蜜柑とアイスの共存

満月シロノ

よっつ

 夜。満天の星の中、欠けた月が皓々と浮かんでいる。
 拾ってきたという責任感からか、仕事以外の時間はずっとバドルについていたジャーファルも今夜は用事があるらしく、またシンドバッドも彼に引きずられて部屋を出ていった。
 まだ小さいバドルを置いていくのにはジャーファルはとても心配だったようだが、すぐそばに侍女がいるからとの説得により後ろ髪引かれながらも部屋を後にした。
 部屋にいる侍女というのはバドルが目覚めた際丁度部屋に入ってきた彼女であり、また涙を浮かべながらバドルの怪我を報告した彼女である。
 むやみに怖がらせないようある程度の距離はとってあるが、なにかあればすぐ駆けつけられる距離にいた。
 バドル自身も初めは彼女を気にしていたようだが、しばらくたち何もないと知ると窓辺へ近付いた。
『……お空、お月さま、お星さま……まっくら』
 たどたどしく空に向かって指を差す。
『きーらーきーらー……ひ、かー、るー』
 ひとつひとつ順に指さしながら、知っている歌を口ずさむ、これ以降の歌詞はすっかり忘れてしまい、途切れてそれきりだが。
 星を数えるのもすぐにそれ以上の数がわからなくなってしまい、息を吐く。ふと視線を下ろすと、みたことのない形の家が月や松明の、ほのかな明かりに照らされているのが遠くに見える。明かりはそれだけではない。そこかしこに、小さな鳥のようなものが羽ばたいている。
 バドルは見慣れないそれを興味深げに見下ろして、はた、と気が付いた。
『ここ……どこ?』
 今まで見てきたものと差異がありすぎたためか、優しいあの人がいたためか。
 不意に気が付き、次に不安が襲う。
 もう顔はほとんど覚えていない。でも気配、足音、呼吸の音ですぐに分かる、あの人たち。
 パパと、ママと、弟たちと、たまに来る、せんたー、の人たち。
 どうしよう。小さな身体がかたかたと震える。
 ママは、外にでたらいけないって言ってた。
 お前は人とは違うから、皆が見ると怖がってしまうから。駄目な子だから。
 パパは特になにかを言ったことはないけれど、ずっと後ろで腕を組んでいただけだけど、でも、なら、ママと同じ考えなんだろう。
 自分ではよく見えないけれど、白い髪と、紅い瞳と。
 いいつけを破ったらママに怒られる。
 どうしよう。一番駄目だと言われていたことを破ってしまった。
 ぼくのお家はこんなに広くない。
 ここは中だけど、外なんだ。
 こんな大事なことを忘れていたなんて、やっぱりぼくは駄目な子だ。
 人の目に触れてはいけない。
 ここには人がいる。駄目だ。
 バドルは窓辺から離れてベッドの下へ潜る。
 小さい身体では上へ登ってシーツを被るには大仕事で、逆に下ならばするりと隠してくれる。
 それに気付いた彼女が焦ったように声をかけてくるが、なにをいっているのかはわからない。
 いつもの通りに嗚咽を押し殺し、少年は頬を濡らした。
『来ないで……ごめんなさい、ママ、ぼくわるい子にならないようにするから……怒らないで、ごめんなさい、ごめんなさい……』
 ぎゅうと目を瞑り、同じ言葉を繰り返す。
 身体を縮めこませて、誰かに必死に祈り、謝る。
 駄目な子からは抜け出せないから、せめて悪い子にはならないように。
 ママとパパはいつぼくを迎えにくるんだろう。
 これだけ悪いことをしたのだから、たくさん怒られるのだろう。
 ごめんなさい、ごめんなさい、悪い子で、駄目な子で、ごめんなさい。
 
 *
 
 シンドバッドとジャーファルが再び戻ってきた時、侍女ががベッドの下をのぞき込んでいた。
 ぽかんと呆気にとられていると、二人に気付いた彼女は恥じらうより先に立ち上がり、心配そうな顔つきだ。
「何があったのですか?」
「それが……彼が空を眺めていたかと思うと、急に泣き出してしまって……」
「それでベッドの下、ですか……」
「おーい、バドルー?」
「ちょっ、王!?」
 床に顔をつけベッドの下を覗き込むシンドバッドにぎょっと目を剥き、侍女には王が来たのだから心配いらない、と下がらせ慌てて駆け寄る。
「王、彼女のような者の前でそういった行動は……」
「そうも言ってられないだろう。かわいいバドルが泣いているというのに」
「それは……」
 シンドバッドがバドルの名を呼ぶとわずかに啜り泣く音が聞こえた。
 大人の体格では腕を伸ばしてもバドルには届かない。
 ベッドをどかすという手もある。簡単なことではあるが、しかしそれではバドルをさらに泣かせてしまうかもしれない。
 バドルへの心配とシンドバッドへの遠慮もあり、そこどいてください。と変わりにジャーファルがベッドの下を覗く。
 その際クーフィーヤがぱさりと落ちたが、被っていても邪魔になるたけなのでそのままに、できるだけ柔らかい声色で話しかける。
「バドル、出ておいで」
『……ぐす、』
 夜の帷も降りきって、灯りがあるとはいえベッドの下まで見える訳ではない。
 バドルからみれば、部屋の灯りは逆光となっているだろう。
 夜目はきく方だと自負しているが、バドルが身動ぎをしたのがぼんやり見えるだけだ。
 泣き声もほとんどあげない彼に何度も声をかける。
 しかし一向にでてくる気配はなく、聞こえるのは繰り返されるかすかな異国語のみ。
「……なんと言っているのでしょうか」
「母親が恋しいとかか?」
「……」
 彼の出自が解らないのでなんとも言えない。
 仮に彼が奴隷だったとして、母親のことを恋しがっていたとしても、彼自身がどこから来たのか解らないためすぐに会える可能性は低い。
 自身の名前を覚えていない頃に引き離されたのならば余計だろう。
 異国語とはいえ話すことができるのにも関わらず、名前が解らないという状況事態がおかしなものではあるのだが。
 眉を寄せ考えを巡らせていると、ふとベッドの下からの声がなくなっているのに気が付いた。
 もう一度下を除き込み名前を呼んでも反応は見られず。
 耳をすませば一定の間隔で聞こえてくる音。
「……寝てる……?」
 悲しみに泣きつかれて寝てしまうのは、どれだけの寂しさが生まれるのだろう。
 
 *
 
 ゆらゆらゆれる心地好さにゆっくりとまぶたを開ければ、身を包む温かい感触と、白。
『……しろい、ろ……』
「バドル? ……おはようございます」
 心地好い音が耳を撫でる。
 バドルはジャーファルに抱かれて眠っていた。
 寝ぼけ眼のまま手で目の前の白色をつかむと、くすりと笑われ「痛いですよ」と掴んだもののかわりに彼の指が手のひらに収まった。
 ペンダコや武器の扱いで皮膚が厚い指は不恰好ともとれるのかもしれないが、しかしそれは、とても自然にバドルを甘やかす。
 彼に擦りより指を握ると、彼は柔らかな笑みを深めた。
 一度寝て満足した。次第にはっきりとしていく思考でバドルは呟く。
『ジャーファルも、白いろなんだね』
「……?」
『ぼくとおなじ、ジャーファルも、わるい子なの……?』
「……バドル?」
『だったらぼく、やだなぁ……だって、ジャーファル、やさしいの……』
「……」
『ジャーファル、わるい子じゃないよ』
 ぐずぐずと胸元に顔を押し付けながら呟く。
 どうやら己の名前を何度か呼んでいたようなので、関係ない話ではないのだろうが。異国語の上むにゃむにゃと頼りない声なので、当然ながら何を言っているのかは解らない。
 あやすように、ぐずつくバドルの背中をゆっくりと撫でると、ジャーファルの考えとは裏腹に、子供の嗚咽は段々と大きくなっていきついには泣き出してしまった。
「(……これが、子供の泣き声なものか)」
 必死に声をこらえて、手を痛いほどに握りしめて背中を丸めている。ジャーファルにその小さな手で、必死にすがりついているように見える。どちらにせよ、痛々しい姿にうつる。
 自身の幼少期を、またはスラム街で見かけた飢えた子供を思い出す。食うに困るほど窮していたり、すがる親すらとうに亡くしていたり。その全てを救ったり、助けてやったりすることはできない。それでも。
 それでも、抱いている、と感じるには不確かすぎる重さの子供を、失いたくはないとまた背中を撫でた。