蜜柑とアイスの共存

満月シロノ

ふたつ

 うっすらと、子供が目を開けた。
 数回ぱちぱちと瞬きする。
 新雪のように真っ白な睫毛が縁取るのは、眼の醒めるような赤色。
 もぞりと寝返りを打つ。
 その時身体の至るところが傷んだが、生憎その子供には当たり前のことであった。
 動きがぎこちないながらもさして気にした様子はなく、身体に全体にかけられた大きく薄い布の中で手と足をぐぐっと伸ばす。子供は痛みに慣れすぎていたのだ。
 ぼんやりと痛む腕を上げ、はたと気付く。
 そして子供の腕には、その肌の色よりもさらにまっさらな白い包帯がまかれている。
 今まで治療という治療を受けた覚えのない子供はそれ何のために、だれによって巻かれたのかは解らなかったが、ひとまずいつもと違うことは理解できた。
 痛む腕に力を入れ起き上がる。そこでようやく、子供はベッドに寝かされていたのだということに気付いた。
 部屋の中は自分以外には誰もいない。
 大きなベッド、棚、いくつかの椅子。向こう側には扉。
 視界が驚くほど綺麗であった。
 ぎゅう、目をつぶり、もう一度そろり開けて見る。
 鮮明な景色があった。
 自分の眼のあたりを手のひらで覆い、ぱちぱちと瞬きをする。
 何故子供がおっかなびっくりしているのか。
 それは、今までの子供の視界は長らく明るいと暗い、そして物の形がぼんやりと解るだけだったから。
 行動範囲は小さな家の中だけで、その中であれば物の位置やそれがなんであるかは把握していたけれど、いつも、新しいものがきたときは、近付けたり遠ざけたり、触ったりしないとわからないはずだった。
 くっきりはっきりしすぎている景色に戸惑い、ぐらりとめまいのようなものを覚えた子供はシーツにすがった。
 対して力の入らない手で、それでもぎゅうと彼なりにきつくつかんで。今までにない視界から訴える情報の波を受け止めようとしていた。
 ぱちぱち、懲りずに繰り返していると、誰かの足音が聞こえてくる。聞きなれないものだ。誰だからわからない足音に、不安げに眉を下げるがどうすることもできないまま、やがて扉が開いた。
 
 びく、肩を震わせると、大人の女性と目が合った。
 その女性は直ぐに声を上げ、同じ言葉を何度か繰り返し去っていってしまった。
 ぽつん残された子供。
 あの人は誰だろう。まさか、せんたーのひと、だろうか。もし、自分に危害を加える人だったなら。
 ぶるりと身体を震えさせ、震える手を握りしめベッドから降りようと試みた。
 落ちて仕舞わぬように掛け布団にすがりながら、そろり右足を下ろす。
 あと少し、もう少し、もうちょっと……よし、ついた。
 急いでどこかに隠れようと一歩踏み出し、激痛が走る。
 そのまま膝がかくんと折れ、ぺたり座り込むかたちになってしまった。
 と、そこでまた激痛の他に違和感を覚え、左足の付け根をぽんぽんと小さなこぶしで叩く。
 急にクリアになった視界同様、上手く動かすことができず引きずるしかなかったはずの左足が、痛みはあったもののごく自然に動いた気がした。
 今度はゆっくりと立ち上がり、ベッド脇を手すりにして、一歩。
 ―――歩けた。
 たしたし左足だけで足踏みをしていると、半開きのままだった扉が再び開いた。
 弾かれるように顔を上げると、大きな男の人が二人。後ろには先程の女性もいた。
 長い紫の髪をした人が笑顔を向けこちらに向かってくる。
 怖い、嫌だ、来ないで。
 子供は逃げ出そうと足を踏み出したが、おかしかった足の違和感がなくなったせいで加減が分からず、思い切り力をいれたために身体を反転させたまま派手に転んでしまった。
 腹部への衝撃といままでの傷とが合わさり、ぐぅ、涙目になりながら踞る。
 すると、後ろから怒気を含んだ声が聞こえびくりと肩が跳ねる。
 ごし、涙を拭き振り返ると、緑の帽子を被った人が紫の髪の人の胸ぐらを掴み何かを言っていた。
 紫の人は眉を下げ苦笑い。
 子供はぽかん、と二人を見上げた。
 緑の人は紫の人に怒っているのだろうか。でも、どうして? 
 頭の中をはてなでいっぱいにしていると、緑の人がため息を吐き掴んでいた服を放す。
 彼はその場にしゃがみ、子供に目線を合わせるとにこり微笑んだ。
 転んだ際にずり落ちてきたベッドのシーツを縋るようにぎゅうと握る。あちらからは近付こうとはしなかった。
 次いで聞こえてきたのは優しげな声。上げ調子なので問うている様だが、子供には何を言っているのかが理解できない。
「……ぁ、っ……」
 口を開き、何かをいいかけるも手で口を覆う。
 ややうつむきながらも、じ、と伺うように彼を見つめると、小さな微笑みとともにうなずかれる。
 手を口元から外し、そろり口を開く。
「……おにいちゃん、たち、……だれ……?」
 カラカラの喉から絞り出したのは、以前の明るいと暗いの違いがあるだけの世界には、きっといなかったはずの彼らを尋ねる言葉だった。さっと彼らの空気が変わった。
 顔を見合わせる彼らにまた不安になり、一歩下がる。
 と、それに気付いた緑の人が慌てたように首を振った。
 子供なりに訝しむ。この人たちは自分に怖いことをしない? 近付いても大丈夫なのだろうか? 
 猜疑心は尽きないが、強固な警戒心と呼ぶには子供の情緒は拙すぎた。
 もし、自分が考えを読み取れていないせいで、緑の人の顔色が少しでも変わったのなら離れよう。そう考えて、シーツを渡り綱にしてゆっくりと、本当に少しずつ、緑の人に近付いていく。
 その間も緑の人は。そのそばにいる紫の人や女の人も同様に、顔をしかめることはなかった。そのまま歩みをすすめて、ちょん、指先でそっと彼の手に触れると、子供の歩みと同じように、ゆっくりと、小さな指や手のひらを確かめるように握り返された。
 そのまま脇に手を入れられ、抱き上げられ、背中をゆっくり撫でられる。
 自分から近付いたものの、緊張と警戒にぴんと張られていた背筋も次第に彼へ身体を預けるようになっていく。
 長らく感じたことのないふわふわとした不思議な感覚に逆らえず、子供は身を任せた。
 
 *
 
「……眠ってしまいましたね」
「ああ。……先程のこの子の言葉は……」
「……この二日であの周辺の住民にも聞き回ってみましたが、やはりこの子を知っている者はいないようです」
「そうか……」
 大雨の降った日から二日。
 昏々と眠りついていた子供が目を醒ましたことに喜ぶのも束の間、どうやら言葉が通じないらしい。
 当初はシンドリア国民であることを前提で話を進めていたが、どうにも雲行きが怪しい。
 いくら家の中に隠しこんでいたとしても、人ひとりの存在を周囲に一切知られずにというのはそれが長い期間であるほど無理が出てくるし、何度も述べたようにこの人目をひく容姿だ。
 そうなると考えられるのは、他国からシンドリアに航ってきた、ということ。
 発した言葉は短いものだったが、近場の異国語であるトラン語とも違うようであるし、彼の風貌――子供の特徴的な色ではなく、骨格や顔の掘りの深さのことだ――から見てもトラン族であるようには見えない。どちらかというと、東にある煌に近いか。
 そもそも独自の言語で話している民族自体が少ないため、彼の話している言語が特定できればどこの出身であるのかを大まかにでも絞り込めそうなものだが。
 だがそこでも一つ問題が浮上する。子供がどこぞの民族の一員だったとしても、一体どこから来たのだろうか。
「しかし二日前、怪しい船は見られなかった」
「ええ、あの日はスパルトスやヒナホホも直接視察に回っていたので間違いありません」
「……まぁ、まず優先すべきはこの子の事だ。言葉が通じないのは色々不便があるだろうが……そこは少しずつ覚えてもらおう」
「……そうですね」
 空に浮かぶ月のように白い髪と真紅の瞳、そして透き通るような肌。
 栄養不足なのだろう、細すぎる指にのっている不揃いな爪をなぞり、ぱさついた髪を撫で、彼は頷いた。