蜜柑とアイスの共存

07

 日はとうに落ち、部室に残る者も数人となった。
 部員から数々の同情と慰めの視線を受けた佑は、ベンチでスポーツタオルを被り項垂れていた。
 一年の頃から佑と共に努力を重ねてきた三年生の更に一部。彼らは、奇しくもなのか、それともただ単に佑と親しいからなのか。先週、次期主将について騒いでいた者達だった。
 着替える気配もない佑に見兼ねた彼らは顔を見合わせ声をかける。
「……小豆、着替えねーと」
「……」
「赤司に負けたからってそんな落ち込むな、いでっ」
「ばっかちげぇだろ!」
「……俺、何がしたかったんだろう」
 どつき合いが始まりそうな雰囲気のなか、ともすれば聞き落としてしまいそうなほど小さな声で、佑は呟いた。
 再び顔を見合わせる彼らに、しかし彼はその間も独白ともとれる言葉を続ける。
「俺、主将は完璧じゃないといけないって、じゃぁ、完璧になったら何なんだろう。俺ほんとに主将でよかったのかな、なら何でこんなことになってるんだろう。あいつに何をしたんだろう。何をしてやれたんだろう。あいつが、一瞬でも俺を信用、できるようなことしてやれたのかな。俺、俺がっ……あいつ、すげぇ怒ってた。でも何で怒ってんのか全然わかんなくて、1on1で勝ったら聞けると思って、でもむきになって、情けないプレー晒して、挙げ句負けて、去年、前の部長に偉そうな口きいて、副部長になって、部長任されて、でも、こんな中途半端な終わり方でっ……自分でも訳っ、わかんね、何で、何でっ……」
 タオルが影になり彼の表情は伺えないが、後半は涙声だった。
 あいつ。というのが誰をさしているのかは言わずとも解る。
 興奮状態の佑の口からは脈絡のないことまで飛び出てくるが、それもやはり「あいつ」や部活絡みのことで。
 彼らは初めて見た佑の泣き顔(実際は水道で何度か遭遇したことがありそうだが)に戸惑い、また顔を見合わせる。
 やがて、平静を装い一人がぼそり呟いた。
「……オレ、部活止めるわぁ」
 何事かを喋り続けていても自慢の聴力は塞いでいなかったのか。鼻を啜る音が止まり、数拍あいてからのそりと顔を上げる。コントのようなそれを始めようとしていた他二人も、彼の顔をまじまじと見る。
「……まじで?」
「まじまじ。だってオレ高校バスケで推薦受けるつもりねーし、だからそろそろ受験勉強しねーとやべーし。まぁ後一ヶ月……とか思ってたけど、正直今回のは、ねーわ。……あ、アズがどうのこうのって訳じゃねーよ? 赤司の方な。赤司」
「……まぁ、確かに期末終わればすぐ冬休みだしな……」
「……」
「そもそも何でいきなり? あいつ別に小豆に突っかかったりしてねーよな?」
「部長決まってライバル意識燃やして……は、ねぇか。普通逆だよな」
「……」
「……」
「……悪ぃ、心配かけて。着替えて帰るわ」
「ん、お、おう」
 ふーっ、と細い息を吐き出し、タオルで顔を拭いつつ立ち上がった。その声は濡れていなかった。
 ロッカーを開ける佑を、ついさっき退部宣言した彼がちらりと横目で見る。
 目も鼻も真っ赤じゃないか。
 擦っていた様子はないのに。
 いつも頼りになるオレらの部長が、主将が、こんな風に泣くこともあるのか。と。
 ───いや、そうではない。
 当たり前だ。どんな色眼鏡で今まで彼を見ていたのだろう。
 小豆澤佑の姿が小さく。いや、今までは大きく見ていただけのような気がする。
 佑と彼は二軍上がりで、ほぼ同じ次期に一軍へ上がってきた。一年の頃から引退直前まで関係としては一番近い存在のはずなのに。
 今この瞬間。初めて、佑を等身大でみた気がした。
「……うわ、」
 そうだ、蹴落とそうだなんて考えてる場合じゃなかった。色の濃すぎる後輩の世話を押し付けてる場合じゃなかった。勝手に羨望してる場合じゃなかった。
 洩れた独り言はばっちり聞こえたようで、佑が彼の方へ視線をやりどうした、尋ねる。
 いや、えーっと、口ごもりながら、改めて、一番大変なのは自分だろ。と他人事のように捉えている頭の一部で考えた。
 佑の面倒見のよさというかそういう類のものは、小学校でもクラブチームのキャプテンをやっていたと聞いたことがあるし、なんというか染み付いているんじゃないだろうか。
「あーっ、くそ。アズ、俺ら、中学生だよな?」
「……当たり前だろ」
「散々頼ってから退部するっつってアレだけど、疲れすぎる前にガス抜きとかしろよ? 無理すんなよ?」
「は、……」
 拙い言葉では、真意は当然ながら伝わらなかったようでぽかんとしている。
 そしてゆっくり笑顔を作ってみせるが、彼にはただ。
 (ひでー、顔)
 それこそ、無理をしているようにしか見えなかった。
 だが、己にその顔を掴んで、んな面してんじゃねーよ! なんて言う権利はない。
 なんだか、最後の最後で気が付いてしまったようだ。最後に気が付いてよかったと喜ぶべきか、それまで気が付かなかったと嘆くべきか。
 それからは特に四人の中に会話はなく、別れ際のじゃーな、おう、さっさと寝ろよ、ああお前もな、という挨拶で締め括られた。
 佑は重い足取りを無理矢理に進め何とか家までたどり着き、夕飯も風呂もそこそこにベッドへと沈んだ。
 居間での生活音や家の前の道路を走る車の音、そうで無くとも自室の時計の音と、様々なもので空間は飽和している。
 考えが纏まらないとき、バスケでは役立つ己の聴力は邪魔でしかない。
 煩わしくて、経緯は違えどどこぞの画家のような思考になりかけたことが過去に一度。流石に実行することはなかったし、想像して恐ろしくなり泣いてしまったが。
 思い浮かぶのは今日の、あの冷たく鋭い眼差し。結局理由は答えてもらえなかった。
 情けなくて、悔しくて、悲しくて、虚しくて。様々な負の感情が蜷局を巻き覆い隠し、満たす。
「……っう……ふ……、ひぐっ……あぁ、あ」
 ぶわ、元々電気を付けていなかったという理由で暗かった視界が滲んだかと思うと、堰を切ったようにぼろぼろと次から次へ溢れでてくる熱い滴。
 顔を布団に押し付け堪えようとするが、くぐもった音がどうしても耳をつく。
 どんな理由から泣いているのかすら解らない。止めようとしても止まらない。鼻を何度もすすり、嗚咽を洩らし。
 あまり大きな声で泣いたら家族に見つかってしまう。純粋に泣いているのを見られたくないという恥ずかしさもあったし、原因を聞かれるのも今は無理だと思った。
 肩を震わせ、泣きじゃくる。
 いつも通り、一人だった。
 
 *
 
 肌寒さに叩き起こされた。明るい。朝だ。
 定位置がある目覚まし時計を手繰り寄せると、短針は五をさしていた。朝練の為にいつも起きるのはこの時間だ。普段の習慣から身体が目を覚ましたのだろう。
 緩慢な動きでベッドから起き上がる。と同時に何故自分が布団を被らず寝ていたのかを思い出した。己は、もう部活に顔を出すことはない。
 昨日、着替えた後監督に呼び止められたのだ。その時の言葉が、赤司の言ったことは本当だと裏付けていた。
 そして明日。実質今日の朝、改めて始業前に職員室へ来るように言われている。十中八九首通達であろう。
 俯き瞬きもせずにぼんやり思い出していると、腿にのった手のひらにぽつりと滴が落ちた。あれだけ泣いたのにまだ涸れないのかとどこか他人事のように眺めた。
 頭、喉、目は痛いし、身体はだるい。はっとして立ち上がり、洗面所へ向かう。鏡を見ると、何ともまぁ酷い顔とご対面。
 深々、溜め息を付いた。
 学校に行くまでに治るかどうかは解らないが、何もしないよりはましだろうとハンドタオルを濡らし目元に被せる。ひんやりとした感触が気持ちいい。このまま座っていたら二度寝してしまいそうだ。
 だがそんなことは言ってられない。まだ時間に余裕はあるが、着替えて登校しなければいけない。
 少しでも顔がましになることを願いながら、佑は重い身体を引き摺るのだった。

 *

 職員室にいくと、監督と顧問が並んでいた。正直上の空だったので細かい所は覚えていないが、要約すると赤司のことは許可をだした。だからお前はお役目御免だ。お前もバスケ推薦で高校に行くわけでもないし、そろそろ勉強に専念しろ。ということだった。
 主将という立場を押し付ける。というのは言い方が悪いが、今までごたごたに一切仲裁をしてこないで今更何だ。と思う。それと三つ目は余計なお世話である。
 話を聞いても全く解消されなかった不快感に眉を寄せつつ退室する。顔のことは特に何も言われなかった。気にしないふりをされていたのかも解らないが。
「はよ。アズ」
「……おはよう」
 後ろから肩を叩かれた。振り返ると軽快に笑っていた。
「……楽しそうだな」
「ん? ってか、吹っ切れた? って感じか? さっき退部届出してきたー、あーこれで受験勉強に打ち込める」
 オレ勉強嫌いだけど。と笑った彼に苦笑を返す。
 と、真顔になった彼がじぃ、と佑の顔を見つめる。
 何だよ、言いつつ一歩下がれば手を伸ばされた。
「いや、そんな酷かねぇけど、目ぇ腫れてんなぁと思って……、って、熱っ! ? お前こんな体温高ぇの! ? 違ぇよな! 風邪引いてんじゃん! !」
「え、」
 目元を押さえられ、べちりと音がする。その手が冷たく。
「……あー、そっかぁ、俺、風邪引いてたのか……」
「何でそんな呑気! ? ちょ、気が付かないほどの熱って何だよ。逆にハイになってねぇよな! ?」
「うるせ……耳がんがんする……」
「あ、わり……いやいや保健室いけよこの馬鹿」
 朝からずっと喉や頭が痛かったのも、身体が重かったのも、濡らしたハンドタオルがやけに気持ちよかったのも、全部身体が熱をもっていたからだ。
 病というのは不思議なもので。自覚すると症状が増えていく。きんきんと直に頭に響く音。ぶれる視界。崩れる平衡感覚。
 慌てながら佑の荷物をぶんどり保健室へ引きずっていこうとする彼を見て、いい友人を持ったなぁ。としみじみ思った。
 それから、彼に言われた通り、俺ってつくづく馬鹿だよなぁ。とも思った。
 その時の意識は、そこで途切れた気がする。
   




 数ヵ月後。
「……背ぇ伸びたなぁ」
 あの一件で退部した彼とふざけて使った保健室の身長計。一年ごと春にある身体測定の計測値はやや右上がり。といった様子で、成長期にしてはやたらなだらかな線を生んでいたのだが。
 いつの間にかぐいぐい伸びていたらしく、計り間違えではないのかと思わず何度か確認した。
 一軍の中では学年関係なく小さい類いに入っていたが。雪の降り積もる季節になり、もうとうに私立組の受験も終わり、後は卒業し公立受験を終えるだけ。そんな次期。
 まぁ、帝光中は私立中学なので公立高校を受験する者は極端に少ないが。
 あれ以来、佑は監督、顧問から体育の授業以外の第一体育館への立ち入りの一切を禁止され、赤司と会うことは無くなった。
 主将解任を言い渡された時は苦々しい思いしかなかったが、時間がたつにつれ、ある心境の変化が表れた。
 変化が訪れたというよりは、変化に気付いたといった方が正しいかもしれない。
 主将であるが故に完璧でなければならない。常に勝ち続けなければならない。そういったものに、無自覚に追い詰められ脅かされていた佑は赤司に完膚なきまでに叩きのめされ、それらから与えられていたプレッシャー、ストレスといったものに初めて気が付いたのである。
 赤司に心配だ心配だと言っていた割には、己が潰される直前であった。全く格好がつかない。
 俺ってこういうやつなんだなぁ。と感慨深く息を吐いた。
頼られる主将。という殻を被った小心者の臆病者。
 前……前々になるのだろう、部長から任された地位を全うできなかったのは心残りではあるが、赤司に負けたことに対してはもう吹っ切れていた。
 それに気付き赤司に会いに行こうとしたのだが、タイミングが合わないのか徹底的に避けられているのか、あれ以来一度も顔を合わせていない。
 せめてもう一度くらいは会いたい。顔だけは見たい。そう思いつつ、ただ日々を重ねていくのだった。