蜜柑とアイスの共存

06

「小豆澤先輩、俺と1on1しませんか?」
 目が、笑っていない。
「勝者は全てにおいて肯定される──…この意味、お分かりですよね」
「……」
 開きかけた口を思わず閉じる。
 赤司の纏う雰囲気がいつもと全く違う。佑はそう感じた。
 妖しげな笑みを浮かべている彼を見つめた。喉が、言葉を詰まらせる。
「──…つまり、罰ゲーム付きの1on1ってことか?」
「ええ、まぁそういう解釈で十分です。……あぁ、監督に話は通してあるので」
 久々にまともに話せたことは喜ばしいが、明らかに様子のおかしい彼に佑は眉を寄せる。
少なくとも、彼は己に愛想笑いなぞしなかった。
 遠目に、自信に満ち満ちた微笑を見ることはあるのだが、それは他のカラーズといる時。
 他の部員と比べて、そもそも己に対して笑う事がなかったのだ。普通に話しかけてはくるので憎からず思われているとは自負していたが。
 いつも淡々としていて、しかし掴み所のない飄々とした態度。人によって勿論対応の仕方は変わるが、装飾がされていないそれは、佑にはとても好感がもてるものだった。
 からの、これ。
 不安しか感じ得ない。
「……あか、し……」
 手を伸ばしても、彼はそれを何でもないように避ける。
 距離が、遠くなった。
不自然に伸ばされた手を引き戻し身体の横で握る。
 眉間の皺に跡がつかないだろうか。ああ、考えが纏まらない。
まるで泣いているときの様に喉がしまっている。痛い。苦しい。唾を飲み込むにも一苦労だ。
 つっかえそうになりながらも、佑の腕を避けたきり髪の一房さえ微動だにしない赤司に尋ねる。
「お前は……俺に勝ってどうしたい?」
 緋色の瞳は伏せられ見えないが、口元は歪な形を刻んでいる。
 それが解かれ、
「先に言ってしまうのは、つまらないでしょう」
 そう言って見上げられた瞳は、鳥肌が立つほどに冷たかった。
 

 
「……え、何?」
「1on1やるらしい……けど」
 他の部員はコートの外から二人を見守る。
 部活も終わりかけの時間といえど、通常ではまずないことだ。
 それを疑問に思うのはカラーズも同様で、困惑の眼差しを彼らに向けている。
「……どうなってんスか、アレ……」
「……解りません」
 呆然と呟いた黄瀬の言葉を拾った黒子がその横で答える。
 あの二人が近頃おかしいことになっているのは、赤司とこの部活で一番近くにいるはずの自分達である。知らないはずがない。
 赤司と佑が向き合うコート内の空気が異様だ。
 すこし前までの彼らの空気はあんなに厳めしいものだっただろうか。否。彼らの間に流れる空気は、悠々閑々と、安穏としていたはずである。
 それは体育館の隅であるとか、部活後の部室であるとか、他にも色々と、己らの知らぬところもあるのだろう。
 赤司にしろ佑にしろ、あまりそういった緩やかな面が目立つ二人ではない故に黒子は感慨にも似た何かを覚えていたのだが。
 兎に角、彼らの空気はそれほどに不穏であり、澱んでいたのだ。
「小豆先輩と赤司が1on1……?」
 青峰は少しの期待を滲ませた声で呟く。
 常ならぬ様子であることは感じ取っているものの、彼のバスケへの熱がそれを上回ったのだ。
 その更に離れたところで緑間は眼鏡を無言で押し上げ、紫原は気だるげな目を僅かに見開いた。
「五ポイント先取。ボールはそちらからで構いませんよ」
 赤司の持っていたボールをパスされ反射的に受け取る。
 それを手の中で転がしセンターサークルへ向かう彼の後へ続く。
 この勝負には必ず勝ち、どういうことなのか説明してもらわなければならない。
 赤司が絶対王者と言われていようが何だろうが関係ない。
 勝たなければ。ただ、それだけだった。
 体勢を低く構えボールをつく。
 静かなこの空間でいう音といえばこれくらいだ。
 先程まで笑みを浮かべていた赤司はそれを消し、今は射るような目付きで佑を見ている。
 周囲の者も固唾の呑み込み───先に佑が動いた。
 一度右にフェイントをかけ、すかさず左に切り返し抜こうとする。が、そう易々と引っ掛かるような赤司ではない。素早くカットしようと右手を伸ばし、佑がすんでのところで身を引いた。
 途切れないドリブル音。人が大勢居るにも関わらず、話し声は一切聞こえない。
 また停滞状態が続くかのように思われたが、再び佑が仕掛ける。
 先程と同じように左右に数回揺さぶり、今度はカットされないよう己の背を壁にするようにターン。そのままレイアップを決めた。
 水を打ったように静かだった体育館内に控えめな感嘆の声が上がった。
 周りで見ていた彼らは異様な雰囲気に呑まれ、自然と身体が強張っていたのだろう。ほっと息を吐くように肩の力を抜いた。
 大半がそうしている中、力を抜くどころか未だ身動ぎ一つすら憚られる様子の者が僅かながらにいた。
 周りのざわめきに見向きもしない、またコート内に意識を向けているため周りからも気にされない彼ら。
 コート内にいる佑もそんな彼らと同じ心境のようで、神妙な面持ちで赤司を振り返る。
 彼と、視線は合わない。
 大して動いてもいないのに、辺りの雑音よりも己の心臓の方が余程煩い。
 佑も、そしてキセキの彼らも、これほどとないまでに承知していた。
 あの赤司征十郎が、こんなにあっさりと抜かれるはずがないと。
 その証拠に、二本目は、一瞬だった。
 どう攻めてくるのかと佑か警戒していたにも関わらず、赤司のボールさばきにあっさりと撒かれ、ボールはリングへと吸い込まれていった。
 厳然とした空気が、そこにある。
 それまでも手を抜いていたつもりなどこれっぽっちもないが、本気でいかないと終わる。
 佑の本能や直感といったものがそう語りかけてくる。
運動よりも緊張により頬を伝った汗を拭った。
 ボールを受け取り、深くゆっくりとした呼吸を繰り返す。
 赤司の表情を伺うことはなかった。これ以上の負荷をかけられたくないという、逃げ。
 一瞬で決められたそれに大きなざわめきが尾を引いていたが、それも次第に収まっていく。
 それでも、と佑は思う。
 それでも、やはり人の気配が煩い。
 勝負事において、外野が煩く気が散っていたなんて胡麻一粒分の言い訳にもなりえないが、様々な荒れやすい感情を伴った息づかいは、眼差しは、煩わしいもので。
 しかし佑はそれを遮るために、耳ではなく目を閉じた。
 雑音は、何の音かわからないからこその雑音である。
 佑は人よりも耳がいい。それは単に小さな音も拾えるということであり、また絶対音感と呼ばれるものも持っていた。
 耳に入った音の高さや性質を聞き分ける感覚。
 楽器の音は勿論。人の話し声や犬猫の鳴き声。さらには物の落下音まで、全ての音階が聞こえる。
 佑はその能力でチームメイトと敵チームの足音、呼吸音を認識、判別し、例え背後にチームメイトがいたとしてもノールックパスをすることが可能なのだ。
 彼の能力は目前にいる相手にも使えることであり、視界を遮り研ぎ澄まさせた聴覚でもって対峙した方が、有利に事が運ぶ場合もある。
 同じように、視界が制限されたことにより感覚のよくなった肌で空気の流れを感じ、更に敏捷性を増す。
 不要な音はより聞こえるようにして、逆説的に意識の外へと追いやり、必要な音しか聞こえない状況をつくる。
 常人とは違う聴覚、触覚があり、そして何より───とてつもない集中力で、佑は通常では無理だと一蹴されることもやってのけるのだ。
 深く息を吐き余分な音を一つ一つ消していく。
 そうして、暗い視界から「モノ」を消していき、残ったのは煩い己の音と、相手の音。
 彼の呼吸音が先程までとは違うことに気が付く。
 滅多に聞かない音だが、これは、彼が本気を出す時の。
 今しがたリングに入れた時の状態で本気でないというのは流石。というところなのだろうか。感服するばかりだ。
 だが、彼が本気であろうとそうでなかろうとも佑には関係ない。
 勝つために、その先の目的のために。まずは、もう一本。
 佑は心中一つ頷きボールをリングへ入れるために暗い、しかし鮮明な視界を走る。
 明らかに動きの変わった二人。
むしろ赤司は、佑がこうなるのを待っていたような節さえある。
 佑が目を閉じてからというもの、ここぞとばかりに赤司が攻めの姿勢に入った。

 張り詰めた糸のように、少しでも力を入れすぎたらぷつりと切れてしまいそうな。
 かといって、力を抜きすぎてもその糸は弛み、足を縺れさせるだろうことは想像に難くない。
 バッシュのスキール音とドリブル音以外の静寂。中々一本が決まらない。かといって目を離せるような緩やかな試合運びではない。
 と、まだ聴覚と触覚の中の視界にずれがあったのか、一瞬の隙をついて赤司がボールを奪った。
「っ……!」
「遅い」
 鋭く抉る一言。
 ぐっと歯を食い縛る。
 駄目だ。こんな為体では赤司に勝てるはずがない。
 駄目だ、駄目だ。
 ボールを受けとり、位置につくやいなや赤司を抜きそのままやや強引にシュートへ持っていこうとする佑。
 しかし赤司はそれを想定していたかのように、手を伸ばしカット。佑の手からボールが弾かれた。
 周りの者はまだ気が付いてはいないが、対峙しておりかつ目の前にいる赤司にはわかっている。佑の動きに焦りが見え始めたことを。
 佑の焦りは勝たなければという想いから来ていた。
 己の能力が不完全であること。ここ最近の赤司の態度を聞き出さなければということ。いつかに語っていた主将は部員に頼られる完璧でなければならないこと。
 そんなある種の強迫観念の他にも色々と。主将先輩としての矜持。そして、無関心といった態度への不安から始まる怒りといった蟠りが少なからず含まれているのも否めない。
 雑音をよく聞き、その内訳を見極め取り除いてきた佑の頭に血がのぼりつつある今、その数々の雑音の詳細を見ようともしない彼の集中力が途切れるのは至極当然のことだろう。
 小心者の臆病者。そんな彼も勿論怒りの沸点というものは存在するし、約一年前見事それを煮え立たせ湯を辺りに撒き散らしたのはこの場にいる殆どの者が知っている。
 しかし、いくら主将、部長、最高学年といっても唯の中学生。一子供である。当たり前だ。今年の夏制覇したのは中学生大会である。
 子供らしく感情をもて余すことはあるし、特に今は多感な思春期。期待にこたえようという向上心と、後輩に負けてたまるかという意地と、それから先述したようなその他諸々のエトセトラ。
 開いた瞳が、闘争心に奮起に、合わせて攻撃的な色に染まっていても、仕方がないのである。
 そして、そんな視線を受け止める側もそもそもの冷静を失っている今。その荒々しい事実を更に婉曲して受け取ってしまうのも、また仕方がないのである。
 そう、仕方がないのだ。
 次の一本も、その次も。リングへ向かうボール赤司はコートの外へと弾き出した。

「貴方の能力について、俺が一番知っている」

 なんて、時と場合によれば目を細めるような台詞をよりにもよって瞳孔が開きかけている表情で、少し顎を引いた上から物をいうときの、お決まりのあのポーズで。
 赤司がはレギュラーに入ってから意見交換を気兼ねなくやってきた。練習する上でチームメイトの身体能力を把握するのは重要であるし、欠点を指摘しあうのもまた同じことだ。それ故、お互いの強さはよくわかっている。
 元々周りの選手より秀でている赤司に、焦りにより集中力も何も欠いた佑の相手など労するはずもない。
 リーチのかかった赤司は佑の瞳を見ると、その目を鋭さを無表情へと変えた。
 鼻白んだような。諦めたような。納得したような。そんな表情。
 実につまらなそうな。幻滅したような。だが、そこに一抹の悲哀が見つけられたとして、何が変わったのだろう。
 そんな彼の表情を見た瞬間。沸々と内なる感情が沸き上がるのを感じた。常にならば顔を強張らせるところだが、頭に血が上っているのも手伝い興奮は憤慨に掏り替えられる。
 ボールを受けとる。そう変わらない身長の二人のふと視線が交じる。
 あべこべだ。片や眼差し強く。片や感情が抜け落ちたような表情。
 そもそも赤司はあまり佑に喜怒哀楽を見せるはしなかったが、今度は悔しさのようなものが込み上げぎり、と歯を鳴らす。
 煩い心臓を少しでも落ち着かせようとひとつ息をつき、ゆっくりとドリブルを始める。
 左に出ると進行方向を塞がれた。続いて右に切り返し───それも塞がれる。
 ボールをつくのとは反対の手でガードしつつ、タイミングをはかり赤司を抜こうと、チェンジオブペース。
 が、予測の範囲内だったのだろう、容易く止められる。それによりぐ、と彼の体勢が低くなったところで垂直に跳び、ショット。
 普段SG、SFのポジションにいる佑は長距離からのシュートが最も得意である。打ったボールは難なくリングに吸い込まれた。
 二対四だ。分は悪い。現に周りのギャラリーと化した部員はざわついている。
 やはり赤司が勝つだろう。という声と、苦しいが主将に勝ってほしい。という声。半々、といったところだろうか。
 佑に後はない。次。赤司のオフェンスが決まれば終わる。
 一層張り詰めた空気。
 きりきりと、ぴんと伸ばされた糸が、これ以上は伸びようがないと訴えていた。
 赤司を前に、どう来ても対応できるよう構えをとる。
 
 その一連の動きは、酷く緩やかでまるで流れるようだった。と、後にある一軍バスケ部員は語った。
 ドリブルをつき始めた位置から前方にではなく後方に一歩下がり、フェイダウェイ。
 一糸乱れぬ手本、以上のものといってもいいだろう、凛とした華麗なフォームで打つショット。
 反応した佑がブロックしようと跳ぶ。指先がボールを突いた。それでも構わずリングへ向かっていくボール。
 佑が触れることに構わなかったというより、まるで佑が触れると解っていた上で放ったように、投げられたそれはバックボードどころか、リングにすら当たることなくネットを揺らした。
 張り詰められた糸が、ぶつりと切れた。
 赤司のミラクルショットに対する歓声。それ以外にもちらほらと落胆の声も聞こえる。
 身を翻しボールの行く末を見ていた佑は肩で息をする。
「っ……負け……」
 一軍に入り、部長になり。帝光中のバスケ部員で有る限り、負けを許されなかった。それでも結局、完璧にはなりきれなかった。一番負けられないと思った試合だったにも関わらず、負けてしまった。
 それは声というにはあまりにもか細く。震える手を握り抑え込もうとするがあまり効果はない。
 後ろから、声がかかった。
 
「──…帝光中バスケ部の基本理念は百戦百勝。勝つことが全てだ」
「……?」
 
 あたりによく響く声。ざわついていた周囲はすっと潮が引くように静かになる。
赤司は続けた。
「勝利は全てを肯定する。お前は俺に負けた。帝光中に敗者はいらない」
「……あか、」
 彼の名を呼ぼうとすれば、それ以上は許さないと言わんばかりに向けられる、鋭く冷たい眼差し。
 身長は変わらないはずなのに、ひどく、見下ろされているような、見下されているような気がする。
 鋭く研いだ音をどこか淡々と紡ぐ赤司。
「───これより、帝光中バスケ部は俺が仕切る」
 人の話し声だけでなく、息の音さえ静まり返った第一体育館。
 はじめに声を発したのは誰だっただろう。
 ざわざわと爆発的に広まるどよめきを遮るように赤司は続ける。
「俺についてこれないという者は退部してくれて構わない」
「……赤司……?」
「……あぁ、それから……小豆澤佑には本日限りで退部してもらう」
「……は?」
「監督から許可はもらっていると初めに言ったはずだが?」
 呆然と赤司の名を呼んだ佑を当の本人はちらりと一瞥し、何でもないことのように言ってのけた。
 敬語が抜けたことなど瑣末なことに思える。
「今日の部活はここまでとする。明日の朝練はいつも通りある。遅れることのないように。以上、解散」
 部室へ向かうのだろう。体育館からでて行こうとする赤司の言わんとしていることを何とか理解し、やっと自我を取り戻した佑は声を荒げた。
「っ……て、待て、赤司!」
 扉に差し掛かっていた彼は顔と身体の向きはそのままに、足だけを止める。
「どういうつもりだ!! 赤司!!!」
 ちらりと振り返る赤司がみた佑の瞳に浮かんでいたのは怒り、悲しみ、絶望。
 赤司は沈黙だけを残し、何も返さずに歩みだした。


「赤司っち! どういうことなんスか、さっきの!?」
「小豆先輩に退部って、監督に許可ってどーいう意味だよ!」
 赤司を追って部室へ入ってきた彼ら。黄瀬と青峰が赤司に詰め寄った。しかし、異常に凪いだ瞳の彼は二人を見やり、冷たくあしらう。
「どういうも何も無い。俺はいつも通り勝った。それだけだ」
「……赤司君が仕切る。というのは、君が部長になる。ということですか?」
「そうだ」
「お前と小豆澤先輩の関係は良好だと思っていたが、何故いきなりこんなことを……第一、今こんなことをしなくとも次の部長はお前で決まりだろう?」
「……いきなり?」……そう、いきなりだな。向こうは以前からそうだったようだが」
「……どういう意味なのだよ」
「さぁな」
「……」
「……」
 ふい、と視線を逸らしロッカーを開けた。これ以上語る気はないらしい。
 以前から。その言葉の意味を測りかね顔を見合わせる彼ら。
 紫原は肯定も否定の意も示さず、ただただじっと赤司を見つめるだけだ。
 
 この日以降、赤司は一切の視界から佑を消し去った。