蜜柑とアイスの共存

ぼくのSubの二宮さんがあまりにもズルすぎる


※二宮さん(19歳)が夢主(13歳)とほっぺちゅーしてます


 自分ではどうにもならない焦燥感に追い立てられる。ここ最近は特に〝コントロール〟が上手くいかない。いつでも、何をしていてもふと気を抜いた瞬間に襲われる。
 頭痛、耳鳴り、目眩、吐き気。それ以外にも様々な不調を訴える泥のように重い身体を引きずって、二宮は浅い呼吸を繰り返していた。ボーダー本部の訓練室からも、各隊作戦室が並んだ区画からも外れ、人気の少ない場所を選んできた。
 ここならだれにも見つからないだろうと、更に念を入れて適当な小部屋に身を隠す。人気のなさ故に非常灯くらいしかついていないここをピンポイントに入ってくる者もいないはずだ。浅い呼吸を少しでも本来のものへ近づけようと深く息を吸って、ままならない身体とろくに回っていない頭を自覚しながら内心で舌打ちした。
 防衛任務の時間まであと一時間ほどしかない。それまでになんとか体調を落ち着かせて、二宮隊の部屋まで戻る必要がある。理解はしているものの気ばかり急いているせいか中々思うようにはいかなかった。
(――…クソ、何故こんなタイミングで……)
 己の呼吸音がうるさい。意識さえもかすれかけたところで、背後から物音を聞いた気がした。
「……息、できる?」
 二宮ただひとりしかいないと思っていた場所で第三者の声が聞こえた。ぴくりと反応し立ち上がろうとしたところで止められた。
「立とうとしなくても、いい。わかる? わかったら頷いて」
 無性に惹かれてしまう声だった。聞き慣れた声でなければ落ち着いた声でもない少し緊張したようにも聞こえる声なのに、二宮は直感で理解した。これは″コマンド″を使っているときの声だ。砂漠の中のオアシス。大海の中の救助船。たとえるならばそんなものに感じた。質問を理解して言われたまま浅くうなずくと、その手は肩から首、頬をつたって二宮の頭をぎこちなく撫でた。
「うん。いい子、言うとおりにできたね、えらいよ」
 撫でられただけなのに、幼子にするように褒められただけなのに。普段であれば侮られているのかと不快にさえ思うだろう言葉が、やけに奥の方へ響いた。もっと褒められたい、指示通りこなせるのだと、己の能力を見せつけたいという欲求が湧いてくる。呼吸は依然浅いが胸に重く沈んでいた不快感が軽くなった。
 息苦しさもあってかすむ視界の中、蜘蛛の糸のように思えたそれを二宮はしっかりとつかんだ。その力強さに目の前の相手は一瞬手を引きかけたが、思い直すように堪えてまた尋ねる。縋るように項垂れた二宮はその逡巡に気づかない。
「っ……あなたの、お名前は?」
「……に、……――ひゅっ……げほ、……っ!」
 続けられた問いにすぐ答えようとしたが、声が喉へ張り付いたように言葉が出ない。少しは楽になったと思ったがやはり思うように身体が動かない。すると、少しは晴れたと思っていた息苦しさが再び無数の棘となって二宮を内から突き刺す。
 これだ。二宮は思った。はじめは小さかっただけの違和感も、これの繰り返してここまで二宮を消耗させた。
「大丈夫、まだ初めてだもの、叱らないよ。じゃあ、代わりにこっちの手を握って? 上手に出来たら褒めてあげる」
 二宮が強く握りしめているのとは別の手を出した。かたかたと震える手を何とか伸ばし、すでに握られている手とは違って、長い時間をかけて差し出された指先をやっと掴んだ。ああ、今度こそできた。
「うん、うん……! よくできました」
 その声は、ともするとコマンドを出されて行動した二宮自身よりも嬉しそうで。息苦しさとは別に、驚きで一瞬自分の呼吸が止まったのがわかった。声の主が小さく、いい子、よくできたねと褒めるたびに二宮の呼吸は楽になっていく。続けられるうちにふわふわ微睡んでいるような心地になった。
 何度か繰り返した頃、二宮の呼吸が次第に落ち着いたのを見計らってまた尋ねられた、あなたのお名前は?
「……に、にの……みや、まさたか……」
「……まさたか! ……うん、二回目できちんと答えられたね。すごいよ、まさたか。頑張ったね」
 握った手ごと頭を抱えるように抱きしめられた。父や母にすら長いことされていない行動が、どこの誰ともわからない相手にされている。安心を覚えつつも混乱するうちに、さらにつづけられた。
「まさたか、聞いて?」
「……、ん……」
 ゆっくりと頷いた。先ほどとは違う意味で思考が鈍っていくのがわかる。酩酊感にも似たものだ。まぶたが重い。けれど意識はしっかりと相手の言葉を聞こうとしている、耳鳴りはもうほぼ聞こえなくなっていた。
「息苦しくなったのは、疲れてたから。でも一回寝たら大丈夫。起きたらもう元に戻ってるから」
「――…戻る、のか?」
「うん、そう。ちゃんと戻ってるから、大丈夫だよ」
 だからおやすみ、そう聞こえて安心すると、急激に眠気が襲ってきた。
「……、ぁ、待て……おまえ、名前は……」
 手繰り寄せた理性の端でかろうじて名前を尋ねながら、しかし二宮の意識は途絶えた。通りすがりの人物によって辛うじてSub drop状態からは脱せられたものの、疲労が溜まり続けた結果の事態だ。
 その声の幼さにも、手の小ささにも。二宮の気が回らないのは仕方のないことだった。



「……っ、待て!」
 がばっ。起きたら見慣れた作戦室だった。そして、二宮隊隊員三名と目が合った。
「二宮さん!」
「目が覚めたんですね」
「痛いところとか、気持ち悪いとかないですか?」
 そして瞠目した。しばらく無言のまま頭を回転させて……「俺はどうしていた?」珍しく曖昧な問いを投げかけた。
 顔を見合わせた犬飼、氷見、辻のうち、犬飼が代表して答える。
「ノックが聞こえて、返事しても誰も入ってこないから変だなーって思ったから外見たんですよ。そしたら、二宮さんが壁にもたれかかってたんです」
「壁に?」
「はい。倒れたのかと思ってびっくりしたんですけど、それにしては普通に寝てるよね、ってなって」
 犬飼と目が合った辻が言葉を引き継いだ。
「まだ任務まで時間があるし、医務室よりはこのまま寝かせた方がいいだろうと思って」
「――…待て、今何時だ」
「あと十五分以内に出れば間に合います」
 任務のことを思い出し時間を確認すると、Sub dropから何者かに掬われてからそう時間は経っていなかった。二宮は思い出そうとするが、ただでさえ体調が悪かったところに部屋の暗さもあったためうまく思い出せない。二宮は膝をついていたとはいえ、そこまで上背のある相手には見えなかった。それに加えて声も低くはなく、むしろ高いくらいだったはずだ。
 知り合いどころか通りすがりの間柄で信頼関係も何もないところから、二宮のSub dropを掬えるだけのバランス感覚を持っている人物。ダイナミクス性はごく個人的な分野であることからあまり公言することはないが、それでも密な付き合いがあればなんとなく把握していくことでもある。条件に合わない人物をまず除外しながら、次に条件に合いそうな人物像を思い浮かべる。呼吸を整えてベイルアウト用に用意されたベッドから降りた。
「……そうか、大体理解した」
「……二宮さん、体調は本当に大丈夫なんですか?」
 氷見から鋭い視線が飛んでくる。とはいっても冷たさを含んだものではなく、二宮を気遣う温かさをもって様子を探るような鋭さだった。
「ああ。問題ない」
 二宮は頷いた。その言葉に偽りなしと判断した三人が目配せして浅く頷く。
「じゃ、今日も防衛任務頑張りますか!」



「柳瀬たつき」
 本部から帰ろうとしていたところで名前を呼ばれ、つい顔を上げてしまった。はるか高い位置にある彼の顔を見て、あっ、しまった。そう思い顔を下げて聞こえなかったフリをしようとするも、当然の如く失敗に終わった。
「……なぜ逃げる」
「……ええと、いや、なんとなく……」
 柳瀬は曖昧に誤魔化したが、二宮隊のスーツ姿で出待ちをされて圧を感じ逃げたくなった、というのが本音だ。二宮とてそこは本題ではない。特に問い詰めることもせず柳瀬に尋ねる。
「先週、俺と会っただろう」
「……何のことですか?」
 もちろん柳瀬には何の件か聞くまでもなく覚えがあった。とは言えあの暗闇の中では誰がうずくまっていたのかまでは分からず、人命救助の観点で駆け寄ったのがきっかけだった。Sub dropに陥っていることを察知し、たまたま自分がDomだったためケアの為に呼びかけた。相性がよかったのはまったくの偶然だったし、名前を聞いてあの有名人だと気付きその場で変に驚かなかった自分を帰路で褒めてやったくらいだ。しかし、それでどうして二宮が柳瀬を訪ねてきたのかがわからない。
 すっとぼけたのは二宮にもわかるほどあからさまで眉を顰めると、睨まれたと思った柳瀬が肩を振るわせた。
 ポケットに入れていた手を伸ばし、柳瀬の左手首を捕まえる。
「……あっ!」
 パーカーの袖を捲られそうになって、ようやく意図に気付いた柳瀬が振り払おうとするが間に合わない。そもそも生身の柳瀬とトリオン体の二宮ではパワーが圧倒的に違う。
「これは?」
 Sub dropに陥った二宮がつけた跡がかすかにだが残っていた。しまった、という表情隠さずやがて柳瀬は観念した。
「……はぁ、そうです。先週、ぼくは二宮さんに会いました」
「おまえは……」
 二宮が言いかけて、あたりが俄かにざわついているのに気が付いた。少し前までA級隊員として活躍していたが、同じチームの隊員が隊務規定違反を行った連帯責任として、B級に降格されたばかりのチーム隊長が中学生の腕を掴んでいる。体格差も相まってあまりいい絵面とはいえなかった。
「……この後用事は」
「……家帰って寝るだけです」
「ついてこい」
 踵を返しスタスタと歩いていく。有無を合わせぬ様子に柳瀬は小走りで二宮のあとを追いかけていった。

 ガコン、自販機が音を立てた。無言で差し出されたお茶を受け取りぺこりと頭を下げる。
「いただきます」
 二宮は自分のドリンクも取り出して柳瀬の隣に腰掛けた。人の声は聞こえるが少し遠く、やはり人通りの少ない場所を選んだ。
「柳瀬たつき」
「……はい」
「三門市立第二中学校二年、B級アタッカー、スコーピオン5700点、入隊時は…──」
「?! ちょ、ちょちょ、っと、待ってください!」
 二宮が諳んじたのはこの一週間で調べた柳瀬についての情報だった。口に付けていたお茶を吹き出しかけた彼は口元を乱暴にぬぐい尋ねる。
「隊員ファイルでもみたんですか、なんでそこまで詳しく……」
「おまえのことは調べさせてもらった」
「……え? もしかしてぼくは脅されてるんですか、それともこれから脅されるんですか?」
「どうしてそうなる」
「ど、どうしてもこうしても……..」
 数秒みつめあって、眉を寄せた二宮がため息を吐いた。吐かれた柳瀬は今すぐここから逃げ出したかった。
「社会人か大学生か、少なくとも高校生かと思っていた。だから女性隊員を中心に探していたが……」
「……?」
「まさか中学生だったとはな」
「? あ、ああ……すごく辛そうだったけど、よく探し出せるほど覚えてましたね」
「おかげで一週間もかかった」
「も……?」
 ボーダーの人員はC級隊員まで含めると膨大な人数になる。加えて戦闘隊員だけでなくオペレーターやエンジニアまで含めるとさらに人数は増えるため、その中からただ一人を探し出すのは決して容易な作業ではなかったはずだ。ある程度条件を絞り込んでいた様子だが、その条件も本来のものとは異なっていた。それをわずか一週間でやってのけたうえでの表現につい首を傾げる。
「……どうして名を名乗らずに立ち去った」
「え、っと……名乗るほどの者では……? 換装すれば人ひとりくらい運べますし、二宮隊の部屋も近かったので……それに、あなた方の隊長のケアしてました、とは中々……。ぼくも気まずいですけど、二宮さんと隊員さんたちはもっとでしょう。……他の誤魔化し方をしようにも、まぁ、先ほどの通り、あまり誤魔化すのがうまくないたちですし……」
「――…なるほどな」
 少し考えて納得した様子の二宮にほっと息を吐いた。どうやら怒られることはなさそうだ。この威圧感もあるが、年上からの呼び出しにはつい教師からの呼び出しを思い出して。何かやましいことをしているわけでなくともやけに緊張した経験を彷彿とさせた。
「柳瀬」
「は、はい」
「礼を言う。助かった」
 ストレートに感謝の言葉を伝えられ、ぽかんと口を開けた。しかしすぐはっと我に返り手と首を振る。
「あぁ、いいえ! ほんとに、緊急時でしたし。大事に至らなくてよかったです」
 二宮はつられて、先ほど袖をまくった腕をちらりと見た。
「……それから、腕のことも」
「き、緊急時でしたし……!」
 先ほどとは別の緊張が走った。叱られるのはもちろん嫌だが感謝されてもそれはそれで恐縮してしまう。もちろん無事でよかったという安心感と、感謝されたという高揚感はあるのだが。それから、先ほど脅されるのかと尋ねた罪悪感も迫ってきた。柳瀬の脳内は若干キャパシティがオーバーしている。
 しかし、こんな興奮もずっと気がかりだったことをひとつ思い出してふっと熱が下がったような心地になる。言いだそうか少し迷って、二宮がその様子を察知したのか尋ねられたことでようやく口を開いた。
「……あの、ほんとにお節介だとは思うんですけど。あそこまで落ちるのって大丈夫なのかな、って……それで、ええと……もしかしたらこの間除名になった人が、二宮さんのパートナーだったりしたのかな……みた、い、あ。や。なんでもないです」
 二宮の纏う空気が剣呑なものになったのを察知して柳瀬は言葉を切った。しかし一度口に出した言葉を戻すことはできない。調子に乗ってデリカシーに欠いた発言をしたのは己なのだ。結局怒らせてしまったと肩を落とした。
「気色の悪い妄想をするな」
「ええ、あぅ……はい。ごめんなさい……」
 しかし否定されたとなると、ではなぜ二宮がSub dropに陥っていたのかという疑問が残る。口は閉ざしたものの疑問の残る柳瀬の視線に口を開いた。
「俺は、今まで落ちたこともないし、そもそもプレイしたこともない」
「──…それは、する必要がない体質、ってことですか?」
 DomでもSubでもSwitchでも、日常生活を送るうち次第に欲求が溜まり、溜まったフラストレーションを解消するためにプレイをする。プレイが必要な頻度も強度も個人やパートナーごとに様々だが、十何人に一人かの割合でまったく、もしくはほぼプレイの必要がない者も存在する。端的に尋ねた柳瀬に二宮はうなずいた。
「ああ……だから、気付くのも遅れた」
「そうだったんですね……」
 こういった体質は時には変わることもある。環境が大きく変わったり大けがをしたり、本人にとってそれが良いものであれ悪いものであれ、大きなストレスを受けた際に現れるといわれている。そこまで思い出して、ん? と柳瀬は首を傾げた。二宮との面識はこれまで全くなかったため強い部隊の隊長、ぐらいの認識をしていたが、それでもさっき尋ねた通り一名が除隊になった事件はボーダー内でもその噂を聞かない日はなかった、というか現在進行形でされているほど有名な話だから知っている。しかし逆に言うと、二宮の周辺情報に対してはそれぐらいの情報しかない。ボーダー外の個人的な事情が理由なのかもしれないが、柳瀬の思考は時期的にもやっぱりそれが原因なのでは……という方向に行く。今回は口に出さなかったが視線は雄弁に語っていた。その視線を受けた二宮は先ほどと違い否定せずにただ黙殺する。
「……まぁ、大方の見当はついてるが、原因が分かったところで体質が元に戻るわけじゃない。が、ひとまずは処方された薬も、Sub向けの面談の予定もある」
「おお、それは何よりです」
「……そういうわけだ。世話になったな」
 言うなり立ち上がって、飲み切った缶を回収ボックスに入れた。柳瀬は返事をして、それから驚いた。
「はい。……え?」
「なんだ」
「今日の用事って、それだけですか?」
「……飯でも行くか?」
「えっ?! や、逆です、逆!」
 勢いよく首を振ると二宮はいぶかしげに眉を寄せた。慌ててなんでもないです、ごちそうさまでした。そう言うと彼は不思議そうにしていたが、すぐ踵を返し廊下の角を曲がっていった。
 まだ少し残っている缶を揺らして、柳瀬は半ば早然としていた。ただ礼を言うためだけに、膨大な人数の中から柳瀬ただ一人を特定した。それだけではない。本来ならば話す必要もなかったごく個人的なことを、説明のために一度会っただけの他人へ語った。あれは彼なりの謝意と誠意のあらわれだったのだと、立ち去り際の言葉ではっきりと理解できてしまった。
「……二宮さんって、…….ものすごく、律儀なひとなんだな……」
 誰に言うでもない独り言をぽつり落として、
「……脅されるとか言ったの、ほんとうに悪かったな……」
 そしてやや落ち込んでいた。
 しかし聞いた内容によると、二宮の言う通り事態は好転しているようだ。Sub dropに陥いっていた二宮のケアをして、ある程度、もう大丈夫だという確信が持てたからこそ扉の前に置いてきたのだが。やはりその後どうなったのかは気がかりだった。実際彼は元気だったし、人助けして良かったー! そんな達成感のままほくほく顔で布団に入り、それ以降柳瀬はいつも以上に個人ランク戦に精を出していた。
 いたのだが。



「柳瀬」
 数週間後。ランク戦を一通り終えてブースを出たところで腕をつかまれた。見上げると、しばらくぶりに見た顔があった。
「――…にの、」
「こっちだ」
 声色は硬くつかんだ手の力は強かった。前回出入り口で待たれていたときと同じく、有無を言わせない様子に柳瀬はただならぬものを感じて何も言わずについていく。
 ブースには人の目があり、作戦室には隊員がいる。訪れたのは、二宮が柳瀬にケアされたときと同じような、半ば物置と化している空き部屋だった。前回と違うのはしっかりと電気をつけたこと。
 トリオン体の換装をとき、途端に怠そうに手をついた彼がどのような状況になっているのかすぐ思い至った柳瀬はひゅっと喉を鳴らし、叫びたい衝動を堪えた。
(……な、なんで良くなってないの?!)
 立っているだけで辛そうなうえ、顔色だってお世辞にもいいとはいえない。何のケアも受けずに放置されていた前回のSub drop時よりはましだが、あくまでも比較対象が最悪中の最悪だから「まし」という評価にとどまっているだけで、現在の二宮は十分最悪の範疇に入ってしまう。
「ええと、ひとまず……..」
 二宮にならって換装を解こうとしたところで、察知した二宮に止められた。
「待て。おまえは換装したままでいい」
「うん? ……そうですか? ええとじゃあ。前回は決める余裕がなかったですけど、セーフワードはどうしましょうか」
「……ああ、ならこれでいい。セーフワードは″トリガー″だ」
 柳瀬が首を傾げている間に、二宮は手に持っていたトリガーホルダーを机に置いた。
 医療機関からつなげられる支援の一つに、専門の資格を持ったプロが行うDom、Sub向けの面談がある。平たく言うと公的機関の提供する医療用プレイだ。それまでしたことのない行動とはいえ、直近で利用していた二宮はセーフワードの設定をこの数週間で何度も繰り返していた。特に悩むことなく目についたそれを採用し、柳瀬も心得たとばかりにうなずく。
「わかりました。……じゃあ、とりあえず座りましょうか、二宮さん」
 二人とも表情には出さなかったが、プレイ開始の合図として指示を出したこの時点で違和感があった。しかし、その正体がはっきりとわからずそのまま続行させる。部屋に備え付けられた椅子で机をはさみ、緩慢に奥の席へついたのを確認してから柳瀬は二宮と目を合わせた。
「二宮さん、話せますか?」
「……ああ」
「じゃあ、この前ぼくにした、病院の話を詳しく話してください。話しにくいところは飛ばしていいので」
 二宮はうなずいてゆっくりと話し始めた。薬は処方されてからきちんと飲んでいた。面談は、プロといえど相性が最重要なため決められた時間の中で何人かとのローテーションを組み、その中から一番合う者を選んで二回目のセッション。という方式になっていた。複数回面談をすれば多かれ少なかれこっちは合う、こっちは合わない、がなんとなくでもわかるという説明だったが、二宮はどの相手に対しても全くピンとこなかった。医者の説明ではレアケースではあるがそれなりにある話らしい。それでも今まで誰ともプレイをしてこなかった二宮の経験不足を加味して、セッション相手の報告を参照するもこちらも手ごたえなし。
 二宮自身の、初対面の相手に身を預ける能力の問題かもしれないと思い至り、苦肉の策として信頼の置けるDomにプレイを依頼したがそれも焼け石に水程度の効果しかなかった。
 だから限界が来る前に、また柳瀬を頼ることにした。
「薬は? ちゃんと効いてますか」
「効いていなければ、もっと早く限界が来ていただろうな……」
「そっか……今日まで大変でしたね」
 はぁ、と重い息を吐く。ため息というよりしゃべり疲れたが故の乱れた呼吸だった。一通り話し終えた二宮が柳瀬を見つめ、ん、小さく催促する。
「おまえの言うとおり、話したぞ」
「! ……っそ、う、ですね。二宮さん、話してくれてありがとうございます。セッションも、頑張りましたね」
 手を伸ばして、額から頭へ滑らせる。年上の相手の頭を撫でるという中々ない経験に柳瀬はドキドキしていたが、その高鳴りもすぐに引っ込む。──やはり、何かがおかしい。
 凍った地面に不用意に足を踏み入れてしまったような、上滑りしているような感覚。プレイ中特有の"繋がっている"感覚が全くと言っていいほどない。柳瀬が違和感を伝えるよりも先に二宮が口を開いた。経験が前回一回きりの彼ですらはっきりとわかる違和感だ。
「──…おい、何も感じないが」
「うぅっ……! その言葉はDomに効く……!!」
 Domはダンスで言えばリード役だ。Domのコマンドや褒めに対してSubが心地よい状態になれないということは、リードが上手くいっていない証拠。リードの上手くない相手に体重を預けることは出来ないし、二宮の言葉はつまりそのまま「下手くそ」という意味になる。
 胸を貫いた言葉に柳瀬は顔をしかめるがつらいのは二宮の方だ、両手を机の上に置き、「握ってください」指示をした。二宮はためらいなく、ゆっくりと行動に移すが、やはり本来のプレイとは明らかに異なっていることはお互い分かっていた。相変わらず繋がっている感じがしない。
 今の二宮の行動はコマンドによる強制力が働いている訳ではなく、Sub dropの手前まで来ている状態から一刻も早く解放されたいという自主的な行動だ。そもそもコマンドとして機能していないから柳瀬のケアが機能しなくとも不安定にはならないが、かといって事態が改善されるわけもない。
「……ぼくのコマンドも効かなくなってる? いや、でも……なんで……」
 しかし焦ったとていい考えが浮かぶはずもない。落ち着かなければと頭では分かってはいるが、二宮がつらそうに喘ぐたび焦りが積もる。
 もう一度コマンドを出そうとしたところで、廊下から賑やかな声が聞こえることに気が付いた。その声は随分と近く、彼らが離れるまで息を落ち着けようと深呼吸した。が、二宮と柳瀬のいる部屋の扉が開けられ、くぐもっていた彼らの声が明瞭になり驚きで肩を揺らす。

「電気ついてるし……ここか。……まったく、隊長も人使い荒いよな」
「まあまあ。そんなに量が多いわけでもないし、二人で運べばすぐだって。何がいるんだっけ?」
「ええと…──」

 物が多いせいで、既に部屋を使用している者がいたことに彼らは気付いていないようだ。しかし柳瀬からすると弱っている二宮を他者の目に触れさせるわけにはいかないと、音を立てないように立ち上がる。万一覗き込まれても盾になれる位置を取ったのと、二宮が自分のトリガーホルダーを手にしたのは同時だった。
 無言のまま換装すると、顔色は嘘のようによくなった。しかしそれはように見えるだけで、異空間に保存されている二宮の身体はずっと不調のままだ。部屋の出入り口を見据えそのまま立ち上がろうとする二宮に小声で叫ぶ。
「──…だめっ!」
 すとん、二宮の膝から力が抜けた。──繋がった。目を見合わせた二人だが、二宮の行動にカッとなった柳瀬は感情のまま詰め寄る。
「二宮さん、今、出て行こうとした? いくらトリガー体だからってぼくとのプレイ中に……っ~~! あーバカバカ、違う、今のナシ! ……か、隠れる、ます、よ!」
 背後から近づく物音に柳瀬は慌てて首を振り、ぎこちなく言い切って二宮の腕をぐいぐい引っ張った。部屋の奥まで連れていき、少し覗いたくらいでは分からない位置に二宮を座らせる。
「ここで待ってて、ください。奥に来ないように話してきます、から……」
「……おい」
 身を翻そうとする柳瀬のジャージの襟元を強引に引っ張った。額がぶつかりそうなくらいの距離で、いつの間にか換装を解いていた二宮は顔をゆがめ囁く。
「中途半端なことしてんじゃねえ。俺に──命令しろ。DomならビビってSubに主導権を渡そうとするな、切り上げて出て行かれるのが嫌なら……おまえが持っていろ」
 そう言って、トリガーを柳瀬に押しつけついでに身体を離した。言い方はどうあれ、命令を請われている事実にぞくぞくと痺れるような感覚が伝わってくる。押しつけられた二宮のトリガーを握りこみ、今度は柳瀬が身を寄せた。壁に手をつき、瞳の奥まで覗けそうなくらいに近付き囁く。
「──…ぼくが戻ってくるまで、物音を立てずにここでいい子にしてること。……守れるよね? 匡貴」
「……っ、ぁ……、ああ。守、れる……」
 その会話で、互いの瞳が揺らいだのを見逃さなかった。数週間前、暗い空き室の中で感じた初めての昂ぶりが再現されている。柳瀬が二宮のトリガーを服に隠し、普段は安穏な瞳を一変させ、ぎらついた瞳をさらに一呼吸で落ち着かせているのを見た。二宮の視界がぐずるように歪む。
 柳瀬が、一歩踏み出した。置いて行かれることに引き留めたい衝動が暴れるが、指示を繰り返し思い出して耐える。──耐える。たった十秒がもっとずっと長い時間に思える。やがて、闖入者と会話するのが聞こえた。

「こんにちは、何かお探しですか?」
「っ?! あ、あれ? 人がいたのか、全然気付かなかった」
「ごめんなさい、ぼくちょっと休んでて……」
「こっちこそごめんね、電気がついてたからてっきり、うちの隊長が前もって付けてたのかと……」
「何か必要なものがある、って聞こえたんですけど……?」
「そうそう! おれたち、新しく隊を作ったから作戦室に置くものをひとまず持って行こうと思って」

 リストを見せられたらしい柳瀬が「これ奥の方で見ましたね、持ってきますよ」と言うと彼らが感謝の声を上げるが、親切心よりも二宮を隠す意図が大きい。柳瀬の足音が近づくにつれ二宮は膝に爪を立てた。
「──…あ、あった」
 柳瀬は、ちらりとも二宮を見ようとはしなかった。背を向けているわけでもないから二宮の視線にはっきりと気付いているだろう。いつまで待たせるんだ、はやく戻ってこい、俺を見ろ。雑念と寂寥感で満たされてしまう。けれどしっかりと伝えられたコマンドを思い出して、息を殺す。どうしようもないほどのわびしさはプレイが始まるずっと前から続いていたのに、コマンドがあるだけで、"ご褒美"が与えられると信頼できていることで、寂しさの傍らこんなにも安心できることは知らなかった。
 二宮は、ダイナミクス性がSubのチーム隊長だ。一般には隊長など上につく者はDomが向いていると言われがちだが厳密には違う。
 Domが隊長の場合、指揮役として隊員に行動を支持し、隊員がこなすことで褒美を与える。隊員がSubの場合は受けた指示を的確にこなし褒美をもらう。これが典型だ。一方でSubが隊長の場合、共通目標であるチームを勝利に導くことを奉仕として、達成されればチームメンバーから得られる承認が褒美となる。
 微細なフラストレーションの解消であれば、なにもプレイに限らず全人類が意識無意識にかかわらずしていることで、"プレイが全く、あるいはほぼ必要のない人物"もそのような行動を通して欲求を解放していることはよく知られている。
 支配と奉仕は表裏一体。お互いの信頼がなければ成り立たない行為。というのが近年盛り上がっている、ダイナミクス性のありかただった。
 二宮の側から柳瀬が立ち去り、漏れそうになる声を手で塞ぐことで抑える。手の震えは相変わらずで呼吸が浅くなるにつれ感覚は鈍くなっていく。しばらくして闖入者たちは必要なものを取りそろえたらしく、柳瀬に礼を言い立ち去っていった。扉の閉じる音、そして、鍵の音がした。柳瀬が戻ってくる。しかし彼の足音よりも、己の心臓の音の方がずっと大きいと二宮は感じていた。
 すぐ横で足を止めた。見上げようとするが上手くいかない。さらに首を曲げようとする前に、彼が膝を折った。

「……終わったよ、頑張ったね」

 ぐら、多幸感で目眩がした。その一言のために、長い時間を堪えていた。だが同時に、足りないとも思う。己の働きにはもっと褒美が与えられてしかるべきだと二宮は確信していた。そんな様子を察した柳瀬はぎらつきを取り戻した瞳を細めて、熱い吐息を零した。汗で張り付いている髪をよけ手の甲で頬を撫でる。
「言いつけ通り、いい子にしてたね。ぼくがこっちにきても、わざと無視しても静かにできてたね。いい子、さすが、ぼくのSub」
 繰り返し撫でられて、言葉をかけられる。じわじわと浸透していく。ああそうだ、これのためにずっと堪えていたのだ。そして、最後の一言にはひときわ強く心がかき乱された。プレイ中の定型文のようなものだということは理解しているが、定型文になるほど効くセリフなのだろう。
 次第に二宮の潤んだ瞳が、夢見ごこちにとろけていくのを柳瀬は観察していた。小さく名前を呼べば、喘ぐように声を漏らす二宮に庇護心があふれて止まらなくなっていた。
「匡貴」
「……、ん、……」
「ぼくも匡貴も、頑張ったでしょ? だからご褒美にちゅうしよう、場所は匡貴が決めていいよ、匡貴がしたところに、ぼくもしてあげるから」
「……」
 ほぼ閉じられていた目が、ゆっくりと開けられる。じ、っと穴が開くほど見つめられて、やがて二宮が身を乗り出して、柳瀬の頬に唇をかすらせた。
「……、……ふ、うふふ。えへへ。いまの、あいさつ?」
 頬も心も、どちらもくすぐったかった。肩を揺らして笑うと二宮はん、とまた催促をする。二宮がしたように、柳瀬も彼の頬に唇を押しつけた。機嫌良く笑っている柳瀬を見て彼の気分も更によくなっていく。
 何往復か同じ場所にキスをして、お互いやっと落ち着いてきたところで二宮の頭を撫でながら尋ねた。
「ね、疲れてない?」
「……、つかれた……」
「うん、そうだよね。じゃあごろんしよっか」
 よく分からず首を傾げた二宮に対して柳瀬は既に上着を脱いでいた。二宮から少しだけ離れてその間に上着をしいて、彼の腕を引く。特に抵抗もなく膝の上に頭が収まった二宮は、位置を調整しているのか何度か動いたがすぐにふ、と息を吐いた。
「こうしてくっついてるの、ぼくは好きだなぁ」
 答えは求めていない独り言だ。額を撫でたあと、大事に隠していた二宮のトリガーホルダーを取り出し、彼に握らせる。
「これ、ぼくたちにとって命綱みたいなものでしょ。よく、ぼくのこと信頼して預けてくれたね、ありがとう」
「……ああ、……」
 うとうとまどろむように目を細めていたが、続いた言葉にわずかに目を見開いた。
「……鍵かけてなかったのって、ぼくの注意不足もあるけど……わざと、だよね。自分だけ換装を解いたのも、奥に座ったのも。……腕の跡のせい?」
「……、」
 少し迷うように口だけ動いたのを聞き返した。
「うん? なぁに」
「……そんなことに、気付かなくていい……」
「やっぱり隠そうとしてたの? 悪い子だ」
「……」
「えへへ、うそだよ。ぼくのこと気づかってくれてたんだよね。……いい子だよ、いい子。だいすきだよ、まさたか」
 穏やかな声で繰り返しながら、二宮の髪を梳いていく。部屋に入ってきた二名を覗いて誰も通りがかることのないこの部屋は隔絶された場所にさえ感じる。目を閉じて、ただ彼の指の感触を享受していた二宮はいつの間にか眠っていた。



 眠っている間も柳瀬はずっと待っていたらしい。どこかぼやけた頭で時間を尋ねると一時間ほど眠っていたようだが、体感では一晩ぐっすり眠った時のような感覚がする。換装をして瞬時に黒スーツ隊服姿になった二宮を、もの言いたげに柳瀬が見上げた。
「なんだ」
「……あの、ええと……今はいいんですけど、トリガーオフするとき、気を付けてくださいね……。なんというか、ぱやぱやしてたので……」
「……寝癖か?」
「いや……雰囲気が……」
「……? そうか」
 多分わかってないな、察した柳瀬は「鏡のあるところでトリガーオフした方がいいです」とだけ伝えた。頷いた二宮を信用するほかない。
 空き部屋から出て、相変わらず人気のない廊下を歩く。
「もう帰るのか」
「そうですね、明日の防衛任務が早いので。二宮さんは?」
「俺は作戦室に戻る。……柳瀬、端末を出せ」
「え……、なんでですか?」
「毎回ブースまで迎えに行かせる気か?」
「……ああ、はい。そうですね……、めちゃめちゃ注目されてたし……」
 出待ち事件からしばらく、見知らぬ者にはひそひそ噂をされ、友人達には面白がられたり心配されたり色々だった。絡んでくる友人たちにも内容が内容なので事情を言えるはずもなく、しかし嘘をつくには下手すぎるので曖昧に返事をするしかない。今日のことでまたいじられる日々は続きそうだ。
「……嫌とかじゃ全然ないですけど、二宮さん、ぼくと関わり続ける気があるんですね。……まあ代わりの人もいないもんな」
「……代わり? 俺のDomはおまえだろう」
 さらり答えた二宮に驚き、取り出した端末を落とした。廊下をカラカラ音を立てて滑っていく。立ち止まった柳瀬に対してそのまま歩いて端末に追いついた二宮が拾い上げ、連絡先を登録し柳瀬の手へ戻した。
 じゃあな、それだけ言って、依然固まったままの柳瀬を置いて去っていく。プレイ中の柳瀬の言葉を間に受けたのだろうか。否、嘘のつもりで言ったことではないけれど、歳の離れた二宮があれを本気にするとは、柳瀬には到底考え難かった。
 なら揶揄われている? それも考え難い。体調不良の中柳瀬のためにあれこれ気を回していたのだし、しかもやり方だって器用とは言えないものだった。
「……何であのひと、あんなずるいの……?」
 意図はわからない。ただ言われたことだけがずっとリフレインしている。柳瀬はしばらくそこから動くことができなかった。


2023/05/13