蜜柑とアイスの共存

03

 窓を吹き抜ける風も涼しく、漸く運動がしやすくなった頃。
 
 帝光中学のバスケ部は強豪である故か、夏の大会が終わっても三年生の引退にはまだ間がある。
 部長こと現主将は、餌付けに成功した佑の影響なのか少しは負担が減ったらしいが、それでも紫原には相変わらず手を焼いているらしい。
 度が過ぎない限りは佑も口出しせずに見ているだけだが、ちょいちょい部長に泣き付かれる。
 副部長はどうしたと思うかものしれないが、彼に視線をやり毎回納得……というよりは嘆息、閉口する。
 コイツは駄目だ。四月から何も変わっちゃいやしねぇ。
 部活中はひたすらキセキと呼ばれ始めた彼らをスルーしているというのに物陰に入れば一転。その口からは延々と怨嗟の言葉が流れていくのだ。
 腐っても一応は先輩。何も異議を唱えることはせずにずるずるといまに至る。
 何も言わない己も同罪なのだろうか。重々しく息を吐いたところで、ふと肩に重みがのしかかる。
「なァーんか、アズセンパイのが主将みたいっすねぇー?」
 一年の問題児の一人である灰崎が佑の肩を組んだ。
 その声は練習中の体育館にわざとらしく響く。
 流石に、バッシュのスキール音やボールをつく音にかきけされ端まで届くことは叶わなかったが。
 それでも共にシュート練習をしていた者には聞こえていたようで、少なくとも片手で数えきれない程の人数がこちらを向いた。
 その中には運悪く部長も副部長もまじっていて。
 なんてタイミングの悪い。と佑は自分のせいでもないのに顔を覆いたくなった。そもそも、三年生が一人でもいる時点でかなり気まずいのだが。
 部員数が多い故か、それとも帝光中のスローガン故か。必要以上に馴れ合うというのは少ないのがここの部活だ。
 あくまでも一軍内での話であり、佑が以前いた二軍はまだ先輩後輩の交流はあった。
 クラスが同じだとかで仲のいい者は一軍でもいるが、学年が違えばそれはより顕著になり学年関係なく談笑。というのはまずない。
 あぁ、でも一年問題児を誰が面倒みるかでは謎の団結力を見せたっけ。と現実逃避をしだす佑。
 こんな部活環境ではぶられたら登校拒否になるわ俺。レギュラーとしてチームの支えの一つになって頑張ってきたはずなのに。やっかみ?ありますよ。嫌がらせ?三年以外のスタメンは代々受けていたらしいですよ。それでいつまでも残っているということはやめる奴もとめる奴も居ないということ。そんなの絶対おかしいよ。
 なんて思っても実際口には出せないのが、佑が小心者で臆病者である所以であった。
 嫌がらせに眉を寄せたことはあっても、枕を濡らしたことはなかった。嫌がらせをしている殆どが上級生だと知っているからだ。
 監督や顧問に相談することもなかった。帝光中の理念に反していない限りノータッチな大人である。役に立つ気がしない。
 幸いなのかそうしているのか、取り返しのつかない程の嫌がらせはされたことがない。金銭的にも痛手を受けない、だが嫌がらせをされている事実はわかる。そんな内容だった。
 だから余計佑は何も言わなかったし、きっと今までのレギュラー一、二年もそうだったのだろう。事実。三年になった途端嫌がらせはぴたりと止んだ。と一年の頃からレギュラーだったそうな先輩から直々に聞いていた。
 灰崎は知らないから罪にはならないのだろうが、これから嫌がらせがいじめに進化したらネット住民に愚痴を聞いてもらうことにしよう。そう涙を飲んでボールを抱く腕に力を込めた。
 しかし、周りの反応は佑の怯えていたものとは大きな違いがあった。
 佑はそうは思っていないだろうが、実の所、佑に嫌がらせをするのは彼をまったく知らない幽霊部員の。しかし報復を恐れてか大それたことは出来ずに影でこそこそと蜜をすすりたがっている連中だけで、一軍内の空気は冷めてはいるが、そこまで一触即発の雰囲気ではないのだ。
 副部長のような者もいるために軍内の空気は例年より悪くなっているようではあるが。
 人の顔色を伺うのが得意といっている割には空気は読めないのか。いや、それとも違う。
 佑は、臨機応変に。というのが苦手なタイプである。ついでに言うと、自分のいきがたい環境であれば上っ面はどうであれ内心大混乱でもある。
 テンパるあまり、そしていざというとき自分が傷付かないようにと己の置かれている状況を無意識に。実際よりやや下方修正した結果の。小心者の、臆病者である故の行動であった。
 実際の話。
 例えば、佑に意見を求めればいつも的確な答えが返ってくるだとか。
 例えば、150cm代後半という、バスケをやるには決して高くない身長ながらに一年の頃から一軍にいるだとか。
 例えば、何かと部長に泣き付かれているだとか。
 例えば、「あの」一年の問題児ら───カラーズにも臆面せず関わっているだとか、
 様々な方向からの矢印を総合すれば、一軍部員から佑への株は決して低くはないはずなのに。
 やがて、シュート練習をする者達の手がとまり、何者かがぽつりと呟いた。
「──…確かに」
 え?何が?疑問符を浮かべる間もなく、他の声も次々に。
 当惑する佑をよそに、肩に腕を回したままの灰崎は口笛を吹く。
「好かれてんだなーアンタ」
「……適当な事言うな」
「あれ、怒ってんの?何で?」
「……おかしいだろ……。というか、部長も何か言って下さい」
 正直、佑のストレスはマッハだった。
 初めてできた後輩は思いの外かわいかった。いくら問題児とされていようと。先輩、と形式的に呼ばれるだけでも、かわいかった。
 世話を焼くことは決して嫌いではないのだ。
 ただ、自主的に世話を焼くのと、期待をもたれて頼りにされるのとは違う。
 心因性だろうか。頭痛がしてきたような気がする。眉をこれでもかという程寄せ、部長に意見を求めたのだが。
「……え?うん、小豆澤が主将やってくれたら本当これ以上のことはないよ……はは……」
 虚ろな目で言われてしまった。
 そんな事を言われてしまえば佑としても何もできず。指先でボールを回す灰崎に視線を移すと、彼はにやにやと。いたく楽しそうだった。
 それからというもの。何故か主将=佑という図式が一軍の中で定着してしまったのだった。
 *
「──…月バスの取材?」
「はい!是非お答え頂けないでしょうか?」
「……すみません、これからまだ練習があるので……」
「お時間はとらせませんから!少しでいいんです!」
「……まぁ、少しなら……」
「ありがとうございます!では、早速質問なんですが……」
 なんて、ほいほい取材を受けてしまったのが間違いだった。
 チームを纏める事にどう思うだとか、他にも色々と一平部員にするにはやたら突っ込んで聞いてくるなとは思っていたが。
「ありがとうございました!それでは、これからも主将として頑張って下さいね、小豆澤さん!」
「……は、……え?」
 何だか訳のわからない単語が聞こえた気がする。主将?誰が?
 唖然とする間にも取材者は嬉々として撤収していく。中途半端に伸ばされた手は、冷たくなり始めた風に吹かれるだけだった。
 *
「……っていう事があったんですが、どういう事ですか、部長」
 先程取材者から渡された紙の束を握力でしわしわにしながら部長に詰め寄る。休憩中だった為ずかずかと普段は立てない足音を立て真っ先に部長の元へ向かっていった佑に一軍部員はなんだなんだと黙ってそれを見守る。
 気迫に圧されながらも部長は努めてゆっくりと佑に伝える。
「いや、それは俺から取材者さんに言ったんだよ。部長は俺だけど、実質的な主将は小豆澤です。って」
「は……?」
「最近特にきびきび動いてくれてるし、この前の灰崎の発言から俺らの中では小豆澤が主将だし。あれ、じゃぁ取材も俺じゃなくて小豆澤が受けた方がいいんじゃね?……って思って」
「……」
 閉口するしかなかった。
 確かにこのところ以前よりも更に頼りにされる事が多くなったが、それはもうすぐ三年が引退するからだと思っていた。期待はいつまでも苦手だが、頼りにされる事自体が嫌な訳ではないからそれはどちらかというと嬉しかったし。
 ただ、自分達の力で十分できることまで佑に頼ろうとするのが問題なのだが。
 ここまで頑張ってきたのは他でもない自分自身のためだが、どうしようもなく裏切られた気がした。部長の部活に対する思いが、こんなにいい加減だったなんて。
 部長が遠い目をしていた時に我慢なんてしなければよかった。
 初めて爆発する感情は、本人には抑えようがなくて。
「……小豆澤?」
「……んだよ……」
「え?」
 ただならぬ空気を感じとり、黙って行く末を見守っていた部員が小豆澤と部長の二人を中心に一歩、遠ざかる。
 身動きひとつですら聞こえてしまいそうな中でも、顔を伏せた佑の小さな声は拾えなかった。
 思わず一歩近付き聞き返した部長に、佑は勢いよく顔を上げ、咆哮した。
「……っ、どうしてそういい加減なんだと聞いてるんだ!!」
 手に持っていた紙束を床に叩き付け、高い破裂音の様なものが聞こえた。
 初めて聞く佑の怒鳴り声に、部長も、周りの部員も───勿論、一年問題児の彼らも例外なく、真ん丸と目を見開き、そして瞬かせた。
 俺らの心の主将がキレた。大体、そんな感じ。
 そんな様子を冷ややかに見つめ、長く細い息を吐き出しながら一度目を閉じ、やがて開く。
「俺が主将?ふざけるなよ、前主将からそれを受け継いだのはアンタだ。責任感というものが無いのか?いつから部長や主将の立場は押し付けるものになった」
 低く唸るようにして部長を睨む。彼は言葉として成立しない声をしどろもどろに繋ぎ、ひどく困惑している。
 その時、佑の斜め後ろのあたり、人影の中から何かが擦れるような音が聞こえた。ぴくりと眉を動かした佑は、部長から視線を外し振り返る。
「そもそも、部長を支えるための副部長はどうした!俺には関係ねぇって顔で避けるくせに裏では陰口えらそーにぶったたいてねちねちねちねちしつけーなぁ!?さぞ楽しかった事だろうよ、人の悪口は。その挙げ句の果てが今の舌打ちと文句か?テメェがカラーズに嫉妬して歩み止めてるだけの男だなんてここにいる全員知ってんだよいい加減そんなもん意味ねぇって自覚しろひねくれてんな現実見やがれ情けねぇ!半年たっても成長しないとかサル以下だなお前は!?」
 先程の音は副部長の舌打ちと文句の擦過音だったらしい。
 その距離では何も聞こえないのが普通なのだが、佑の耳はそれをとらえたのだ。
 副部長にひとしきりいい終えると、ぐるりと己を囲んだ者達を見渡す。
「お前らもそうだ。何でもかんでも俺に任せてねぇでちったぁ自分で考えろ!その頭は飾りか?どこのバスケ部一軍張ってると思ってんだみっともねぇ!部長にはさっきもいったが、自分のするべき事をまっとうしてから俺に任せると言え!自分で自分の出来ることを狭めるな!───お前らも、天才だなんだともてはやされちゃいるが俺にとったら唯の後輩だ!少しは協調性持って行動しろ!」
 特に紫原。という意味をこめ、目立つ体格故に探すまでもなかった彼に視線をやったが、果たしてそれがいつもマイペースを崩さない彼に届いたのかは定かではない。
 日頃から感じていた不満を粗方いい終え片手を腰に当てると、ふとマネージャー達と目があった。
 彼女らは今度は自分たちが何か言われるのだ。と身体を硬くするが、それでも佑の言葉を受けとめようとこちらを見据えている。
 佑はそんな彼女らにふっと笑う。まったく。その辺で阿呆面を晒している男共よりしっかりしているじゃないか。
「お前ら───マネージャーは人数少ない中俺らの為にいつも頑張ってくれてるよ。ありがとう」
 先程まで厳しかった表情を些か緩め、マネージャーに言ったような声色でもう一度周りを見渡しながら。
「──…俺に頼ってくれるのは素直に嬉しい。全部を一人で消化すんのは無理だから。一回悩んで考えてみて、それでも駄目だったら俺んとこ相談しに来い。一緒に考えてやっから。───以上!」
 最後にそれだけ言い、佑は体育館を後にした。
 佑が通っていった場所だけ人だかりは途切れており、奇妙な形になっている。
 しん、とした体育館。はっとし、声を上げたのは部長だった。
「──…みっ、皆!」
 各々違う場所を漂っていた視線が部長に集まる。
 いつも見る眉根を下げた彼ではなく、主将に相応しい表情で。
「今までオレがちゃんとしてなかったせいで、色々惑わせてたと思う。本当にゴメン。……あと一ヶ月しかないけど、最後だけでも主将をしていたって思ってもらえるよう、もっと頑張るから」
 そういって、頭を下げた。
 それを切っ掛けにざわめく体育館内。
 副部長の本日数度目の舌打ちは、ざわめきに掻き消された。
 
 *
 体育館を抜け出し向かった先は、その裏にある水道。
 跳ね返りの飛沫が辺りに飛び散る事も気にせず、佑は蛇口を目一杯捻り頭から直接被っていた。
 それは物理的に頭を冷やすという意味もあったが、何よりの理由は、泣いているのを隠す為であった。
 佑にはこうして人知れず泣くことがままあった。
 重すぎる期待に応えようとしてキャパシティオーバー。最後のちっぽけな自尊心から。また皆の中の己を壊してはいけないという思いからこの行動は日常化していったのだ。
 小学生の、あのエースに意見を言う以前は内面と外面に大きな差異はなかったはずのだが。
 そんな佑は今、泣きながら大絶賛自己嫌悪中である。
 何あれ超偉そう俺何様なの?あああ穴が有ったら入りたい寧ろ埋めて欲しい突き落としてほしい死にたいいっそ殺してくれ。何であんな啖呵切ったんだ俺運動部で先輩相手にタメ口で怒鳴ってしかも罵るってどういう神経してんの?何なの?馬鹿なの?死ぬの?サル以下は俺ですが何か?お巡りさんどうが動物園に連れてって。どうしよう取り敢えず土下座してから死のう。土下寝の方がいいのかな。あぁでもいつも頑張ってくれてるマネージャー達にお礼言えてよかった。言うタイミングが掴めなかったから。取り敢えずリンチされても赤司や黒子辺りに骨拾って貰えないかな。
 絶え間なく泣き続け、反省から現実逃避へと思考ベクトルがシフトチェンジしていった頃。
 ばさりと柔らかい何かが佑の身体にかけられる形で投げられた。
「……?タオル……」
「風邪引きたいんですか?」
 蛇口から頭を離し、かけられた物を手に取ると見慣れないタオル。と、同時に聞こえた声。
 リノリウムの渡り廊下に赤司が立っていた。
「赤司……のか、これ?」
「ええ。早く使わないと俺が持ってきた意味がなくなりますが?」
 ぼたぼたと髪から滴り落ちる雫が肩口。色の濃くなる場所は段々と広がっていく。
 柔らかいそれを慌てて肩にかけ、ありがたく手や顔も拭う。
 因みに、出し惜しみなく流していた涙は赤司という他人を確認した時点で、半ば条件反射で止まっていた。
「わざわざありがとな」
「そう思うならご自分でタオルを持ってきてください」
「……でも、何か意外だな。赤司は潔癖症っぽいからこういう物人に貸すことしないと思ってた」
「……確かにあまり貸すことはありませんが、潔癖症なら緑間の方がその気があるかと」
「あー……」
 確かに想像できる。あくまでも想像に過ぎないのだが、何せ違和感がない。
 蛇口を閉め一息ついた後も水をたっぷり吸った髪からは絶え間ない水滴。
 首筋を伝ったそれが服を濡らし、風が吹けば木枯らしかと勘違いしてしまう程度には寒くて。
「……身体冷えてきたな」
「……はぁ。早く体育館戻りましょう。水絞るくらいはしてくださいよ」
「ああ。……なぁ赤司、話変わるけど、お前魔王とか呼ばれてんのってどういうことだ?」
「……どういうも何も……そのままでしょう?」
 毛先をタオルにあて絞る。冷たい感触がタオル越しに伝わり、じわり広がっていく。
 妖しく笑んだ赤司は、裏で何を考えているのだろう。
「従える者と従う者を象徴的に表したのでしょう?まぁ、俺としても魔王とまで呼ばれるとは思いませんでしたが」
「……お節介だってわかってるけど、あんま無理すんなよ」
「……」
「赤司?」
「いえ……先程の先輩の言動は、無理してフラストレーションを溜めた結果なのではないかと思いまして」
「……参ったな。何も言い返せない」
 あの微笑みのままあざとく小首を傾げ問う赤司に、小さく沈黙した後そう洩らした佑。
 くつくつと喉を震わせ笑われ、こちらも苦笑を返す。
 体育館へ戻るため、水分を拭った赤司のタオルを手に持ちかえ、反対の手で彼の頭を軽く叩き。
「じゃ、お互い頑張ろう」
 応援してるよ。聞こえるかは解らないが小さく付けたし、一歩追い越す。
 仮に佑が赤司の表情が見える位置にいたとしたら、彼が表情を変えることは無かったのだろうが。
 佑は、口元を僅かに緩ませた赤司の表情には気が付くことはなかった。