蜜柑とアイスの共存

01

 初めてそう呼ばれたのはいつだったろう。
 他人をからかうような年になる頃には既に習い事を始めていたし、どちらかというと称賛のあだ名だから特に嫌ではなかった。
 魚みたいに泳ぐんだね。
 もしかしたら、講師がふざけ半分に呼んだのが始まりだったかもしれない。
 十年弱それが続いて、そう。ひとまず受験のために泳ぐのは控えていて、それでも息抜きのために市営の温水プールに向かったんだ、たしか。
 溺れた覚えなんてこれっぽっちもないが、僕を引き上げた老人の証言によれば、池に水着をきてゴーグルをはめたまま浮いていたのだそう。
 何がなんだかわからない内に丁度往診にきていたというイェーガー先生と話をした。
 話をしたといっても、あちらの質問にこちらが答えるというようなものなのだが、よくわからないことになっているようで。
「私はグリシャ・イェーガーといってね、医者なんだ。まずは君の名前をきいてもいいかな?」
「……酒納八尋です。あの、ここはどこですか?」
「シガンシナ最西だよ」
 気分はどうか、どうして溺れていたのか。あれこれ聞かれるが僕自身記憶があやふやで、その上聞きなれない単語が多すぎて何とも言えない。
 シガンシナ? シナ、とは中国の事だろうか。しかしこの家の内装も見慣れないものだし、目の前の医者も、少し離れた所でこちらを心配そうにみつめている老夫婦もとてもモンゴロイド系の顔立ちにはみえない。
 どこからきたのかと聞かれても、何区出身なんだと聞かれてもさっぱり解らない。
 他の土地の人がぱっときいてわかるような、東京23区に住んでいる訳でもなしに。
 結局、ほとんどの質問に解りません、すみませんと言う他なかったのだ。
 ふむ、と何やら考えこんでいる様子のイェーガー先生が息を吐いたのをきき、僕は寝かせられていたベッドの上でシーツを握った。
 今着ている服は老夫婦の息子がまだ子供だったときのものらしく、僕が眠っている間に着替えさせたらしい。
 ふと窓の外が視界に入った。空を割るようにそびえ立っている、それ。ビルとは違うものだ。窓がない。
 あれは何ですかときくと先生はわずかに驚いたようで、知らないのかい。聞き返された。
 壁。
 言ってしまえば、なんてことないものだった。ほら、壁の外には巨人がいるだろう? あれがなければ私たち人類は滅びてしまうからね。さて、巨人とは。
 曖昧にうなずく僕に先生は、東洋人だよね? と確認をとるような言い方をした。
 うなずいて、改めてここはどこですか、と尋ねる。
「ここはウォール・マリアの特区地、シガンシナ地区だよ」
 そう、先程と特に変わりのない返答をした。
 
 *
 
 結論から言うと、僕は記憶喪失らしい。
 単純なここはどこ、わたしはだれというものとはややずれて。言葉は通じるものの所々常識が欠落していたり、もしくはありえないことと刷り変わっていたり。
 そうじゃないことは僕が一番理解していたけれど、それを具体的に表現説明する言葉をもっていなかったので特に何も言わなかった。いや、言えなかったんだ。
 身寄りのない僕のことは老夫婦が引き取ってくれた。
 その時は考える余裕はとてももてなかったけれど、ここでは東洋人はめずらしいので、それを食い物にしている人売りの関係者に追われてきたのではないか、と思われているらしい。
 彼らが水着のことをどう理解したのかは解らないが、何もいわないなら、そういうことだろう。
 食文化も文明も何もかもが違う場所。
 壁の内側はかなり広いらしく、閉じ込められているという感覚はなかったけれど、ここにきたのは何故かということはどれだけ時間がたっても解らなかった。
 そもそものここへきたきっかけというものを何も覚えていないのだけれど、僕が浮かんでいたという森の中の湖。
 綺麗なそこをのぞいてみても、シガンシナ区中心部の市場にいっても、解ることなんて何もなかった。
 
 ざばぁ。僕が浮いていた湖の近くには、森の中ということもあり誰も住んではいないようで。
 最近の日課は専ら泳ぐことだ。
 家に帰れない寂しさだとか、受験勉強がすべて無駄になりそうなやるせなさとか。もしかしたらここから帰れるんじゃないかとかいう、現実逃避も入っているのかもしれない。
 せめて落ちかけた筋肉だけでも、以前と変わらずに、なんとか維持していたかった。
 朝起きて朝食後市場に出て買い出し。昼は前述したように湖で泳いだり養父と薪拾いをしたり山菜を取りに行ったりの家事手伝い。夕方は居間で養母の刺繍を眺めたりと好きに過ごして、夕食を摂り風呂につかり暗くなったら寝る。
 時計がないことに初めは不便を感じていたが、慣れればなんてことはない。日の高さや強さで大体予想がつくようになってきたし、定期的になる大鐘の音で十分。
 逆に分秒刻みで生活していた頃がひとく窮屈に思えてしまうほどで、そう僕自身が思っていることに気付いたときは驚いて、そして次に、少し悲しくなった。
 養父母は、僕にとてもよくしてくれている。
 僕の普段着は息子さんが小さかった頃のものだとは聞いていたが、どうやら彼は既に亡くなっていたらしい。
「ルベリオは優しい子だった」
「でも昔からにんじんだけはどうしても駄目で、食べさせるのが本当に大変だったの」
「結局、にんじん嫌いは最後まで直らなかったなぁ」
 懐かしそうに微笑みながら語る二人。
 僕は核家族世帯で祖父母はどちらも健在。
 身近な人の死は体験したことがないけれど、養父母の表情はとても柔らかなものだった。
「時期になったら、にんじんケーキを作ろうねぇ」
 乾いた指先が僕の頬を擦る。
 とてもあたたかいものだ。
 
 *
 
「……こんにちは……」
「あら、お客さん? こんにちは」
 こんこんこん、ノックをして挨拶は尻すぼみになっていく。
 しかしその声を拾い、女性が扉を内側から開けてくれた。
 何度も家を確認したが、出てきたのは予想と違う人物だったのでもしや間違っているのではという思いが過る。
「何かご用かしら?」
「あ、あの……ここはイェーガー先生のお宅でよろしいですか?」
「ええ、でもごめんなさい、今あの人急な患者さんがいて出掛けているの」
「え、あ、そうなんですか……」
 生活になれたらいらっしゃい。
 定期的な経過の報告にきなさいという意味だと思う。
 うっかりしていて今朝まで忘れていたのだが、ちょうどいいころだろうと養父にシガンシナの中心部にあるイェーガー先生の家の場所をきき訪ねてきたのだ。
 だがいらいのなら仕方がない。また出直そうと礼を言い立ち去ろうとすると呼び止められた。
「この辺の子じゃないわよね? また来てもらうのも悪いし、よかったら上がって待っていて」
 で、今。
 イェーガー先生の息子さんだと思われる男の子と向かい合って椅子に座っている。
 先生の奥さん―――カルラさんというらしい―――は今は洗濯物を干しに行っている。
 こちらをじっとみつめる金色の瞳に、僕は出されたお茶をすすりながらわずかに緊張していた。
 明らかに小学生くらいの子に緊張なんてする必要はないんだろうけど、猫っぽいその瞳に捕らえられたような錯覚に陥った。
「俺、エレンっていうんだ」
「エレン? ……あ、僕は八尋っていって」
「知ってる! 父さんから聞いた」
「……なんて?」
「ヤヒロって名前の、俺より年上の東洋人。町の皆もちょうと噂にしてんだ」
「……なんで?」
「なんでって……東洋人が珍しいからだろ」
「そうなのか? ……あ、でも全然日本人っぽい人見付からないしな……そうなのかも」
「ニホンジン?」
「あ、や、なんでもない」
 はきはきしゃべる少年だと思った。
 その鋭さには少し身を引こうかとも思ったけれど、同じくらいの友達どころか知り合いすら特にいない現在の交遊関係を思い出して、やはりもう少し僕からも歩み寄ろうと決意する。
 年下相手に何故こんなに身構えるのか本当いやになるが、エレンの雰囲気のせいだと言い訳をしてお茶を飲みほす。
 そういえば、とふと思い出した。これをきくならば大人相手じゃない方が訝しまれないだろう。
「エレンは巨人って見たことある?」
「は? 巨人? ねーよそんなん! だって壁の中からでたこともないのに」
「そっか」
「あっ、でも、調査兵団に入れば巨人と戦えるんだよな! 十二歳から訓練兵に志願できるけど、ヤヒロはしないのか?」
「……あー、いや、よくわからなくて……でも、多分しないと思う。巨人ってよくわかんないし怖いし……」
「ふーん?」
 エレンが僕の言葉に片眉を上げたとき、通りの方からいつものものとは違う鐘の音が聞こえてきた。
 それを聞くやいなや、エレンはぱっと立ち上がり「英雄の凱旋だ!!」と僕の手をとり引っ張った。
 カルラさんに「母さん、ヤヒロと凱旋見てくる!」とだけ言い人だかりへ走りよっていく。
「英雄の凱旋……?」
「さっき話したばっかだろ! 調査兵団が壁外調査から帰ってきたんだよ!」
 瞳を輝かせて語るエレン。引っ張られるままに僕は彼についていく。
 器用に人の間を縫い、最前列へ抜けていく。
 そこで見たものは、僕の想像する「英雄の凱旋」なんてものとは程遠いものだった。
「見ろよ、俺らの血税をドブに捨ててあのザマだぜ」
「百人以上で出発したはずなのに……半分も残ってないじゃないか……」
 蔑み笑う人の声。
 覇気のない、疲れきった顔の隊列。
 それらとはまるで対照的な、子供の輝いた瞳。
 あべこべさと耳障りな喧騒で、ぐらぐらと足元が揺れているようだった。
「な! ヤヒロ、すごいだろ……って、おい、どうしたんだよっ……!」
 吐き気とも焦燥感ともつかないそれにかられて、エレンの腕を引っ張り人だかりから抜け出す。
 不満そうなエレンだが、僕だっていっぱいいっぱいだ。
「エレン、あれ、何」
「だから、調査兵団が帰ってきたんだって」
「沢山、人が、死んでるって、巨人って、そんな危険なの」
 その時のエレンのきょとんとした表情が、常識の差を見せ付けられているようだった。
 僕は一瞬息を詰めて、それを整えて今度は優しくエレンの手を引く。
「……もう、戻ろう。先生も戻ってるかもしれないし」
 
 *
 
 手を繋いで帰ったところをちょうど先生にみられて「エレンにもやっとアルミン以外の友達ができたのか」と大変喜ばれた。
 アルミンというのは近所にすんでいる子らしく、何なら明日会えばいい。とのエレンの提案に素直に頷いておく。
 それにしても、やっと、とは。
 意外だと口に出すとエレンは渋顔を作った。
「何だよ、馬鹿にしてんのか?」
「違うよ、そうじゃなくて、エレンって、友達多そうなイメージだから」
「……そうかぁ?」
「うん」
「ま、向こうに仲良くする気があれば話は別なんだけどな!」
「……」
「エレンはちょっと短気なとこがあるからなぁ」
「父さんうるさい!」
「はは、……それに、そういえばだけど、僕も馬鹿にできるほど、友達いるわけでもないし」
「ヤヒロも?」
「市場の売り子さんとかとはよく話するんだけど……先生、僕って無愛想ですかね」
 元気なさそうな顔してるね。そういわれたことを思い出し、自分の頬をむに、とつまんでみる。
 いたっていつも通りだったのだが、もしかしたら平時の顔がそういう表情なのかもしれない。
「そうだなぁ……ヤヒロは大人しい性格だが……。笑顔で挨拶! から始めてみたらどうだ?」
「笑顔で……あいさつ……」
 意識して笑うというのは案外難しい。
 それでも頑張って笑ってみる。と。
「……困ってるみたいに笑うなよなー」
「えぇー……」
 駄目だしをされてしまった。
 背伸びをしたエレンに眉間をぐいぐいと押される。
 先生に、友達なんて少しずつできていくものさ、とフォローされてしまう始末で。
 後日、めでたくアルミンとも話すことが出来たけれど。
 友達百人とは、まだ程遠いようだ。