、いつも通りの時間で大丈夫です。あの……ええと、心配した友達も泊まってくれたので。あ、ただそれでご飯食べてもらったので、……はい、お願いします」
 とりあえず連絡すべきところにはできた。ほっと胸を撫で下ろして、焦った分だけ疲れたような気がして今度はゆっくりと階段を降りた。

 誰かが家にいるうちに風呂へ入れと勧められた。どうやら二宮は待っていてくれるらしい。昼からはハウスキーパーが来るのでその時でも良かったが、確かに汗は気になっていたので入ることにした。熱もそんなに高くなく、むしろ体調は昨日の方が悪かったくらいだ。
 それでも小休憩を挟みつつ、シャワーを済ませて風呂を出ると、いつの間にか部屋の中にもう一人いることに気がついた。心当たりといえば一人しかおらず、バタバタと足音を立てて居間の扉を開いた。
「いつも通りの時間でいいって言ったのに!」
 その人物は──この家のハウスキーパーは、二宮と共に紅茶を飲んでいた。
「おはようございます。いいえ、お友達がいらっしゃるとは聞いていたのですが、学校があるでしょう? だから大丈夫かしらと思って早めにきてみたんです。大学生のお友達とは知らず驚いてしまいましたが」
 柔和な笑みを浮かべて挨拶をした。柳瀬家のハウスキーパーは世話焼きだ。柳瀬の両親から、家と柳瀬の体調管理を含めて諸々任されているため報告の必要はあったが、素直に熱が出たと言ったら早めに来るだろうことはわかっていたので、回避するために二宮のことをそう称した。しかし子供の浅知恵に騙されてくれるわけもなく、きっと了解した上で早めに来たのだろう。
 もだもだと悩んでいるうちに二宮は紅茶と食事の礼を述べて立ち上がった。
「そろそろお暇します。お世話になりました」
「えっ、もう帰っちゃうの……」
 こちらこそお世話になりましたとハウスキーパーが返す傍ら、柳瀬の口からぽろりと言葉がこぼれた。言ってから、ことの重大さに気付き口を押さえるが時すでに遅し、けれど二宮は笑うでも驚くでもなく、大丈夫だと返す。
「すぐにボーダーで会える」
 てっきり、何言ってんだとか、そういう言葉が返ってくると思っていた柳瀬は驚き沈黙した。けれどこれは、ただ、前よりも更に子供扱いされているだけのような。少し前にもっと褒めろと子供っぽい要求をした手前言えたことではないが、いざそうされると複雑な気分になってしまう。玄関口へ向かう二宮を見送るため後をついて行くと、彼はちらと振り返って言った。
「熱があるんだから寝ろ」
「見送りくらいいいでしょう」
「……髪はしっかり乾かせよ」
「わかってますって。なんで急にそういうこと言い出すんですか」
「……」
 しばし考えるような間がある。何を思考しているのかは二宮のみぞ知る。やがて彼はいつもの表情で、淡々と柳瀬へ告げた。
「どうやら俺たちは友達らしいからな」
 ハウスキーパーに使った言い訳のことを指しているらしい。スルーしてくれたと思ったのに! 頬が発熱のせいだけではなく、赤くなっていくのがわかる。そんな柳瀬の様子を見つめて首を傾ける。
「別に友達という言い方を否定したわけじゃない。拗ねるな」
「拗ねてませんけど?!」
 なんなんだこの人、やっぱり子供扱いなんじゃないか。不服に思っているのはモロに顔に出ていたらしく二宮が起用に片眉を上げた。けれど何も言わずに玄関のバーハンドルに手をかける。
「世話になったな」
「……いえ、こちらこそ……色々とありがとうございました。……次来るときが有れば、もっとちゃんとしますから」
「……ああ、楽しみにしてる」
 あるかもわからない次だけれど、リベンジを宣言した。



 柳瀬を風呂に向かわせた後、玄関チャイムが鳴った。勝手にインターフォンに出ていいものかと廊下で数瞬悩むがすぐ鍵穴に差し込む音がした。ガチャン、二つ錠を開ける音がして、穏やかな声が聞こえた。柳瀬の名前を呼んで、おはようございます、と。
 よく通る声だった。柳瀬の両親はあまり家に帰って来ず先程の会話から察するに十中八九ハウスキーパーだろう。
 リビングに入る前に出迎えると、やはり声の主は二宮の思った通りだった。出迎えた二宮に驚いた様子だったので名乗り挨拶をするとすぐ、ああ、たつきくんのお友達の! とにこやかに挨拶を返された。どうやら柳瀬はハウスキーパーに、友人として二宮を紹介したらしい。その呼称を少し愉快に思い――すぐにバレるような誤魔化しをするのは、少しくらい学習したほうがいいとは思うが――存外、なんとなく、おもしろみを感じた。素直に先輩とでも言えばいいものを。
 ボーダーでの柳瀬の様子を尋ねられ答えていくとより笑みは深いものになった。柳瀬の目についても、トリオンという名称こそ知らないものの詳しいらしい。どの医者にかかっても長らく原因不明だったものが、ひとまず理屈がつけられるらしいことを知りハウスキーパーも、柳瀬の両親も共にボーダーに感謝しているということも聞いた。
「……同級生のご友人はともかく、ボーダーのご友人にはあまり会えませんでしたから、二宮さんとお会いできて嬉しいです」
 普通であれば正面から受け取れるはずの感謝も、やはり暫定的とは言えパートナーであることへの罪悪感が積もる。儀礼的に頷きつつもどこか後ろめたさがある。
 まともにプレイできるDomさえ見つかれば…――。
 そうぼんやりと頭の隅で考えたところで、廊下からばたばたと騒がしい足音が聞こえてきた。


2023/06/09