蜜柑とアイスの共存

満月シロノ

みっつ

 次に目を醒ましたのは、違う部屋のふかふかのソファーの上だった。
 身体を起こすと、抱きしめてくれた緑の人が、同じような服装をした人と話していた。
「それでは、そのように」
「ええ、よろしくお願いしますね」
「失礼いたします、ジャーファル様」
 ぱたりと扉が閉まる音を聞き、ソファーから降りて彼の元へ向かった。
 それでもすぐそばに行くのは躊躇われ、しばしの逡巡の後に机の影に隠れるようにしてひょっこりと顔だけを覗かせる。
 丁度ソファーへ戻ろうと方向転換をしたジャーファルと目が合うと、彼は屈んで視線を合わせてからふわり微笑んだ。
「おや、おはよう。よく眠れたかな?」
『……あ、……っ』
 言葉は解らないが、問われていることに気が付きこくこくと首を縦に振る。
 不安は彼の笑みに萎んでいくようだった。
 尚更嬉しそうにした彼に、何か言おうと口を開くも特に出す言葉はない。
 それでも彼が聞こうと待っていてくれる姿勢に背中を押され、声を出す。
 先程も聞こえた、眠る前にも紫の人が何度か言っていた言葉。
「あ、ぅ……じゃー、ふぁる……?」
「……!」
 驚きの色が出た。
 間違っていたらどうしようと机の足に更に身体を引っ込めさせたが、彼はゆるりと破顔した。
「そう、私の名前はジャーファルというんだよ」
『……?』
「ジャーファル」
「……! ジャーファル、ジャーファル!」
「はい」
 よくできました。
 撫でようと手を伸ばす。
 が、子供はほのかに上気させていた頬の赤みをさっと引かせ手を頭上に掲げた。
 そう、まるで頭を守るように。
 ジャーファルは目を見開き、かたかたと震える子供へ伸ばした手は空をさ迷う。
 経験により、後天的につくられた条件反射だ。彼は自分の身を守ろうと防衛反応をとっていた。
 誰に暴力をふるわれていたのかは解らない。
 それでも、たとえこの子供がどのような状況におかれていたとしても、あの雨の日に子供を抱き上げた以上最後まで責任を負う必要がある。それに、彼には差し伸べられる手が必要だ。
 ジャーファルは強く思い、いまだ震える子供をこれ以上怯えさせないよう手を握った。
 まずは、この子に人の優しさを教えなければ。
 
 *
 
「へぇ、ジャーファルの名前をもう覚えたのか」
「はい、この子は賢いようですよ。ねぇ?」
 子供を抱き上げたジャーファルが同意を求めるように首を傾げると、子供はこくこくと頷いた。
 拙い動作にシンドバッドは笑う。
「そうかそうか、偉いなー」
 すっとシンドバッドが手を伸ばすと子供は先程ジャーファルにしたように己の身を守るような仕草をした。
 その反応が尋常でなかったのにきょとり目を瞬かせたシンドバッドがジャーファルと目を合わせると、何かを悟ったようにふむ、一つ頷いた。
 怖くありませんよ、と背中を軽く叩きながらジャーファルが宥めると、シンドバッドの顔色をうかがうようにそろり顔をあげる。
 ジャーファルの官服をきつく握りしめる小さな手を少しでも緩めたくて、シンドバッドは穏やかな笑みを浮かべた。
「やぁ少年。俺はシンドバッド、この国の王様だよ」
『……なぁ、に?』
「シンドバッド」
「……しん、ど……?」
「シン、の方が呼びやすいのでは?」
「愛称か、それもいいな。シン、俺はシンだぞー」
「シン……?」
 おずおずとその言葉を復唱すると、シンドバッドはきらきらと顔を輝かせた。
「そうだ、君は本当に賢い子のようだな!」
『……ふにゅっ』
 警戒させないよう慎重に触れ、ふにふにと頬を摘まんだ。
 がりがりでも子供の頬は柔らかいんだなー! とふにふに楽しんでいると何してんだ、とジャーファルが鬼の形相でシンドバッドを容赦なく叱った。
 そして子供はというと、ジャーファルが身をひく前に彼の肩口、クーフィーヤの中に顔を埋めてしまった。
 ぐりぐり押し付けられる頭を落ち着けさせようと背中を叩いてやり、シンドバッドをじろり睨む。
 すまんと苦笑しつつ謝り、そういえば、と声をあげた。
「ジャーファル、この子の名前はわかるか?」
「名前……? いえ……そういえば聞いていませんでしたね」
「いつまでもこの子でいる訳にはいかないしなぁ」
「そうですね……」
 頷き、もしもし、子供の背を叩くと、彼は感じ取ったのかおずおずと顔を上げた。
 それでもシンドバッドのことは警戒しているのか、先程名前を呼んだときよりはジャーファルに寄り添う様にしているが。
 子供の注意を自分に向けたジャーファルが目線を合わせ、己を指差しジャーファル、と呟いた。
 子供はぱっと顔を輝かせ、そしてはにかみながら名前を呼ぶ。
「ジャーファル」
「じゃ、ジャーファルっ」
「そう、偉いですね」
「えらりです?」
「ふふ、……そして、シン」
「シン!」
 次いでシンドバッドを指し先ほど教えた名前を復唱させる。
 こくこく頷きながら元気よく鸚鵡返しにする子供。
 そして、つい、と指先を子供へと向けた、首を傾げた。
 一度では解らなかった様だが、それを二度、三度と繰り返すとはっと視線を上げた。が、直ぐに表情を曇らせ俯いてしまう。
 通じたと思ったシンドバッドとジャーファルだが、思わぬ反応に顔を見合わせる。
 『……ぼくは、悪い子だから……』
「……?」
 ふるふると首を横に振った。
「……自分の名前を知らない……?」
「まさか。呼ばれたことがないなら兎も角。……!」
「もしかして……」
「……ありえない、ことは、ありませんね」
 息を飲んだ。
 この子供の傷跡や、発見した経緯から見ても、名前で呼ばれたことがなかったとしても不思議ではない。
 子供の、ジャーファルの服を握りしめる手は青白く、指先は冷えきっている。
 
「……よし、この子に名前をつけよう」
「は……!?」
「ジャーファルになついているようだし、どうだ。何か良い名前は」
「どうって、そんな……犬猫とは違うんですよ!?」
「そうだ、犬猫とは違う。だからこそきちんとつけてやってくれよ」
「……」
 困惑を滲ませ子供に視線を落とすと、所在なさげに潤んだ真紅の瞳と目が合う。
 様々な艱難辛苦を負ってきただろうに、この子供は、怯えていながらも輝きを失わない純粋な瞳のままだ。
 二人の話を理解出来ていないのだろう。ぱちぱち瞬きを繰り返すたびに揺れる白い睫毛が羽のようで。
「……バドル」
『?』
「今から、きみの名前はバドルです」
『バドル……?』
「バドル……うん、バドルか、良い名だな! これからよろしく頼むぞーバドル!」
 感触が気に入ったのか、ふにふに頬っぺたを触るシンドバッド。
 子供、もといバドルは子猫の鳴き声に近いような声を漏らしジャーファルの首もとへ避難する。
 すんすん鼻をならし腕を懸命に伸ばす姿は愛らしい。
 袖の長い服から覗く包帯が痛々しいしいが、自他共に認める子供好きのジャーファルの微笑みは慈しみに溢れていて。
「……こうしてみると、親子のようだな」
「は? いや、いくつの時の子ですか」
「おかしいというほどでもないだろう。お前ももうハタチになったし、それに……ほら、髪の色も同じだし。バドルも見たところ五つにも満たないぐらいの年だろう? ……ああいや、今は小さく見えるが、身体に肉がついたらもう少し年上に見えたりするのかな?」
「どちらにせよ計算合いませんよ。あんたと一緒にしないでください」
「おいおい、酷い言われようだな」
「事実でしょう」
 冷たく良い放つジャーファル。
 思わぬカウンターが返ってきた。とシンドバッドは苦笑した。