蜜柑とアイスの共存

ぼくのSubの二宮さんがあまりにもズルすぎる

取説とセーフワードの練習


「プレイをするにあたって、改めて確認をしましょう!」
 と、柳瀬が広げたのは印刷された一枚の紙だった。タイトルを読むに、双方が安心・安全なプレイをするための記入用紙のようだ。最低限のことは義務教育中の保健体育で習うものであり、二宮とて当時の記憶さえ薄いものの、大学のダイナミクス論の初回授業で説明を受けた覚えがある。当時はまだプレイの必要がない体質だったため他人事のように流し聞きをしていたのだが、もう少し真面目に聞いておくべきだっただろうか。
 そうでなくとも病院で冊子が配布されたりと再度学ぶ機会はあったのだが、きちんと取り決めをしようとペンを用意する柳瀬には教科書通りの模範的な行動だと感じた。批判的な意味はない、Subとしての衝動を本格的に知ったばかりの二宮としても、互いの欲求について知ることは重要だったからだ。
 三度目のプレイのために連絡をとり、今日は二宮の自宅へ柳瀬を呼んだ。物珍しそうにあちこち眺めている様子の彼を自室へ呼び、飲み物を用意する間に持ち込んだ道具を広げて待っていた。
「知ってますよね? これ」
「ああ」
「今年の初めくらいに授業でやったばっかなんですけど、似たようなの配布されてその場で書いてみましょうみたいなの言われるんですよ、ちょっとデリカシーないですよね」
「書いたのか?」
「やあ、そもそもはっきりしたパートナーなんていない子がほとんどだし、スルーかふざけてるのが大半ですよ。二宮さんが中学の時もやりました?」
「……覚えがないな」
「へー……あっ、じゃあ折角だし、二宮さんが書いてくださいよ」
 自分の目の前に置いていた紙を二宮に向ける。紙の縁がコップにあたり、じわり結露が滲んだ。柳瀬に視線を向けると目が合って、甘えるように笑う。
「ね、お願い」
 結露のように、柳瀬の言葉がじわ、と二宮の頭の中を侵食していく。言外に「上手にできるか?」と尋ねられている気分だ。しかしこれはまだプレイではない、拒否しようと思えば一言で切り捨てられるものだが、けれどあえて拒否する理由もない。二宮は病院から受け取った冊子にあった「プレイ外でも解消できるSub性」の項目を思い出しながら、差し出されたボールペンを受け取った。
 用紙に記された項目は必要なものだけ使えばいい、という前提でそこそこの数があった。お互いのプロフィールにはじまり、好き・得意、苦手なプレイ、NG行為、ご褒美の好み、エトセトラ。
 ひとまず自分の名前から書き始め、手元を覗き込んだ柳瀬が「わ、字綺麗ですね」と言うから一瞬手が止まった。
「ぼくの名前の字、わかります?」
「おまえのことは調べたと言っただろう」
「覚えてるんだ……」
 感心したように言うが、二宮にとってはさして特別なことでもなかった。二宮が記入していく様子を眺めていた柳瀬は身を乗り出すのをやめて、コンビニで調達してきたスナック菓子を取り出した。カップの蓋を開け、中の一粒をつまみ咀嚼する。さくさく音とささやかな笑い声が聞こえた。
「ふふ、おいしくて。はい」
 二宮の視線が何が面白いのか尋ねていたのだろう。一粒を差し出した。数瞬考え、尋ねる。
「……これは、プレイか?」
「んーん、まだプレイじゃないです。書き物してるから食べれないけど、欲しいかなって」
 薄く唇を開き咥えた。薄い塩味が口内に広がりさく、と小気味いい音がする。
「セーフワード……。これ、前回は即席で決めましたよね。毎回考えるのも面倒だし決めちゃいます?」
「……その場にあるものかRedで統一してたから別ってもな……」
「ぱっと思い出せて言いやすいのが大事なので、ベタなのは好きなものですけど。二宮さんの好きなものってなに?」
「……ジンジャーエール?」
「……ああ! だからジンジャーエール出してくれたんですね」
 スナック菓子を頬張る前、口に含んだ飲み物はシュワシュワと炭酸が弾けていた。やや時間の経った今、コップを伝った結露で机に輪ができている。
「んー、でもセーフワードにはちょっと長いかも……」
「めんどくせぇ。もうRedでいいだろ」
 それ以上何も思いつかず、結局定番の単語に落ち着いてしまった。二宮が咄嗟に口に出せるかが重要なので彼が問題ないと言っているのなら柳瀬も異議を唱えない。書き込んで、その次の項目に移る間に柳瀬がまたスナック菓子を差しだした。さくさく。
「お仕置きって何が嫌ですかね」
「……傷が残ったりするのは困る」
「ぼくも困りますねそれは。やです。NG行為ですね」
 その他に思いつかないらしい二宮を見て、首を傾げて尋ねる。
「じゃあ、質問の仕方を変えましょうか。ぼくとプレイしたときはそうもってられなかったと思いますけど……病院とかでプレイしたときにやだったコマンドはありますか?」
「──…Kneel」
「え?」
「……跪け、と言われるのが、無理だった。それ以外は基本コマンドなら問題ない」
「ああ~……ふんふん、なるほど」
 基本コマンドと呼ばれるものはKneelやCome等、英単語で統一されているためわかりやすく、多くのSubやSwitchは基本コマンドであれば特に混乱することなくコマンドを受け付けられることが多い。例えばDomからの指示が日本語で曖昧だった場合、上手くプレイが行えないことがある。それを避けるためのものだ。親族や親しい友人間でケアをする際にもよく用いられ、二宮が受けた医療用プレイでも使われるほど汎用的なもの。二宮の言った通りKneelは「跪け」という意味だが、この国においては「正座をしなさい」くらいの意味も含まれたオーソドックスなコマンドである。
 二宮も幼少期はKneelのコマンドを出された覚えがあるが、そもそもプレイを必要としない体質だと判明してからは長いことコマンドを受けることはなかった。そして、かろうじて覚えているその経験は両親からのケアだった。そのため今更初対面の相手から跪けと命令されるのも、Subとしての従順さよりも個人としての抵抗の方が大きいようだ。
 柳瀬とプレイしたときは最初から膝をついていたり闖入者から隠れたりと、その指示が出されることもなかった。苦手なコマンド、に記入するペン先を眺めながら柳瀬は笑いかけた。
「でも苦手なものがわかってるなら次のプレイはやりやすいですよ、助かりました」
「? どういう意味だ」
「今日やろうと思ってたの、セーフワードの練習なので」
 セーフワードは、Domが意図せず一線を越えたときに線引きを再確認するためのものだ。Subの心身を守るのと同時に、SubからDomへの信頼を損なわないための手段である。この関係が壊れるとそもそもSubの身体がプレイ自体を拒否する場合もあるほどだ。セーフワードがあるからこそ安心してプレイでき、何かあったら止められる、言っても関係は壊れないという認識を共有するためのもの。だからこそ通常はセーフワードを決めてからプレイするのがルールでありマナーでもある。
「ついでに聞きたいんですけど、ぼくがプレイ中に呼び捨てするの、やだな〜って思ったりしてませんか?」
「いや……あれは、おまえがDomとして振舞うための行為なんだろう。やりやすいようにすればいい」
 二宮の言う通り、柳瀬は呼び方と話し方を明確に変えることで相手の意識に入り込むようにしていた。それと同時に相手に対しても「これは命令である」と示すことで、よりはっきりプレイ中であることを意識させる意図もあった。この辺りはプロであれば技量があるため、柔らかな言い方や敬語でも問題なくプレイすることが可能なのだが、その辺りの一般中学生と、職業として日々の糧を得ているプロを比較しても仕方のないことだ。
 それに。フン、と二宮は鼻を鳴らす。
「またプレイ中にビビられても面倒だ」
「あは~、たしかに」
 あれは二宮に悪いことをした。自覚と負い目のある柳瀬は苦笑した。

 それからまた少し筆を進めて、ふと思い出したことを尋ねる。
「……おまえ、Glareは使うのか?」
「えっ……と、使いたく、ない、です?」
 二宮は無言で続きを促した。
「あ、あれって、Subはもちろん怖いと思いますけど、Domも怖いんですよ! 当てられた時はびりびりするし、怒った時に出そうと思ってなくても出ちゃう時あるし、下手したら友達とか大切な人すら怯えさせちゃうし、公衆の面前でダイナミクスを晒したり晒させたりすることになるし、それに下手したらSwitchを切り替えさせちゃうこともあるし!」
 柳瀬の恐れはおおよそのSubが心配しているところと同じだった。というか、Glareに関してはプレイでもないのに悪行目的で、SwitchやSubに対して故意にGlareを向ける一部の者が目立つため批判されやすく注目も受けやすいが、ほとんどのDomはGlareの孕む暴力性について特に理解している。本来であれば対Domへの防衛や、Subの躾のために使うためのものだ。
「……そうか」
「……っていうか、ぼくが二宮さんに怒鳴っちゃった時、Glare漏れたりしてなかったですよね……?!」
「いや、ないな。……だが、必要だと思ったら使え」
「……。……ええとそれは、お仕置きとかで、ですか? ……んん、一応覚えておきますね……」
 柳瀬が頷いたのを確認して書き込んでいく。
 思い出したように、スナック菓子をまた差し出され続ける。──と、何故か途中からペースが上がり、飲み込む前に差し出された。二、三度それを繰り返したところでもういいと断ると、柳瀬は呆けたように返事をした。
「……あ、ああ。うん、はい」
 見ると、彼の目元は赤らんでいた。目が合ったかと思うとうろうろ視線を泳がせて、やがて素直に白状する。
「プレイじゃなかったはずなのに、スイッチ入りかけちゃった……かも。や、なんでもないです。真面目にやりますよ」
 誤魔化すように頭を振りカップを机の端に寄せた。スナック菓子の塩がついた親指を、彼の、赤い舌が。いや、そう思うのはきっと塩味のせいで、その指を。薄い唇を。ああ、また舌が見えた。

 舐めたい。

 そう思った己を認識した瞬間、ダンッ! と机を叩きつけた。当然ながら柳瀬は目を白黒させて肩をすくめる。
「ぅわっ?! えっ、なに?!」
「虫だ」
「五分の魂が……」
 一寸の価値もない、ただの気の迷いだ。ただたまたま側にいるだけのDomに反応しているだけだ。Domに対する欲求と個人に対する欲求を混ぜるな。こんな感情、きっと大多数が思春期のうちに終わらせているはずなのだ。そう、それこそ柳瀬のような年頃のうちに。
「おい、その辺で拭くなよ。手洗い場は部屋を出て右手奥だ」
「ぼくのことなんだと思ってるんですか。……あ、お手拭きもらってるんだった」
 二宮の葛藤も知らずのんきにビニール袋を探る少年を小憎らしいと思う。それと同時に、絶対に気付いてくれるなとも思う。二宮はきっと、成人間近になってSubの衝動を初めて覚えた身にしてはうまく向き合えている方なのだろうと自己評価をしている。けれどSub dropに陥りかけたことや先ほどの邪念を覚える度に、本能だかなんだかわからないが己の一部に組み込まれている機構にうんざりもする。
 何故よりによって、まともにプレイできるのが、二次成長期すら終えていない柳瀬たつきでなければならなかったのか。
 雑念を振り切るようにまた紙に向き合う。"性的コマンド"の欄はまとめて大きくバツを付けた。勢いのよさが面白かったのか柳瀬はけらけら笑っている。
「条例とか法律的なのに引っかかっちゃいますもんね」
「……念のため言っておくが」
「はい?」
 こつ、ボールペンで指し示した。「パートナーを複数持つことを認めるか」、DomもSubも、ここを気にする者は多い。プレイのパートナーと恋愛のパートナーをイコールで結ぶ者が、特にこの国では多いからだ。
「俺は、今後も合うDomを探してプレイする。ここは認めてもらうぞ」
「あー、まあそうですね。うん、賛成です」
「どうせそのうち解消する関係だ。おまえも同年代と相手を作るなり、好きにしろ」
 言いながら、二宮に改めて言われずともとっくに特定のパートナーがいるのかもしれないという可能性に思い至った。それならそれでいい、柳瀬にわからないよう嘆息する。柳瀬こそ無理矢理付き合わされて、今日だって二宮の家までわざわざ来た身なのだ、だから二宮はてっきり、柳瀬も同じ認識でいると思っていたが。
「えっ……、……」
「……なんだ」
 彼の瞳は動揺の色を見せていた。尋ねるが、言葉を探すように視線の先が定まらない。柳瀬はちらと二宮の表情を確認して、表情豊かとは言いがたい二宮の感情を読み取れる程の付き合いではないことを思い出す。
「……ん、いや、ちょっと待ってください。……わかるん、ですけど。他にもプレイできる相手を探すって言うのは、そりゃ賛成ですよ。勿論。……でも二宮さん、この前ぼくのこと、"俺のDom"って言ったじゃないですか」
 ……。
 言った、覚えがある。医療機関で紹介されたプロの誰とも相性が合わず、再び柳瀬にケアを依頼したときのことだ。プレイの中で柳瀬に「ぼくのSub」と言われ体温が上がったこともよく覚えている。それに二宮なりに「俺のDomと返した意図もある。あるが、あったとして口に出すかどうかは別問題だ。どうして不用意に、プレイ中でもないのにあんなことを口走ってしまったのか。
 トリオン体に体調は関係ない。そのはずだ。しかし、あのとき柳瀬の言っていた「ぱやぱやしてる」感じが、万一トリオン体になった後も引き継がれていたとしたら。
「……、え、もしかして忘れてました?」
「……いや。……あれは、二度も……俺を掬ってみせたのだから。おまえの代わりはいないという意味で……」
「えっ」
 苦し紛れに答えたのは常ならば絶対に言わないような言葉だった。
「他に、プレイができるDomを見付けたとしても、それは、変わらないという……いや、俺は何を言っているんだ……」
「……」
 頭がぐらぐらしてきた。どうしてこんなことに。
 額を押さえる二宮に対して、柳瀬は困惑していた。重箱の隅をつついて(柳瀬にとっては隅ではないが)ごねたのはミステイクだったとして、直後に「そんな、ぼくのことは遊びだったんですか?!」なんて言って、わかりやすい泣き真似をする。そんな風に振る舞えば二宮も気の迷いだったと言いやすいだろうと、思っていたのだが。
 尤も、二宮にとってはあらゆる意味で遊びなわけがなく。さりとて本気だと返すのも語弊しか生まれないのだが。
(……いや、これ。先に発言して、かつ真面目に受け取ったぼくが悪い感じだよな……)
 自分が言ったプレイ中の発言だって、いわば言葉の綾のようなものだ。それをプレイ後に返されたとして、所有格に胸を躍らせたとて、だだをこねる子供のように持ち出すべきではなかった。そもそも柳瀬は、プレイをする相手が複数いることにさして抵抗はない。多くの大人が認識しているように、プレイのパートナーと恋愛のパートナーがイコールになって、プレイの一環としてそのような──二宮が大きくバツを付けたような──行為もするようになれば、また価値観も変わるのだろうが。とにかくいまは医療的な意味も含めて、二宮が柳瀬以外のDomとプレイできるようになることは柳瀬にとっても望ましいことのはずだった。
 というのも柳瀬には、あくまでも知人友人に収まる範疇でプレイする相手が複数いる。二宮と同じようにSub dropに陥りかけたDomだったり、SubのパートナーはいるけれどDomのパートナーはいないSwitchだったり。大声で言えることでもないが、それこそ学校帰りに一緒に買い食いする、くらいのノリでプレイをする相手がいる。
 そんな自分を棚に上げて、プレイ経験で言えば自分よりもずっと少ない回数しか、というかそもそもきちんとプレイできた回数で言えば自分しか知らない二宮をして、ただ口が滑っただけであろう一言をここで持ち出すのは。そう、まさに、クラスの女子から借りた大人向け少女漫画で見た、あれだ。
(……一回プレイしたからってパートナー面するなよのやつだ……!! しかも言った方が最低とかじゃなくて、ホントにその通りなパターンの……!!)
 穴があったら入りたい気分だった。気持ち悪すぎるぞ、ぼく。
「……二宮さん! やっぱりさっきのナシで!! 二宮さんの二代目Dom、張り切って探しましょうね!」
 重い沈黙をなるべく明るく払おうとしたが、二宮の「はぁ?」というオーラが目に見えてわかるようだった。切り替えの為に叩いた手が驚くほど綺麗に鳴り、それが逆に、部屋の空気を寒々とした物へと変えた。



 部屋の温度は下がっていたが、なるべく早く終わらせたいという考えは二人とも一致していた。
 プレイの頻度は二宮の体調を考えなるべく一週間以内、タイミングが合わなくとも最低でも三週間に一度。場所は二宮の部屋で行うことになった。本部の空き部屋は人通りが少ない分、万一出入りを見られた場合強く印象に残ってしまう。知人友人間わず数多くの者から「二宮に絡まれているのか」と尋ねられた経験からして、避けた方がいいと柳瀬が言ったからだ。作戦室はどうかという案もあったが大学生と中学生では時間を合わせることも難しく、扉にロックはかけられるもののいつもかかっていない作戦室の扉に二宮隊の他の面々――高校生たちが入ろうとした時にかかっていたら露骨に怪しいため却下となった。
 一通り項目を埋めたふたりは今日の分のプレイをすませることにした。机をよけて場所を空け、人ひとり分ほどの距離を取る。
「じゃあ、はじめるね」
「ああ」
「セーフワードは?」
「Red」
「うん。……こっちおいて」
 手を軽く広げ、迎える体勢をとった。二宮は柳瀬のコマンドに反応して己の身体が動くのがわかった。止めようと思えば止められるけど、逆らって苦しくなるよりこのまま行動して集められる方が、比べるまでもなくいい。
 数歩前に進めば柳瀬はもう目の前にいる。じっと見上げられて、彼は笑っていた。広げていた手が延ばされて二宮の米神あたりをわしゃわしゃと撫でた。
「いい子」
 ごくシンプルな一言がぽわぽわと胸の内に響いた。そして、次のコマンドを期待する。
「ぼくの手を握って」
 両手が先ほどのように広げられた。そっと握ると、ぎゅっと握り返される。よくできました! 朗々と集められてまた気分が上がった。次のコマンドはなんだ? もっと難しいものでもいい。そう期待して、
「じゃあ、次は……Kneel」
 びく、と反応したきり身体が固まった。これだ。プロとのプレイ中でも、他のコマンドではろくに反応しなかったのに、Kneelと言われたときだけはしっかりと不快感が残った。
「聞こえなかった? Kneel」
 二宮が黙っているのを急かすように再度コマンドされる。また、身体が固まり、握られた指先が冷たくなっていくのを感じる。
 コマンドによる強制力に身体が動かないのは二宮のプライドの高さだろうか、しかしKneel以外のコマンドでは特に拒否反応を示したこともないので、何故どのようなコマンドを受け付けなくなるのか、二宮自身もよくわかっていない。
 どのコマンドが嫌なものであるかは人それぞれですから。医者の言葉を思い出して、震える唇を開いた。
「――…れ、Red」
「っ…….!」
 口にだして、拒否したら柳瀬に呆れられるのではないかと恐れていることに気が付いた。柳瀬は顔をしかめている。こんな簡単なコマンドもこなせないなんてとプレイを切り上げられるのではと。繋いでいた手が離されて、心臓に寒風がふきつけるようだった。
「……うん。ちゃんとセーフワード言えたね、いい子だよ。やなこと言われて怖かったね、ごめんね。言ってくれてありがとう」
 しかし彼は腕を伸ばし、そのまま二宮の首に抱き着いた。拒否したことも肯定されて、後頭部を撫でられるたびに身体から徐々に力が抜けていくのがわかる。言ってよかった。彼からの言葉をもっとよく聞こうと、自然に背中を丸め体重を預ける形になっていた。
「じゃあ、次のコマンドを出すね。嫌なコマンドを出されて、どんな感じがしたか教えて?」
「……ああ。…――」
 セーフワードは、信頼関係のできていない相手とのプレイほど放った時の効果が重くなる傾向にあるらしい。Subの恐怖と、Domの苦痛。どちらかが信頼しすぎてもしなさすぎてもいけない。かといってセーフワードの練習をしないのは、二宮の場合これまでの積み重ねがごく幼い頃を除いてないから。いざという時に動けなくなる可能性があるからもっといけない。まだ知り合ったばかりだから仕方ないと前置いたうえで、少しずつ慣れていこうと、柳瀬は二宮を抱きしめながら語った。
「……セーフワードなのに、慣れればDom側も軽減されるのか」
「いてて……。んーと、苦痛じゃなくて我に返る、感じ? みたい。耳元で風船が割れたような、とか。キンキンに冷えた街でさわられたような、とか。聞いた話だからよくわかんないけど」
 抱きしめられながら、そしていつの間にか抱きしめながら。ふと浮かんだ疑問を問えば、柳瀬は胸のあたりをさすりながら答えた。伝聞調なのは柳瀬もそこまで深い相手とセーフワードが必要なほどプレイをしたことがないから、らしい。
 コマンドの何回かのうち一度にKneelを混ぜてセーフワードを言わせる練習を繰り返した。その甲斐あってセーフワードを唱えたときの恐怖と痛も緩和されたような、しないような。柳瀬のケアがしっかりされているから、誤魔化しがきいているだけのような。楽になった気がするならどれてもいい。
「……どう? ちょっと慣れてきた?」
「それなりには」
「うんうん、重畳重量」
柳瀬は大きく手を広げた。
「じゃ次で終わりにしよっか。抱っこして!」
「……」
 明確に二宮が怪訝な表情をした。が、はやくはやく、と柳瀬に催促されるまでもなく二宮の腕は柳瀬を抱える。体格差があるとはいえ、想像以上にあっさりと抱えられてしまった。
「あはっ! 匡貴は背高いからやっぱ視界変わるね! 窓からめっちゃ遠くまで見えるし、楽しい、ありがと!」
 気分がよくなったからかわしゃわしゃと髪をかき混ぜるように褒められて。ふわ、と思考がぼやけかけて。しかし直前にセーフワードを挟んだことでまだ正気を保っていた部分が理性を呼び戻した。
「……おまえ、飯食ってんのか」
「えっ……。た、食べてます...?」
 変に口調がはっきりしだした二宮に気おされ、話し方がもどってしまった。内容もあいまってどきりと悪い意味で心臓が鳴る。柳瀬の返答になおのこと肩を寄せた二宮は、パーカー越しに腹や腕をつかみまさぐった。
「ぎゃあ!! なに?!?!」
「細えし小せぇとは思ってたが、ガリガリじゃねえか」
「失礼な、二宮さんの身体と一緒にしないで! 伸びしろありまくりなんだから!!」
「にしてもこうはならねえだろ。終わったら飯いくぞ」
「ええ……? 運動部……?」
「あと抱き上げたんだから、今のだけじゃなくもっと褒めろ」
「いーん、こんな横暴なSubのパートナーになるのはじめて……」
「フン、いろんな体験ができてよかったな。喜べ」
「自信満々でとっても素敵ですね……」
 柳瀬の言葉は驚き呆れていたが、皮肉の色はなかった。



 こうしてセーフワードを使いたプレイは終わった。欲求は自覚があるほど溜まっているわけではないが、やはりプレイのあとは思考がクリアになる。二宮の綺麗な字が並んだ記入用紙は柳瀬が携帯で写真だけ撮って、原本は二宮が持っていることにした。
「え、ほんとに行くんですか?」
「さっさとしろ」
 荷物をまとめた柳瀬を追い立てるように二宮は上着を羽織る。玄関から出て歩きながら柳瀬に尋ねた。
「何が食いたい」
「えーっと……」
「焼肉は」
「焼肉……は、好きですけど……。でもぼく、食べるの遅いしそもそもそんなに食べないですよ」
「構わん。行くぞ」
 いつかのようにすたすた歩く二宮を慌てて追いかけながら、いたるところに見つける地域猫をちらほら指さす。ずっと前を見て歩く二宮がいちいち相槌を打つのが面白くて、この町は猫がたくさんいるなぁと独り言のフリをして言うと、それにも相槌を打たれたのが嬉しかった。

 店に入ると、想定していたよりもランクの高い焼き肉屋で思わずたじろいだ。しかし店内に入れば二宮がテキパキと注文を済ませ肉を焼き、柳瀬が何かしようとする前にすべてが終わっていた。皿に次々焼いた肉をのせられ食べるスピードが追いつかなくなったらどうしようと思っていたが、自己申告していたのがよかったのか、二宮は柳瀬の様子を見ながら肉を網の上にのせていたような気がする。
(……そういえば出待ちされたときもご飯に誘われたけど、会食が好きなのかな。きっと隊のひととも仲良くて、よく一緒に行ってるんだろうな)
 夏が近づいているからか、外はまだ明るかった。夕暮れのなか駅までの距離を歩く。二宮の家から出たときと違い会話はそう多くなかった。
「二宮さん、ごちそうさまでした。美味しかったです」
「ああ」
 改札前でもやはり口数は増えなかった。二宮は──柳瀬を深く知っているわけではないが、やけに静かだと思いつつも二宮自身言葉が多い方ではないのでそういうものかと納得する。結局一日仕事になったのだし、店では食べることに集中していたし、疲れたのだろうと。
 また連絡するとだけ伝えると、柳瀬は手を振り改札の中に消えていった。
 二宮と焼き肉は美味しかった。楽しかった。柳瀬が、自宅に帰るのが惜しいと感じるくらいには。



*二宮さんと出会う直前の話

「こた~~! 今日も防衛任務がんばろーね!」
「たつき」
 柳瀬は隊に所属していないフリーのB級のため、防衛任務では臨時の混成部隊で任務に当たる。担当地区は違うものの、同じ時間帯に任務に当たることになる柿崎隊の一員、そして柳瀬のクラスメイトである巴を見付け、うりうりひっつきにいく。
「まだ任務まで時間あるけど、来るのはやいね」
「家にいても暇だからさー。ボーダーに来たら誰かしらに会えるし」
 現にこたに会えたし。うりうりすると巴もくすぐったそうに笑った。
「でも言うわりにはこたも早いじゃん」
「おれは次のランク戦のミーティングもあるから」
「まじめだ~」
 ちょうど待ち合わせをしていたのだろう、巴の部隊長である柿崎と照屋が二人を呼んだのに気が付き会釈した。
「柿崎さん、照屋先輩、お疲れさまです!」
「お疲れさま」
「相変わらず仲いいな」
「へへへ~」
 照れ笑いを浮かべる柳瀬と巴を微笑ましく見ながら、柿崎が思い出したように言った。
「そうだ。防衛任務が終わったらみんなで飯に行く予定なんだが、よかったら柳瀬も来ないか?」
「行きます!」
 勢いよく手を上げて主張する。特に予定がない限り大体こうやって元気よく返事をするのが気持ちよくて、積極的に構おうとする隊員が多いのだ。今回も食い気味に主張した柳瀬に柿崎はうんうんと頷いている。
「じゃあ、シフト終わったら作戦室に…──」
 伺いますね、そう続けようとした柳瀬の言葉がふっと途切れた。遠くをじっと見つめて、全く違う話を振る。
「柳瀬くん?」
「……あそこの廊下の、さらに向こうの方って、何かありましたっけ」
「ん? いや、あの辺りは今は使われてない区画のはず……なんかあったか?」
 依然じっと見つめている視線の先を柿崎たちが追う。夕方という時間帯もあり人通りは多いが、特に問題点は見当たらない。誰がいたのだろうか。
「あっちに困ってる人がいる……って、ぼくのサイドエフェクトが言ってます。ので、ちょっと行ってきます!」
「迅さんの真似?」
「たつき一人で大丈夫? おれもついてこうか」
「んーん、とりあえず大丈夫」
「何かあったら呼べよ」
「あいあい! あとで作戦室いくんで、うい先輩にもよろしくお伝えください~!」
 ぱたぱたと去って行く小さい背中を見つめ、残された柿崎隊三名は予定通りミーティングのため作戦室へ向かった。



*出待ち事件から数日後の話

「あ、辻先輩!」
「あ、柳瀬くん」
 個人ランク戦ブース。柳瀬が孤月使いに対戦を申し込んだら、転送先で会ったのは辻だった。同じアタッカーというつながりで関わりは多いが、それにしても何故か柳瀬は辻によく懐いているため、辻は不思議に思いつつも少しくすぐったく思いつつ接していた。
 ちなみに柳瀬が辻に懐いているのは、柳瀬がスコーピオン使いである反面、辻が元々使いたがっていた孤月使いで、そのオプショントリガーである旋空とバッグワーム以外を使用しないのが「渋くてカッコいい。しかも強い」との理由がある。
 ……とは言っても、柳瀬にも年相応の憧れの先輩に対する恥じらいは持ち合わせているし、機会もないのにわざわざ言うのは気が引けるため、今のところ辻に伝える予定はないのだが。
 辻は十戦を勝ち越した後、ブースから出てきた柳瀬に思い出しついでに話かける。
「そういえば柳瀬くん、最近うちの二宮さんと仲いいの?」
「……それ、最近みんなから言われるんですよね……」
 うっと言葉を詰まらせて、少々疲れたようにため息を吐いた。辻にとっては懐いてくれている後輩と隊長が仲がいいとなんとなく嬉しい、という気持ちがあったが、どうやら柳瀬は辟易気味のようだ。二宮のことをどう思っているかというよりは周りの対応に疲れている様子だが。
「ええと、ちょっとご縁があって話す機会があった、みたいな?」
「そうなの……?」
「辻先輩こそ、二宮さんから話聞いてないんですか?」
「詳しくは……」
 噂されている目撃情報は「二宮隊の隊長がフリーのB級の中学生の腕をつかんで呼び止めていた」というものだった。真偽の確認のため辻は(というか辻が尋ねる前に犬飼が面白がって)二宮から話を聞いたのだが、あまり詳しい話はされなかった。知っているのは行動自体は本当であることと、少し話をしたということだけ。
 すわ欠員補充のスカウトか、それともカツアゲかという冗談のような噂はさておいて、必要な情報であれば比較的共有する二宮から聞かされていないと言うことは、つまり個人的な事情なのだろうと辻はあたりをつけていた。前者であれば辻や犬飼、氷見が聞かされていないはずはないし、後者はそもそもありえない。
 故に柳瀬に尋ねたのだが、彼はもにょもにょと口をもごつかせたあと「二宮さんが話してないなら、ぼくが話していいことではないので……」と事情の説明を拒んだ。ということは柳瀬側の事情というよりは、二宮側の事情なのだろうと察せられる。どうしても知りたいと言うわけでもなくただの世間話のつもりだったので、そっか、とすぐに切り上げて、まだ続けるか休憩するかを尋ねようとしたところでふと柳瀬が呟いた。
「でも、あれですね。二宮さんとまともに喋ったのっていままでなかったですけど、あの人ってすごーく……律儀、っていうか、丁寧? な人ですね」
「えっ」
 言葉を選んでいるのか、首を傾げたところで柳瀬の端末が震えた。内容は"飯行くぞ"のひとことのみ。
「……あ。すみません、マサ……影浦先輩に呼ばれてるのでもう行きますね。対ありでした!」
「あ、ああ。うん」
 辻が驚いている間に、彼は一礼し去っていった。

 言葉を溜めたところで、冷たい、と続くのかと思っていた辻は感慨深げなため息をついた。
 二宮は、端的に言うと誤解されやすい。主な原因は表情があまり変わらないことと言葉が足りないところにあり、辻は理解し慣れた上で一緒にいるがたまに第三者からの二宮評を聞くとそう思えるのだな、と思うことがあった。そのような印象になるような振る舞いをしているのは二宮自身なのだし、特に否定も肯定もせずスルーすることが常だったのだが。
 故に、柳瀬からの意外な評価に驚いた。
(……一体どんな話をしたのか、余計に気になるな……)
 無論、二宮からも柳瀬からも、無理矢理に聞き出すつもりなど毛頭ないけれど。


2023/05/20