蜜柑とアイスの共存

満月シロノ

むっつ

 誤って部屋の外に出てしまった一件以来、バドルはそれまで以上に部屋の外へ出ることを嫌がった。また、人と会うこともなるべく避けたいらしく、扉の開く音がすると身を隠そうとあらゆる物陰に移動する。
 それでも健全な生活おくるためには部屋の移動は避けられない事なので、彼の傷の事情を知る者に世話を任せつつ、一番懐かれているジャーファルも仕事の合間を縫ってはちょくちょく顔を出していた。
 ジャーファルはバドルから現状最も親しみを持たれている。話しかければ――意味はわかっていないのだろうが――必死に聞いては頷くし、手を取れば躊躇いがちにだが握り返される。抱っこを嫌がらないのもそうだ。他の者ではそうすんなりとは行かず、特に見覚えのない者にはモーションを挟むたび、時にはそばを通るだけでも嫌がり、ぐずっては狭いところへ逃げ込んでしまう。
 そのたびに悲痛な声で、ジャーファル達にはわからない言語で何事かを訴えるのだから打つ手はなく彼との持久戦は続く。一刻も早く彼との信頼関係を築くことが待たれるが、そう楽観視はできない。と言うのが正直なところだ。
 
 今日も泣き疲れたバドルは小さくなり寝息を立てていた。赤くなった目元を濡れタオルで冷やしていると、また意味を理解することのできない寝言が聞こえてくる。そもそもその寝言が、彼の話す言語でもはっきりとした言葉になっているのかはわからないが。
 そっと扉が開いた。シンドバッドと、その後ろに続いて小さな影が現れた。シンドリア王国随一の魔法使いであるヤムライハだ。
 珍しい来訪者にジャーファルはシンドバッドの表情を伺う。なんでも、バドル脱走事件の折にヤムライハは遠目でバドルのことを見ていたらしい。宮中にはあまりみない背格好の子供で、あまり人の向かわない場所にいたから目立って見えたのだと。その際ヤムライハはバドルに違和感を覚えたらしく、シンドバッドにふと会ってみたいとこぼしたそうだ。だがこれまでの通りバドルはひどく人見知りをするので、シンドバッドはバドルが眠っている間であれば問題ないのではないかと考えた。
「違和感、というのは、バドルのルフについてなのですか?」
「はい、私も、最初は小さな子がいるなとしか思ってなかったんですけど、でも、どこか他の人とは違う雰囲気が……」
 眠っていることを確認したシンドバッドが手招きすると、ヤムライハは杖を握りしめて控えていた扉付近から、なるべく音を立てないように、しかしやはり子供の状態が気になるのか小走りで寝台に近付いた。
 そして十分な肉の付いていない身体を見て痛ましげに眉を寄せた後、気を取り直して彼の身体をくまなく調べる。しばらく考えこんだあと、顔を上げてシンドバッドに尋ねた。
「……あの、服の下を見ても、構わないでしょうか」
「……ああ、ただ、彼は傷の手当てでまだ包帯が取れていない箇所も多いが……」
「はい、大丈夫です。……ごめんね、あなたのこと、みせてね」
 後半の言葉は眠っているバドルに向けられた言葉だった。腹部や腕、足の付け根などをはだけさせて一箇所ずつ注意深く観察し、時には呪文を唱え、魔法を行使する。当初考えていた様子とは違うヤムライハに、ジャーファルは口を挟まないながらもはらはらと心配そうな面持ちで見つめていた。
「――…そう。あなた、ずっとがんばってきたのね」
 ぽつりとヤムライハが呟いた。どういうことかと問う前に、彼女は真剣なまなざしで告げた。
「王よ、間違いありません。彼は、魔法使いです」
「……魔法使い?」
「はい、彼――バドルくん、でしたか。この子は魔法を使い続けています。今も、ずっと」
「なに……?」
 シンドバッドとジャーファルは眠っているバドルを見つめる。魔法といえば、ヤムライハが得意とする水魔法を真っ先に思いつくが、バドルが何かをしている様には全く見えない。ただそこに寝ているだけの子供だ。
「バドルくんは……見たところ、白皮症の子ですよね」
「――…ええ、おそらくは」
 ジャーファルが頷いた。太陽の光から身を守るためのメラニン色素を生まれつき持っておらず、血液の色が透けて皮膚や瞳が赤、もしくはそれに近い色に見えることが多い性質のことだ。体毛は金や白になることが確認されており、その目立つ容貌から自然界では生き残ることが難しいため、無事に成体となるまで生き残る個体は多いとは言えない。またそうした動物は、珍しさから神の使いとして信仰の対象になることも少なくない。
 ジャーファルの説明を聞き、ヤムライハ自身も信じがたいといった表情だが、自身の見解を述べていく。まず指したのは指先の爪。
「外側や真ん中の層はぼろぼろなのに、根元の部分……最近になって整ってきています」
 次に、目元に手を添える。
「今は眠っているからちゃんとは見れないけれど……ここは特に魔法が行使されてる。日の光が必要以上に入ってきて辛いから、その調整をしているんだと思います」
 そして、先程はだけさせた足の付け根を指した。そこには大きな傷跡が残っている。
「ここ……傷の大きさを見るに、本来なら歩くのにも不自由な傷跡だと思うんです。でも、あの日見た時もバドルくんは普通に歩いていました。治すために魔法を使って、いまは魔力の流れが見えないから、もう完治しているのでしょう」
「……バドルは、自分の傷を治したり、弱点とも言える特性を補うために魔法を使っている?」
「……ですが、魔法とは知識や道具、詠唱がいるものなのでは?」
「はい、だから私も信じられないんです。……でも、簡単なものなら、魔法を発動させること自体はそんなにおかしくはないんです。身の危険を感じて対象を遠ざけるために、無意識に魔法を発動させて初めて魔導士だとわかることもあります。この子の場合も、同じだと、思います。自分でも気がつかないうちに、たまたまでは片付かないほど長時間、八型の紫魔法を使っている」
 ヤムライハは説明しながら、寒くしてごめんね、とバドルに小さく声をかけ衣服を整えていく。最後に元々用意してあったブランケットをかけて、顔にかかっていた髪をそっと撫でるようにしてよけた。その際バドルが聞き取れない寝言を発したのを見てふっと息を吐く。
「爪の様子を見ると、彼が魔法使いとして目覚めたのは本当に最近のことかもしれません。……私たちの心臓が意識しなくとも動いているように、眠っている間にも呼吸が続くように、彼は自分が生きていくために必要な治療を、魔法を使ってしているんです」
 バドルの小さな手を、壊れものを扱うかのようにそっと、しかし存在を確かめるようにぎゅっと握る。その姿は祈っているようにも見えた。
「……いま、私の魔力を少し分けました。この子の元々の魔力量は少なくはない……むしろ多いぐらいですが、ずっと魔法を使っているしこんなに痩せているから、とても弱っています」
 バドルの手に一瞬力が入った。ヤムライハがはっとして彼を見やると、目を覚ましてはおらず変わりなく寝息を立てている。ほっとしてまた手を握り返した。
 シンドバッドとジャーファルを振り返りながら、まるで自分のことのように、ヤムライハは懇願するように言葉を紡ぐ。
「でも、この子、バドルくんは、生きたいって言ってます。だから、無意識の間にもずっと魔法を使い続けていられるんです」
 じゃないと、こんなこと出来っこありません。ヤムライハは握りしめる手に力を込めて言った。それは小さな健闘者を讃えるものでもあり、これ以上傷付いては欲しくないと願ってのものでもある。
 シンドバッドはそんな彼女の強張った肩に手を置き、落ち着くように言いそして微笑んだ。
「大丈夫だ、ヤムライハ。彼の身に今までどんな辛いことがあったのかは俺たちも想像するしかできない。だが、バドルのこれからの生活は俺が約束する。彼はもう、立派なこの国の民だ」
「……はい」
 自身の身の上にも通じるものを感じたのか、シンドバッドの言葉に安堵し微笑む彼女の目には涙が浮かんでいた。
 
「あ、あの。私、また様子を見にきますね。あと、彼の魔力も、足りなくならないようにどうにか方法を探してみます」
「ああ、ありがとう。……しかし、ヤムライハがバドルに気が付いてくれてよかった」
 バドルが魔法を行使しているとは露ほども思わなかった。このまま魔法使いの誰にも存在を知られなければ、彼が必死で繋ぎ止めていた命の灯火も危なかったかもしれない。
 席を立とうとしたヤムライハだが、それに抵抗するように弱々しく引っ張られる感覚に目を下ろした。すると、ヤムライハの指を握ったままのバドルがいた。
「えっ……あれっ……」
 無理やり外そうとすればできなくはないのだが、庇護欲をそそられている幼児に対してその行動に移るのは難しかった。ヤムライハは自室に戻る必要があるし、そもそも眠っているバドルを訪ねたのも起きている状態では人見知りをしてしまう、という理由からだ。助けを求めるように戸惑いきった瞳でシンドバッドとジャーファルを見上げるヤムライハは、道に迷った子供のような目をしている。
「うーん……王か私が居れば、見慣れない者相手でも多少は……」
「ほ、本当ですか? もしバドルくんに泣かれてしまったら、わたし、私……!」
 すでに半泣きである。ジャーファルほど顕著ではないにしろ、ヤムライハも年下は庇護すべきものであるという意識が強いため、拒絶されることはショックが大きいのだろう。
 そうこうしているうちに、バドルがもにゃもにゃと何事かを呟いてうっすら目を開ける。起き抜けに泣かれるのは悲しいのでどうにかしたい。しかし隠れるにも、手は握られたままである。焦りに焦ったヤムライハがとった行動とは。
「おはよう、バドル」
「……、……」
「でもまだまだ夜は長いからね。もう一度おやすみ?」
 穏やかに語りかけるジャーファルをぼんやりと見つめて、手を伸ばそうとしてからなにかを握っていることに気が付く。横に視線をずらすとそこには。
『……さん、かく』
 真っ黒なとんがり帽子。ヤムライハは、大きな三角帽子が自身の顔を隠してくれることを期待して寝台の脇にしゃがみ込んでいた。見慣れないそれに伸ばそうとした手とは反対の手で触ると、ヤムライハはびくりと肩を揺らした。それに連動して帽子も揺れるので、不思議に思ったバドルはさらに興味を持って謎の三角を触る。
「ん゛っ……」
 それを眺めていたシンドバッドが堪えきれずに吹き出した。ヤムライハは真剣なのだとわかっているのでそれを笑うのは悪いとは思っているのだが、あまりにいじらしい行動にじわじわとこそばゆい感情が込み上げてしまう。これは後でヤムライハに怒られるな……と思ったところで、先にジャーファルに睨まれた。
 観念したように両手を上げ、バドルの名を呼ぶ。帽子を触っていた手を止めて見上げる子供に柔らかく微笑んで、そのまま手を差し出した。
「おいで」
 やや身を竦ませたのが、力の入った手を伝ってヤムライハにも感じられた。大丈夫、この人は、あなたを傷付けるような人ではないのよ。そう言葉には出せないまでもどうにか伝えたくて、彼の手をさらりと撫でた。
 そして、しばらく繋がれていた手が離れる。なくなった温もりに少しの寂しさと、バドルがシンドバッドを受け入れたことへの安堵を覚えた。