蜜柑とアイスの共存

04

「おい、逃げるのか腰抜け野郎!」
「……」
 おかしいな、今は立体機動の訓練中のはずなんだけれど。
 何で僕は罵られているんだろう。
 この発端は何だったのか思い出せやしない。
 僕の立体機動の成績は、102期生全体で見ても結構いいほうだとこっそり誇れるくらいには良かった。
 はじめはおっかなびっくりだったが、なれてこれば立体的な動きが出来るという点からも水中と似ているような感覚すらあったのだ。
 もちろん浮力の変わりに重力は感じるし、全身の筋肉を使うといったところも似てはいるが、負荷のかかり方が違う。
 というか、ベルトに集中して力が入るので服の下はその跡だらけである。きっともうずっと残るものなんだろう。
 それでもいいと、空を自由に泳げることを無心で楽しむくらいには「泳ぎ」というものに飢えていたんだと思う。
 そして今日は五人一班でのタイムトライアル式の試験がある日だった。
 偶然僕はペトラと同じ班になり、女子三人、男子三人の計六人班となった。
 滑り出しは順調。そのまま何事もなくすむのだろうと次の木にアンカーを飛ばす。
 その矢先。
「っ、きゃあ!」
「マリー!」
 マリーがアンカーを出した先は丁度もろい場所だったらしく、彼女の身体は重力に逆らうことなく落ちていく。
 一番近くにいたペトラが真っ先に反応し、彼女が地面に衝突するぎりぎりのところで身体を受け止めた。
「ペトラ、マリー!」
「大丈夫!?」
 僕たちも直ぐ下に降り二人の安否を確認する。
 すると、マリーはペトラがかばったおかげで無傷だったが、ペトラは足首を押さえ苦しげな表情を浮かべている。
 なるべく刺激しないようにブーツを脱がせ見ると、彼女の足首は紫に変色していた。
「あはは……やっちゃった」
「ご……ごめんなさい、ペトラ! わたしのせいで……っ」
「私が勝手に失敗しただけだから、マリーのせいじゃないわ」
 気にしないで、と力なく笑うペトラの頬にはうっすらと汗がにじんでいる。
 ここでも、前いたところでも。捻挫は少しでもはやく冷やさないといけないという常識は変わらない。
「どうしよう……今日の訓練は近くに教官もいないのに……」
「……ペトラ、立体起動装置外して」
「え……?」
「僕が先に連れて行くから、皆は後で来て」
「! それならオレがペトラを連れて行く! お前が後から来い!」
「……どうして?」
「チビのお前より、オレが運んだ方が安定感もあるだろ」
「……僕はお前より立体起動得意だけど」
「それでも! オレが……」
「悪いけど、お前と言い合ってる暇ないんだ。ぺトラのことを考えるならどうするべきかはわかるだろ」
 僕はそういってぺトラの立体起動装置を涙ぐんでいるマリーに渡す。
「マリー、これ、運んでくれる?」
「……! う、うんっ! まかせて!」
 彼女は力強く頷いた。
 ぺトラには立体起動の邪魔にならないように掴まってもらって、ほかの女子とも一言二言だけかわしてそこから飛んでいく。
 人を抱えての飛行は確かにバランスがとりにくいけれど、ぺトラもちゃんと僕にしがみついてくれているおかげでだいぶ安定している。
 しかしやはり慣れないのだろう。彼女は居心地悪そうにわずかに身じろぎした。
「ごめんね、ヤヒロ……」
「大丈夫だよ、ぺトラは? 不安定なとことかない?」
「う、ん。……や、やっぱり私重い?」
「……何のために鍛えてると思ってるの。女の子一人くらいなんてことない」
「……そっか」
 それからすぐに基地に戻って、僕たちの班は失格。ぺトラは最低一週間安静。
 それだけなら何の問題も……いや、ぺトラが負傷したということはあるけれど、それでも問題は最小限に抑えられているはずだったんだけど。
 何故かその日から、余計にユハニからまれるようになった。
 余計に、というのも、ちょくちょくこれまでにも視線を感じたり、すれ違うたびに舌打ちされたり、微妙にいらっとさせられることはあった。
 めんどくさいなとは思いつつも無視していた僕だったが、ついにいちゃもんをつけられた。というわけだ。
 そして、今日。同じ班になったリンガーとアルトが心配そうにこちらをうかがっている。
 正直言えば助けてほしい。僕とユハニの身長差は約二十センチもあるのだ。
 こう至近距離に迫られると余計迫力がある。普通にびびる。
「いや……逃げるもなにも、これから演習だし」
 馬鹿じゃないのかこの人。
 僕はそれだけ言うとそそくさとそこを去り、二人のほうへ向かった。
 ユハニという男について、説明したくもないけれど一応のこと説明しよう。
 彼はウォール・ローゼに住んでいた、そこそこの家に生まれたボンボンらしい。
 成績は至って優秀、複数の科目でトップらしく、このままいけば主席卒団も夢ではないとのこと。
 それ故自尊心が高く周囲の人間といさかいを起こすこともままあるが、やはりどこか一目おかれている様子。
 そんな彼が本来ならば歯牙にもかけないはずの存在である僕になぜつっかかるのかというと、入団早々の僕の「憲兵団は終わってる」発言(僕は断じてそんなことは言ってない)と、立体起動の成績にあるらしい。そして彼は憲兵団志望。
 と、ディトとその愉快な仲間たちに聞いた。
 つまり、対して成績もよくないチビがでかい口たたいて、尚且つ自分が立体起動の一点のみにおいて負けている、というのが心底気に入らないらしい。
 ちなみにいうと水泳の成績もなのだが、対人格闘と同じく成績全体で見られる点数はほぼゼロに近くまったくと言っていいほど重要視されていないためこれはノーカウントとなっているらしい。
 とても面倒なことになった。口は災いの元とはよく言ったもので、こんなことになるならアルトとはまた別口でこっそり話せばよかったとも思う。
 しかしすぎたことを戻すことができないのもまた事実であり、ひっそりと嘆息。
 ベルトがきちんと留まっているのを確認し、カッターナイフのような刃を握りガスも問題なく噴射させる。
 ずっと何かに似ていると思っていた立体起動、その正体がスパイダーマンだったと気が付いたのは極最近のことである。
 いろいろと不安なところはあるけれどせめて何も起こらなければ、と、教官の声を聴き、アンカーを放った。
 
 *
 
「……なぁ、聞いたか? ウォール・マリア奪還の話……」
「ウォール・マリア奪還? 何の話だ?」
 ウォール・マリア奪還作戦。
 それは、王政府が打ち出した、状況脱却のための案だった。
 ウォール・マリアが巨人に侵攻され、それにともない内地に避難してきた難民を「故郷を取り戻せ」という名目のもとに送り出すというもの。
 歯に物着せずに言うならば、つまり、口減らし。
 その話は、既に僕の耳にも届いていた。
 内地に避難していたエレンやミカサ、アルミン、そしてアルミンの両親とは時折手紙のやり取りをしている。
 アルミンの両親はエレンたちの様子や僕を気遣うような内容を毎回送ってっくれるのだけれど、今度に来た手紙の内容は少し違っていた。
 ウォール・マリア奪還作戦に招集されたのだと。
 書かれている内容を理解した途端、頭が真っ白になった。
 戦いの術を持たない一般人が、壁の中から追い出される? 
 いつだかにエレンが目を輝かせてみていた光景が思い出される。
 壁外調査から帰ってきた兵士たちの数は少なく、ほぼ全員がどこかしらに包帯を巻いている。
 訓練された兵士でもああなのに、一般人が無事でいられるはずがない。
 まだ超大型巨人が表れていなかった頃、アルミンを訪ねればいつでもあたたかい笑顔で迎えてくれた彼らが。
 養父のように、養母のように、あっさりと死んでしまう? 
 重苦しい空気に沈みかけていた意識が、腕をつんつんとつつかれることで浮上する。
「……ぺトラ」
「……大丈夫? ……じゃ、なさそうね。……話は聞いたわ」
「……そっか。……ぺトラはローゼに住んでるんだっけ、……マリアの、知り合いとかは?」
「いいえ、私の知り合いはみんなローゼ出身だから……。せっかく……せっかくみんな、生き延びたのに……」
「……」
 ウォール・マリア奪還作戦が決まってからその決行の日まで、それほどの間がない。
 おそらく王政府が市民の暴動を恐れているのと、一刻も早く食糧問題を解決しようと思ってのことだろうが、これでは今から手紙を返しても間に合うかどうかもわからない。
 開拓地は地方のために、当然一日ばかりの休みで行くことも不可能だ。
 会ったとしてもきっと何を言えばいいのかわからなくなってしまうだろうけど。
 それでも、脳裏にちらつく養父母や同じシガンシナ地区の人々の見るも無残な死にざまを思い出し。
 僕は「どうか無事で帰ってきて」と、万が一の確立もないようなことを書き願うしかなかった。
「……僕が訓練兵に志願したのはさ」
「……?」
「もし次にまた、巨人が壁内に入ってきたときに何もできずに食べられないようにするためだったんだ」
「……」
「だから開拓地からここにきたんだけど……きっとあのままあそこにいたら、僕も今回の作戦に駆り出されていたんだろうね」
「……ヤヒロ」
「はは……、僕の判断は間違ってなかったわけだ。でも、これじゃあ、何のために……っ」
「ヤヒロ」
 僕の声は震えていたが、僕の名前を呼ぶぺトラの声のほうが悲痛な色をしていて。
 冷え切った僕の指先を彼女の温かい手が握る。
「ヤヒロ、落ち着いて……今は心が少し弱ってるだけよ。大丈夫だから……ね?」
「……」
 ぺトラに触れて初めて自分の体温が下がっていたことに気づき、じんわりと温かい手のひらにそっと目を閉じる。
「……ごめん、ぺトラも、つらいはずなのに……」
 彼女の、首を振る気配がした。
「今は……ごめん、もう少しだけ、許して……」
 彼女の手を握り返すと、震えているのは僕だけじゃないことにやっと気が付いた。