蜜柑とアイスの共存

ぼくのSubの二宮さんがあまりにもズルすぎる

師匠と


「……んで、そこ曲がると右側に見えるから」
「ああ……! ありがとうございます」
「いいよいいよ~」
 見慣れた白とオレンジ差し色の服を着たC級隊員がぺこりと頭を下げたのを軽く手を振って答える。
 今日もいいことしたな……柳瀬が一人しみじみ感じ入っていると、背後から肩を組まれつんのめりそうになった。
「うぎゃっ」
「だはは、んだその声」
「マサ先輩!」
 振り返るまでもなく誰かわかった。ちくちくと頬をつつく黒髪。つけていたマスクをずり下げ、彼はにやりと歯を見せて笑った。
「また人助けか? ご苦労なこった」
 影浦雅人。影浦隊の隊長であり、柳瀬の師匠でもある。現在の柳瀬のスコーピオンの使い方は彼の影響が大きい。
 彼は揶揄うような言葉を吐くが、柳瀬はむっとするでもなく影浦の引く方向へ歩を進めた。
「困ってたみたいだったから。でも人助けってよりかは、NPC役の方が合ってるかも」
「NPCィ?」
「チュートリアル、みたいな? ここはボーダーだよ。君はC級隊員だね、個人ランク戦の場所は知ってるかな?」
「それくらい最初に説明受けんだろ」
「でもここ広いし、最初の頃めっちゃ迷いませんでした?」
 今でもあんまり行かないとこは迷うし。理由を付け足すが、影浦はふ〜ん? と興味なさげに相槌を打っただけだった。たいして真面目な話でもないのでそこで言葉を切る。
「もうみんな集まってますか?」
「ゾエがまだ。でももうそろそろ来てっかもな」
 二人が向かうのは、すっかり行き慣れた影浦隊作戦室だ。



 影浦が柳瀬と初めて会ったのは、個人ランク戦ブースだった。
(やたらとポイント低ぃな……間違って申請でもしたんか?)
 スコーピオン、ポイントは5000点に届くかどうかのところだった。つまりB級に上がりたて。対して影浦のポイントはそれよりも1万点ほど高い。勝利時のポイント移動は相手が高ければ高いほど量が多くなるため、ワンチャン狙いの果敢、もしくは無謀な挑戦者という線もなくはないが……影浦は首を傾げつつも遊んでやるつもりで対戦申請を受ける。
 転送されて、真っ先に感情が刺さった。――…殺意。それと同時にスコーピオンでのまっすぐな一閃が飛んでくる。右手に避けての追撃を牽制の意味も込めスコーピオンを振るうとバックステップで避けられた。
 相手は中学生──ともすると小学生かもしれない。初対面のはずだが、彼から感じるのは怒りとそれからやっぱり殺意。ただ目の前の相手を排除しようと狙う動きだ。鋭さこそあるものの精細さに欠け隙が大きい。たとえ4000ポイント台では通用しても、A級隊員である影浦には到底叶うものではなかった。
 そして影浦の肌を刺すのは、影浦のサイドエフェクトにより受信した感情だけではない。ビリビリと肌に突き刺す、不快でしかないことには変わりないそれは──。
 少し刃を受けただけでも分かる。感情こそスコーピオンに乗って影浦を刺していたが、彼は影浦よりもずっと違うところを見ていた。
(──…ハッ、八つ当たりかよ)
 加えて、目前の戦う相手のことすらまともに見られない相手に負けるような影浦ではない。彼の刃は届かない。大ぶりに振った少年の腕をひらりと躱し、蹴り飛ばす。軽々吹っ飛んだ彼の身体を捕らえ首を掴む。感情以外で影浦を刺したことへの意趣返しだ。
 心臓のあたりを、スコーピオンで地面に縫い付けた。
「──…オイ、Glareが漏れてんぞ。クソガキ」
 そしてそう煽る。影浦の予想ではより強い感情で刺されると思っていたが――少年の瞳はひどく動揺したように揺れた。水面に投げ込まれた石が波紋を描くけれど、それに疑問を抱くよりも前に損傷部分から伝ったヒビが彼の瞳を冥くした。
<トリオン供給器官破損 緊急脱出>
 デジタル音声が響く。続いて自身もシステムにより緊急脱出した。ばふ、緊急脱出用のベッドに沈みつつ思案する。
(……あ? ……あのガキ、なんで動揺してんだ……)
 八つ当たりの為に対戦を挑みにきたのだろう、相手がDomでもSwitchでもSubでも構わないと──Glareを撒いていたのではないか。いやしかし、それにしては影浦の発言した通り「漏れる」という表現に収まる量しかGlareが撒かれていないのはよく考えれば奇妙だ。
 ならば考えられる理由は、怒りのあまり無意識にGlareを発してしまった可能性だ。他人に向けて、それも公共の場でGlareを発することは子供でも知っている明確なルール違反だ。影浦がいるのは仮想空間という密室空間ではあるが、ボーダーの共有区域であることは間違いない。
 少しのインターバルを置いて二試合目が始まった。

 その日、柳瀬の心の中は冬の日本海のように大荒れだった。その日だけではない、ここ最近──具体的にいえば、所属していた部隊の解散が告げられてから荒れっぱなしだった。
「なんで! ぼくばっかり!! 蚊帳の外なの!!」
 自分ひとりしかいない作戦室で、そう叫びながら壁を叩くも返事はトリオン製の鈍い音とじんじん響く拳のみである。
 C級にいたときに声をかけられ、一緒に上を目指そうと言ってくれたのが嬉しくて隊に入ることを決意した。しかし蓋を開けてみれば、柳瀬がB級に上がって数ヶ月もたたないうちに隊は解散することになってしまった。何故と聞いても碌な答えは返ってこなかった。ただ誰ひとりとして視線の合わない気まずげな三人を見れば彼らの間に何かがあったのだろうと言うことと、ここから柳瀬がどう動いたとしても関係の修復は不可能だと言うことがわかってしまって。不平や不満を彼らにぶつける暇すらなく、隊は解散された。
 それからしばらくはボーダーも学業も、とてもやる気にはなれなかった。B級ランク戦は当然ながら出られないし個人ランク戦に出ることもなく、たとえ今の体調でブースに入ったとしてもいいカモになるだけだ。かろうじて防衛任務はこなしていたが、必要最低限のことしかしていない。
 対人関係もシャットアウトしていたため、携帯端末には知人友人達からの心配のメールや不在着信が多く届いている。はやく返さなければとは思うが、彼らに理不尽に当たってしまいそうで、とてもそんな気にはなれなかった。

 学校をサボって夕方まで布団にくるまっていると、家のチャイムが鳴った。宅配だろうかとインターホンにも出ず──しかし扉の目の前にくると渋面を作った。柳瀬をボーダーへ誘った張本人がそこに立っていた。
「……こた……」
 巴虎太郎だ。手にはプリントを持っているから、仲のいいクラスメイトとして教師に持っていくように頼まれでもしたのだろう。かろうじてうっすらと扉を開きながら帰ってと一言。
「ったつき、待って!」
 悲痛な友人の声にぴたりと動きを止めた。否、止めてしまったという表現が正しい。
「たつき、その……隊のことはショックだろうけど、それでたつきの頑張りがなくなるわけじゃないよ。おれとまたボーダー行こう?」
 彼なりに慰めてくれていることは理解できても、くさくさしている柳瀬は素直に受け取ることができなかった。
「……わかんないよ。こたは柿崎隊に……、結成時からずっと仲良い隊にいるんだから」
「……。そりゃあ、わからないよ。たつきがどれぐらい悲しいのか。だっておれはたつきじゃないし、たつきだって話してくれないから」
「だからぼくの気も知らずにボーダーに行こうっていうの? か……勝手すぎるよ」
「そうだよ。でも、おれはたつきの気持ちを少しでも知りたいし、教えて欲しい」
「……」
「……たつきは……もしかしたら後悔してるかもしれないけど。おれはたつきがボーダーに入ってきてくれて嬉しいよ。またブースで戦いたいし、そうじゃなくても、ラウンジで喋ったり、宿題したり、そういう普通のことがしたい。学校でだってずっと喋ってないじゃん」
「……。……ごめん、もう今日は帰って」
 これ以上話を続けていると、それこそ後戻りができないくらい巴のことを傷つけるような言葉を言ってしまいそうだった。
 柳瀬とて、心配して家を訪ね、ここまで言葉を尽くしてくれる稀有な友人を無くしたくはなかった。
 扉が閉まる瞬間の彼の瞳が、いつまでも柳瀬の脳裏に焼きついている。

 さて、友人を追い返した形でまたベッドに戻り、己の今までのことを考えていると、悲しみがやがて沸々と湧き上がる怒りに変わってきた。
 どうして己も関係しているはずの話題でのけものにされて、結果悲しんだ挙句大切な友人を傷付けなければならないのか?
 一度そう考えるとじっとしていられなかった。柳瀬の元隊メンバー三人のうち二人はボーダーを辞め一人は職員に転向し戦闘員と関わることはもうほぼ無いという。つまりこれ以上調べても彼らの情報はない。
 それがわかっても怒りは収まるどころかなお勢いを増すだけだった。個人ランク戦ブースに向かい、相手のポイントもメイン装備もろくに確認せず申請ボタンを叩くように押す。誰がどうみても八つ当たりだ。わかってはいるけれど、せめて戦闘に昇華しなければ今にも爆発しそうだった。
 それが、柳瀬と影浦との出会いだった。

「──…オイ、Glareが漏れてんぞ。クソガキ」
 緊急脱出をする瞬間告げられた言葉に、冷や水を浴びせられた気分になった。どれだけ自分が冷静さを欠いていたのか。わかっていたようで全くわかっていなかった。人付き合いを避けていたのはつまりプレイもしばらくしていなかったということで、フラストレーションが溜まるうちに、堪えきれずにGlareが漏れていたらしい。緊急脱出用ベッドに落とされ、次の試合が始まるまでのインターバルの間、何も考えられず呆然とするだけだった。
 二本目と三本目は静止しようとする前に影浦にあっさりと切り伏されてしまった。話をしようにも「今は戦闘中だろうが」と切り捨てられ、四本目でようやく動揺も落ち着きまともな打ち合いができるようになった。最終の五本目で、やっと一太刀。しかし実力差は明白で、その刃が届いたと同時に柳瀬はまた胸を一突きにされた。
 緊急脱出用ベッドから飛び降り、ブース内に設置された端末ですぐさま影浦を呼び出した。気だるそうに応答する声に縋り付くようなか細い声が漏れる。
「あっ……あの、Glareが、漏れてたって……ほ、ほんと、ですか」
『んな嘘つくわけねーだろ。つーかわざとじゃないのかよ』
「わざとなんてそれこそ、しません。本当にごめんなさい……あの、あなた、体調は大丈夫ですか。具合が悪いとか、怖い、とか、そういうの…――」
 影浦は盛大に舌打ちをした。Glareを放った張本人が、まるでGlareを受けたように怯えている。無言になった影浦を気遣わしげにもう一度呼びかける柳瀬に、影浦はもう一度舌打ちをした。
『……そこで大人しくしてろ、クソチビ』
 言うなり通話は切れた。どうしていいかわからず狼狽えていると、少しもしないうちにブースの扉が開かれた。肩を跳ねさせ振り返るとそこにはまさに今戦っていたばかりの影浦の姿があり、柳瀬は息を飲んだ。弾かれたようにベッドから飛び降り、影浦に詰め寄る。
「だっ……なんともないですか?!」
 柳瀬から向けられる感情に影浦は渋い表情をした後、大きなため息をついた。Glareについて指摘した瞬間から殺気も敵意も鋭さがなくなっていたし、Glare自体も引っ込んでいた。他にも次々何か言い出そうとする柳瀬の顎を掴み、強制的に閉じさせた。
「あーうるせーうるせー! ただでさえテメーの感情がうるせえのに、口までうるさくするんじゃねえ!」
 なんのことか全くわからず柳瀬は目を丸くするばかりだ。その目の奥にちらと見えたものを影浦は素通りしなかった。
(――…なんだ、コイツ)
 らしくなく、向けられている感情とは別のところにあるものを見定めようと、影浦は瞳の奥を矯めつ眇めつ見つめていた。そして思い至る──…まるで、捨て犬のようだと。
 影浦はSwitchだ。全体人口の六割を締める多数のダイナミクスである。その時はたまたまDom側にいたが、たとえSub側にスイッチしていたとしてもさして強制力のないGlareに支配されることはなかっただろう。だからこそ大仰な振る舞いをするDomのGlareをその自信ごと打ち壊してやろうと思ったのだが、煽り言葉を口にした時点から柳瀬はほぼ戦意を無くしていた。だから、ただ単にコントロールが効かなくなっていただけなのは理解できる。その後も問答無用でぶった斬り、やっと持ち直した後半戦で少しはマシな動きになったのはかろうじて評価してもいい。じゃあなぜコントロールが効かなくなっていたのか。

 事情を聞いて影浦はこれまた大きなため息をついた。
「ハァ? んだそいつら、ブッ殺せ」
「……、ブッ殺……しは、しませんけど……」
「つーかテメェもウジウジしてんじゃねえよ、うぜえな」
「うっ、この度はご迷惑をおかけしまして……」
「だからそういうことじゃねえ!」
 影浦は本日何度目かもわからない舌打ちをした。柳瀬はこの短時間で影浦の舌打ちにはすっかり慣れ、過剰に意識を向けることは無くなった。
 相変わらず後ろめたさと後悔の感情が、影浦の体質を知り気を逸らそうとしていることで控えめにはなりつつもやはり鬱陶しく感じる。影浦は舌打ちと同じく、やはり本日何度目かわからないため息をついた。
「……はぁ。つーかはっきりしてんだろ。オレが弱っちぃGlareにもオメーにもやられるわけねぇんだから、なんも問題は起きてねえ。オメーは八つ当たりとかクソつまんねーことしてねぇでさっさとダチに謝ってこい。オレにこれ以上謝んな。ウゼェから」
 影浦としてはわかりきった結論を柳瀬に浴びせ、柳瀬はやっと納得した。否、納得させた。
 納得したところで、やっと落ち着いたかのように思われた柳瀬からの感情が、とあるものにくるりと変わったことに気がついた。あ? と影浦は怪訝に思う。
「Glareについてはわかりました。……ところでこれは別の話なんですけど、あの、先輩のスコーピオンの使い方って、かなりぼくの理想に近い形なんです」
「あ、ああ?」
「つまり、何が言いたいかというと……ぼくの師匠になってください!!」
「……あ゛ぁ゛?!」
 どうやら影浦は、妙な捨て犬に構ってしまったらしい。


 初対面の印象から一転、随分と懐かれたものだと思う。当然断った影浦に反して、ダイナミクスのことに関しては引き下がった柳瀬がスコーピオンに関しては一向に引き下がらず、最終的には師匠と呼ばれ続けて、呼んでもないのに影浦隊作戦室に訪れ待ち伏せする間に他の隊員に「師匠になって欲しいから来ました」という話を伝えたが最後、北添は喜び仁礼は面白がり、絵馬は無言で流れを見守りながらも見る目があるなと思っていた。いつの間にか外堀が埋まっていたというか外堀から埋まりにいっていたというか。とにかく北添と仁礼に師匠になってあげればと勧められ、それがしばらく続いた後ついに影浦は折れた。それと同時にキレた。
「オレは師事なんて大層なこと出来ねぇから勝手に盗め! あと気色わりぃから師匠って呼ぶんじゃねぇ」
 影浦としてはとにかく後者を辞めさせたかったが故の判断という談だったが、同隊のメンバーからすれば前者が先に出てきている時点でお察しというものだ。その瞬間の柳瀬からの莫大な感激と、ブース内でのやり取りからブレることのない敬慕の感情は徐々に影浦の態度を軟化させていった。

 承諾されたあともよっぽど居心地が良かったのか、柳瀬は頻繁に影浦隊の作戦室を訪れている。けれど捨て犬はまだ戻る家を見つけられておらず、玄関を開けておけば一時的には一見リラックスした様子でくつろぐが、そこに住み着こうとはしない。
 野良犬が性に合っているのならばさておき、誰かといることが大好きなそれは、いまいち孤独と仲良くなれていないようだ。自分が求められることを欲して、″人助け″をする。だのに自分がいざ手を差し出されても。差し出される手を羨ましそうに眺めるけれど、やがてその手が翻されることを怖がって掴めない。
 影浦は師弟という関係性を抜きにしても、なんだかんだで放っておけない性分なのもあり何かと柳瀬を気にかけている。
 そんな彼の様子が最近、どこか変わった気がする。そう、それはとある噂が流れている、と北添から聞かされた時期と同じ頃に。
「……お前、最近なんかあったろ」
「……あー、はい。ええと、無くはない……?」
 珍しく濁した柳瀬の言葉と感情にぴくりと反応した。柳瀬の顔を伺うが、彼はそれ以上語るつもりはないらしい。また面倒なことしてんな、と影浦は思い至る。
「……ま、″人助け″もほどほどにしとけよ」
 ぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜる。柳瀬は気遣われているのがわかり、頬を緩ませながら短く「うん」と答えた。横に並んでいるが、影浦はサイドエフェクトの影響で顔を見なくとも柳瀬がどう思っているかはお見通しで、後頭部を小突いた。これは照れだ。
 影浦隊の作戦室に到着し、扉が開く。
「おーっすカゲ! たつき! 腹減ったから早く行くぞ!」
 仁礼が待ち侘びていたと言わんばかりに席を立った。その後ろから北添が顔を覗かせる。
「何か話してた?」
「なんでもねー」
「ぼくがマサ先輩のこと大好きって話してました」
「あ゛?!」
「あ?! アタシは?!」
「ひかちゃん先輩のことももちろん大好き!」
「あったり前だよなぁ! 聞いたかカゲ! ゾエ! ユズル!」
「えー、光ちゃんいいな。ゾエさんは?」
「ゾエさんも大好き〜!」
「わーい」
「……」
「……ユズル、愛してるよ」
 無言で他人事を貫いていた絵馬に向けて、芝居がかった口調でぱちりとウインクした。影浦と北添は吹き出し、仁礼は過呼吸になりそうな勢いでわらいころげている。
「……、人のことオチみたいに扱わないでくれる?」
 絵馬は言葉のインパクトにやられたのか、言葉を詰まらせながらも仏頂面で抗議した。へらへら笑っていると鬱陶しいと腹の辺りを何回かつつかれる。普通に痛い。
 ぞろぞろと作戦室を出て、向かうのは影浦の実家であるお好み焼き屋「かげうら」だ。


2023/05/26
加筆修正:2023/06/24