蜜柑とアイスの共存

満月シロノ

いつつ

 飯を食おう。そう提案し、侍女に指示を出したシンドバッド。
 バドルの前には、いきなり固形物は食べられないだろうということで、身体にあまり負担のかからないスープとパンが置かれている。
 それらをじっと見つめていたバドルだが、正面にシンドバッド、横にジャーファルが座ると、どこか困惑したような視線を向けた。
「さぁ、食べようか」
『ごはん?』
「いただきましょう」
 ほかほかと湯気の立つスープからは食欲を刺激する良い香りが漂い、バドルはごくり涎を飲み込んだ。
 それでも食事には手を付けようとはせず、机の縁に揃えた両手に顎を預けじっと見つめたままでいる。
「バドル」
 何度も呼ばれたことで己を呼んでいるのだと認識しはじめたそれにぴくりと反応し、声の主であるジャーファルに顔を向けた。
 微笑んだ彼は木の匙とスープの注がれた椀を手に取り一匙掬う。
 わずかながらもとろみのあるそれに火傷をしないようふうふう冷ましてやり、バドルの口元へ持っていった。
「ほら、あー」
『あー』
 ジャーファルと匙との間を忙しなく視線を動かすバドルを誘導すると、小さな口は難なくぱかりと開いた。
 匙を口の中へ入れると同時に閉じられる。
 滴が垂れないように引き抜き、もぐもぐと懸命に咀嚼するバドルを眺める。
 白い喉が嚥下するのを見届け、表情をいくらか和らげた少年に笑んだ。
『あったか……おいしい』
「おいしいですね」
「おいし、です」
 首を傾げ問うジャーファルにこくこく頷き、嬉しそうにはにかむ。
 ジャーファルがスープを掬い、声を漏らしながらぱくりと食べる。
 口に出したら確実に怒られるだろうから言うことはないが、まるで雛鳥への餌付けだな。と、向かいの席でシンドバッドは思った。
 
 *
 
 日が高く上る中、白髪の子供は光から隠れるように佇んでいた。
 さらさらと水のせせらぎに耳を寄せ、興味の惹かれるままに歩を進めれば、部屋の中にいたはずの子供は現在芝生を踏みしめている。
『(おそとに……出てきちゃった)』
 確かに、部屋の外へ出るために扉を開けはしたが、家の外に出るための扉は開けていないはずだ。おろおろとあたりを伺う子供は知らなかった。シンドリアの王宮は、日中で天気が悪くない限りは開いていることが多く、またバドルが抜けてきたのは塔と塔をつなぐ渡り廊下だったので、基本的に常時解放されている場所だということを。
 外に出てはいけない、という強迫観念の元なんとか部屋へ戻ろうとするも、水場へ来るのに夢中で道を忘れてしまった上に体力が尽きかけていた。歩き回る元気もなく、水の流れをぼうっと眺めることしかできないバドル。
 水面に手を浸すと、歩いて火照った身体にしみてひんやりと気持ちいい。巻いてもらった包帯が濡れない位置まで両腕を潜らせると、見えたのは反射した己の姿。
 驚いて身を引くと水面からは誰もいなくなる。うつしだされるのは青い空と白い雲。水面に触れると、その先の人物も同じように触れる。白い髪に、所々傷のある顔。そして、赤い瞳。──自分の姿を、初めてはっきりと見た気がする。
 このよくわからない家にきて、暖かくしてくれたあの人は自分と同じ白色をしていた。
 ママとパパと、それからきょうだいたちは何色だったっけ。
 ぼんやりとした視界の記憶では暗い色、ということしか思い出せずに、じわりと視界がゆがむのを感じた。
 ──…やっぱりぼくは、ダメな子なんだ。
 白くて赤いからダメ。そういわれたことを思い出して、しゃっくりのような嗚咽が込み上げてきたとき。
 ぐ、と両脇に力が加わり、身体を持ち上げられた。ぷらぷらと地に付かない足。頭上には影ができ、上を向くと鮮明な赤色と目が合った。その拍子にぽろりと涙がこぼれたが、驚きのあまりその次の雫が出てくることはない。
 上からバドルをのぞき込んでいるのは、鋭い目つきが特徴的な赤毛の少年だ。少年、とはいってもバドルよりはずっと年上のようで、幼さが残りながらもその筋肉質な肢体は見る者に力強い印象を与える。
 目を合わせたまま、両者は何も言わずにただお互いをじっと見つめる。沈黙を先に破ったのは、赤毛の少年の方だった。
「……おまえが、バドルか」
 ぽかん、と子供は口を開けた。目の前の人物が何かを言ったことはわかるのだが、驚きのあまり内容までは聞こえてこなかった。きちんと聞いていたとしても、理解できる内容なのかといえばそうではないのだが。うんともすんとも言わないバドルに少年は一度瞬きをした後、抱えている子供の風貌を確認する。先ほど聞いた通りの姿だ。後ろ姿では判断がつかなかった目の色も、情報と合致している。
 となれば、あとは連れ帰るだけである。どこに? 今抱えている子供を探していた人物の元に、だ。
 赤毛の少年はよし、と達成感に心中でうなずき、子供を肩に抱えなおして歩き出そうと──したが、苦しそうなうめき声を上げたのを聞いて、腕に抱えなおした。子供の骨ばった身体に少年の筋肉質な肩が食い込んだのだろう。
 
「見つけました」
 きょろきょろとあたりを見回すジャーファルの元へ到着した少年は簡潔に報告した。ほっとした様子で振り返ったジャーファルは、しかし少年が姿を現した場所を認識すると冷や汗を垂らす。
「ま、マスルール……バドルを見つけてきてくれたんだね、ありがとう。……次からは、窓からじゃなくて普通に来ようか」
「……はぁ、早く報告できた方がいいかと」
「そっか……」
 扉からではなく窓から姿を現した赤毛の少年──マスルールに悪気は全くなく、彼なりに最善と思われる選択をしたらしい。
 見ると、腕の中にいる子供は緊張でガチガチに身を硬直させている。まさかマスルールが子供を落とすような真似をするとは思わないが、そもそも窓は出入り口ではない。
 とりあえず次からは気を付けるようにと伝えるとうなずいたが、少しばかり不安が残る。彼が勉強中に窓から脱走するのは日常茶飯事だからだ。
 マスルールはそういえば忘れていた、というようにバドルを腕から降ろす。急激な上下運動に慣れていなかったせいだろう、バドルがふらつきたたらを踏んだのに気付いたマスルールは、転ばないようにしっかりと手を添えてやっていた。
「(……この分なら、まあ大丈夫か)」
 見られる気づかいに胸をなでおろし、二人の相性がそう悪くなかったことによかったよかったと頷く。バドルもマスルールに過剰に怯えている様子はないし──もっとも、彼の行動に涙も引っ込むほど驚いている、という線もなくはないが。
 その線が当たっていることを指摘する人物はここにはいない。そんなことを知るはずもないジャーファルはそういえば、と口を開いた。
「今からお昼だけど、マスルールもまだだよね?」
 一緒に食べに行く? ふらつきが治まったバドルの手を取りながら、ジャーファルは問う。食事の話を持ち出されるとぐぅ、とお腹から訴えかけられている気分になる。つまりはお腹が空いているのだ。そう深く考えることもなく、マスルールは食欲のまま首を縦に振った。
 
 これまではスープや果物、よく煮た野菜を食べさせていたが、日も経ったしそろそろ胃袋も慣れてきたのではないか。そう考えたジャーファルは、それまで食べさせていたものよりもうすこし硬い固形物も与えることにした。
 歯磨きのためにのぞいた口の中は小さな歯がそろっていたので硬くて食べられない、という問題はクリアしている。
 席につき、食べようかというところでジャーファルの部下である文官が訪ねてきた。曰く至急の問題が発生したようで、お食事中に申し訳ありません、と萎縮する部下にジャーファルは首を振り席を立つ。
「マスルール、悪いけどバドルのこと見ててくれる?」
 すっかり「バドル」という単語が自分を指している言葉だと認識するようになったバドルが顔を上げる。この子供が脱走したのはついさっきのことだ。一人で行動できる子供からは目を離してはいけない、ということを分かっているはずのジャーファルだったが、本当にすこしの隙をついていなくなってしまったのだ。それを繰り返すまいとマスルールに依頼すると、彼は素直にうなずいた。
 よろしくね、と去っていったジャーファルを見送り、マスルールは二人きりの食卓で、今度こそ食事を始める。食器いっぱいに盛られ、品数も多いマスルールに比べてバドルの食事はずいぶんと質素だ。それだけで足りるのだろうか、と食べ盛りのマスルールは首を傾げた。隣にちょこんと座る子供はこれまたずいぶんと小さく見えるからこんなものなのだろうかとも思う。マスルールの発育がいいのもあるのだが、胃に負担がかからないような献立を用意されているのだということを彼は知らない。それでも、ジャーファルさんの用意したものだからな、と深く考えることはせずに、自分の昼食を次から次へと口へ運ぶ。今日もごはんがうまい。
 そして「バドルのことを見ていてくれ」という指示を思い出し、頬張っていた肉をよく噛み、飲み込んでから横を見る。そこには食事を眺めるだけで手を付けようとしない子供がいた。食べないのか、問うと子供が振り向き、目が合う。彼はこちらを穴が開くほど見つめるだけで、食事の手を進めようとはしない。どうするべきかしばらく迷った後、バドルのために用意された匙で野菜の入ったスープを掬って口に近づけた。すると子供は少しためらいがちに視線をマスルールに向けた後ぱかりと口を開けた。
 もぐもぐと咀嚼するのを確認してバドルの手に匙を持たせる。ぐーで握られているそれに、自分もそういう持ち方をしていたな、とぼんやり思い出してはまた肉にかぶりついた。
 食べている間にもずっとバドルからの視線を感じていたマスルールは、座っていても全く目線のそろわない子供と目を合わせる。その手には先ほど握らせた匙があり、手には先ほど啜り切れなかったスープがわずかに伝っている。
 子供の赤い瞳が不安定に揺れていることを察知したマスルールは、肉をしっかりと飲み込んでから口を開いた。
「おまえが食べたいと思うものを、食べればいい」
 ぱちり、驚いたように子供が瞬きをした。マスルールは続ける。
「誰かの許可は、いらない」
 そういって、再度食事を摂るため皿へ向き直った。横にある気配は、少し揺れている。そうして、何かぼそぼそとつぶやいた後ついに視線が外された。そういえば、言葉が通じないのだったか。バドルの捜索を頼まれた際にジャーファルから聞いていた情報をぼんやりと思い出しながらもぐもぐと食事を続ける。通じなくとも特に不自由はないだろう。楽観視というよりは、あまり口数が多くないマスルールはそう判断した。
 隣では、子供がちまちまと食事を続けている。問題は発生していない。
 それからほどなくしてジャーファルが戻ってきた。ぱっと嬉しそうに顔を輝かせるバドルと、応えるように笑いかけるジャーファル。マスルールは、楽しそうだな、と見たままの感想を抱き、また肉を食らった。ら、さりげなくジャーファルが追加で持ってきたらしい野菜を目の前に置かれた。
 ……肉ばかり食べていることは、見なくともバレバレだったらしい。