蜜柑とアイスの共存

満月シロノ

おかあさん

 知らない人間に出会っても極度の緊張状態にはならなくなった。また子供の頭脳は周りの出来事をスポンジのごとくスイスイと吸収していくもので、言葉もかなり達者になった頃。バドルはあれはなに、これはなに、ととにかく目につくものすべてに興味を持っては誰かに問いかけていた。今日も森の付近に飛んでいるパパゴラスを見つけ、日中世話係として共にいる侍女、アイシャに問いかけていた。侍女は日々元気を取り戻し、興味津々に目を輝かせるバドルを微笑まし気に見つめており、たとえ同じものを再び指して問いかけられたとしてもこりずに返答をしている。
 そんななか、運動のために城周辺を散歩していた際、バドルと同じ頃の子供たちが元気に走り回って遊んでいるのを見た。まだ人に慣れ切ってはおらず、いきなり人と出会うと影に隠れてしまうバドルは、侍女の後ろに隠れながらも楽しそうにしている彼らをじっと見つめる。いつもはしばらく眺めていても次にと興味を移していくが、今日はその限りではなかった。侍女は同じ年ごろの友人はほしいものだだろうと思いバドルに尋ねる。
「あの子たちと一緒に遊びますか?」
 バドルは首をぶんぶん横に振る。見ているだけで十分だ、というように。そうですか、と引き下がった侍女が行きましょうか、と促してみるとバドルは素直に応じる。子供たちから離れていく中、女性の声と、お母さんが呼んでるから今日は帰るね、と一人別れた少女が、女性の手を握って歩いて帰るのを見た。てくてく歩きながらバドルは今日だけで何度目かわからない質問をする。
「おかあさんって、なに?」
「子供を大切にして、守る人のことですよ」
「アイシャは、おかあさんですか?」
「わたしは……あいにく独身ですので……」
「?」
「違う、ということです」
「ちがいますか」
 そですか、舌足らずな敬語にまた微笑ましく思いながら、侍女とバドルの散歩は続く。侍女と二人きりになる時間が多いからか、またはよくなついているジャーファルの真似をしているからか、子供にしてはやや大人びた口調でしゃべることがほとんどだ。しかし子供特融の高い声で紡がれる丁寧語は背伸びをしているようでかわいらしい。
 
 やがて散歩も終わり、部屋まで戻ろうと城の中を歩いているとちょうどシンドバッドとジャーファルら数人の文官が通りがかった。
「おっ、アイシャにバドル。散歩帰りか?」
 侍女が手を組み挨拶をする。城の外へ行きました、と報告を受けると、バドルに楽しかったかと尋ねた。
「楽しかった、です」
 侍女の陰に隠れ気味に頷く。隠れているのはシンドバッドに対してではなく、まだ見慣れない後ろに控える文官達であるとはいえ侍女は王の御前であるため少し身体を離す。
 バドルが来てから数ヶ月経ち、掴んだだけで折れそうだった細い腕も、長袖の上からだがよくものを食べているという報告通り順調に肉付きがよくなっていることに安心していた。その上、散歩も楽しめるとなれば重畳である。
 シンドバッドと会話をしていたバドルだが、ひと段落してはっとした表情をすると、シンドバッドの後ろにいたジャーファルに向かって駆けていく。書類を抱えながらもバドルを受け止めたジャーファルはバドルに微笑む。
「今朝ぶりですね、散歩は楽しかったですか?」
 首を縦に振るバドル。それはよかったとうなずいて、まだ何か伝えたりない様子のバドルにどうかしましたか、と問いかける。
 意を決したバドルはジャーファルの官服をつかみ、見上げながら尋ねた。
「ジャーファルは、ぼくのおかあさんですか?」
 場の空気が一時的に停止した。キラキラとした目に頬を紅潮させながら子供に問われれば、何も考えずに頷いてしまいそうなジャーファルだが、これには多少の異論があった。いや多少ではない。割と大きな問題である。
 後ろで今日あった出来事を侍女が口早に説明していたので、何故その言葉が出て来たのか理由を知ることはできたがしかし。どう訂正すれば良いものか。
 まずは性別という概念から説明すべきか、ジャーファルは考えて口を開く。
「バドル、いいですか。お母さんというものは、女性を指す言葉で――」
「ジャーファルは、おかあさんじゃ、ないですか」
 消沈した様子の幼子がギリギリとジャーファルの心臓を痛めつける。子供からしてみれば「おかあさん」という単語を正しく理解しているわけではなく、先程侍女に尋ねた後また間違えてしまい、そっかあ、という程度のものだったのだがそうとは知らないジャーファルはとんでもない罪悪感に襲われている。
 子供が、親を恋しがっているときに取るべき行動とは? ジャーファルが連れて来たという責任感もあり、道はひとつだ。
「私がバドルのお母さんです」
 するっと口から出た言葉に周りからのどよめきが聞こえる。そんなこと言って大丈夫なのかという心配の視線が半分、面倒見がいいことはこの場にいる皆の知るところなので納得しているような視線が半分、と言ったところだ。
 大きな問題も、子供の笑顔のためなら何のそのである。母を名乗ったことにより生じた心拍数の上昇も、バドルが嬉しそうに笑えばこれでよかったのだ、と不安がかき消えていく。
「なんです?」
 シンドバッドの視線に気が付いたジャーファルは尋ねるが、楽しそうに片眉を上げたシンドバッドはいや? と否定した。
「おまえも、見ない表情をするようになったと思ってな。子供ができたからか?」
 なぁ、バドル? かがんで子供に尋ねるシンドバッドに、よくわかってなさそうな顔のままバドルはうなずいた。
 
 かくして、ジャーファルとバドルの親子関係は、広く宮中に知れ渡ることとなった。