蜜柑とアイスの共存

05

 まだ一年だったあの時、スポーツタオルを肩にかけ体育館裏で蹲っていた俺、赤司征十郎。
 あの日は、特別疲れていた。恥ずかしながら自分でも知らず知らずの内に溜め込んでいたらしい。
 せめて家に帰る気力が戻るまで人目につかない場所で休んでいようと思い、そこを選んだのだが。
 遠くに響く自主練の音。しばらくして、草を踏み分ける足音が聞こえた。
 もう辺りは暗くなっていたから、見つからないだろうと思って、……弱味は人に見せない主義だがその時は本当に参っていたのか、立ち上がろうとも思えなかった。
 名前を呼ばれたが、特に返事もしない。僅かに頭を揺らしただけだ。
 それから少しの沈黙が降りる。弱っているところを見られるのは本意でないし不快だ。いつも通りの迫力とはいえないまでも、全身で拒否の態度を示していたつもりなのに。
 なのに、それにも関わらず彼は俺の頭を撫でた。
「お疲れさま」だなんて労りの言葉と共に。
 初めて。初めてだった。他人から頭を撫でられるのも、心配の言葉をかけられるのも。
 俺はいつだって勝者で、正しくて。それは当然の事だと周りは認識しているし自負もしている。だからまさか、あんな行動にでる者がいるなんて思う訳がないじゃないか。
 カラーズなんてセンスの無さが露呈している呼び名で呼ばれている他の、例えば紫原にならまだしも、人に触れられるのは好きとは言えない。
 だが、不思議とその行為に嫌悪感や不快感はなかった。まぁ、今思うと、純粋な嬉しさというものがあったのだと、思う。
 驚きのあまり顔を上げれば彼は優しく微笑んでいた。一応は先輩だと上辺だけでも敬いの態度を見せてはいたが、俺は彼のことを軽んじていた。
 たった十二、三年で何をと思うかもしれないが、初めて、負けるわけがないのに、勝てないと思える人物に出会った。
「──…あ」
「赤司っち?」
 鞄を覗き込み、ぴたりと足を止めた俺に気が付いた黄瀬が呼ぶ。
 その前を歩いていた彼らも振り返り首を傾げる。
「部室にタオルを忘れた。悪いが先に帰ってくれ」
 口早にそう言い今まで来た道を戻る。早くしないと三年生が鍵をしめてしまう。
 黄瀬が何か言っていた気がするが、特に気にせず街灯に照らされた道を駆けた。
 そうしてついた部室前。幸いまだ電気もついているし話声も聞こえる。扉に近付いたところで、息を整えるため足を一旦止める。
「青峰と紫原はサボり癖あるからそこで問題外だろ?」
 同輩の名前が出てきたので何事かと聞き耳を立てれば、どうやら次期主将について話し合っているらしい。
 好き勝手言っている様にも聞こえるが、実際その通りであるし彼らも冗談半分なのが声色から伺える。
 俺の話に移ったところで、部員の一人が彼に振る。
 彼が俺のことをどう思っているのかは常々気になっていた。盗み聞きは決して誉められた行為ではないが必要行動だと言い訳がましく納得させ、半ばどきりとしながら彼の言葉を待った。
「正直、赤司にキャプテンは任せたくない」
 ため息と共に押し出された彼の言葉。
 俺の中で、何かが止まる音が聞こえたような気がした。
 己の耳が捉えた音は嘘なんじゃないか、信じ難かった。
 頭の中が一瞬だけ真っ白に染まり、音が消える。
 手をきつく握りしめ、直ぐに緩める。ああ、そうか成る程。こういうことか。
 俺は部室に入るのを止め、踵を返し一目散に床を蹴った。背後で何かが落ちる音のおかげで、彼の自慢の聴力でも俺の足音は拾えないだろう。
 ぐらり、世界が歪んだ気がした。
 どうしようもなく螺曲がっていて、堪らなくなる。
 元々、俺に従う者が大半であるなか、馬鹿者としか言いようがないが俺と共に居ることで一種のステータスを得ようとする者はちらほらといた。彼も、そうだったのだ。
 常であれば直ぐに気が付くはずなのに、やはり弱味に漬け込まれたことになるのだろう。
 そこまで思い至り、一度足を緩める。
 俺に気を使って、必ず二人の時に言われていたと解釈していた応援や心配の言葉が、何の意味も持たず唯の石ころとなり、落ちた。
 ごとりという音に、僅かに高い音が混じる。
 彼の言葉は、割れた。唯の石ころ以下のものだ。
 あいつは敵だ。
 そう、誰かに寄りかかれば途端に足を掬われる。
 愚かしくも俺に逆らう奴は、歯向かう奴は全て消さなければ。
 ───潰さなければ。
 
 *  
 忘れたタオルは明朝、部室に綺麗に畳んだ状態でベンチに鎮座している。
 誰が畳んだのだろうかと思考を巡らせ、昨日のメンバーでこんな律儀なことをするのは一人しかいない。眉を寄せた。
 挨拶をされても、軽く頭を下げるだけで特に口を開く事はない。
 部活中に目が合い彼は目を細めたが、直ぐに視線をそらす。
 変に思った者は、まだいないようだった。
 常ならば造作もなくはね除けるのにも関わらず、彼に対してはどす黒く自分自身でも驚くような感情が襲う。
 こんな態度をとろうと思ってとっているわけではないのにそうなるのは、きっと、そういうことだったのだろう。
 今までにない失態。
 忌々しい。ため息を吐いた。
 
「……なぁ、赤司。俺お前に何かしたか……?」
「は?」
「次期主将に任命されてから俺に対して様子がおかしい気がするんだが」
「……」
 部活ももうすぐ終わるというところで、彼に呼び止められた。
 あれから一週間。俺は彼を避け続けた。交わすのは必要最低限の業務連絡のみで、流石に周りの者も首を傾げている。
 勿論一番早く気が付いたのは当事者である彼だが、とうとうその疑問を俺にぶつけた。
 まぁ、多少ごねられたが役に立たない監督と顧問教師の許可も取ったことだし、そろそろ行動に移してもいい頃だろう。
 彼の問いには答えずに口元を歪ませる。
「小豆澤先輩」
「……?」
「俺と、1on1しませんか」
 特に何が面白いという訳でもないのに。気持ち悪い。何かが貼り付いている。
「勝者は全てが肯定される。──…この意味、お分かりですよね?」
 身の程を知れ。
 俺に逆らうなど、思い上がりも甚だしい。